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2019年4月

長時間労働を支えてきたもの(1)~中教審の働き方改革を読む~

 やっと4月が終わる。
 10連休に入って、ほっとしている先生たちは多いはずである。
 とにかく、忙しい生活をされていたのであろう。

 知り合いの先生は、異動して2年目だが、今年は仕事が数多く降ってきて、10ぐらいの仕事が入ってきたらしい。
 それで夜11時まで学校で仕事をしなくてはならないほどに追い詰められたと、電話口で語ってくれた。

 今の学校が「ブラック学校」である実態は、こうしたところに如実に表れている。
 仕事ができると思われると、数限りなく仕事を振っていく。
 大変なことである。
私も担任として37年間過ごし、5年間は教務主任としての仕事をやったから、その大変さがよく分かる。
 ★
 中教審が「働き改革」の方策を出した。
 今年の1月25日のことである。

 部厚いもので、読んでいくのも大変。
 それでも、これは画期的なものだと実感。

 先生たちも、ぜひとも読んでもらわないといけない文書になる。

 確かに危機感がある。
 それが文面からも如実に伝わってくる。
 
 教員採用試験の倍率が、どこも極端に下がり始めている。
 新潟が1.2倍で最低だと思っていたが、北海道もその程度だと聞いた。
 若者が「ブラック学校」を避け始めている。
 
 教員が足りない。臨任や非常勤の先生を確保できない。
 今回さまざまな教育委員会の指導主事から「先生が足りないんです!」という悲鳴を聞いた。

 これから学校で休職などで休んでいく先生たちの代わりがいなくなるのである。
 ★
 今回の「働き方改革」の目的は、次の通り。

 ★ ★ ★
 教師の業務負担の軽減を図り、限られた時間の中で、教師の専門性を生かしつつ、授業改善のための時間や児童生徒等に接する時間を十分に確保し、教師が我が国の学校教育の蓄積と向かい合って自らの授業を磨くとともに日々の生活の質や教師人生を豊かにすることで、教師の人間性や創造性を高め、児童生徒等に対して効果的な教育活動を持続的に行うことができる状況を作り出す。
 ★ ★ ★ 
どこが画期的なのか。

 1つは、学校が担うべき業務内容を特定したことである。

 ①基本的には学校以外が担うべき業務
 ②学校の業務だが、必ずしも教師が担う必要のない業務
 ③教師の業務だが、負担軽減が可能な業務 

2つ目は、今までの働き方の変革を求めたことである。
 たとえば、次のような記述にそれが表れている。

 ★ ★ ★
今回の学校における働き方改革は、我々の社会が、子供たちを最前線で支える教師たちがこれからも自らの時間を犠牲にして長時間勤務を続けていくことを望むのか、心身ともに健康にその専門性を十二分に発揮して質の高い授業や教育活動を担っていくことを望むのか、その選択が問われている。
 (p57)
★ ★ ★

 ★ ★ ★
 ‘子供のためであればどんな長時間勤務も良しとする’という働き方は、教師という職の使命感から生まれるものであるが、その中で教師が疲弊していくのであれば、それは‘子供のため’にはならないものである。
 (p2)
 ★ ★ ★

 ★ ★ ★
 また、業務改善の基本となる勤務時間の管理に関して言えば、学校現場において、「自発的勤務」は、教師自らがその判断で行うものであって、勤務時間管理の対象にならないという誤解が生じているのも事実である。そして、この誤解のために「自発的勤務」の時間も含めて勤務時間管理を希薄化させ、その結果、時間外勤務の縮減にむけた取組がなかなか進まないという点も実態として認めざる得ない。
 (p45)
★ ★ ★

 改革の内容は明確である。
 
 子供のためであれば、自発的勤務も、どんな長時間勤務も、自ら引き受けていく、という姿勢を否定している。
 これは、いわゆる「聖職者意識」と言われてきたものである。

 この意識が、教師の仕事を底辺で支えてきていたのである。
 こういう仕事ぶりが、教師の長時間労働を生みだしていたわけである。

 そのことを明確にしている。(つづく)
 


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『教育激変』を読む~アクティブ・ラーニングはエリート教育?~

 『教育激変』(池上彰 佐藤優 中公新書ラクレ)を読んだ。
 この本は、対談形式で進められている。2人とも、ジャーナリストや作家として有名な人たちだが、現役の大学教授でもある。

 2020年からの「教育改革」を話題にしている。
 少し斜めの視点から語られているところが、なかなか良かった。

 この中で、注目したのは、以下のやりとりである。

 ★ ★ ★
佐藤 誤解を恐れずに言えば、アクティブ・ラーニングは、基本的にエリート教育だと思うのです。自ら考えをまとめて説得力のある話をするというのは、指導的な立場になる人たちにとって必要なスキルでしょう。
 話が出たアメリカのハイレベルの大学がそうですよね。水準の高い授業で学生をふるいにかけ、残った人間たちをエリートに養成すると   いう方針が明確です。

池上 出来が悪ければ、どんどん落第させますからね。

佐藤 アメリカでは、それで文句が出ることはありません。競争社会で強い者が勝ち残っていくのは当然だ、という社会の合意がありますから。
   ただ、自分で「エリート教育」をやっていながら思うのだけれど、このアクティブ・ラーニングについていけない人たちがどうなっていく   のかというのは、深刻な話だという気もするのです。詰め込み教育同様、新しい学び方の現場でも「落ちこぼれ」は生まれるはず。面倒なことに、今度はAIが絡んでくるわけです。

池上 前におっしゃった、AIリテラシーを備えた人間のところに情報やお金が集まっていく、という問題ですね。選ばれた人たちは、アクティブ・ラーニングによってそういう能力を獲得していけるけれども、そこからこぼれ落ちると、以前にも増して悲惨なことになりかねない。
 ★ ★ ★
 
 こういう論議が今までほとんどなされていない。
 私が読んだ本の中では、この本が、初めてきちんとリアルな現実を語っているのだと思われた。
語っているのは、次の2つ。
 
 ①アクティブ・ラーニングは、基本的にはエリート教育である。

 ②アクティブ・ラーニングについていけない人たちは、深刻なことに
  なっていく。

 今まで、このように正直に語っている識者は、いなかったと思える。
 このように語ってしまったら、大変なことになるからである。

「こんなエリート教育を義務教育の小中学校に導入するとは何たることか!」という猛批判を浴びるからである。

 私が今までアクティブ・ラーニングについてのさまざまな提案に違和感を感じてきたのは、まさにこのことであった。

 アクティブ・ラーニングを進めていくのは、賛成である。
 これから日本の教育に求められているのは、まさにこのことである。
 しかし、それは、基本的には高校や大学教育で行うべきことである。

 また、小中で行おうとするならば、子供たちに余裕がある私立の学校である。
 どんどん私立はエリート教育を推進すべきであると考えてきた。

 今回の学習指導要領には、アクティブ・ラーニングの考え方が中心で構成されている。
 しかし考えてみてほしい。
 不易な学力もきちんと含み込まれている。
 それは7割ぐらいにもなるはずである。

 この不易な学力の定着なくしては、アクティブ・ラーニングなんか考えようがないではないか。
ここが忘れ去られている。

 だから、私は、小中は基本的には不易な学力を身に付ける学習をすべきであると考えている。義務教育段階の教育である。
 その元に、アクティブ・ラーニングに進んでいく。

 高校や大学では、小中で身に付けてきた「不易な学力」をもとに、アクティブ・ラーニングをどんどん推進する。

 これがきわめて原則的な進め方のように思えたわけである。
 ★
 まず、小学校の段階で、子供たちに次の3つを身に付けさせる。

 ①自分の考えをもつ。
 ②それを言語化する。
 ③それを他の人に伝える。
 
 私が提唱した「味噌汁・ご飯」授業は、この3つを身に付けさせるために、「全員参加」の授業を目的としている。

 この3つができなければ、その後のアクティブ・ラーニングは成立しないはずである。
 これが基盤である。
 ★
 このような考えをもったのは、1989年の学習指導要領に導入された「新学力観」の自分なりの総括からである。
 この試みは大失敗に終わった。
 「ゆとり教育」の失敗として、記憶にあるはずである。
総合が入ってきた時である。

 私はその渦中にいて、「先生の実践は、もう古い!」と批判された。
 不易な学力はそっちのけで「新学力観」でほとんどの教師が突っ走っていった。
 
 「漢字を無理矢理教えることはない、かけ算九九も嫌がるのを無理矢理覚え込ませなくていい、……」という言説がはびこった。
 その結果、学力は低下し、クラスの低学力児を引き上げるなどという発想は、まったくなくなってしまった。

 その考え方は、アクティブ・ラーニングとほとんど同じである。
 私は、アクティブ・ラーニングの第1回戦だったと言っている。
 2回戦が今回。

 新しい学習指導要領実施へ向けて、学校現場は盛り上がりに欠けるとよく聞く。
 「ただ、道徳だ、英語だ、…だ!」とその対応に忙しくて、コマネズミみたいに走り回っているそうである。

 どうなっていくのであろうか?
  


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小学校にも教科担任制を!

 文科省が、小学校5.6年生で「教科担任制」の検討を始めたということである。

 ★ ★ ★
 小学5、6年の「教科担任制」検討 文科省、授業の質向上へ
.毎日新聞2019年4月11日 06時30分(最終更新 4月11日 06時30分)

 文部科学省は、小学校5、6年の特定教科や科目について、専門教員が複数の学級を受け持つ「教科担任制」を推進する方針を固めた。2020年度から英語が正式教科となり、プログラミングが必修化されるなど専門性の高い教員が必要となる。教員の負担軽減につながる側面もあり、近く中央教育審議会(中教審)に諮って教員配置のあり方などを議論する。

.小学校では、学級担任が大部分の教科を教える「学級担任制」が一般的。教員が専門分野以外の教科を教えなければならないことに加え、異なる教科を教えるための準備に時間がかかる弊害も指摘されていた。

 20年度から「主体的・対話的で深い学び」を掲げる新学習指導要領が全面実施されることに伴い、教員にはより高い専門性や知識が必要となることが見込まれる。教科担任制を導入することで、英語やプログラミングなどの知識がある教員に、授業を任せることができるメリットがある。

 例えば英語については、他の教科を教えない「専科教員」は17年12月時点で約3900人いたが、文科省は20年度までに8000人に倍増する方針だ。

 教員負担の軽減につながる可能性もある。文科省の16年度調査によると、教員の1週間あたりの平均授業時間数は、教科担任制を取る公立中の17.9コマ(1コマ50分)に対し、取らない公立小は23.8コマ(同45分)。異なる授業を教える準備に時間がかかるため、中教審も今年1月、働き方改革の方策をまとめた答申で小学校での教科担任制充実を検討事項として挙げた。

 一方、担任が児童の能力や特徴を把握しにくくなるとの懸念もある。学級担任制ではクラス全体の運営を通じて児童の発達を確認することができるが、教科担任制ではきめ細かい指導ができなくなる恐れがある。

 また教科担任制には学級担任制より多くの教員確保が必要で、財政状況による自治体格差が生じる可能性は高い。児童数が少ない小規模校では各教科の担当教員を確保できず、そもそも実施が困難という課題もある。

 18年度に県内の9割超の小学校が2教科以上で導入した兵庫県や、19年度に92%が導入している仙台市、16校で試験導入する横浜市などは、いずれも大規模な自治体だ。

 文科省の18年度調査によると、全国の公立小6年で教科担任制を多く実施しているのは音楽55.6%、理科47.8%、家庭35.7%など。最も少ない国語(書写を除く)の3.5%、算数7.2%などとは大きな隔たりがある。【伊澤拓也】

教科担任制の主なメリットとデメリット

<メリット>

・専門的で質の高い授業ができる

・担当教科を絞ることで教員負担が軽減できる

・児童と担任の相性が悪い場合に他教科が逃げ場になる

<デメリット>

・児童の能力や特徴を把握しにくい

・小規模校では教員が足りない

・教科横断的な授業が展開しにくい
 ★ ★ ★. 
 
 この中で、横浜市は16校の試験導入していると書かれている。
 横浜市で、Y小学校が導入して、学級崩壊クラスを5年間出していないということを聞いている。
 実は、知り合いの校長が、そこの校長だったのである。
 研修でそこに呼ばれて、実状を聞いた。
 そこの学校は、3年生以上を教科担任制にしていた。

 その時「若い先生ばかりが学校では数多くなって、その若い先生1人にクラスを任すということができなくなっている」という話を、その校長から聞いたことがある。
 ★
 私は、小学校にも教科担任制を取り入れていく必要があると、思っている。
 もはや、担任一人でクラスを処していくことには、限界がある。
それがむずかしくなっているからである。

 今、クラス担任をしていくことは、簡単なことではなくなっている。
 子供たちとの「関係づくり」をどうするか、学級づくりをどうするか、日常の授業をどう進めていくか、などの基本的なことがちゃんとできていなければ、クラスはすぐに賑やかになり、荒れていく。

 それを初任者などの若い先生に、すぐに身に付けろと言っても、それはなかなかできない。
 
 私が初任で5年生の担任をした当時は、そんな基礎・基本を身に付けないでも、子供たちと関わりながら学んでいけばよかった。

 最初から子供たちは、教師に対する対応の仕方を知っていたので、「縦糸を張る」とかを意識することはなかった。子供たちから教師を縦糸だと認めてくれていた。
 「学級づくり」も、係や当番さえ決めておけば、あとはテキトウに子供が動いてくれた。前学年でやってきていたのである。

 担任は、ただ授業をやれば良かった。
 どんなつまらない授業でも、がんばって教えれば、子供たちは我慢してついてきてくれた。
 それでよかったのである。

 だから、私の頃は、横浜市は何千人と初任者は入ったが、辞めたという話はまったく聞かなかった。学級崩壊も聞いたことがなかった。そんな言葉もなかった時代である。

 要するに、その頃の初任者は、単なるお兄さん、お姉さんだったのである。それでも十分通用した。子供たちが教師として対処してくれたからである。

 もう47,8年前のことになる。
 ★
今は、もうそんな時代ではなくなっている。
 
 一人にそのクラスの全てを任せていくことは、困難になっている。
 そこで教科担任制という発想が出てくる。
 複数の教師たちがそのクラスに関わることで、教師と子供たちとの関係が変わっていく。それがねらいである。

 ただ、これは簡単ではない。

 まず、大きなハードルは、小学校では、学級を一人で担任するシステムがいくつもあり、それを一つひとつ解除していかなくてはならないこと。
 そして、一番大変なのは、中堅やベテランの先生たちにある、いわゆる学級王国的な発想(これは否定的なものばかりではない)を解除していかなくてはならないことになる。
これらを克服していくには、かなりの時間がかかる。

 学年が個々のクラスとして成り立っていくということではなく、チームとして成立させていく発想になれるかどうか、そこにかかっている。

  
 


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つれづれなるままに~今年も初任者指導を終えました~

●3月27日に、海老名教育委員会の初任者研修へ行く。
 ここは3年前から辞令前研修会を始められて、私を呼んでもらっている。 
 この研修を受けて、学級始めまでは10日間ぐらいの準備期間がある。
 それをもたせるために、この辞令前の研修を始められている。

 私の講座は、それに応えるものでなければならない。
 実際に初めて聞くことばかりのはずである。

 初任の先生が、実際にどれほど準備をして、子供たちとの出会いを持てるかにかかっている。

●朝早く新幹線に乗る。
 愛知県小牧市の初任者研修会である。
 もう10年以上も続いている。
 この教育委員会が、全国に先駆けて、辞令前の研修会を始めたところになる。
 今ではさまざまなところで行われている。

 愛知県の春日井駅で待ち合わせして、小牧に向かう。
 
 会場は、初任の先生や初任者指導の先生、また希望参加の先生たちもいて、ぎっしり。
 学校が春休み中であるので、希望して参加する先生たちもいる。
 初任者の時この研修を受けて、2年目、3年目で来る先生たちもいる。
 また、違った受け取りができるということである。

●横浜野口塾が行われた。
 私は遅れてかけつける。
 相変わらず元気な野口先生に出会う。もう83歳になられたのである。
 野口節は健在。

 私も1時間だけ学級経営講座を持たせてもらう。
 もう12年間、毎回学級づくりについて話をしている。
 
 この野口塾は202回。
 「300回を目指して!」と懇親会の乾杯の音頭を取る。
 野口先生は講座の中で語られていた。
「私のところへ連絡が来るのがほとんどが訃報の連絡。だいたい87歳までに95%ぐらいが亡くなる。そうすると、私もあと4,5年です。」と。
 印象深く聞く。

●31日は、横浜教職員走友会の「迷走会」例会である。
 迷走会というのは、60歳以上が参加する会。

 この走友会は、もう30年続いていて、60歳以上の方とは、20年、30年の付き合いなのである。
 1年に1回こうして集まり、近況を交わしあう。
 神奈川県湯河原の温泉宿に宿泊し、ゆっくりと語り合う会。
 13人全員が参加する。

 その中の1人がふと呟いたことが印象に残る。
 私と同年齢で、まだ元気に走っているランナーである。

「最近思うんだけど、若い頃には自堕落な生活をしていてもたいしたことがないが、年を取ったら、『日常』の過ごし方が体に出るね。周りで早く亡くなっていく人は、その日常をむげにしているね。」と。
 年を取るほど、毎日を大切に過ごさなければならないのである。

●4月3日は、神奈川県厚木市の教育委員会初任者研修に行く。
 昨年から呼ばれて行くようになったところである。

 ここでも精一杯心構えを話す。

 とにかく、1年間は大変だけど、辞めないことを力説する。

 今、辞めていく初任者が、必ず陥っていくパターンがある。

 ①クラスが思うようにうまく行かなくなる。
 ②あれほど好きだと思っていた子供が嫌いになる。
 ③「自分は教師に向いていなかったのだ!」と思い、辞めたくなる。
そして、辞めていく。
 
 それについて、「教師に向いていない人は、1つだけ」
 「それは、人間嫌いな人。確かにその人は教師に向いていない。」
 「しかし、そんな人は、教師になろうと大学へ行かないでしょう。」
 「そうするならば、ここにいる人は、全部教師に向いているのです。」と話す。

 「クラスがうまく行かなくなるのは、教師に向いていないとかではなくて、単に『やり方が間違っているだけ』です。」
「そのやり方には、原理・原則があるのです。」
 「それを知って、それを実践すれば、必ずうまく行きます。」
 と話を続ける。

 そして、その原理原則の基本を話していくのである。

●4日は、福島県郡山市の教育委員会初任者研修へ行く。
 ここに来始めて、もう10年ばかりになる。

 いつもは桜が満開になっているが、まだ開花も始まっていない。
 そんなことよりも「寒い!寒い!」のである。
2日前には雪が降ったという。

 ここでも2時間びっしりと講座を持つ。

 いつも郡山に来ると、いつものレストランへ行き、カレーを食べ、淹れ立てのコーヒーをもらう。楽しみにしていた。
 ところが、今年はこの店がなくなっていた。呆然。
 なんということ。残念でならなかった。

 とりあえず、これで学期始めの初任者研修が終わる。
 初任の先生たちがうまくやってくれることを願うばかりである。


 
 
 

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日本教育新聞に書評が出る!

 学陽書房の編集者から日本教育新聞に私の本の書評が出ていると送ってもらった。
 新潟の庭野三省先生(新潟県十日町市教育委員会教育委員)から書いてもらったものである。
 読みながら、我が意を得たりとうれしくなった。

 ★ ★ ★
 小学校の教師にとって、本当にいい本が出版された。書名は確かに教師1年目向けになっているけれど、果たしてそれだけか。小学校の学級担任なら、ベテランの方も読んでも参考になる情報が満載である。
 序章「最初の1ヶ月で身につけたい仕事のきほん」第1章「必ずやっておきたい新年度・新学期の準備」第2章「ここだけは押さえたい学級経営のコツ」第3章「新任でもできる授業・指導のコツ」第4章「クラスが子どもとのコミュニケーション」、第5章「新任だからできる保護者とのかかわり方」と各章のタイトルを紹介するだけで、ワクワクしてくる。そして各章の項目の記述は2ページ見開きになっていて、実に読みやすい。すっきりと頭に入ってくる。
 授業よりもまず学級づくりに重点を置くのが、著者の主張点である。この点に関しては、文科省、教育委員会、さらに初任者指導の方は、本書を読まれて、初任者研修の在り方を見直した方がいい。少なくとも学級崩壊等で、学校現場を去ってしまう若い人を何としても減らさなければならないからである。
 本書が新卒教師だけではなく、小学校の学級担任のバイブルの一冊になってほしい。働き方改革を巡って、何かと多忙な教師の在り方が問われている今、まさに複音の書だ。
 ★ ★ ★

 ありがたいものである。
 私がこの本を書いた意図をみごとに読み取っていただいている。

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教師の技量を高めるためにどうしたらいいか?

 3月の5週目から4月の1週目にかけて、教育委員会の初任者指導研修に走り回った。慌ただしく過ごした2週間だった。

 初任者指導の最後には、今回出版した『教師1年目の教科書』(学陽書房)を宣伝した。
「この本は、教師が身に付けるべき基礎・基本が書かれています。3年間で、このほとんどを実践できるようになってくださいよ」と。

 押しつけがましい宣伝である。
 多分、そのように感じた初任の先生もいたにちがいない。

 この本は、私が今まで出してきた初任本を集大成したものである。
 単に、初任者が身に付けるべき基礎・基本という意味合いをこめたものではない。
 
 このことについて、もう一度書いておきたいという気持ちになった。
 前回のブログにも書いてきたことである。
 
 教師の技量を高めていくには、どうしたらいいか。
 最近、忙しすぎて、現場では、こういうことを考える余裕を見失っている。

 相変わらず、研究授業だけは、華々しく行われているが、それは研究テーマ追究である。
 教師の技量向上とは、追究の意味が異なる。

技量を伸ばしていくには、千利休が編みだした「守破離」という勉強法がある。
 『アウトプット大全』というベストセラーを出した、精神科医樺島紫苑氏によれば、この勉強法は次のように指摘されている。

 ★ ★ ★
 私はさまざまな勉強法を研究してきましたが、学問もビジネスもスポーツも遊びも、この「守破離」以上にムダなく効率良く取得する方法はない、という結論に達しました。
          『ムダにならない勉強法』(サンマーク出版)
 ★ ★ ★
 樺島氏によれば、「守破離」は次のようになる。

 守…師についてその流儀を習い、その流儀を守って励むこと。
 破…師の流儀を極めた後に他流を研究すること。
 離…自己の研究を集大成し、独自の境地を開いて一流派を編み出すこと。


 私は、この「守破離」を教師の技量向上のために、以下のように位置付けている。

 「守」…基本となる実践をマネて、マネて、基本をしっかりと習得する。

「破」…セミナーや研修会、本などで、身に付けた実践とは違う実践を
     研究する。

 「離」…自分の今までの研究を集大成し、自分独自の教師像を追究する。

 まずは基本を徹底的に真似て、しっかりと習得する。次に基本を踏まえたうえで、他の方法やいろいろなパターンを試してみる。そして、最後に「自分流」を確立していく。
 こういう流れになる。
 ★
 初任の先生たちが、まず「守」で身に付けるべき基礎・基本は、どこにあるのか。
 教育界では、これが極めて曖昧であった。
 膨大な教育本がある。もちろん、基礎・基本について書かれた本もある。
 しかし、それが最初に身に付ける基礎・基本なのかというと、極めて曖昧になる。

 学校現場には、「守破離」の発想がなかったのである。
 それでも昔は、ベテランの先生が初任の先生たちを教えていくという風土が残っていて、「守」を身に付けていく基盤はあったのである。
 今は、その風土もほとんど残っていない。

 ベテランや中堅の教師が、教えるべき基礎・基本をもっていない現状がある。
 だから、若い先生たちもあえて学ぼうとしない。

 それでは、何を、どのように身に付けてきたのか。
 これも、樺島氏に解説してもらおう。

 ★ ★ ★
 ほとんどの人は、「守破離」のステップを踏まないで学ぼうとしている。だから効率が悪いし、なかなか成長しないのです。では、どんなふうに学ぼうとしているのかというと、それは「離離離」です。「離」というのは、一言でいえば「自分流」です。
 ★ ★ ★
 樺島氏は、そんな人を「リリリのおじさん」という。

 ★ ★ ★
 まず、何かを始めようと思ったとき、誰かに習うわけでもなく、入門書を読むわけでもなく、自分流でスタートする。そして、自分流で試行錯誤をし、自分流のスタイルを確立したつもりになっている。
 しかし、全く基本がなっていないので、上達もしないし、やっていてもおもしろくない。長く続けられずに、中途半端なところでやめてしまう。そんな、「リリリのおじさん」が多いのです。いきなり「離」から入ると、早々に学びから「離」れて、脱落してしまうという悲惨な結果になるのです。
 ★ ★ ★

 どうだろうか。
 教師の世界で、「りりりのおじさん・おばさん」はいっぱいいないだろうか。
 もう50代のベテランなのに、まだいまだに初任の先生レベルの授業しかできない先生たちはいっぱいいるではないか。
 相変わらず、「おしゃべり授業」でずっと過ごしている。

 結局、「守」で基礎・基本を学ばないで、自己流で積み上げてきた結果は、
悲惨である。
 もうこういう先生たちが、現在の子供たちへの対応ができなくなっている。
 
 このことは、先生たちの責任ばかりに帰することはできない。
 現場には、「守破離」の発想がなかったのであるから。
 だから、若い先生たちに基礎・基本の力量を身に付けさせる研修は、いまだに存在しないのである。

 ★
 こういう現実を踏まえて、私は今回の本を出した。
 「これが、まず身に付けるべき基礎・基本ですよ!」というわけである。

 もちろん、野中流の基礎・基本である。
 これでなければならないということではない。

 しかし、最初は、誰かの基礎・基本を真似ることから始めなければ何も始まらない。

 こんな意味を、この本に持たせたことになる。

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教師としての実学とは何か~福沢諭吉に学ぶ~

多賀一郎先生が、フェイスブックで次のように呟かれていた。
★ ★ ★
 苫野さんが「おしゃれ哲学に気をつけろ」と投稿していて「おしゃれ教育」もあるなあと思った。
おしゃれではなくとも、
✳️ イノベーション
✳️ 新しい風
✳️ これからの教育
✳️ 子どもが変わる
✳️ 必ずうまくいく
というような言葉にあざとさを感じられる知性と感性を持たないと不易を見失う。
★ ★ ★
 私も、同じような思いをもっている。
 私の37年間の教師生活で、これらの「おしゃれ教育」を何度も聞いてきた。
 ことごとく失敗した。
 また、同じような失敗をしようとして躍起になっている。

 かつてのかつて(1872年)、福沢諭吉が『学問のすすめ』を出した。
 その中に、次のようなことが書かれている。

 

 ★ ★ ★
 もっぱら勤しむべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽古、天秤の取り扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。
 ★ ★ ★

 

 この本が出たのが、今から約150年前。
 東京で蒸気機関車が走り、横浜でガス灯が輝き始めた「文明開化」の時代である。
 常識がどんどん覆されていくテクノロジーが開発され、過去から培ってきた技術的なものが通用しなくなり、自分の未来が見えなくなった時代に、福沢は、生活の糧となる実学を学べと、人々を鼓舞した。

 

 今もまたこの当時と同じ状況が広がっている。
 急激な技術進化を経験する時代にいる。
 10年先だと思っていた人工知能や自動運転技術は、もうすでに日常に入り込み、SFの世界だった宇宙旅行やゲノム編集が、実用段階に突入している。

 こういう状況下で、教育の世界もまた、激変が起こっている。

 

 それは、今のところ、ことごとく崩壊していく状況としてしか現れていない。
 このブログでも、何度もそのことを書いてきている。

 

 こんな中で、教師たちはどのような生き方をしなければならないのか。
 こんな問いかけが突きつけられている。

 

 私は、福沢諭吉がかつて文明開化の時代に、人々に諭した「生活の糧となる実学を学べ」という言葉は、これからを生きる貴重な言葉として受け取る。

 

 時代の流れに乗って、「おしゃれ教育」や「おしゃれ哲学」に身をやつすべきではない。
 そのように考えてきた。

 

 こんな大変な状況だからこそ、「教師としての実学」を身に付けるべきだと考えてきた。
 


 「教師としての実学」とは何か。

 

 教師としての力量をつけることに尽きる。
 毎日を過ごす教室の中で、きちんと子供たちを束ねていく力を蓄えることなのである。
 
 まず「学級づくり」を!
 「日常授業」をこなしていく力を!
 ……
 私が今まで提起してきたのは、ことごとく教師としての「日常」を生きつないでいく実学である。

 

 今提起している「算数の共同研究」も、その実学の1つとして考えられていい。

 

 見栄えのいい実践でもない。
 時代に応える実践でもない。
 そんなことよりも何よりも、今必要になるのは、日々の仕事を生き抜く教師としての力量を蓄えることなのである。
 だからこそ、「守破離」で力量の蓄え方を提起した。
 
今回出した『教師1年目の教科書』(学陽書房)は、初任の先生たちには3年間で身に付けるべき基礎・基本ですよと提起している。
今、身に付けるべき基礎・基本が曖昧になっているためである。
 ★
 福沢諭吉は、幕末の頃、江戸幕府の幕臣(幕府外国奉行翻訳御用)として勤めていた。
 その頃、毎日福沢は、江戸城に登城していた。
「私は時勢を見る必要がある。城中の外国方に翻訳などの用はないけれども、見物半分に毎日のように城中に出ていました」と。
 
 旧幕府軍と薩長軍が激突し、江戸の町が戦火に包まれようと江戸中が大騒ぎをしている中で、福沢は淡々としていた。

 

 そんな状況下で、福沢はちゃっかり芝の新銭座に新しい住まいと塾舎を建てている。今の慶應義塾である。
 
 そして、明治維新になり、「学問のすすめ」を出すのである。
 この本は、当時ベストセラーになり、日本人の10人に1人は読んだというほどなのだ。

 

何のことはない。
 福沢は先を見通していたのである。
 
 私たちは、福沢のしたたかさ、軽やかさを身に付けていくべきなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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