つれづれなるままに~飛躍とゲーム感覚~
最近とても気になる事件が立て続けに起きた。
1つ目が、2021年10月19日に起きた山梨甲府の住宅殺人放火事件。
2つ目は、つい先ほど10月31日に起きた京王線殺傷事件。
1つ目の山梨の住宅殺人放火事件は、つい最近の事件。
19歳の少年。
この少年は、この家の長女と同じ学校へ通っていて、少年は「長女に好意を寄せていたが、うまくいかず殺害しようとした」という趣旨の供述をしているという。
犯行に及ぶまで計画的に準備を進めていたことが明らかになっている。
この少年は、高校では生徒会長まで務めたということが分かっている。
2つ目の京王線殺傷事件。
24歳の容疑者が、犯行後車内に座り、左手でたばこを吸い、右手にはナイフをもった映像が繰り返し流れていたのでご存じであろう。
調べに対して、「6月頃に仕事を辞め、友人関係も薄れて死にたかった。誰でもいいから2人ぐらい殺して死刑になろうと思った」と供述している。
★
19歳と24歳。若者である。
私がもっとも注目したのは、「飛躍する」ということ。
山梨の事件の犯人は、「長女に好意を寄せていて、それがダメになった」ことで長女の親2人を殺傷し、その後に放火まで起こしている。
京王線の24歳は、仕事がうまくいかず、友人関係もうまくいかず、2人ぐらい殺して死刑になりたいということで事件を起こしている。
驚くことは、山梨の19歳に起こったことも、京王線の24歳に起こったことも、ありふれた、誰にでも起こる(実際に起こってもいるであろう)ことで、残虐な事件につながっていることである。
普通の人に起こる、ありふれたこと→人を殺す
一本線の、とてもシンプルな構図。
ここには、ものすごい飛躍がある。
どうしてこんな飛躍ができるのか。
長女に好意を寄せて、ダメになるというのは失恋である。
誰でもに起こる。
それが殺してやろうと、しかもその親までも。
この飛躍した発想を、どうして持てるのか。
仕事がうまくいかず、友人関係もうまくいかない。辛いことだが、多くの人に起こっている事態。また、やり直していこうというのが普通のこと。
それが、人を2人殺して死刑になりたいという飛躍した発想。
どうしてこのような発想になるのか。
★
普通の人たちは、人を殺すことができない。
人を殺せないように育っている。
だから、アメリカで、イラクやアフガニスタンでの戦場に駆り出される兵士には、事前に訓練をするという。
人を殺す訓練。
ゲームのようなシュミレーションを使っての訓練だと言われている。
この2人は、どうしてこのように人を殺すことができたのか。
宮台真司は、次のように書いている。
★ ★ ★
われわれが人を殺さないのは、殺していけない理由に納得しているからではありません。殺してはいけない理由をちゃんと説明できる人なんてほとんどいませんから、もしそうなら大変なことになります。そうではなく、われわれが人を殺さないのは、殺せないように育っているからです。
であるならば、殺せないように育つために必要な条件は何なのでしょうか。
それを明らかにするために、『脱社会化』という概念を提出しました。
要は、『人を殺せるように育ってしまった人たち』あるいは『人を殺してはいけない理由に納得できないことが大きな問題を構成してしまうような人たち』。これらが『脱社会的存在』にあたります。
(『教育真論』発行ウェイツ 宮台真司編)
★ ★ ★
2人は、小中時代は普通の、目立たない少年だったと報道は伝えている。
この2人が、どうして、どのような過程を経て、「脱社会的存在」になってしまったのか。
闇のままである。
★
もう1つ気になったのは、京王線での服部容疑者のこと。
ジョーズに憧れていた、と。
そこで勝負服にきめて、当日の犯行に至っている。
ゲームの主人公になって犯行を行っている、と!
私には、そのように受け取られた。
ゲーム機でゲームをするように、実際に自分が主人公になって行っている。
この事件と関連して思い出すのは、新著『やんちゃな子がいるクラスのまとめかた』(学陽書房)に書いたことである。
学級崩壊をゲーム感覚で起こしている子供たちについてである。
この子供たちと、服部容疑者は似ている。
ともに、ゲーム感覚で事を起こしている。
相手にされた方や先生は、もはや命がけなのだが、当事者たちは、軽いのである。ゲーム感覚。
ゲームの主人公になって、その事態にのめり込んでいる。
これを私たちはどのようにとらえるべきだろうか。
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