日本人に決定的に欠けていること
五輪組織委・有識者懇談会メンバーのデービット・アトキンソン氏の話は、深くうなずけることであった(朝日新聞2/23日朝刊)。
氏は、組織委で大会コンセプトを作っているときに、一番難しいかったのは、日本人が考える「日本」がほとんど理想論だったことだと、言われている。
「多様性と調和」というコンセプトについて、会議では「日本は世界一寛容な国」という人がいた、と。
日本はどんな文化でも取り入れて、日本は多神教で海外は一神教だとか。
ところが氏は、日本は、寛容な面はたくさんあるが、夫婦別姓も認めないし、移民にはかなり厳しいし、難民は受け入れない。寛容と言えるのかと、会議では議論になった、と。
日本人は思い込みや俗説が多い。専門家に確認しない、検証しない、厳しく言えば、プロ意識が低い面があることは共通している、と。
そして、氏は、次のように指摘される。
「日本の決定的な問題は、クリティカルシンキング(批判的思考法)が充分にできていないこと。これは、仮説を立てて、ロジックを分解し、データで検証し、結論を出すもの。
大学の問題が大きい。クリティカルシンキングができるようになるのは大学生の年齢。人間というものは勝手な思い込みをする生き物なので、それをなくす大学教育が発達した。
大学の4年間、先生とのやりとりで、思い込みで発言したら、根拠はなんですか?評価に客観性はありますか?と聞いて答えさせる。日本の大学はそれが十分できていない。」
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こんなデービット氏の意見を聞きながら、苅谷剛彦氏の『コロナ後の教育へ』(中公新書ラクレ)を思い出した。
苅谷氏は、今オックスフォード大学教授。
このデービット氏も、オックスフォード大で日本学を学んでおられるのである。
この『コロナ後の教育へ』という本は、日本の教育政策を根底から批判したもので別に考えたいものである。
この本で、苅谷氏は、オックスフォード大学の教育について書いているところがある。
「……The Oxford Tutorial という本がある。オックスフォード大学で実際に行われているチュートリアルと呼ばれる教授・学習法についての一種の解説書だ。ここでは、チュートリアルという具体的な教育実践が、学生たちに批判的思考力を付けさせていることを、具体から抽象して論じている。長年にわたって続けてきた教育方法が、どのような成果をあげてきたか。それら現実(現場)の経験〓実績から、抽象度を上げることで、そこで何が行われてきたか、そこにどんな意味があるかが論じられる。」
チュートリアルとは、どのような教授・学習法なのか?
「ちなみに、チュートリアルとは、教師による徹底した押し付け型の教育だ。読む文献もエッセイの課題も教師が決める。そして毎週十数冊の文献を学生に読ませ、教師が与えた課題に答えるための十数ページのエッセイを書かせる。そのうえで、週1回1時間、教師が学生にエッセイに見られる弱点を指摘し、学生がそれをディフェンスする。学生の側からみれば、チュートリアルの時間を除きほとんどの学習は無言で行われる。大量の文献を読むことも大部のエッセイを書くこともなく、自分の意見を自由に述べるだけの授業とは大局的な学習だ。見た目だけでは、パッシブな学習である。それでも、それが批判的思考力を鍛えるうえで有効なことを教師も学生も知っている。つまり帰納的に理解している。だから、どんな時代が来ようと、それを変える必要はないと判断される(読む文献やエッセイの課題は変わっていくが)。」
苅谷氏は、オックスフォード大学の学習法が、アクティブ・ラーニングとは対極にある学習法であることを指摘されている。
日本の大学教育では、とてもできることではないと思われる。
しかし、オックスフォード大学では、こうして学生たちに批判的思考力を身に付けさせている。
実際に、それを身に付けたデービット氏は、日本の致命的な問題を、その批判的思考法なのだと指摘されている。
どうだろうか?
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