映画・テレビ

ひさしぶりの明日の教室。

  久しぶりに東京明日の教室での講座を持った。
 50人ほどの方が参加された。
 
 

  北海道の帯広から、仙台から、長野から、上越から…と遠くから親しい知り合いの先生などが見えられていて感謝、感謝。ありがとうございます。

 「日常授業の改善」というテーマで、3時間ほど話す。

 ここでも先生たちの「授業技量が上達しない」、その原因を話した。

 初任者の先生たちの8割が、最初は誤解することである。 
 毎日くりかえし授業を続けていけば、そのうちに授業が上手になるということ。

 これは幻想であることを強調する。
 
 そうなるならば、中堅やベテランの先生たちは、皆さん授業上手になっているはずである。 
  そうならない。

 教師以外の職業では、こんなことは考えられない。
 年数を重ねると、仕事はうまくなっていくからである。

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 どうして教師の授業だけが、年数を重ねても「授業上手」にならないのか。

 野口芳宏先生は、意図的に授業をうまくなすための試みをしなければいつまで経ってもうまくならないと言われた。
 これはよく分かる。

 だが、意図的にどのようなことを、どのようにこなしていけば授業技量が向上していくのかが分からないのである。

 昔、齋藤喜博先生や向山洋一先生が「100回」の研究授業を薦められた。
 でも、普通の教師にとって、このような回数の研究授業をこなすことはできない。まず、不可能。

 私はそんなことより自分の授業を「客観視する」機会を数多くとることの必要性を訴える。

 「一人研究授業」とネーミングしている。

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 私たち「味噌汁・ご飯」授業研究会は、子育てをしているママさん先生や初任者の先生たち、あるいは普通に教師の仕事をしていきたいと思っている人たちに対して、日頃の授業を豊かに充実させる方法を考えたいと願っている。

 今まで示されてきた、さまざまな授業論や方法論は、寝食をつぶさなくては身につかないもの。

 「修業」を積み重ねなければ身につかないもの。

 身銭をはたいて民間の研修会を渡り歩かなければ、身につかないもの。

 そういうイメージが強すぎたのだと思う。

 そうではなくて、子育てをしながらでも、ちゃんと勤務時間の中で、「授業技量をあげたい」と願えば実現できる「上達論」がぜひとも必要だと、私はつくづく思うようになった。

 今までこのような発想がなかった、といっていい。

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 講座は、5時前に終わった。
 講座に参加されていた方の中に、保護者の方が2名おられた。
 私に相談にこられた。
 

  驚くべき相談であった。
 事態は大変なことになっている。

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 明日、また北海道へ行く。
 初任者研修の会議があり、そこで授業の話をすることになっている。
 

  天候はまずまず安定しているみたいで、安心しているのだが…。

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初任者の授業を見ながら考える

 

 初任者担当として初任の音楽専科の先生の授業を見る。

 今日の6年生の授業は、「ふるさと」の曲の様子を思い浮かべ  

て、上と下のパートに分かれて表現することを本時の目標にしていた。

 いつもは数人の男の子達がなかなかのらない。今日も最初は、そうであった。

 ところが、クレシェンド、デクレシェンドで強弱をつけて歌う練習をするあたりからだんだん全体的に盛り上がってきて、いつものやんちゃな男達もきちんと参加している。

 上と下の二つのパートに分かれて、きれいなハーモニーになりだしたところから俄然盛り上がり始めたのだ。

 最後は、先生が「終わりましょう」という話になったときに、やんちゃな子達から「先生、もう一回歌おう」とアンコールが出た。

 これは、初任の先生にとってうれしいできごとであった。

 いままでやんちゃな男の子達をどのように音楽の授業引き込んでいくかに苦労していたので、「今回のことは、大きなヒントになるね」という話になった。

 ◆

 初任者の授業を見ながら、しみじみと感じることは、「普通の授業」の大切さだった。

 私は、現役生活37年間の中で、研究授業以外に普通の先生が普通に授業している場面に立ち会ったことはほとんどない。ほとんどが、研究授業を見てきた。これは、担当する先生の作為が入った授業で、ある種の作られたものである。

 ところが、初任者の授業を一日中ずっと見ていると、「これこそが普通の授業だな」と思ってしまう。作ろうにも作りようがない。むき出しのそのままの授業が展開される。

 これは私にとっては、とても新鮮であった。

 この「普通の授業」は、「問題点(もちろん良い点も含めて)の宝庫なのだ」……と。

 初任者の「普通の授業」を見ていると、さまざまなことが見えてくる。

 クラスが荒れてくる初めは、どのような状態から始まるのか。どんなところに気をつければ、子ども達は落ち着いてくるのか。……アイデアがぽんぽんと浮かんでくる。

 この「普通の授業」は、問題点ばかりではない。

 授業の所々で子どもが身を乗り出してくる部分がある。

 特に、私はそこに注目する。

 授業している初任の先生達は、そこに気付かない。いや、初任者だけではない。自分の現役時代を思い出しても、授業をすることに夢中になって、なかなか子どもが身を乗り出してくるところまで気がいかないのである。

 ◆

 私は、もっと自分の「普通の授業」に注目したほうがいいと主張しているのは、こういう理由からである。

 普通の教師は、目の前の子ども達に十分な働きかけをしていく仕事を担っている。

 だからこそ、自分がいつもしている「普通の授業」を豊かなものにしていくことは、教師の力量をつけていくためにはどうしても必要なことである。

 自分の授業をビデオに撮ったり、あるいは録音していったりすること。それを見ることは、とても大切な作業である。教室の後ろにビデオカメラを設置するだけで十分だからだ。

 しかし、こう問いかけて、その必要を感じた人でも、実際に実行に移す人は少ないだろうなあと思う。

 人は、一番大切で、一番重要な、自分の部分をあえて避けて通ろうとするからである。

 ◆

 私達は、今まで自分の教師としての力量をつけるためには、外発を主なものにしてきた。

 外発とは、書物や研究会などを意味している。せっせと研究会へでかけ、さまざまな実践に出会い、その実践からエキスをもらい、それを自分の実践にいかに取り入れていこうかと考えてきた。いい実践をたくさん仕入れて、それを自分の授業に組み立てていく、そんな発想だったと思う。

 このような外発によって、戦後の日本の教師達は力量をつけてきた。

 しかし、私はいまもう一つ内発が必要ではないかと考えている。

 自分の授業を対象化し、自分の授業をフィルターにかける試みである。

 自分の授業のどこが、どのように子供達をひきいれているか。

 自分の授業のどこが、どのように子供達を飽きさせているか。

 このようなことを分析していくことである。

 ◆

 精神科医滝川一廣氏は、次のように書いたことがある。

「精神療法の成否は、こちらが『なに』をなすかではなく、相手が『なに』をどう体験するかの方にかかっている」

 この考えを教育の現場に引き寄せてきたとき、私たちは、ほとんどを教師の側から見た「なに」に終始してきた。

 目標はなにか。ねらいはなにか。どんな教材を準備するか。どう働きかけるか。発問・指示・説明は何か。……すべてが教師の側から見た「なに」であった。

 その「なに」がどのように子供達に体験として受け止められているか、といった議論が果たしてどのくらいあっただろうか。

 教師の「なに」にのみ関心が集中し、子供がどんな体験として受け止めているか、という触手が伸びていなかったのだ、と思う。

 私の実践を内省するとき、そのような問題に突き当たる。

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学級崩壊の始まり

  再任用された初任研担当の先生達は、月に一度教文センターに集められ、さまざまな話し合いに参加することになっている。

 昨日は、その集まりであった。4人一組で担当している初任者の現状を話し合った。

 一人の先生の話に注目した。

 4年の初任の女の先生のことである。

 その学校は、3クラス。前年度の3年生では、2クラスが学級崩壊をしていて、今年度は、1組には、厳しい指導をされる学年主任の女性の先生、2組は、教務主任の先生、そして3組が初任の先生となる。

 その初任の先生は、最初から厳しい指導で子どもたちに立ち向かった。

 4年生全体での合い言葉ではなかっただろうか。

 1ヶ月は、きちんとしていたという。

 崩れ始めたのは、5月の連休明け頃からだ。

 おしゃべりがひどくなり、特にきかないのは男の子達である。

 その初任の先生が、その時どなり、その一瞬は静かになるが、また平気でおしゃべりが始まるということを現在続けている状態らしい。

 専科の音楽も、手がつけられない状態になっている。

 ところが、他の二組は、きちんと指導されていて、今でもきちんと成立している状態らしい。

 私は、1ヶ月はきちんとしていたというところに注目した。そして、それが一気に崩れていったところにも、注目したのである。

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 グループごとに話されている内容は、私たちと同じように初任者が四苦八苦して学級経営にあたっている様子である。

 最後のまとめで、「初任者のクラスだけではないのです。その他のクラスも騒然としていて、とても初任者に配慮できる状態ではない。もう自分のクラスで精一杯なのです」と話す先生がいて、どっと笑いが起こった。

 学校の他の先生達が、初任者に気を配る余裕を失っているのである。

 私は、初任の先生達が孤軍奮闘して、一人であくせくしている様子に苦虫をつぶす思いで聞き入っていた。

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 1ヶ月はクラスはきちんとしていたという初任の先生。それが一気に崩れていった様子が目に浮かぶようであった。

 何が問題であったのだろうか。

 私には、とりあえず2つの問題があるのだと思った。

 1つは、無理をしたのではないかということである。自分のキャラクターを顧みずに、がんがんと子どもたちに立ち向かっていったこと。いわゆる「縦糸を張ること」に邁進したのであろうが、無理をしている分、子どもたちにはすぐに見え透いていく。

 「あの先生、ぼくたちにがんがん怒るけど、それだけだぜ、全然怖くないぜ、その証拠に何にもできないよ」という子どものささやき声が聞こえてくる気がする。

 私は、この1ヶ月がんがん怒ったり、叱ったりしたことはない。意識的にしない。ただ、しっかりと「縦糸を張り続ける」のだ。指示したことは、がんとしてさせる。できなければ、何度でもやり直させる。

 その間に、盛んに怖い話や汚い話やおもしろい話をしたり、笑わせたりして、どんどん子どもを惹きつける。

 クラスの8割を早々と味方に引き入れる手続きをとっているのである。

 2つめは、一人一人と通じ合うことをやっていなかったのだと思う。

 この点は、担当の先生も認めておられた。

 でも、先生は、「通じ合おうとしても、そのやり方が分からなかったのだと思います」と言われていた。

 「縦糸を張っていく」ことは、確かにまず優先してやらなくてはならないことだが、その間に「横糸」もきちんと張らなくてはならない。

 ここが不足していたのだと思う。

 でも、初任の先生は、今でも一生懸命にクラスにしがみついて、なおもがんばりぬこうとしているらしい。

 とにかく、とにかく1年間、凌いでほしいと願うばかりだ。

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 ブラッシュ・アップという手作りの雑誌がある。そこに、横藤雅人先生が「崩壊学級立て直しの記」を連載されている。

 注目すべき連載である。

 その中に、「崩壊の始まりは、おしゃべりや授業への遅刻といった小さなことから始まる。そこをきちんと治めていけば、集団はまとまっていくし、治めることにしっぱいするとばらけていく」と書かれてある。

 そして、崩壊していったクラスの4月の風景が書かれてある。

「授業中、離れた席の子供たちが、やや大きな声でおしゃべりをしている。担任が、『うるさいです。』と注意をすると、ちらりと担任の方を見て、友達同士目で笑い合って口をつぐんだ。

 担任が授業を再開する。すぐにおしゃべりも再開される。また注意を与える。

 『さっきも言いました。おしゃべりはやめてください。』

 また口をつぐむ。教師が、少し間を取って、おしゃべり再開がないことを確認する。間の悪さに、件の子供たちが、目配せして少し笑う。

 授業が再開する。またおしゃべりが始まる。今度は、別のところでもおしゃべりが始まった」

 横藤先生は、この数分のやりとりを見て、私は、「これはすでに崩壊がはじまっている」と思ったと書かれてある。

 私も、このような場面を見たら、そう思うだろう。

 上記にあげた初任の先生の静かだったという1ヶ月も、このようなやりとりが何度もあったのだと思われる。

 そして、一気に崩れていったのである。

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 おそらくどこのクラスでも展開されるであろう、おしゃべり。

 また、「先生、消しゴム忘れました。どうしたらいいですか」「先生、これはしまっていいのですか」「先生、ノートを忘れました。どうしたらいいですか」……と何でも声に出して聞きまくってくる「先生コール」。

 自分で思ったこと、考えたこと、感じたことをすぐぺらぺらと声に出してしまう男の子たち。

 これが、おそらく学級崩壊の始まりである。

 これにきちんとした対抗手段をもたない限り、崩壊を阻止できない。

 

 

 

 

 

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最近の親たちに特徴的なこと、2つ

 福岡の小一殺人事件で母親が逮捕された。

 この事件が報道されたとき、即座に母親はどうしていたのかと考えてしまった。

案の定、逮捕されるということになってしまった。嫌な時代である。

 だが、このように発想するには、根拠がある。

 小さな子供たちを抱える母親たちが、深刻な精神的なストレスを抱え込んでいて、それが急増していることを知っているためである。

 多分、今回の事件の背景にも、母親の子育ての悩みがあるはずである。

 「完璧志向が子供をつぶす」(原田正文 ちくま新書)がある。最近出た本である。

 原田さんは、今まで、子育てをしている母親たちに接したり、小児や思春期外来で問題がある子供たちに多く接してきたりして、さまざまな問題提起をされてきている。

 高学年の女の子たちが、すでに思春期に入ろうとしていると最初に提起されたのも原田さんだったと思う。

 原田さんは、「育児における母親の『イライラ感』の急増は、現代日本の子育て現場の状況を最も象徴する調査結果の一つである」として、「兵庫レポート」を提出されている。

 私は、このデータが、今回の事件を裏打ちしていくものになっているのではないかと推測する。

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 37年間、ずっと間近で親子の子育てを見つめてきたことになる。

 最近の親たちに特徴的なことは、2つある。

 1つは、子供と一体化しているとしか見えない親たちである。

 このような親は、我が子が学校などで問題化されていくと、それは自分のことのように受け止め、ものすごい反発が返ってくる。自分が批判されていると受け止めるわけである。

 冷静に指摘されていることを受け止められない。

 それは、我が子に対して距離をおいて見つめられていないことと同じである。

 我が子は、家にいるときの顔と学校にいるときの顔では違ってくるという受け止めがない。だから、家にいるときの顔をもとにしてすべてを判断しているわけであるから、問題を指摘されると「そんなはずはない」と、指摘してきた教師たちに対して猛反発をするわけである。

 このタイプの子供たちは、小さいときは「聞き分けが良く、素直な子」が多い。

 そのように演じていると言っていい。

 その子供たちは、親から、強烈に支配され、管理されているので、「素の自分を出せない、出し方がわからない」と訴える。そして、思春期につまづくことになる。

 もう一つのタイプは、しつけに無頓着な親である。

 往々にして、このタイプの子供は、きかん気な性格を持ち、やりたい放題を繰り返していく。

 その結果、社会的なルールが身につかず、学級では、学級崩壊の中心になっていく場合が多い。

 親は、「うちの子は、元気者だ。そのうちに落ち着いてくる」と考えているが、

ますます困り果てていく。「していいこと、して悪いこと」がまったく身についていないからである。

 このタイプの親には、友達親子、人権尊重親子(私が命名している。子供も一人の人格として尊重していく。だから、ほとんど叱らないで、一人の人間として尊重して育てていく)がいる。

 このタイプに共通していることは、「子供を叱らない、叱れない」ということである。

 前述した原田さんは、「…現在の子育て現場では『親が子供を叱らない、あるいは叱れない』という奇妙な現象が起こっているのである」と指摘している。

 その原因に、3つをあげる。

「ひとつは、『子供の意志を尊重するように!』という考え方が広まる中で、子どもに『しつけ』らしいことは何も言えなくなっているケースである。二つ目の理由は、社会の急激な変化の中で、社会規範が不明確になって叱るべき線が不明確になり、どこで叱るべきか、叱るべきでないか、が分からないケースである。そして、三つ目の理由は、緊張場面を避けたいという親が増えていることである。特に子どもが幼稚園から小学校に通うようになると、子どもは自分の『したいこと』『したくないこと』を強く訴えるようになる。親として子どもと対峙しないといけない場面が多くなる。ところが、子どもと対峙するという緊張場面を避けて、子どもの言いなりになってしまうのである」

 この3つの指摘は、貴重である。

 特に、緊張場面を避けたいと考える親が増えているという指摘は、子育ての現場に直接関わったものだけが指摘できることである。

    

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