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「ふつうのはたらき人」ということ

   ある講演をしたあとに、控え室に相談にみえた先生がいた。
 「クラスに2人不登校の子供がいて、どう対処するか悩んでいます」
と。
 思い詰めた様な様子で、かなり負担になっている様子であった。

 今は、不登校の子供は各クラスに1人はいる時代である。
 不登校になる原因は、ほとんどが家庭的な要因。
 どんなに学校としての働きかけをしても、家庭までを変えていくことはできない。
 それだけ、子供が抱えている生活は、ずっと重たい。
 だから、担任は、まず第一に学校へ来ている大半の子供たちの教育を考えていくことが大切。
 
 そして、不登校の子供には、担任ができるだけの対応をしていく。
 学校だけの対応ではもう無理である。
 さまざまな関係の先生、機関などとの連携で進めていくものである。
 
 過剰に、不登校の子供に関わっていくことは本末転倒になる。
 もちろん、学校が原因で不登校になっている場合は、このようなことは言っておられないのだが…。

 私は「できることをやっていけばいいのですよ」と。
 涙ぐまれていて、クラスに2人も不登校がいることを管理職に責められているのかもしれないと思われた。
 ★
 私は最後の勤務校で6年生の担任の時、クラスに不登校の子供がいた。
 家庭訪問などをして対応したが、登校できない。
 
 昼夜逆転の生活をしていて、家庭訪問をすれば、家の中は散乱状態で足の踏み場もない感じであった。
 母親と話せば、「対応をしてもらわなくてもいい」と言うことになった。なすすべもない状態。
 その子はついに登校できなくて、卒業させてしまった。
 
 ところが、それから2年後、小中一貫の試みで中学校の授業を見に行くと、中2の教室で、その子が教室にいるではないか。
 そっと「学校にこれて良かったね」と一声かけた。
 中学校になって、心境や状況が変わってきたのであろう。
 私は、ほんとに良かったとしみじみ思ったものである。
  ★
 教師の仕事について、さまざまな考え方がある。
 学校という存在を特別なものとして位置付け、教師に過剰な役割を押しつける、という考え方がある。
 昔は、「聖職」という考え方であった。
 
 私は、「学校」を「通過するところ」としての位置付けをしている。

 「何だ!それは?」ということになる。
 昔、思想家の吉本隆明さんが「学校とは通過するところなんですよ」という指摘をされたことがあった。
 学校というのは、その程度のもので、自分の人生は、学校とは別のところにある、と。
 
 考えてみれば、自分の人生だって、一番の影響を受けたのは、学校の先生や学校の勉強ではない。
 自分が教師になるときは、確かに思い出す先生たちの姿があったが、大半の人たちにとっては、ほとんど先生さえも忘れているものである。

 学校は、通過するものだから、教師の仕事はいい加減でいいのかというと、そうは思わない。
 通過させる儀礼があるではないか。
 自分ができることをきちんとしてあげる。
 それでいいのである。
 ★
 私は、16年前に初めて出した本『困難な現場を生き抜く教師の仕事術』(学事出版、今は絶版になっている)の中で、次のように書いたことがある。

 ★ ★ ★
 私は、教師の仕事を「ふつうのはたらき人」と同じように考えている。果物や野菜を売る八百屋のおじさん、魚を売る魚屋のおじさん、……と同じように、教師もまた「子供に勉強を教え、育てるおじさん」(私の場合であるが)という「ふつうのはたらき人」でいいのだと思っている。
 それ以上でも、それ以下でもない。教師の仕事は、そういうものである。
 八百屋のおじさんだって、いかに野菜や果物を売るかに奔走しているし、魚屋のおじさんだって、いかに魚を売るかを一生懸命考えている。それが仕事だ。
 教師の仕事は、いかに子どもたちにうまく勉強を教えていくかを考えていく仕事。それでいいではないか。教師を特別な存在として考える必要などないのだ。「人間を育てる」特別な存在として考えるから、大きな間違いを犯してくるのである。
 もっとむずかしく言うなら、「労働者であることをベースにして、あるいは専門職であり、また、たまには聖職者になる場合もある」存在である、とでも言えようか。大切なのは、自分の中できちんとバランス感覚を持っておくことだ。
 ★ ★ ★
 
  こういう考え方を導き出すには、前段に書いている教育労働の位置付けからのものである。
 1960年代から70年代に盛んに論争になった「教師の仕事は労働者か聖職者か?」について、私なりの結論をつけたのである。
 ふっと気持ちが軽くなったことを思い出す。
 
 今は、そんなことはまったく話題にもならないことである。
  だが、消えたわけではない。内側にもぐりこんだのである。

 今、学校は「ブラック学校」としての位置付けがはっきりしてきている。
 多くは、過剰労働を強いてきた行政の問題であるが、それを支えてきた教師の役割も、やはりあるのである。
 
 自ら過剰労働に加担している。
  それは、先にあげた「聖職者意識」が底の方で支えているのだと、私は考えている。
 「子供のために」という思い。
 
「ふつうのはたらき人」という考えをもっていれば、この意識を克服することはできるのである。
 
 

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