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2020年9月

何で数学を勉強するのか?(2)~算数は基礎トレ~

 「味噌汁・ご飯」授業として算数をいろいろと検討していると、思わぬことに気づかされてきた。
 それまで、算数については、毎日のように授業をしてきたが、本格的に勉強をしたことがなかった。
 退職してやっと勉強をし始めたことになる(あまりにも遅すぎる<笑>)。

 まず、算数と数学の違いから勉強を始めたわけである。
 これについては、冒頭のような結果に気づかされた。

 算数は、「思考力」をつける云々が強調されているが、そんなことが目標ではないんだ!
 いかに日常的な計算力をつけていくかが大きな目標。
 これは東大の西成先生の言われるとおり。

 だから、算数が大きな目標とするのは、2つ。

 ①いろいろな公式や解法を覚えて使えるようにすること。
 ②定義を暗記して、それが使える練習をすること。

 こんなことだったのである。
 算数では、教えることはきちんと教えて、身につけさせ、そして、ほんとの勝負の場である「数学」へ向かわせなければならないという課題があったのである。
 数学で、本格的に「論理的思考力」を追究するわけである。
 算数で教科書を使い、きちんと基礎的なことを教え、数学で思考力を身につけさせようというつながりである。

 そう考えていけば、さまざまに出されている算数本とは、これは何なのだろうか、「思考力、思考力」と叫んでいる授業とは、何なのだろうか、と。

 ★
 このつながりをはっきりと書いてくれた本がある。
 『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!』(小学館)の本。
 細野真宏先生というのは、受験数学で名をはせた人である。

 ★ ★ ★
 小学校の算数というのは、いわゆる「基礎トレーニング」なのです。
 例えば、部活において野球部に入ったら、いきなりゲームを楽しめるわけではなくて、まずは最低限必要な基礎体力を身に付けるために、走ったり腹筋運動をしたりと「基礎トレ」をしなければなりません。そして、さらに素振りやキャッチボールなどの基礎的な練習をしっかりとこなします。
 そして、それらを十分にこなした後で、やっと楽しいゲームにたどり着くことができるのです。
 ★ ★ ★

 算数は、「基礎トレ」であるという考え方。
 細野先生は、小学校の段階で「基礎トレ」をきちんとやっておかなければ、「数学の楽しさ」を味わうことができないばかりか、実生活で生きていく上での強力な武器になる「数学的思考力」を訓練するチャンスさえも逃していくのだと、強調されている。

 算数の目標は、はっきりしているのである。
 
 ★
 私は、今7人の先生たちと「算数学力向上メソッド」を使った共同研究をやっている。

 大きな目標の1つが、低学力児を引き上げていくこと。
 テストの点数で50点以下を毎回取っている子供たちを、60点、70点、80点にしていく試みである。
 点数が上がらなければ、低学力児は、算数が好きになれない。
 点数が上がってくると、算数に対する意欲や自信がついてくるのである。

 この「基礎トレ」をやって、中学校の数学へつなげていきたいと願っているのである。

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なんで数学を勉強するのか?(1)~チコちゃんに叱られる~

 なんで数学を勉強するの?
 この課題がNHKのチコちゃんの番組に出ていた。

 この課題は、「味噌汁・ご飯」授業で算数本を出版するときに明らかにしている。

 講座でも、先生たちに「算数と数学の違いは何ですか?」と問いかけて、明快な答えが返ってきたことはない。
多くの先生は、そんなことは考えたことがないというのが普通である。

 数学で、一次方程式とか、因数分解とか、三角関数とかが、日常の生活で使われたという経験は誰でもがない。
 だから、そんな日頃の生活で使わないものを勉強する必要があるのかと考えがちである。
 
 東京大学先端科学技術研究センター教授の西成先生は、そのことについて明快な答えを出されていた。
算数と数学の違いは、学ぶ目的が違う。だから、名前も違っている。

 「数学は、論理的思考力を身につけること。
  算数は、日常生活で使う計算力を養うこと。」

 私たちは、算数本の中で、次のように書いている。

 「算数は、実生活で使えるツールを身につけさせることを大きな目標
 にしています。」

 「数学は、『数学』という学問を通して論理的に考える力を身につけることが大きな目標になります。だから、実生活でほとんど使わない抽象的な数字や形が対象になります。」

 西成先生が言われたこととまったく同じ趣旨である。

 数学の論理的思考力を身につけることは、自分の言っていることを相手に伝えるためにはぜひとも必要な力になると西成先生は強調されていた。
 ★
 問題解決学習をやっている先生(問とする)と、「味噌汁・ご飯」授業で算数をやっている私と、次のようなやりとりをしたことがある。
 
問 「味噌汁・ご飯」授業は、教科書通りの授業で、ちっとも思考する場面がないのですが、それでは思考力は身につかないのではないです
か?
  問題解決学習では、最初の例題で「自立解決」をさせてじっくりと思考力をつけさせます。

私 それで思考力がついたかどうか、何で判断するのですか?

問 それは、……、「自立解決」のところでどれだけ子供たちが真剣に問題を解いているかどうかの状態とか、自立解決しての、子供たち
の 考えがどのように出されてくるかが目安になります。子供たちが算数に対してどのくらい意欲的になっているかどうかも大きな目安で
す。
とにかく、考える時間をたっぷり取るようにしているのです。

私 それで子供たちに、本当に思考力がついていると言えるのでしょうか。
  私たちは、思考力は問題を解く過程の中で養われてくるという考え方です。だから、最初の例題で、きちんと解き方を身
  につけて、類題、練習問題を解かせながら思考力をつけようという考え方です。
 そして、その結果の単元テストで「知識・技能」は、どの程度身についたのか、「思考・判断・表現」はどの程度身についたかどうかを判
  断します。
問題解決学習では、単元テストの結果はどう判断されているのですか?

問 もちろん、テストの結果も判断しますが、大切なのは、「自立解決」でたっぷり考える時間を取るということが最も大切なのです。

 話は平行線のようになっている。
 算数は絶対に思考力をつけなければならない、そのためには「自立解決」が絶対必要であると主張する先生と、教科書通りで教えて、その単元の学力がどの程度身についたのかどうかは単元テストで判断しようという私との違いである。

 私は、「自立解決」で考えさせている時間をとっていることが、思考力がついていることにつながっているとは思っていない。
 考える時間をとれば、即考える力がつくと思っていることは、あまりにも、短絡的な考え方だと考えている。
 
  考える時間を取る→考える力ができる

 こんな簡単な筋道で、思考力は身につかない。考える時間さえ保障すれば、考える力がつくなんていうことはありえない。
 そんなことは、考えてみるとすぐに分かることではないか。
 とにかく、科学的ではない。

 実際に思考力がついているかどうかは、きちんと客観的にテストをして結果を出していかなければ、教師の主観的な判断だけで決められることではない。
 ★
 具体的に、ここにその結果がある(詳しくは書けないが……)。
 5年生のある単元(むずかしい単元である)で、問題解決学習で授業をされた先生(学級経営が上手で、授業も上手な先生である)のクラスと、「味噌汁・ご飯」授業で授業をしたクラスの結果である。

 ○み(「味噌汁・ご飯」授業)のクラスと、問のクラスとのクラス平均
 の違いは、「知識・技能」では17.2、「思考・判断・表現」では、
 7.57の差。2つとも、「み」の方が良い。
 知識・技能は、これだけの差ができている。

 ○点数別で見る。
 100~90…………問「知識」→8人、「思考」→9人
              み「知識」→15人、「思考」→9人

50~0  ………… 問「知識」→5人 「思考」→8人
              み「知識」→1人 「思考」→2人

思考力をつけることを主眼においた問題解決学習のクラスは、「味噌汁・ご飯」授業のクラスより思考力の差は、7.52も開いている。
50点以下の子供たちは、問のクラスは、思考力の問題で、8人もいる。「み」のクラスは2人に過ぎない。

 ○問のクラスは、0点から20点までの子供が3人いる。
これらの子供は、まったく学習についていけないはずである。
「自立解決」の時間は、ほとんど何も考えられない無為な時間になっているはずである。

○この結果は、授業上手な先生のクラスのことなのである。
ましてや、普通に問題解決学習をやっている先生のクラスや、初任者のクラスなどがどうなっているのか、もう明らかではないだろうか。


 私は、今まで問題解決学習について、低学力児を引き上げるような授業をすることができないと主張してきた。
 しかし、以上のような結果を見れば、思考力もつけることはできないと言っていいことになる。
(つづく)

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叱りは夕立のごとく!~子供たちとの関わりをどうするか~

 現在、初任者研修の録画どりのパワーポイントを作成している。
 
 初任者の先生たちの今の悩みは、子供たちとの「関係づくり」なのであろう。
 子供たちと、どのように関わったらいいのかということになる。

 まず第1に、「叱ること」についての悩みがある。
 
 「叱れない」というのは、教師としては続けられないと思った方がいい。

 学校教育法第11条にも、次のように書いて「叱る」(懲戒という言葉だが)ということを定めている。
 
 「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」
 
 教育上「叱る」(懲戒)必要があるので、このように法律で定めているのである。
 
 「叱らない」というのは、1学期の当初は、あったかもしれないが、通用するはずがない。
 私は、「仲良し友だち先生」と言って、やってはいけない先生として主張している。
 
 それでも今は、「しょっちゅう叱っています。」というのが多いのではないだろうか。
 
 ただ、叱ることにも、原則がある。

 ①叱るのは、原則として全体に行う。個々の子供には努めて優しくする。

 ②叱りは、夕立の如く行う。
だらだらといつまでも叱らない。
どこで終わったらいいか分からないで、だらだらなる先生は、自分から終了宣言をしたらいい。「終わりっ!」と。

 ③叱り中毒にはならない。
  叱るときは、脳にドーパミンが出てくるという。
  快楽物質。
  だから、叱ることは快楽なのである。しょっちゅう叱っている先生は、  中毒になる。止められなくなる。

 学級崩壊の調査をしたときに、崩壊になっている先生たちのほとんどが、
「しょっちゅう叱っている」という特徴があった。
 これは、もう叱り中毒になってしまっているのである。
 早速改めなくてはならない。

 第2に、発達障害、愛着障害などの子供たちへの対応の悩み。
 どういう対応をしたらいいか、悩みは深い。

 この子供たちにもしょっちゅう叱っているという先生方は多いのである。
 ところが、かえって反発されて、ますます関係がうまくいかなくなっている。
 
 確かに、この子供たちが「うるせえ~」「めんどくせえ~」「うぜえ~」と言い返してきたら、ついつい叱りたくなるのは、気持ち的によく分かる。
 でも、絶対にその土俵に乗ってはいけない。
 
 彼らの反応は、「エ音」が多い。
 最後が「え~~」になる。
 このエ音は、コミュニケーションを遮断する言葉なので、この言葉が返ってきたら、「おまえとは関係をもちたくない!」と言っているのに他ならない。
 だから、それに反応して叱っていったら、ますます関係は悪くなる。ひどい反発が返ってくる。

 こんな場合はどうするか。
 このブログで何度も書いたことがあるが、また繰り返したい。

 何か問題があったときは、まず最初の言葉かけがある。
 
 子供たちとの「関係づくり」には、「言葉」と「表情」しかない。
 その「言葉」になる。

 「包み込み話法」と言っている。
 その子供たちを、どのようにクラスに包み込んでいくのかを考えての話法である。

 ①「ど」のつく言葉で問いかける。
どうしたの? どれどれ? どうですか?

 「Aさんは今どんな調子なの?」とAさんの「事実」を問いかけるのである。

 ②「そ」のつく言葉で返していく。
  ここで、「めんどくせ~」「うるせえ~」などという言葉が返ってきたら、  「そ」のつく言葉で返していくのである。

そうなの? そうなんだ! そうか! そうだよね。

Aさんの「事実」を確認するのである。

 この事態は、ここで収めていく。
 言い返したり、叱っていたりしたら、ますます事態はこじれていく。

 ただ、「包み込み話法」は、これで終わりではない。

 その子たちには、他の場面で、フォロー(ほめたり、認めたり、励ましたりなど)をしなければならない。

 どういうようにフォローするのか。
 3つのことをやれば良い。

 ア 短い言葉で行為をほめる
   SWIM話法ぐらいは日常的に使えるようになってほしい。

S…すごい、すばらしい、さすが、その調子
W…わかる
I…いいね
 M…みごとだね

 イ 名前をつけて特定化する
  「すてきだね、奈々子さん」「ばっちりだよ、一郎君」……

 ウ 達成や成長を伝える
  「できるようになったね」「やったじゃない」…… 

 どうだろうか。
 このように、その子供たちを包み込んでいくのである。

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つれづれなるままに~また横浜へ戻ってきたい~

●子供の幸福度をはかるユニセフ〓国連児童基金の調査結果が出ている。
 日本は、先進国や新興国など38カ国中、20位だった。

 この幸福度調査は、7年前の2013年に31カ国を対象に調査している。このときは、日本は全体の6位であった。
 だから、幸福度は、落ちたということになる。

 体の健康(子供の肥満の割合や死亡率など)の分野では1位となる。
 
学問などの能力をはかる「スキル」では、学問的な習熟度は高いものの社会的な適応力で上位の国におとり、27位。

 一方精神的な幸福度は、37位と沈んでいる。 
 これは、15歳時点での生活の満足度の調査結果や若者の自殺率などから算出した結果である。
 ほとんど最下位になっている。

 上位はどんな国なのか。
 1位がオランダ、2位がデンマーク、3位はノルウェー、そしてスイス、フィンランドと上位を北欧、ヨーロッパ諸国が占めている。

 この調査は、調査項目の少なさが気になるところであるが、日本はますます貧困化しているので、そのしわ寄せが子供たちに行っているのは間違いがないのだろう。

●「また横浜へ戻ってきたい!」
 そう言って、水戸へ行かれた。
 娘さんの家の近くのリハビリ施設に入院し、リハビリに励むそうである。
 91歳なのである。
 隣の家の庭木の剪定をされていて、知り合いになった。
 大変元気だったが、熱中症になられてから、不調続きになった。
 やはり、寝たきりになるとどうしても歩くのがうまくいかなくなる。
 そこで、水戸の病院に行かれたのである。
 
また、横浜に戻ってきたいという言葉を投げかけられたと、隣人に教えてもらった。
どんなに歳をとっても、こういう心構えで生きるのだと教えてもらう。
 ★
 瓢水(ひょうすい)という俳人がいる。
 播磨の豪商だったらしいが、瓢水の風流によって産を失い、晩年はむしろ貧しかったらしい。
 生涯、無欲、無我の人で、逸話に富んでいる。
 その俳人に、次の句がある。

  浜までは海女(あま)も蓑(みの)着る時雨(しぐれ)かな 

 海女は、海まで行けば濡れるのだから、雨が降って濡れたってかまうことはないはず。そう思ってもよいところ、時雨が降ってくれば、我が身をかばい蓑を着る。
 決して、どうせ濡れるのだから、濡れていこうとはならない。
 ★
 この句については逸話がある。
 あるとき、瓢水の高名を慕って旅の僧が訪ねてきた。
 ところが、あいにくの不在。どこへ行かれたかという旅僧の問いに家人が「風邪をこじらせ、その薬を買いに行った」と。
 それを聞いた旅僧は、半ば嘲るかのように、
「さすがの瓢水も命が惜しくなられたか」
 と言い捨てて立ち去った。
 返ってきてこの話を聞いた瓢水は、「浜までは……」の句を紙にしたためると、まだ遠くまでは行っていまい、その僧に渡してきてほしいと使いを出した。
 この句を見た旅僧は己の不明を恥じ、とって返し、瓢水にわびた。
 ★
 瓢水にとっては、薬を買いにいったが、別に命が惜しくなったわけではない。もういい年だが、いよいよとなるまでは、しっかり生きたい。どうせこの年だからと病をほったらかしにしないで、治る努力をするのは恥ずかしいことではないのである。

 そう考えると、この<浜>は、<死>を暗示するように思われる。
 人間はいずれ死ぬ。どうせ死ぬのだから、よく生きる努力など空しいのではないかと考えがちである。
 瓢水は、この考えをたしなめている。
 最後の最後まで、生きる努力をする。
 そのようにこの句は問いかけている。
 ★
 「退職したのだから、あとは余生!」「長生きしたら、周りに迷惑をかけるからあとはテキトウに生きるよ!」「もうこんな年になったんだから、あとはもういいよ!」という言葉を、何度も聞かされてきた。

 瓢水は、このような人生をたしなめる。
 そして、冒頭にあげた91歳の方もまた、決して「テキトウ」な人生を生きていない。
 最後の最後まで生きる努力をされている。 
   
この瓢水の句は、先日亡くなった外山滋比古さんの本から教えてもらったものである。

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