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2021年8月

つれづれなるままに~コロナ感染は、空気感染~

●24日に、神奈川県の大和市教育委員会の初任者研修会へ行く。
 ズームでの提案である。
 ズームは苦手である。
 
 それでも指導主事の先生方に丁寧な段取りを組んでもらい、スムーズに終える。
 ただ、初任者の先生方にどのように受け取られたのか、まったく分からない。ここが困る。

 しかし、このズームは、これから研修会で主流になるはずである。
 
自宅や学校にいながら、離れたところでも研修に参加できるメリットは、計り知れない。
 そこに集まることがないというだけで、このメリットは際立っている。
 時間やそこまで行く費用などを考えたら、参加者への負担もかなり軽減できる。
良いことだらけである。

 ただ、その研修会がどのようなカタチで成立しているかどうかを主催者が把握することがむずかしくなるというのがデメリットであろうか。

●27日に、神奈川県の藤沢市の学級経営研修会へ行く。
 この研修会は、対面である。
 ひさしぶりの対面である。

 こんなコロナ禍で、先生たちは、集まってこられるのかなと思いつつ、出かける。
 ところが、30名の先生たちが参加された。びっくり。
3時間の講座なのである。

 第1講座 クラス状況で悩んでいる先生たちの相談に答える。

 第2講座 学級経営の「学級づくり」、「関係づくり」を考える。

 第3講座 夏休み明け1週間の法則

 対面の研修会の良さは、先生たちの反応を見ながら、提案の仕方を少しずつ変えられることである。

 また、先生たちの反応を見れば、提案が受け入れられているかどうかが分かる。

 現役の頃から数えてみると、500回近くの講演をしていることになる。
 
 もうドキドキすることもなくなった。
 パワポで提案しているが、書いたものを見ながら提案することもなくなった。
 先生たちの表情を見ながら話すことができるようになった。
 場数を踏んだことになる。

あっという間の3時間。
 これだけの時間で、グループで話し合う、ペアで話し合うという手法が使えないことは、研修を行う者としては大変な負担になる。

 そこをどれだけ切り抜けられるかどうかなのである。

●先週の金曜日に、研究者の報告で、このコロナ感染は、飛沫感染というより空気感染なのだということが明らかになる。

 これはびっくり。

 だから、コンビニやストアーなどですれ違っただけで感染をする事例がニュースで報道されていたが、空気感染ならば納得することになる。

 学校での感染予防は、これからどうなるのだろうと心配になる。

 ワクチンの効果も、予想したよりもたいしたことがないことも分かってきている。
ワクチン接種者も、決して安心できない。

ますますこのコロナ禍は、いつまで続くのだろうと案じられることである。

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つれづれなるままに~残暑はまだ厳しい~

●政府のコロナ対策の分科会で、尾身会長は、次のように述べたという。

 「尾身氏は、大学、高校ではオンライン授業をなるべく実施する一方、小学校については対面授業を実施するよう求め、「休校する必要はない」と指摘した。教育現場では大人から子どもへ感染が広がることが多いとして、教職員がなるべく早くワクチン接種を受けることを求めた。」

 教職員のワクチン接種が、進んでいないところがある。
 私の地元の横浜では、8月5日頃に1回目を終え、2回目は8月の下旬に打つということを聞いている。
 8月いっぱいに終わらせようということになる。

 ところが、隣のY市は、まだ進んでいないということ。
 自治体によって大きな違いがある。

 どうしてこういうことになるのだろうか。

 教職員は、当然優先接種として夏休みいっぱいに終えなければならないはずである。
 このデルタ株は、今までのコロナよりも計り知れないほどの感染力をもっている。
 だから、夏休み明けは、当然子供同士の感染、教師から子供、子供から教師への感染が広がるはずである。
 この事態を少しでも抑えるためには、まず教職員がワクチン接種をするというのは前提ではないか。(8/26)

 
●親しい友人の高橋定雄さんが、通信に次のようなことを書かれていた。

runner通信。
月刊誌ランナーズを読み始めてから29年目。3年契約にしている。10月から更新しないことにした。3年前から走れない。膝の痛みは治りそうにない。
走ることは卒業し、後輩の走る方のために応援したり支えたりすることに徹したいと思う。走友会の会長もそうだが、他のことでも裏方に回ることにする。
株式会社アールビーズ社に改めて感謝したい。
先輩の野中信行さんの言葉を身に沁みて感じている。 
走りには始めがあり終わりがある。人生にも上りと下りがある。下りをどのように降りてくるかが問題である。含蓄がある。
 ★
 膝の痛みで3年前から走れなくなっていた定雄さんが、いよいよ走ることから卒業するという宣言である。ずっとライフワークとして走り続けたい思いでいっぱいだったはずだから、まことに残念なことである。
 
 私のことを書かれてあるが、いつも「始め」や「上り」より、「終わり」や「下り」が大変である。
 時として人は、ここでつまずく。
 しかし、定雄さんは、いつもフェイスブックに「下り」の生き方を提示されている。みごとである。
 励まされる。
 ★
 8月26日、私の誕生日である。
 74歳になる。
 まさにこの歳になって、本などを出しているなんて予想だにしなかったこと。
 人生は、どんなに転んでいくか分からないものである。

●漱石の『三四郎』の写本を始めたとブログでも書いておいた。
 毎日10分間。
 続けている。
 A4ノート2冊が終わった。3冊目に入った。

 私の唯一の長所は、「続けること」が得意なこと(笑)。

 今では、10分間でノート1ページ書けるようになっている。
 
 書きながら漱石の文体が、私の中に入ってくる。
 とにかく情景描写や心象描写がすばらしい。

 日本の小説の有り様を指し示した文豪。まだ残り続ける意味が少し分かる気がする。

●高田郁の『あきない世傳 金と銀』11 風待ち篇(角川春樹事務所)を読む。

 ずっと愛読している時代小説である。
 小説のおもしろさを堪能させてくれる。

 繰り返し2回読んだ。

 この人の文章の巧みさは、現代では、比べる人がいないのではないかと思わせてくれるものである。
 とくに、情景描写がうまい。うっとりするほどである。

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つれづれなるままに~もはや自分の身は自分で守る以外にない!~

●経験したことがない事態が起こっている。コロナの感染である。
 第5波の感染力はものすごい。

 デルタ株の感染力は、今までより7~10倍の威力だそうである。
 
 アメリカのマサチューセッツ州の独立記念日でのクラスターをアメリカCDCは伝えている。
 469人の感染があった、ということ。
 その7割は、すでにワクチン接種を済ませていた、と。

 ただ、ほとんどがマスクをしていなかった、と。

 ★
 はっきりしているのは、2回のワクチン接種を終えていたとしても、マスクをしていなければ感染をするし、感染を与えるということだ。

 しかも今回のデルタ株での感染で分かってきたことがある。

 ①3密が効果を無くしていること。1密でも感染するし、オーストラリアではすれ違っただけで感染をしたという事例が報告されている。
今までの発想では、防ぐことが困難になっている。

②布マスク、ウレタンマスクは、今回のデルタ株には効果を上げない。
  きちんとした不織布のマスクを使用しなければならないこと。

 ③大人数のところに長時間いたら感染するリスクがあると言われていたが、
  今回のデルタ株では、短時間でも感染するリスクがあること。

 多くの人たちの感染予防が、まだ従来の感染予防感覚で済ませているところから今回の感染爆発を招いている。

 これからどのくらいに感染が広がるのか、今のところ見当もつかない状況である。(8/8現在)

 <教訓>
  不織布マスクをきちんとつけよう!
  できるだけ人との接触を控えよう!

 
●8月17日である。
 コロナ感染は、予測を超えて広がっている。
 「制御不能」「災害級のもの」という言葉が飛び交っている。

 これからどのくらい広がるのか、今のところ予測できない。

 長崎大学の森口教授は、4チャンネルの報道番組で、感染者が2万3千人どころではない、4万、5万と感染者がいることを報じていた。

 今一番恐ろしいのは、自宅療養者である。
 全国で7万4千人を超えている。
 
 中等症の人たちは、地獄のような苦しみを味わっていると報道されている。 入院できないのである。

 素人考えで発想すれば、どうしてそれぞれの病院の空き地や周辺にプレハブの小屋を建てて、そこへ自宅療養者を入れないのか。野戦病院的な小屋である。
 もうコロナが感染し始めて1年7ヶ月の歳月が経っている。
 こうしたことに政府がどうして動き出さないのか、不思議でたまらない。
 
 こういう動きをしてくれたら、中等症の人たちはどれほど助かるか、すぐに考え至ることである。
 
 こんな見通しをどうして政府はしないのだろう。
 すべてが場当たり的な対応だけである。
 
 そう考えているうちに、やっと動き出している。あまりにも遅い。

 <教訓>
コロナに感染したら、ほとんど入院できない恐れがある。
  場合によっては、命の危険がある。
  もう誰も守ってくれない。
  自分で自分の身を守る以外にない。

  何ができるのか。
  要するに、感染しないためには人との接触を限りなく少なくする
  ことである。
  でも、働いている人はそれができない。
  徹底した除菌対策をする以外にない。
  しょっちゅううがいをし、除菌スプレーで除菌をする。
  とりあえず、それ以外に方法がない。
  どこにでもコロナ菌は潜んでいる。油断しないこと。
(8/19)

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3版になりました!

 『困難な現場を生き抜く!やんちゃな子がいるクラスのまとめかた』(学陽書房)が、3版になりました!
1ヶ月ほどで、もう3版になりました。びっくりしています。
 
 皆さんに買ってもらっているわけです。ありがとうございます。

アマゾンのレビューにも、次のようなことが載せられています。

 「困難なことが、日に日に増える教育現場。それに耐えきれなく、病み倒れていく教員。そんな、教員戦国時代である現場に、希望の光を灯してくれる本になっています。我々苦しんでいる教員への処方箋が満載です。おすすめの教育書です。」

ありがたいことです。

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事務連絡です!~KANAYA先生、連絡ください~

「夏休み明け1週間の法則」の申し込みが相次いでいる。
連絡してもらった先生で、KANAYA先生にメール添付で送ったらリターンで返ってきてしまった。メールだけで連絡をしても
リターンで返ってきてしまった。
困ってしまった。連絡が取りようがない。だから、申し訳ないが、名前を出させてもらった。
多分、私の方へ知らせてもらったメール名が間違っている恐れがある。
すぐ連絡をお願いします。

この資料は、著作権は放棄している。自由に使っていただきたい。

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「夏休み明け1週間の法則」をさしあげます!

 8月も、もう半分を過ぎる。
 来週には学校が始まるところもあるはずである。

 「学級づくり」には、金の時間と銀の時間がある。
 経験的に言えることである。

 金の時間とは、4月の1ヶ月。
 この時間で、「学級づくり」のほぼ8割が決まってしまう。
この時間を再びつくることは大変である。

 しかし、もう一度チャンスがある。
 銀の時間である。
 これが夏休み明け1週間。
 「学級づくり」にとっては、最後のチャンスである。

ただし、1週間しかない。のんびりとはできない。
 ★
 「夏休み明け1週間の法則」というのをつくっている。
 
 その1週間の間にどんなことをするのか、ということになる。

 それでも、この1週間は、忙しい。
 会議や打ち合わせが目白押しである。
 この間に、子供たちへ出していた夏休みの宿題もコメント書きや丸付けに追われる。

 あっという間に1週間は過ぎていく。
 「銀の時間」どころではない、ということになる。
 ★
 だが、この銀の時間が、学級づくりにとって最後のチャンスだということを忘れてはならない。

 1学期の間にうまくいかなかったことを修正する時間になる。
 また、半分の子供たちは4月の最初に戻っているので、最初からやり直さなくてはならない。
 ★
 大きなハードルが、夏休みの宿題をどう消化するかである。
 これについては、私の現役の頃の実践を提起しておきたい。

 「夏休み1週間の法則」の冊子をさしあげます。枚数で11枚(A4)になる。いつものようにブログのコメント欄(非公開)で申し込んでください。
 


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本への反響を考える(3)

客 今回の本で、第5章に「日常授業を改善する」を上げているね。
  この本の中では、ちょっと異質なところかな。

主 いやいや、これからの学校教育を考えていくときに、避けて通れない課題を書いたつもりなんだよ。

客 どういうことなんだい?

主 今まで子供たちは先生たちが行っている「つまんない授業」にそんなものだと思って我慢してきたんだよ(笑)。ところが、最近はその授
業に対して「反!」を突きつけるような子供が出てきている。「つまんねえ~」と学級崩壊を起こす子供がやんちゃな子供だけでなく、学
習塾ではトップの子供が起こし始めていることがあるんだよ。

客 だから「日常授業」が学級崩壊の原因の1つになっているという指摘なんだね。

主 多くの先生方はそのように受け止めてないんだけど、これから学校現場は、そこに大きな課題が突きつけられてくるはずだよ。
  でも、先生方は「日常授業」を何とか改善しようと試みていない。
  いつも通りやってスルーしていけばいいや、とね。

客 だから、あえて第5章にこの課題を書いたんだね。
  よく分かるけど、その「日常授業」の改善として「小刻み学習法」を提起してあるけど、ここはいろいろ異論があるところだろうね。

主 「日常授業」の改善と提起している割には、あまりにチャチな授業法じゃないか(笑)と思われているんじゃないか、と。
 
客 でも、先生たちは小学校だと毎日5,6時間授業をやるんだよ。どんなに優れた授業法でも、ややこしくて、難しかったら日常に耐えられ
なくて、結局やれないよね。シンプルだということが良いんじゃない。

主 この授業法は、どっかから持ってきたものではないよ。
  先生たちの「日常授業」とそれを受けている子供たちの現実から考えだしたものだよ。
  先生たちの多くがやっている「おしゃべり授業」の問題点を分析して、子供たちに表れている課題として5つを抽出して、その克服として
考えてきたものだよ。そして、私が、さまざまなところでその授業法で授業をして子供たちに受け入れられることを試してきたんだ。
  すべて帰納法で考えていったのだよ。

客 むずかしいことを言うね。帰納法というのはどういうことなんだよ。

主 簡単に言うと、目の前の子供たちの課題に対して、他から授業法をもってきて適用していくのじゃなくて(これは演繹法だね)、目の前の
子供たちの課題から、それをどうしていくかと考えていったということだよ。

客 そうそう、演繹と帰納ということに対して、オックスフォード大学の苅谷剛彦先生が『コロナ後の教育へ』(中公新書ラクレ)で徹底的に
日本の教育政策について批判しているね。

主 私も読んだよ。苅谷先生は、日本の教育政策について『追いついた近代消えた近代』(岩波書店)で詳細に分析されていて、そのまとめの
ような形で今回の本が出されているんだね。

客 あの分厚い本を読んだの?

主 昨年の夏に読んだよ。こんな認識がなかったから驚いたんだけどね。

客 苅谷先生が、『コロナ後の教育へ』で書かれていることは、日本の教育政策がどのように成立しているのかということと、それへの徹底し
た批判だね。

主 うん、そうだね。苅谷先生は、今日本の学習指導要領で導入しているア クティブ・ラーニングやカリキュラムマネジメントなどをエセ演
繹型として批判されている。
 「抽象的でまだ見ぬ理想を掲げるのだから、それを実現する手立てについても、目的・手段の関係は抽象的レベルにとどまる」と。
 結局具体化できないから、うまくいかない、とね。

客 でも、その苅谷先生の『コロナ後の教育へ』という本に対して、アクティブ・ラーニングなどの推進をしている人たちから批判がほとんど
 出ないね。私が、その批判を目にしていないということかもしれないけど。

主 そうだね。今まで行政の方針に距離を取ってきた先生たちだって、こぞってアクティブ・ラーニングには賛成していったんだから当然苅谷
 先生の論に対して批判があってもいいよね。

客 ここまで徹底した論を展開されているので、なかなか批判するのはむずかしいということかな?それとも無視しておけばいいやというとこ
  ろかな。

主 しかし、ここをきちんと考えないと、また同じ失敗をしていくことになるからね。

客 同じ失敗というのは?

主 アクティブ・ラーニングの追究1回戦は、30年前の新学力観の追究という形で失敗しているんだよ。総合が入ってきた時だね。失敗の形
 はゆとり教育の失敗という形で終わっているけど、実際は、新学力観と言って、ほとんどアクティブ・ラーニングと同じ考え方の失敗だった
  んだよ。

客 その時、あんたは現場で実践する立場じゃなかったのかな?

主 ほんとにめちゃくちゃだったね。
  詰め込み教育を止めようということで、漢字を覚えさせること、かけ算九九を覚えさせることなどを、子供が嫌がるなら無理して教えないで
  い  いとか、指導をしないで支援で行けとか、授業の最初は、教師が話すのではなく、子供の発言から始めなくてはならないとか、……。

 とにかく、今までの教え込みの指導をやっきになって否定しようとしたんだ。
  そのために、多くの低学力児を生み出したり、学力低下を招いたんだね。その後遺症は、今でも続いているよ。

客 それじゃあ、今回の学習指導要領は、アクティブ・ラーニング追究の2回戦ということになるんだね。
コロナ禍でほとんどやれてないと思うけどね。
  でも、あんただってアクティブ・ラーニングについては肯定していたんじゃなかったっけ?

主 そうだね。私は、高校、大学や私立の学校などでアクティブ・ラーニングは実践すべきであって、公立の小中は基礎・基本を徹底すること
 だと主張していたね。これはエリート教育なんだからね。

客 でも、苅谷先生の本を読んで考えが変わったということかな?

主 そう、根本的に考え直さなくてはならないと思ったよ。

客 小中の公立では、基礎基本を徹底することってどういうことなんだい?

主 基礎的な学力を保障していくということも大切なんだが、
  小中の子供たちに必要なのは、まず3つのことだと思っている。
  1つは、自分の考えをもつこと。
  2つは、その考えを言語化すること。
  3つは、その考えを相手に伝えること。

客 これを「全員参加」ということで、一人一人の子供たちに身に付けたいということなんだな。

主 全員参加というのは、単に全員に発言させたり、活動させたりするということだけではなく、考え方として上の3つを実践するということ
  なんだよ。

客 単に技術的なことだけではないんだね。

主 現在の子供たちは、授業で傍観者になっていることが多く、自分の考えをもつということができていないんだよ。まず、考えようとしてい
  ないもの。だから、全員参加をさせるということは、挙手指名発言だけではなく、どんどん強制的に指名していく授業を考えださなければ
  ならないのだよ。それでとにかく自分で意見を持つようにすることだね。

客 だから、「味噌汁・ご飯」授業でも、全員参加が目的に入っているんだね。でも、自分の考えを一人一人に持たせていくっていうのは難し
 いことだよね。

主 そうだよ。そういう機会をぜひとも作っていかねば、まず考えようとしないからね。だから、しょっちゅう一人一人に指名して、自分の考
  えを発表させなくてはならないんだ。

客 それから自分の考えを言語化するというのもむずかしいよね。語彙力がなければできないんじゃない。

主 そうそう、最後の勤務校では討論の授業をさせようとさまざまに取りくんだんだよ。でも、むずかしかったね。壁になるのは、子供たちの
  語彙力の問題だね。語彙力がないと言語化できないし、相手に伝える話し方ができないんだ。

客 だから、「小刻み学習法」では、授業の中で、15秒とか20秒のペア相談を入れるというのを盛んに取り入れているんだね。

主 繰り返し繰り返し行うことで、自分の今の語彙力で自分の考えをまとめていく機会をつくっていこうという試みだね。

客 そういうことが基礎・基本なんだ。

主 そうだよ。こんなことを基礎基本として行わないで、「さあ、アクティブ・ラーニングですよ」と言ったって、子供たちにとっては、雲を
  つかむようなものだよ。できっこないよ。
  先生はやろうとしても、一部のよくしゃべる子供たちだけの授業にしかならないはずだ。

客 それじゃあ、今多くの先生たちがやろうとするアクティブ・ラーニングというのは、一部の子供だけの話し合いのようなものなんだ。傍観
  者になっている子供たちは、結局おいて行かれるわけだね。

主 そういうことになるね。アクティブ・ラーニングの1回戦と同じような失敗をすることになるね。
1回戦の失敗の総括をまったく行っていないからこういうことになるんだ。
                                          (終わり)

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本の反響を考える(2)

客 今回の本でテーマとしたことはいくつかあったね。
  簡単にまとめてみると、
  1つは、「授業」だけで子供たちに対応していくことがもはやむずかしいことになっているってことだったね。どうしても「学級づくり」
や「関係づくり」などの学級経営が必要になってきているということだ。
  2つ目は、これも学級経営の1つなのだが、授業の捉え方を変えていかなくてはならないという提案だね。

主 学級経営では、今まで学級経営が上手だと評判だったベテランの先生たちが軒並みに学級崩壊に陥っている事態があるんだよ。子供たちに
  威圧をかけて、一挙手一投足までうるさく管理していく方式がダメになっているってことだね。その先生たちのやり方は、しょっちゅう
 「叱り言葉」で子供たちを威圧するわけだ。そんな先生の次の学年は大変なんだよ。

客 荒れていくということだね。子供たちは、その先生から解放されるわけだから、のびのびしていくわけだね。

主 のびのびだけだといいんだけど、今までの鬱憤を晴らすためにやりたい放題になってしまうの。
とくに、初任の先生が受け持ったりしたら、すぐに学級崩壊に陥ってしまうんだよ。

客 そのことはどういうことなんだ?

主 威圧して学級経営をしていたベテランの先生は、縦糸を張りたい放題になっているんだ。私たちは、縦糸を張ることはそんなことだと認めないん だけどね。
その結果、学級がうまくいかなくなっている。
  今どきの子供たちに合わなくなっているんだね。
  もはや、叱り言葉だけで関わりをもっていく「関係づくり」がもう通用しなくなっているんだよ。

客 でも、その先生たちは、そのことが分かっていないだよね。
  子供が悪いということで凝り固まっているだろうから。

主 その通り。もはや退場勧告だよ。ますます学校を悪くしていくのだから。

客 もう1つのテーマが授業のことになるんだね。
  授業については、長く「ごちそう授業」の時代が続いてきたんだね。


主 「ごちそう授業」というのは、私たちがつけたネーミングなんだが、学校では、重点研究で研究授業としてずっと「ごちそう授業」を追究
  してきたんだよ。重点研究のテーマを決め、仮説を立てて、1年に1回全部の先生が研究授業をしていくというのが学校行事のような形で
  続いてきたんだよ。
  その研究授業では、先生方は精一杯教材研究をして、さまざまな準備をして授業を公開していく。それで授業研究をずっと続けてきてい
  る。全国のどこの学校でも続けられてきたと言えるね。

客 でも、それは先生たちの勉強になるので良いことじゃないの?

主 確かに「ごちそう授業」の追究は、必要なことだよ。
  1年に何回かはぜひともやった方がいいのは分かっているよ。その教材研究で、学ぶことが数多いからね。

客 じゃあ、どこが問題なの?

主 そういう研究授業は、もともと先生たちの日頃の授業力を向上させるためにあったのだよ。毎日やっている授業が向上していかなくては、
  どんなに研究授業に精力を注いでも意味がないからね。

客 じゃあ、毎日の授業と、その研究授業は違っているというわけ。

主 先生たちは、研究授業では精一杯の教材研究で臨むけど、一旦それが終わったら、いつもの慣習的な「日常授業」に戻ってしまうんだよ。
  研究授業は、打ち上げ花火のようなショーみたいなものになってしまっているんだね。

客 ああっ、それで、いつもの「日常授業」が「おしゃべり授業」ということになるんだね。

主 小学校では、毎日の「日常授業」は、教材研究など満足にできないからね。赤刷りの指導書の斜め読みぐらいでしか対応できない。
それで「日常授業」はスカスカの授業をしていくということになるんだ。

客 それが今では、その「おしゃべり授業」が学級崩壊の原因の1つにもなっているという提案だね。
じゃあ、研究授業はやらない方がいいということなの?

主 そんな主張は一度もしたことがないよ。
  今やっている研究授業が、1年に1回限りのショーみたいになっていることを止めた方がいいと言っているのだ。

客 じゃあ、どうしたらいいの?

主 もともとのところへ戻ることだと思うよ。
  「日常授業」の改善につながるような重点研究に変え、そのための研究授業をしていくことだと思う。大曲小学校がやったようにね。

客 そうだね。毎日の「日常授業」が豊かになっていかなくては、研究授業の意味がないからね。
でも、どういうように「日常授業」を変えていくのかというのは、大きな課題だね。なかなか難しいのではないだろうか。

主 確かにそうだけど、実際にどのように授業を変えていくのかについては本の中でも提唱していることだ。小刻み学習法だよ。
  それについてはもう少し説明したいね。(つづき)

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『WITHコロナ時代のクラスをつなげるネタ73』を紹介します!

 「教室で笑いを起こすのが苦手なんですけど……どうしたらいいんでしょうか?」
 このように質問してくる初任の先生がいる。
 女性の先生に多い。

 こんな質問には、「ゲームをしたらいいよ!」と答える。
 
 そして、そのためのゲーム集を紹介してやる。

 たとえば、中村健一先生の『子供も先生も思いっきり笑える 73のネタ大放出』(黎明書房)
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 今まで多くの初任者研修会で紹介してきた。
 ものすごく売れたらしい。
 私の貢献もあったかもしれない(笑)。

 今回、中村先生の監修で、小野領一・友田真先生の編著で、『WITHコロナ時代のクラスを「つなげる」ネタ73』(黎明書房)が出てきた。
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 このコロナの時代。子供たちとの「関係づくり」が危機を迎えているはずである。
 こんな時こそ、子供たちとゲームをやって楽しむことが必要である。
 子供たちと笑い合うことである。

 そのためのゲーム集である。
 


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