●家内が、娘夫婦の結婚記念日に、恒例のプレゼントの準備をしていた。
「お父さんも何かメッセージをお願い!」と。
そこで次のように書いた。
★ ★ ★
結婚記念日おめでとう!
結婚 新川和江
呼びつづけていたような気がする
呼ばれつづけていたような気がする
こどもの頃から
いいえ 生まれるずっと前から
そして今 あなたが振り返り
そして今 「はい」とわたしが答えたのだ
海は盛りあがり 山は声をあげ
乳と蜜はふたりの足もとをめぐって流れた
ひとりではわからなかったことが
ふたりではわけなく解ける この不思議さ
たとえば花が咲く意味について
はやくも わたしたちは知って頬を染める
わたしたち自身が花であることを
ふたりで咲いた はじめの朝
朝から「何回目の結婚記念日なんだ?」と会話を交わし、もう分からなくなっています。
結婚記念日とは、この詩にあるように「ふたりで咲いた はじめの朝」を思い出すということでしょう。
おめでとう。
ささやかなプレゼントを受け取ってください。
★ ★ ★
娘の旦那は、「お父さんはロマンチックだな!」と(笑)。
★
夫婦は、所詮「親しい他人」である。
それぞれが違う環境や状況に育ってきている。
それが一緒になって、うまく行くということそのものが所詮むずかしい。
だからこそ、「はじまり」の意識(「ふたりで咲いた はじめの朝」)を二人で共有できること、それが結婚記念日であること、……そんな思いになる。
★
「夫婦長続きする3ヶ条」。
私がつくったものである。
1つ目は、本音で語ることをできるだけ少なくすること。
2つ目は、「そうだね」と「そ」のつく言葉を言うこと。
3つ目は、挨拶言葉を家族で言い合うこと。
1つ目が大きな壁。
「愛し合って一緒になった2人が本音で語り合えないというのはおかしなことではないですか!」となる。
もう一度言いたい。
夫婦は、所詮「親しい他人」である。
離婚危機にある前夜は、きっと夫婦は本音丸出しの言葉をお互いに突きつけあう。深く傷つく。そこで離婚である。
離婚というのは、ある日突然起こることではない。
夫婦が一緒につくりあげてきたプロセスを、逆向きに1つ1つ否定してきて、最後に本音のぶつけ合いになる。
「本音で語らないとするなら、何を話すのですか?」となる。
本音は危険なことである。
それを知っておかなくてはならない。
毎日の日常は、果てしなく広がっている。
だからそこで、とりとめもないことを、とりとめなく話し続けるのである。
そのことがもっとも大切。
2つ目は、「そ」のつく言葉。
「そうだね」「そうなのか」「そうだろう」……。
少々意見が違っても、こう言って頷いておく。
ささいなことですれ違いを起こすことはないはずである。
ある夫婦は、何回も離婚危機があった。
奥さんが「今日は寒いね!」と一言言うと、旦那は「冬だから寒いのは当たり前だろ~」と返す。
こんな会話を夫婦とも繰り返す。
「そうだね!」と返しておけば、その一言でほっと暖まるのに、そうしない。
だから、離婚危機を迎える。
3つ目は、夫婦というより家族で習慣づけをすることになる。
「おはよう」「おやすみなさい」「行ってきます」「ただいま」……こんな当たり前の言葉をかけ合う。
当たり前の言葉で交わし合う家族、夫婦は健全である。
この3ヶ条はなかなかうまくできている。
当の私がきちんと実践しているかとなると、……(笑)。
それでも私たち夫婦は、来年は50年目の金婚式を迎える。
★
家族は、すべてのなかで最も大切である。
私の「24時間」は、家族の中にある。
家族のために生きていく。
家事を互いに分担しあいながら、働きに行き、家族の時間を大切にする。
これで充分なのである。
この世のあらゆるものは、「繰り返し」によって成り立っている。
だから、この24時間の「日常」を豊かに生き抜いていくには、きちんと「繰り返し」のわざを身に付ければいい。
ところで、次のような問いかけもある。
「それじゃあ、本を出したり、講演をしたり、……と野中先生はされていますが、あれは何ですか?」と。
あれは、25時間目のこと。
「虚」業である。
本来25時間目はないのだから、必要がないこと。
しかし、どうしても25時間目をつくらなければならなかった、ということになる。
どうしても自分の中に必然性があったのである。
もちろん、24時間が犠牲になったり、家内の支えがなければできなかったことでもあるのだが……。
虚業は虚しいもの。世の中は虚業にあふれている。
家族の安寧をほとんど犠牲にして、虚業をさも大切なものとして考えていく人たちがいる。不幸になるのは分かっている。
こんな発想から早く卒業することなのだ。
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