一昔前の授業だ!?
フェイスブックを見ていたら、T先生の授業に対して、以下のような否定をしている先生がいて、驚いた。
T先生は、多くの著作をもっていて、特に国語教育では貴重な提言を数多くされてきた先生である。
T先生は書いておられる。
★ ★ ★
……
お一人だけ、全否定された方がおられた。
「こんなものは主体的対話的で深い学びではない一昔前の授業だ。
このような発問や指示を通して成り立つ授業は脱却しなければいけない過去の成功体験だ。」
………
★ ★ ★
普通は、思っていてもここまで言うことはない。しかも、授業をしてくれたT先生に向かっての感想である。
こんな自信がどこから生まれてくるのであろうか。
驚くばかりである。
★
これと同じようなことを言われたことがある。
かつて20年前にも、新しい学習指導要領が改訂され、新学力観の考え方で授業を大きく変えなくてはならないという流れがあった。総合が入ってきたときである。
この新学力観の考え方は、今の授業観と同じものである。
漢字学習を否定したり、無理矢理にかけ算九九を教えることはないと指導したり、…とにかく教え込みの学習を全て否定するような勢いであった。
決して文科省は、そんなことを提起したわけではなかったが、各地の教育委員会は、そんなことを指導していくところが出てくる。
総合で私が授業をしたら、それを見た指導主事は、「子供が最初に声をかけるような授業ではなくて、教師が最初に切り出して発言しているので、そういう授業はダメな授業だ!」とまで発言した。
私としては、まあまあの授業だったと思っていたのである。
こんなバカな指導主事が、えらそうに指導をするときがあったのである。
教師が指導する授業は、一昔前の、古くさい授業だという風潮であった。
子供たちが前面に立って授業で活躍し、教師は側面から支援をする。
そんな授業をすべきだと強く主張された。
この風潮は、「ゆとり教育」の失敗という形で、尻すぼみに終わっていくのである。
その結果、副作用としてひどい学力の低下を伴っていく。
★
時代は巡る。
20年前の新学力観の授業で何が失敗したのかと言うと、「不易の学力」を全く想定の中に入れていなかったことである。
学習指導要領の中には、常に変わることがない「不易の学力」があるわけである。
小学校は、特にその「不易の学力」の習得に力点をおくべき。
算数の場合で言えば、1年生で習う「繰り上がり、繰り下がり」、2年生で習うかけ算九九などなど、どうしても覚えさせ、身に付けさせねばならないものがある。
これを身に付けさせないで上学年にいけば、確実に低学力児になる。
間違いなく算数嫌いを起こし、学習そのものを拒否していく子供たちを数多く生みだす。
この当時、「嫌がることは無理をして教えなくてもいい」という風潮が広がった。
今まで首根っこをつかまえても教えていくことが教師の作法であったものが、解き放たれたわけである。
「やらなくて良くなった!」と。
だから、低学年で必ず低学力児を4,5人出していくことが当たり前になっていく。
今でもその後遺症は数多く残っている。
それ以来、多くの教師たちが低学力児を何とかしようと身構えなくなっていったからである。
私が今全国の先生たちと算数の低学力児を引き上げていく試みを共同研究でなしているのは、その後遺症をどのように克服していくかなのである。
★
いつでも時代の流れで、研究授業だけは、今の流れで授業をし、そして普通の授業(「日常授業」)は、赤刷りの指導書の斜め読みで、カスカスの授業をやっている。
20年前も、ほとんどの教師はそういう二面性をもってやっていた。
そうしなければやっていけなかったからである。
問題は、研究授業を何とかするということではなく、毎日やっている「日常授業」を何とかすること。
この当たり前のことを発想の基盤にしなければ、何も変わらないのである。
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コメント
6年ぐらい前に市内のある中学校の社会科研究授業を参観しに行きました。
その授業後の研究協議の中で,
「一斉授業をやっている先生がまだいるんですね。一斉授業をやっている先生は,先生として認めません」
という発言をした大学の先生がいました。
私は,「知識をしっかりと定着させるためには,一斉授業も必要だと思っています。一斉授業をきちんとやれない教師は,他の学習指導をやってもうまくいきません。」と発言しました。
その大学の先生は,その場では言いませんでしたが,その学校の研究主任へ私を批判するメールを送ってきました。
(その文面は私も読みました)
不易の部分を大切にしない教育は,時代が変わると消えていくのだと思います。
投稿: 山中太 | 2019年2月14日 (木) 21時44分
今回の指導要領は「主体的で対話的で深い学び(旧アクティブラーニング)」が大きなキーワードになっています。文科省関係から伝わってくる話として「一斉授業は×」とか、「低学力児童生徒を放置してよい」とかいうことは全く聞きません。むしろ、基礎基本を徹底し、かつ主体的・対話的・・・といっている、と解釈します。ゆとりか詰め込みかの対立はもうしない、ともいっていました。
限られた時間の中での「主体的で対話的で深い学び」となると、基礎基本を徹底的に大事にし、教えるべきは教え、考える余地があるところは「主体的・・・・」の精神で学んでいく、ということになるのではないでしょうか。
もし、いまだに「一斉授業は一切だめ」というような、わけのわからないことをいう教授・指導主事がいたらお目にかかりたいものです。そんな人こそ、「化石」「シーラカンス」です。向山洋一氏の肩を持つつもりはありませんが、「教育界から即退場してほしい」とすら思います。
投稿: 久しぶりのTOSS超末端教師 | 2019年2月19日 (火) 00時43分