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2020年1月

読解力不足をどうとらえるか~新井紀子さんの答えをまとめる~

 新井紀子さんが、2019年12月に発表されたPISAの読解力低下問題について答えておられる。

https://www.businessinsider.jp/post-204493?fbclid=IwAR2xoenxc2FHv-ObAflahNJvG4VK8d0wl1kEntGcz2Hg1EC51ysXOKzF-Os

 新井さんは、『AIvs教科書が読めない子どもたち』で、日本の子供たちの読解力低下を指摘されて、大きな反響を呼んだ数学者である。

 今回、PISAでも、その事実が明らかになる。
以前からこの事実は、新井さんが指摘されていたことである。
 今回のこのことで、新井さんがどう反応されるのか、とても興味深いことであった。
新井さんの反応を、私なりにまとめたものをここに記しておこう。

1 今回PISAで、日本の読解力が低下して、平均点が落ち、順位も前回(2015年)の8位から15位に下がったことについて、どう感じておられますか?

 ①今回の結果について、「戦犯は誰だ?」と言った記事の多さが気になった。
 ②読解力のために、1人1台タブレットを導入すべし、という拙速すぎる
  結論の多さに呆れた。

2 PISAの結果を受けて、有識者のコメントに「日本はICT教育が不十分だからだ」という指摘が多かった。問題を解く際に使うコンピュータに慣れてなかったからだということでした。それについてはどうですか?

 ①PISAの数問を解くための「慣れ」を身に付けることが目標ではないから、その議論は本末転倒。しかも科学的ではない。
②前回(2015年)もコンピュータ調査だったのに、読解力は8位だった。そこから順位が落ちた理由にはならない。
 ③数学・数理リテラシーと科学リテラシーも同じコンピュータでの回答なのに、それぞれ6位と5位。しかも、1人1台タブレットを導入している  フィンランドでも順位が落ちている。根拠には何もならない。
 

3 では、どうしてICT教育のせいにしたいのか?

 ①前回のPISAショック(2003年、2006年に3分野で大きく順位を下げた)の時に、フィンランドなどを視察して対策を講じ、全国学力テストを指導してV字回復させたと言われている人たちは、対策が一定の効果があったとしたい。そのためには、他に戦犯を探さなくてはならなかったのではないか。
②政権にとって景気浮揚策として「1人1台タブレット」は魅力的でしょうから。

4 新井さんの著書を読むと、むしろ読解力を上げるには、板書をするなど「書く」行為をさせること、つまり「昭和的」な教育の方が効果が上がった実例が書かれています。ICT教育を進めて、読解力が上がるとは思えないのですが、どうでしょうか?

 ①「書く」行為は、そもそも人間にとって不自然な動作であると認識してほしい。「読む」「書く」はプログラミング同様に不自然な行為ですから、その時代と環境と要請に従って、カリキュラムを構築して確実に身に付けなければならない。
 ②けれども、私たち大人は、自分が子供だった時代に、読み書きを「自然に」身に付けた思い込んでいます。ですから、自分たちの子供の世代も、放っておけば、「それくらい」はできるだろうと信じています。でも、自転車もただ乗れるようになるわけではないのと同じように、字を書くというのは相当に集中力とトレーニングが必要なのです。 
③実は、今の子どもの多くが、中学生になってもノートが取れない。ノートの取り方自体が分からない。成績の下位の生徒だけでなく、中の上の生徒でもそうなのです。
④板書を写させると、写すことに「認知負荷」がかかりすぎるので、先生の話が聞けなくなる。
⑤本来ならば、小学校3,4年ぐらいまでに、先生の話を聞きながらノートが取れるようになってほしいのですが、それが難しい状況。
⑥定規で線を書くのにもいっぱいいっぱいになってしまいますので、先生は困って、プリント中心の授業にしてしまう。それでますます字を書かなくなり、手先がコントロールできなくなるという悪循環が生まれる。

5 そもそも読解力とは、どんな能力なのですか。

 ①「読解力とは何か」については、宗旨がいろいろあり、ひとつに決められない。
②PISA調査で目指している読解力は、複数の情報、複数の長文を批評的に読んで、自分の立場を明確にすることが求められている。

③このレベルにもっていくためには、その前に基本的な読み書き能力が必要です。
④文章が読めるというのは、まず字が読め、その次に単語レベルで読める。
  教科書が読めるためには、読むために必要な語彙量の95~98%ぐらいがなくてはならない。
  たとえば、徳川家康などの初めての言葉に出会ったとき、他の言葉が分かっていれば、「徳川家康というのは、徳川幕府をつくった人で、…」と分かり、新たに徳川家康という語彙を獲得できる。
  まず、これは人の名前なのか、物の名前なのかという分類がだいたいできなければ厳しい。そのためには、幼児期の、字を書かない段階で、耳から聞く語彙が相当量ないと厳しい。
 ⑤私たち世代(50代以上)は、主に家庭の会話とテレビやラジオから語彙を獲得してきた。ラジオやテレビには、階層に依らず語彙量を揃える上では、メリットがある。
⑥ラジオやテレビ離れがここ10年で一気に進み、みんなが同じ語彙を持っているという前提は、瓦解したと言っていい。
⑦今起こっているのは、言葉で言っても伝わらない、伝えようがないという状況であろう。

6 一人一台タブレット政策。小学校からのタブレット導入については、どうでしょうか。

 ①これは、もう終わりだな、と。特に小学生は絶対タブレットは良くないと私は確信しています。
②先進的に導入した私立学校や家庭で既に弊害が出ています。小学校からタブレットドリルで学ぶと、紙や長文にはもの戻れないのです。意外なことですけど、検索すら自分ではできない生徒が出てくる。学びが常に“消費的”になるでしょう。けれども、大学や社会で求められる学びは  “生産的”な学びなので、タブレットドリルで育った子は立ち直れないほど挫折してしまう。
③タブレット導入で今まで7時間かかっていた授業が2時間で終わり、残りは深く考える授業に当てるというような授業は、麹町中学校のようなある意味「特殊な環境」の学校だけでできることだと思います。それが本当に地方でもできるのかも検証せずに、タブレットという言葉が一人歩きしています。
  ④しかもローマ字入力ができるのは、小学校5,6年生なので、それまでキーボードは使えません。その間、一体何をやるのでしょう。

7 新井さんは、AIの時代だからこそ、人間は「読解力」が必要だとおっしゃっています。なぜ、読解力なのかを改めて教えてください。

①読解力は目標ではありません。読解力は、よりよく学んでいくためのスキルです。学び続けることが求められる21世紀社会に必須なスキルだという位置付けです。
  ②日本の公教育以外で格差をなくす平和的な方法はないと思っています。
  ちなみに、アクティブ・ラーニングは格差を広げてしまいます。それは戦後最初のアメリカ主導の学習指導要領である、ディーイ式の「生活単元学習」の失敗で明らかになっています。
③小学生のうちは比較的ワイワイやっていますが、中学生になると、出来る子が言ったことに他の子は追随します。だから、授業を全てディスカッションでやることは、現場を見ていない人の寝言に過ぎない。

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つれづれなるままに~どうして同じことを繰り返していくのか~

●方々の教育委員会で、悲鳴が上がっている。 
 宮城の小中学校での実態が河北新報で報じられていた。
 これは、決して宮城だけではなく、日本各地で起こっていることである。

「先生足りないSOS 欠員でも代替講師見つからず 宮城の小中学校、現場でカバー限界」

●学陽書房で出版した『教師1年目の教科書』が3版になる。
 うれしいことである。
 買っていただいて、ありがとうございます。
 初任の先生たちには、ぜひとも勧めてほしい1冊である。

●先日、NHKのプロフェショナルで、数学の先生が登場された。
 私もぜひとも見たいと思っていたが、急な学校訪問で見られなかった。

 見たという先生から話を聞いた。
 神奈川にある栄光学園の数学の教師。
 フェイスブックでも評判は上々である。

この栄光学園は、私が受け持った子供も進学したこともある、超エリート校である。
 東大へ上がる子供たちが数多いことで有名。

 見られた先生によれば、1問の問題を生徒たちは興味深く取り組んでいたという。
 ここの生徒たちは、超エリートたちであるので、それに合わせて思考力が試されるむずかしい問題が出されているのであろう。

話を聞きながら、この先生も確かにこれから求められるプロフェッショナルなのだろうと思えた。
 ただ、エリート教育なのである。

. ぜひとも、もう1つのプロフェッショナルも取り上げてほしいと思ったものである。
クラスに必ずいる数人の低学力児。
この子たちを、上位に引き上げていく力量を示していく。
普通の学校現場では、それが一番求められているのである。


●できるではないか。
 ぜひとも、日本全国でこういう動きをしてほしいと願っている。

2019/12/14(土) 20:11配信 ヤフーニュースより

 中学・高校の部活を地域クラブに移行検討へ 福井県が方針

 部活は、こうして地域クラブへ移行する。
 これをどうして福井県だけでなく、国をあげて推進しないのだろうか。

 先生たちは、授業と生徒指導に専念する。
 そうすれば、長時間労働は、一挙に少なくなるはずである。

●親しい知り合いの先生から、次のような手紙をもらった。
 「昨今の学校現場は、流行と変化のすさまじさに振り回されていると思いますし、この渦にのみこまれないようにするので精一杯のように感じます。」と。

 来年度から始まる新しい学習指導要領の実施で現場は、振り回されているのであろう。

 30年前に実施された新しい学習指導要領のときのことを思い出した。
 総合が入ってきたときである。
 この時も、今以上に流行と変化に振り回された。

 「新しい学力観」という名前で命名されていた。
 「旧来の学力観が知識や技能を中心にしていた」として、それに代えて学習過程や変化への対応力の育成などを重視しようと考える学力観である。  

. 私は、今回のアクティブ・ラーニングの1回戦と言っている。

 だが、みごとな惨敗。
 「ゆとり教育」として破綻していった。

 現場に残した破綻の爪痕は、大きかった。
 学力は低下する。低学力児は増える。……などなど。

 今も、その爪痕が残っている。
 
 また、同じような破綻をするのではないかと危惧している。

 なぜ、破綻するのか。
 その構造が明らかにされている。

 中央公論2月号に「教育改革神話を解体する」としてオックスフォード大学教授の苅谷剛彦さんが書かれている。
(苅谷さんには早く日本に戻ってきて、がんばってほしいと願っている一人なのである)
 苅谷さんは、冒頭で書いている。

「教育改革の瑕疵を生み出す構造的な問題は、現在でもほとんど変わっていない」
「どうして構造的にはほぼ同じことが繰り返されるのか。なぜ教育改革をめぐる神話は、解体されないのか。」
 その問題を「エセ演繹型」思考として問題視されている。
 ★ ★ ★
 演繹的思考は、日本における教育政策の立案・実施過程では、中途半端にわかったつもりで政策が作られる“エセ演繹型”へと容易に後退していった。徹底した演繹や、事実からの帰納的な思考で政策が作られるよりも、抽象的で流行の言葉を中途半端にわかったつもりになって政策を作り出すことが少なくなかっただからだ。
 
 日本で一層目立つのは、とくに1980年代以降の教育政策において、目標として掲げられる「資質・能力」(主体性、創造性、個性、問題解決能力、英語四技能など)が、日本では「欠如」してきたものと見なされたことによる。

 受験教育の強い影響を受けた暗記型の学習(あるいは画一的な教育)が主流だったから、その犠牲として、「主体的・対話的で深い学び」ができず、それゆえ「社会における様々な場面で活用できる知識」や能力を身につけることができなかった、とする論法である。
 ★ ★ ★

 これらを読みながら、30年前の破綻が、何にもとづいていたものか、そのからくりが鮮明になる。
ぜひぜひ読まれた方がいい。

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学級崩壊の現在(4)~先生たちが遅れている~

 学級崩壊の最初は、「クラスにいる超やんちゃな子供に追われる」ことから始まっている、と書いた。

 そして、その子供たちを「叱りつけるだけ」を繰り返して、反発され、崩壊を招いている、と書いた。

 もはや、このレベルでは対応できなくなっている。
 ★
 1冊目の学級崩壊について書いた本を出した頃は、補助につく先生たちの余裕があったのである。

 私が所属していた学校では、崩壊したクラスに、専科をしていた先生をT・Tに付けて凌いだことがあった。
 
 そういうことができた。
 ところが、今では、その補助の先生がいなくなっている。
 どうしても担任一人で何とかしなくてはならない状況が広がっている。
 これで、崩壊を招いている事態がある。
 ★
 今、年若き友人と2人で「学級崩壊を追究しよう」と研究を始めている。
 学級崩壊の実態調査も、その一環である。

 その友人が、最近次のようなことがあったと報告してくれた。

 5年生のあるクラスに自習監督にいった時のこと。
 次のようなことを行ったという報告である。

 ①「テストの机の形にします。」
 ②「机の上が筆記用具だけになった列から配ります。」
  →5,6人の反発児が、指示に指示に反応しないので配らない。 
  →しかし、周りの子の声かけで、すぐ直す(1人以外)。
  →1人だけやめず、黙って折り紙を折る。

 *さて、こんなときに、どのような対処をされるだろうか?
 ほとんどが、その1人を叱りつける対応を取るのではないだろうか。

 ③「テストを始めてください。終わったら、テストを机にいったんしまって、読書をしてください。」

 *指示の鉄則は、「みんなを先、個々は後」である。
  だから、ここで、みんなに指示を出しているのは、鉄則通りなのである。

 ④折り紙児に声をかける。「テストやりますよ。」
  →いやだ。
  →でも、他の子のために、机だけはテストの形にします。
  →いやだ、めんどくさい。
  →そうですか。…(周りの子に)○○さんだけテストの形にしてないけど、カンニングではないから、許してあげてな。
→折り紙児のもとを離れる。
 ⑤すると、机を折り紙児自らテストの形にしたので、再度、テストを渡しにいく。
→無事、テスト実施できた。

 *叱りつけることをまったくやっていない。これは見事である。
  そして、テストは渡していないところも、見事。
  折り紙児に主導権を与えていない。
折り紙児が折れて、テストの形にしていくわけである。
  厳然と縦糸を張っている。しかし、それ以上に踏み込んでいない。

 友人は、次のように書いている。
「かつて私は、②から③にあっさり移行できませんでした。
 全体のテスト実施を遅らせて、折り紙児一人をしつこく指導したでしょう。 そして、折り紙児はここぞとばかり、反抗したでしょう。
 (愛着障害の傾向のある女の子です。その場で執着しているモノと切り離 すのは、とても難しいし、私への反発自体が注目行動と捉えることもでき そうです。)」

 そうなのである。
 崩壊をしていく先生たちは、②から③にあっさり移行できないのである。
 ここを乗り越えることが、大きなハードルになる。

 もう1つ、ここで「いやだ、めんどくさい」という答えに、「そうですか」と応えている。
 これも見事なことである。
だが、なかなかできない。
 
「めんどくさい」「うるさい」「きえろ」「死ね」などの言葉が、発せられる。
 それに対して、「そんなことを先生に言うことではないだろう!」と、その子供の土俵に乗っていく。

 これをやってはいけない。絶対に、その子の土俵に乗らない。

 こういうときには、「そ」の付く言葉で切り抜ける。
 「そうですか」「そうなんだ」「そう」「そう思ったんだ」……

 「そ」のつく言葉は、子供たちに「安心感」を与えるものらしい。
 ★
 この年若い友人は、このような対応をどこから学んでいったのか。
 
「超やんちゃへの対応として、ABA(応用行動分析)の視点はとても大事だなと、最近感じるようになりました。
 何より、ABAを活用した家庭育児書がかなり多く、出版され、売れているようです。言葉かけ、関係づくりについて、学校の先生は「下手だなぁ」「知らないなぁ」勉強熱心な保護者から思われているのかもしれません。教育専門職としての専門性を、私たちは今後どうやって確立していくべきか、考えさせられます。」 

 そして、友人は、次の本から学んだと教えてくれた。

 『魔法の言葉かけ』(講談社)
 『発達障害&グレーゾーンの3兄妹を育てる母の毎日ラクラク笑顔になる子育て法108』(ぽぷら社)

 先生たちの方が、現実的に必要な対応法が遅れている。
『魔法の言葉かけ』を読んでみて、しみじみそう感じた。

 この本を読んでみて、ABAという療育法は、発達障害の子供への対応法というより、むしろ教師の授業法の参考にした方が良いと、考える。                               (完)

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学級崩壊の現在(3)~もはや、叱りつけるだけでは対応できない~

 クラスが崩壊していく筋道にも、多くのクラスに共通する特徴がある。

 ①最初、クラスにいる超やんちゃな子供に追われる。

 ②その対応に追われて、他の子供たちの対応がお留守になる。
  空白の時間がしばしばできる。

 ③他の子供たちも、おしゃべり、立ち歩きをし始める。

 ④担任はしょっちゅう叱りっぱなしの状態になる。

 ⑤超やんちゃな子供と、同行動をとる子供たちが現れる。6月頃のこと。

 ⑥この時期には、クラスが騒々しくなり、騒然としてくる。
  授業の始まりが5分ぐらいかかり、まともな授業が成立しなくなる。
  学級崩壊の始まり。

 この筋道を見ていると、①と②がまずあり、その結果として③以降のことが出てくることが分かる。

 そうすると、①と②の対応がうまくできると学級崩壊は防げるということにならないだろうか。
 ★
 1つの集団には、組織の法則が存在する。
 この法則を知って実践できないと、集団を組織として構成できない事態になる。 
何度も書いてきたことであるが、もう一度書く。

 「2:6:2の法則」である。
 
 クラス集団に当てはめると、最初の「2」割は、真面目派の子供たちで、先生の味方をしてくれる。
 「6」割は、中間派。最初は静かにしている。強い方になびいていく傾向がある(自分が殴られたり、いじめられたりされたくないため)。
 
 最後の「2」割が、やんちゃな子供たち。
 どちらかというと、前向きになれない傾向がある。
 その中の2,3人が、超やんちゃな子供たち。発達障害や愛着障害の子供が含まれることが多い。
 
 大旨、集団はこういうことになっている。
 だが、クラスによっては、「6:3:1」という好ましい傾向を示してくれることもあり、反対に「1:3:6」というように最初から荒れまくっているクラスもある。
 ★
この法則の決め手は、中間派の「6」割を真面目派に引き寄せて、「8」割を味方につけることができるかどうかである。

 ところが、「①最初、クラスにいる超やんちゃな子供に追われる。」ことを続けていると、「2」割の真面目派や「6」割の子供たちや「2」割のやんちゃたちをお留守にしてしまう。しばしば「空白の時間」をつくってしまう。
「②その対応に追われて、他の子供たちの対応がお留守になる。
  空白の時間がしばしばできる。」

 意図的にこうなるわけではなく、目の前の事態を何とかしようとして、自然にこうなってしまうわけである。

 そのうちに、次の事態が起こる。

ア 超やんちゃな子供は一向に収まらず、かえって担任に反発をし出す。
イ さらに、事態が混乱する。
ウ そして、それを見ていた「2」割のやんちゃが、同じように担任に
   反発をし出す。
エ そのやんちゃな子供たちに、教室の主導権を握られてしまう。
オ 強い方になびいていく「6」割の中間派が、やんちゃたちと同行動
   を取り出す。
カ クラスが騒然となって、学級崩壊が始まる

 

 ここで担任は何を間違ってしまったのだろうか。

 A 決定的な間違いは、法則の決め手である「6」割に目が向けられ
   ていないこと。静かに座っているからということで、お留守にし
   てしまっていること。
 B 2つ目の間違いは、集団は、絶対に「空白の時間」をつくっては
   いけないという鉄則を踏み外していること。

 C 超やんちゃな子供に対する対応の間違い。
   ほとんど叱りつけることだけで対応してしまっていること。

 A,Bは、自覚して、実践すればできるようになる。
 しかし、Cは、簡単なことではない。困難な課題である。発達障害、愛着障害の子供たちが含まれている可能性が多いので、さらに困難は増す。

 今、学級崩壊をする多くの先生、特にベテランの先生たちの、超やんちゃな子供に対する対応が、次のようなレベルに終始していることが、最大の問題である。

   しょっちゅう叱りつけていくだけ。

 もうこのレベルのことをやっているだけでは、学級崩壊を防ぐことはできない。
 ただ、子供たちの反発を招くだけである。
  (つづく)

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2日間の学級補助(2)~先生、これあげる!~

 翌日、4年のクラスへ行くと、「わあ~~」と大歓声が上がる。
期待していたのである。
待たれていると思うと、こちらもテンションがあがる(笑)。

 その日は6時間。
 基本的には、全部授業をする。
 さくさくと進める。70点の授業。

 この2日間の私のスタンスは、3つ。

 ①笑わせて、笑わせまくる。
 ②私も、笑って、笑って、…。
 ③そして、小さなことでも、ほめて、ほめて、ほめまくる。

 半分は演技なのである(笑)。
 これがすべて横糸を張ること。横糸だらけ。
 
 休み時間には、子供たちは、私のところへ押し寄せてくる。
 自分のことを語る。「先生、一緒に遊ぼう!」とも。
 サインをねだる子供もいる。
 スタンスがうまく行っているかどうかの手応えである。

 ただ、断っておかなくてはならないのは、このようなスタンスだけで、ずっと過ごせるかというと、そうはいかない。
 必ず縦糸が必要になる。
 
 「3・7・30の法則」の「3」の時間。
 次の「7」の時間は、きちんと締めるところは決めなくてはならない。
 そのように学級経営は進むのである。
 ★
 子供からの感想。
 ★ ★ ★
 二日間のみじかい間、勉強を教えてくれてありがとうございました。 
 さいしょの1時間目は「野中のば~~か」やいろいろな話をしてくれて、ありがとうございました。
 野中先生がいると明るく元気な4の2になりました。ありがとうございました。
 また、こんど4の2や5年生になってからもよろしくおねがいします。
 勉強はすごく分かりやすかったし、楽しかったです。
 2日間授業全体を教えてくれてありがとうございました。
 いろいろなことをおしえてくれてありがとうございました。
 おもしろい話、こわい話をはなしてくれてありがとうございました。 楽しかったです。
 ほかの学校へ行ってもがんばってください。
 2日間学校へ来てからずっとありがとうございました。
 ★ ★ ★
 
 感謝の言葉が何度も綴られている。
 
 家に帰ってきたら、声がかすれていた。
 ずいぶん張り切ったわけである。
 もはや、ずっと子供たちのエネルギーに合わせて、付き合うというのはできないなとしみじみと思う。  
2日間で精一杯(笑)。
 ★
 私が教師になろうとした原点には、小学校3年のときの体験がある。
 担任の先生が病気で休まれたときに、隣の先生が1時間だけ補助にきてくれた。話をしてくれたのである。

 その話の魅力は素晴らしく、引き込まれてわくわくした。
 その話は、教師になって『アリババと13人の盗賊』という本だったことが分かったのである。
 今でも、その先生の名前も覚えているほど。

 たった1時間の話なのである。
 それだけで、私の原点がつくられている。

 教師の仕事とは、こんなものである。
 子供の未来に賭ける仕事。
 ★
 2日間、子供たち相手に授業をしながら、一人の男の子に注目した。
 あだ名をつけた。「○○っち」。

 手を挙げて、さかんに発言する。
 でも、大半がしどろもどろで何を言っているかわからなくなる。

 しかし、みんなに同調しなくて、一人でも平気で手を挙げる。
 ここをうんとほめる。
 「○○っちは、みんなと同じじゃなくて、こうして一人でも手を挙げる。
  ここがすばらしいところだ!」と。

 6時間目が過ぎて、授業を終えて校長室へ帰ると、その「○○っち」が追いかけてきて、校長室へくる。
「先生、これあげる!」
 と、大切にしている自分のミサンガをさしだした。自分のネームが入っているミサンガ。

 今、このミサンガは私の机に飾ってある。
「○○っち」は、ひょっとしたら初めてほめられたのかもしれない。
 
 教師は本来魅力的な仕事なのである。
 どうだろうか。 (完)
 

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2日間の学級補助(1)~明日も野中先生お願いします~

 「助けてほしい!」と連絡が入る。8日の夜のこと。
 N小学校で、15人の先生がインフルエンザで休んでしまい、どうにもならなくなっている。とにかく、2日間でいいから、補助に入ってもらえないか、と。

 この小学校では、12年前に初任者指導で1年間お世話になっている。
何とかしなくてはと、でかけることにする。

 翌日の朝、8時には学校へ到着。歩いて12,3分のところにある学校。
 かけつけると実際には22人の先生が休んでおられる。
 これは緊急事態。

 かけつけた人は、3人。明日はもっとかけつけられる、と。
 もう現場から離れて、10年、20年以上離れている方ばかりなのである。
 ★
 今日はとりあえず4年生のクラスを見てもらえないかと言われる。
 結果的には、この日と次の日も、このクラスで過ごすことになる。

 1時間目にクラスに行くと、子供たちは静かに座っている。
 誰が来たのだろうという顔。

 1時間目は、自己紹介と、お話の時間。

 私の得意の自己紹介。
 飛び込み授業をするときには、いつも5分ぐらいをかけて行う紹介。
 子供たちは、笑って、笑って、…。

 そして、お話をしてあげようと次の紙を黒板に貼り出す。

  ①学校で起こったきょうふの一夜。
  ②学校で起こったきょうふのできごと。
  ③火の玉を見た!
  ④バスにあらわれたゆうれい。
  ⑤それはむふふふふ。
  ⑥野中先生の初恋。
  ⑦野中のば~~~か。
  ⑧へびとう○○。
  ⑨べんぴになったこえだめ事件。
  ⑩まきぐその3条件。
 
 どれも魅力的なテーマ(笑)。
 子供たちは目を輝かす。

 ⑥をやって、やってと言う。
 しかし、⑧の「きたない話」をして、笑わせ、①の「怖い話」をしてし~~~とさせる。
 どこのクラスでも、同じである。
 「3・7・30の法則」の「3」の時間にやること。
 

 とくに今回受けたのは、「野中のば~~~か」という話。
 小学校4年生の時、野バラというシューベルトの歌を歌ったときの思い出。この思い出を誇張して物語にしている。
 ある年配の人なら、誰でもが「ああ~~あの歌!」と思い出すはずである。

 この歌、「わらべはみ~た~り、のなかのば~~ら」という歌で始まる。
 このところを、やんちゃな子たちが、「のなかのば~~か」と替えて歌った音楽の授業の場面を再現している話である。

 子供たちは、笑って、笑って、笑い転げた。
 ★
 2時間目は、国語の授業。
 だが、時間割が違っていて、教科書、ノートをを持ってきていない、と。

 だから、急きょ、道徳の授業に振り替える。
 これもよく飛び込み授業でやるもの。
 「プラス思考」の授業。

 これは思っていたよりもずっと、子供たちに入っていく。

 翌日、一人の女の子が、「先生、昨日出せなかったプリントです!」と言ってもってきたことがあった。
 そのプリントの授業の感想には、次のように書いてあった。

 「私はふだんマイナス思考で考えていたとおもう。
  家でもお母さんに、はんぱつしていたと思う。
  私は私なんだからべつに他の人いっしょでなくてもいいし、自分らしさ  が自分にとっていいのだからべつにいいと思う。
自分のためにならないマイナスは考えないこと。自分でもふかく思った。  自分のおもったことと反対のことをよくいってしまう。だから、マイナ  スになってしまう。
自分の思ったことをやさしくいいながら、自分を新しい自分にいれかえ  たい。」

 1時間の授業で、これだけの感想を引き出している。
 すばらしい授業ではないか(笑)。

 4年生の女の子たちは、もうこうして思春期を迎えているのである。
 ★
 3,4時間目は、支援級で補助をする。
 給食の時間は、また4年生のクラスへ戻り、給食指導をする。
 よく担任の先生に指導されていて、配膳の仕方などは手際が良い。
 ★
 5時間目は、算数の授業。
 学年主任の先生に、「私が授業をしていいですか?」とお願いして、「変わり方調べ」の授業をする。
 共同研究で2年間ずっと宿題や復習テストをつくってきたのである。
 今では、教科書さえあれば、すぐに授業ができる。70点の授業だが…。

感想の中に、「のなか先生のじゅぎょうはとても楽しくて、にがてな算数もはかどりました」と書いていた子供がいた。
 ★
 その日は5時間目で終わる。
 「野中先生、明日も来てください!」という声が連呼される。
 「明日はどうなるか分からないな。」と。

帰りに女の子たち数人が校長室にいき、「明日も野中先生をお願いします!」と直訴したらしい。
 校長からその話を聞く。 (つづく)

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学級崩壊の現在(2)~崩壊した先生の共通の特徴~

 崩壊をした多くの先生たちの共通の特徴がある。

  ①時間を守れない。
  ②整理整頓ができない。
  ③笑顔がない。
  ④認めない。ほめない。

 崩壊の結果として、こういう特徴が出てくるというのは、よく分かることだが、もともとの、その先生の要素でもある。

 これは何だろうか。
 
 (1)で書いたことだが、クラスの子供たちの多くが、担任に求めているのは、「安心感」なのである。

 よくみれば、この4つとも「安心感」を阻害し、「不安」を生み出すものである。
担任そのものが、「不安」な存在。
これでは、崩壊を招いていると思った方がいいのである。
 ★
 ①の時間のこと。
 学校は、そもそもが「時間」によって成り立っている。
 1時間目から6時間目の授業。基本的には、それによって構成されている。

 それをきちんと守れないというのは深刻である。
 
 授業の時間を守れない。いつも授業で「空白の時間」をつくる。会議や研究会には遅刻する。締めきりの文書を守れないなど、すべてにルーズ。

 子供たちは、ゲームで身に付けた「スピード・テンポ」が染みついている。
 時間のルーズさ(とくに、「空白の時間」の多さ)は、不快感を増す。

 時間をきちんと守り、スムーズに進行する。
 これは、子供たちに「安心感」を与える大切な要素。

 ②の整理整頓のこと。
 教室や職員室の自分の机の乱雑さに表れる。
 ひどいことになると、教室中にぞうきんやゴミが散乱する。
 子供たちは、自らごみを拾ったりしない。放置される。
 
 担任は、平気。その状況が見えない。
 その乱雑さは、子供たちの心を不安定にする。

 ③の笑顔のこと。
 無表情で、笑顔がない先生。
 最初は、穏やかな表情だったのが、崩壊しだしたら、怒りの顔になっていく。
 子供たちへの怒りや虚しさが顔に出てくる。

 しかし、笑顔でいるというのは、子供たちに大きな「安心感」を与える。
 
 楽しくもないのに笑えないと言う人もいる。確かにその通り。
 
 でも、教師としての役割を演じるには、必要な演技なのである。
 子供たちにとっては、最も大切な心得である。
 
 ④の認めない、ほめないということ。
 このことが、子供たちに「安心感」を与えるのだということが分かっていない。

 山口県に福山憲市先生という有名な実践家がいる。
 その福山先生が、学期最初の図書室指導で、「教室から図書室まで行くときに、10個の『ほめてん』を設けます!」と言われたことがある。

 「ほめてん」とは、ほめていく観点ということ。

 「えっ~~、そんな距離で、10個もあるの?」ということになる。 

 おそらく、普通の先生なら2,3個のほめてんは考え出せる。
 でも、そんなことはやっていない。

 このことが何を示しているのか、分かるだろうか。
 
 福山先生は、学期の最初からこのように徹底的に子供たちを認め、ほめていく。
 それで、子供たちの心に働きかけ、行動を変えていく。

 この「ほめてん」は、みごとに子供たちの「安心感」を醸成していくのである。  (つづく)
 
 

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学級崩壊の現在(1)~ベテランの先生のクラスの崩壊~

 新年明けましておめでとうございます。
 三が日は天候も良く、気持ちよく過ごせました。
 寒いのですが、それでもこの気候は、いつもの冬より暖かいのだということです。
早速ですが、新年から暗い話題に行きます。


 学級崩壊アンケート調査に協力してくださいとお願いしたところ、数多くのアンケートが集まった(まだ全部は集まっていないが)。

 その中で、注目されたのが次のこと。

 
  ベテランの先生のクラスの崩壊(特に50代の先生のクラス)。
 

 これにはちょっと驚くばかり。数多い。
50代でクラス担任をやられているのは、まだ元気で、今までがんばってこられた先生である。

 中には、今まで学級経営では評判を得てきた先生のクラスもある。
 今まで力量があると自他共に認めてきた先生。

 その先生たちが、学級崩壊の憂き目にあっている。

 何が起こっているのか。

  ①自分なりに進めてきた学級経営が、現在の子供たちに通じなく
   なっている。
  ②ずっと叱りっぱなしの指導が、子供たちから反発を招いている。
  ③「現在の子供たち」の子供理解がずれまくっている恐れがある。

 
 ②に注目する。
 最初から「叱る」ことばかりで指導をしている。
 また、崩壊の結果として「叱りっぱなし」になるという場合もある。

 だが、共通しているのは、「縦糸」の張りすぎであることははっきりしている(縦糸を張るのは、決して「叱る」ことではない)。
 もはや、縦糸を振り回す時代が終わったと言えるかもしれない。
 子供たちに通じなくなっている。

 それでいて、「横糸」ばかりでいいのかというと、そういうことにならないからむずかしい。
 
 初任の先生たちが陥っていくのは、「仲良し友だち先生」。
 横糸ばっかりで、子供たちと関係をつくろうとする。
 これも、学級崩壊になっていく。
 数限りない事例がある。

 ★
 今の子供たちの多くが、担任に求めているのは、「安心感」である。
 安心して教室に通っていける状態をつくってほしいと願っている。
 これは、決して声には出てこない。

 30年、40年前には、決して求めていなかったことである。
 安心できる状態は、すでに教室に保持されていた。
 子供たちは、教室では、すでに「仲間」の状態だったからである。
 
 ところが、現在は、いついじめなどに会うか分からない。
 机に座っていたら、いつ後ろから殴られたり、いじめられたりするか分からないと、いつも警戒をしなくてはならない。
 
 だから、担任には、教室を安心できる状態にしてくれることを願う。
 学級の8割の子供たちは、それを願っている。

 ここが昔なりの学級経営を変えなければならない1つのポイントになる。
 
 できるだけ早く教室の仕組みをつくり、しっかりした教室のルールをつくりあげなくてはならない。
 これが本来の縦糸を張ること。
 キーワードは、「安心感」なのである。

 朝教室にきて、どういうように動いていけばいいかが決められていて、しかも、その動きが、子供たち自らでできるように、仕組まれていなければならない。
 ここが勝負なのである。
1週間で、その仕組みがつくられ、定着するのに1ヶ月がかかる。
 
 おそらく、昔ながらの学級経営を続けている50代の先生たちは、ここの切り替えができていないのであろう。
  (つづく)
 
 

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