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2021年12月

つれづれなるままに~小さな幸せを見つける~

●今年は秋の穏やかな日が多い。
 玄関前や庭に植えている植物の土を入れ替えている。
 
 鉢植えのポトスの土を入れ替えてあげる。
 もう10年以上、そのままになっている。
 丈夫な植物なので、ついついそのままにしてしまっていたのである。

  入れ替えて1週間経ったら、3鉢ともに小さな新芽が出てきた。  
土を入れ替えてあげたことで、喜んでいる様子を伝えてくれていると思い、うれしくなった。

 今年は、テッセンにも土を入れてあげたら、元気を失っていた様子からすっかり元気を取り戻し、1つ花を咲かせた。
 それも夏に咲く花のようにみごとなのだ。
 これにはびっくり。
 
 夏頃にさくテッセンが、こんな秋に咲いてくれたのである。
 これも土を入れてあげたことで、喜んでいる様子を伝えてくれたのかと思い、うれしくなった。

 ★
 2019年の3月に、101歳で亡くなった生活評論家の吉沢久子さんが次のように書かれていたことがある。

 ★ ★ ★
 毎日の生活の中に見つける「小さな幸せ」はとても大切だ。
 「今まで我慢してきた、大変なこと、疲れ切ってしまうようなことはたくさんありましたが、小さな幸せを拾い集めることを上手にやって、なんとかやってきました。この家にはその『小さな幸せ』がいっぱいあるんです。例えば、庭の花を切ってきて、好きなコップに挿してみる。『きれいだなあ、この花を今年も見られて良かった』と考えれば幸せになれるでしょ」
 ないものを望んで悲しむよりも、自分の身の回りにある小さな幸せを見つけたほうが、楽しく生きられる。それが毎日を丁寧に生きていくことにつながる。そして、一日が終わる幸せを思う。
 「寝るときに、『ああ、よかった、今日一日』と思う。それが続けば嬉しいですね」(『吉沢久子 すっきり生きる言葉』主婦の友社)
★ ★ ★

「小さな幸せ」を見つける。
今日は、女房から「お父さんは『小さな幸せ』を見つけるのが得意だね!」と言われて、それもうれしくなった。

●娘から「お父さん、森岡毅さんって知ってる?」と言われた。
 「知らないよ。どんな人なの?」「この前動画で林修さんとの対談を見たんだけど、おもしろかったよ。この人の本もベストセラーになっているらしいよ」と。

 早速、その対談を探した。

 https://www.youtube.com/watch?v=VdvgbdaYNVM
 

   これである。
 「何だ、大阪USJをV字回復させた立役者だったんだ!」
 とにかく発想がおもしろい。

 早速2冊の本を購入した。
 今読んでいるところである。 

●本を読んでいたら、人間はその体が、60歳までしか制度設計がなされていないから、60歳過ぎたらあちこちが痛くなったり、病んできたりするのは当たり前である、と。
 
 これはよく分かる。
 私も60歳過ぎたら、確かにあちこちが病んできたからである。
 
 アレルギー性鼻炎で季節が変わるときには、鼻水が大変になる。

 また、尿酸値が高くて、痛風になった。
 これは、家系でもあり、ずっと尿酸値が高かったのである。
 それが退職後に痛風を発症した。
 北海道でうまいものを食べ過ぎた結果であろう。

 それから足の先が冷えて、しもやけになったり、眼の炎症になったり。
 それぞれにメンテナンスをする以外にない。

 最近気づいたのだが、元気でいるのは、自分なりの健康法をもっている人なんだということである。
 
 私は、両手振り体操(スワイショウ)と30分走(家の中)を健康法の基本にしている。
 
 両手振り体操は、朝、太陽を浴びながら20分間行う。
 昼ごはんを食べたら、また太陽を浴びながら、10分間行う。
 夕方、10分間行う。
 毎日2000回行う。

 そして、夕方、4時30分から30分間家の中を走る。

 だから、まだまだ2,3時間の講演でも、立って行うのは平気である。
 
 自分なりに戒めている俳句がある。

   浜までは海女も蓑着る時雨かな(瓢水)

 どうせ、濡れるのだから濡れていっていいじゃないかという発想はとらない。
「どうせ」という言葉を使わないで、丁寧に生きていくということである。

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中村健一著『策略 ブラック新卒1年目サバイバル術』(明治図書)が発売になる!

 中村健一先生が新著を出された。
 『策略 ブラック新卒1年目のサバイバル術』(明治図書)。

  Photo_20211217095001  

   ブラックシリーズの続編。
 明治図書では、売れに売れたベストセラー本である。
 
 ところが、このブラックシリーズは、一部の先生からは評判が悪い。
 「品性がない!」と。

 健一先生は、そんなことは織り込み済みで、さんざんにブラック色を出しまくったのである。
 
 これらの本の内容は、今まで教育界でタブーとされてきた「本音」である。
 私は、本音を出すことは必ずしも良いことばかりではないと思っている。
だが、このブラックシリーズは、「本音」を出すことによって、大切な「現実」を差し出したのである。
 「ブラック」という言葉に喩えて、その書き方は見事なものである。
  ★
 今回の本は、初任者が最初にぶつかっていくハードルを提出し、その克服法が書かれている。
 それもいわゆる初任者本ではない。
 

 初任者がぶつかるハードルをきちんと、正確に提出されているからだ。
 建前での書き方はない。

  「自分は所詮『シロウト』なのだと、悟れ」

 「1年目の初々しさは、ハンデにこそなれ、『武器』にはならない」

 「子どもは、ウソをつく生き物である」

 「あなたたち『シロウト』がうまくいかないのは、当たり前。上手くいかなかったら、とにかく早めにSOSを出して助けてもらえ」

 「初任者は、先輩教師の助けなしでは、1年目を生き抜くことはできない」

   …………
 ★
 今の初任者指導は、ほとんどが授業の指導ばかりである。
 最初から「発問はどうだ?」「単元構成はどうだ?」……などと、そういう指導ばかりがなされている。
 
 初任者が、学級をつくることに汲々としているときに、指導案をさかんに書かせて彼らをぼろぼろにしている。
 初任者の授業は上手くないので、指摘するところは山ほど出てくる。
 それを一々指摘して、それが指導だと自己満足している。

 学級開始のときには、とにかく「学級づくり」をしなければならない。
 
 1つの組織がつくられる時、その組織づくりをするのは当たり前の常識である。
 たとえば、あなたが社長として1つの会社をつくろうとする。
 最初にすることは、営業、企画、経理、工場などの組織をつくり、商品の販売をどのようにしていくのかを考えるであろう。

 ところが、初任者指導の先生たちは、その組織づくり(「学級づくり」)の支援をしないで、授業ばかりの指導をしている。
 会社では、何も組織をつくらないで、毎日社長が全員を集めて、商品の販売をどうするかを指導しているみたいなものである。
 ありえないこと。

 健一先生は、きちんと指摘されている。

「私は、学級づくりという土台があった上で、授業づくりがあるのだと考えている。
 学級づくりが上手くいけば、どんなひどい授業でも、子どもたちが乗ってくる。
 逆に学級づくりが上手くいかなければ、どんな素晴らしい授業をしても、子どもたちは乗ってこない。
 分かりやすい例が、学級崩壊である。学級崩壊しているクラスでは、どんな素晴らしい授業をしても、子どもたちは乗ってこない。乗ってこないどころか、授業が成立しない。
 だから、授業づくりの前に、きちんと学級づくりをする必要がある」

 この指摘通り。
 私もまた、授業づくりの前に(同時進行になるが)、学級づくりをしなければならないと主張している。
 しかし、この指摘が当たり前になっていないのが現実である。
 
 だから、「初任者のクラスの8割が荒れる」となり、辞めていく初任者が数多く出てくるわけである。

 ただでさえ、教師になろうとしている学生は、年々少なくなっている。
 このままいけば、教師になろうとする学生はいなくなっていく。そこから学校教育は崩壊していく。

 こんな中、教師になってくれた人を辞めさせていく「間違い」を犯してはならないはずである。
  ★
 ぜひとも教師になろうとする人たちは、この本を読んでほしい。
 初任者の先生たちが抱えている現実を知り、その処方箋に学んでほしい。

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若者たちに心の変化が起こっているのか~愛知中3刺殺事件~

 ずっとトゲが刺さった状態のままである。
 もはや報道もされなくなっている。

 愛知中3刺殺事件のこと。
 事件当日、現場になった中学校では、1時間目の授業が始まる直前の、加害少年Aは、殺害された伊藤くんを呼び出して、刃渡り20㎝の柳刃包丁で腹部を一突きしている。

 この学校は、愛知県弥富市立十四山中学校。
 この弥富市には、かつて教育委員会から講演の依頼があり、一度訪れていることから他人ごとのようには思えなかった。
 
 田園地帯が広がり、静かな田舎町なのである。
 ここで事件は起きている。
 ★
 流れてきている情報は、ほとんどどこも同じである。

 「県警は加害少年のスマホを押収して捜査を続けていますが、現時点でSNSを巡る仲間外れなどのトラブルは確認されていないそうです。むしろ逮捕された少年は、死亡した被害者について『伊藤くんが生徒会選挙に出た際、応援演説を頼まれたことが嫌だった』、『伊藤くんが給食当番の時、すぐに箸を渡してくれなかった』、『仲の良い友だちとの会話に割って入ってこられた』という趣旨の供述をしているようです」
 
 「逮捕された男子生徒が『今思えば悪いことをした』と供述していることが、新たに分かりました」

 「男子生徒は、事件前、『人の殺し方』についてインターネットで検索していたということです」

 「加害少年は学校から禁止されていたスマホを旅行に持参していたのですが、それを他の生徒に見つかり告げ口され、教師に叱られて没収されました。それまでも学校で嫌な出来事が重なって、『どうでもよくなった』と感じるようになり、伊藤君の殺害を決意したと供述しているといいます」

 「Aくんはオンラインゲームが好きな大人しい子でした。部活はバレー部に所属。小学校時代はサッカー部で、伊藤くんと一緒のチームでした。対して伊藤くんはクラスのリーダー的存在。大の阪神タイガースファンで、中学校から入った野球部で活躍していました」

 「家族関係は良かったと聞いていますよ。兄が一人に、両親、祖父母、さらに曾祖母という7人家族です。お祖父さん、お祖母さんも元市役所職員。父親は4年前まで地元の自治会長を務めていました。近所ではちょっとした名家でしたよ」

 こんなところである。

 <考察>
 加害者と被害者は、小規模の小学校でずっと一緒に過ごしてきた関係にあった。小学校のサッカー部でも一緒だった。
 しかし、タイプの違いからどうしても被害者の少年とAは上下の関係になっていることが分かる。被害者の少年は、いつもの調子で、ずかずかとAに関係をつけたり、嫌なことを平気でしたりということがあったと思われる。
 生徒会の選挙の応援演説の頼みも、そういう関係から生まれているはずである。
 だが、嫌だったら断れたはずだし、そうしなければならなかったはずである(それができなかった関係だったということも言えるが……)。

 要するに、出てきている報道の数々は、なんということもない、ありふれた男の子たちの関係である。
 全国の学校現場では、どこにでも転がっていること。

 私たちは、そのありふれた原因で、短絡的に相手を「殺す」というにつながっていることに戸惑うわけである。

 ★
 一方、学校側の対応である。
 最初は、校長がトラブルは確認していないと公式発表をしていた。
 ところが、昨年の2月のアンケートでは、いじめを受けたことがあるということに○をつけていたことが判明。
 そのことを学校側が委員会に報告していなかったということが問題視されていた。

 報道によると、次のようなことになる。

 「学校はアンケートを受け、今回の事件の加害者生徒から聞き取りを行った後、担任から今回の事件の被害者生徒に話をしました」

 「事件があった中学校の校長、今回の事件の被害者生徒は反省し、『分かりました』と答えました。(3月初旬)その後は『大丈夫か』と今回の事件の加害者生徒に連絡したところ、『今は落ち着いています。大丈夫です』と答えた」

 <考察>
 学校側は、このいじめについてはほとんど問題視していないと予測される。どこにでもある、普通の諍いであり、指導しておけば収まることだという判断だったと思われる。
 そんなことよりも大変なことはいっぱいあるからである。
 私は、学校側は、普通の指導をしたのだと判断できる。
 たいしたことだと思っていないのである。

 だから、こんな諍いで殺人事件が起こってしまうこと自体が、学校側にとっては晴天の霹靂である。
 また、全国の学校現場の先生方にとっても、同じ思いであろう。

 私たちが目にしている報道によると、こんなことになる。

だが、ここで立ち止まる。
 一体、何が起こっているのだろうか、と。

 私は先日のブログで、19歳の甲府殺人事件や24歳の京王線事件を次のように書いた。
 ★ ★ ★
 19歳と24歳。若者である。
 私がもっとも注目したのは、「飛躍する」ということ。

 山梨の事件の犯人は、「長女に好意を寄せていて、それがダメになった」ことで長女の親2人を殺傷し、その後に放火まで起こしている。

 京王線の24歳は、仕事がうまくいかず、友人関係もうまくいかず、2人ぐらい殺して死刑になりたいということで事件を起こしている。

 驚くことは、山梨の19歳に起こったことも、京王線の24歳に起こったことも、ありふれた、誰にでも起こる(実際に起こってもいるであろう)ことで、残虐な事件につながっていることである。

 普通の人に起こる、ありふれたこと→人を殺す
 一本線の、とてもシンプルな構図。

 ここには、ものすごい飛躍がある。
★ ★ ★

 また、同じ事件が起こったということになる。
 普通の人に起こる、ありふれたことが、殺人事件に結びついている。

 3人に共通しているのは、最後に自暴自棄になっていることである。

 私は、ここには大きな飛躍がある、と思ってしまう。

 殺人事件を起こした犯人たちには、自分なりの、切羽詰まった思いがあったのだろうが、それを受け取る私たちは、「そんなありふれたことで殺人事件を起こせるのか?」「そんな簡単な思いで、殺人事件を起こせるのか?」ということになる。
 たとえば、私たち団塊世代ならば、ほとんどの男たちが殺人を犯していることになる。

 どうだろうか!
 子供たち,
若者たちの思いが、大きく変わっていっているのか、ということを危惧する。
 私たち大人がとても理解できない心の変化が子供たちや若者たちに起こっているのか、ということを想像してしまう。

 

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