再び「日常授業」の改善ということ
「日常授業」の改善をどのようにしていくか、を書いた。
ある先生からコメントを受けた。
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今回の野中先生の記事、「そうそう!」と納得しながら読んでいました。学力向上推進教員を3年務めているため、延べ300学級の授業を参観し、アドバイスしておりますが、野中先生の言われる通り、ほとんどの先生方が赤刷り指導書の斜め読みで授業を行っています。意識の高い先生方は、板書型指導案を作成し、前以て私に渡してから授業にのぞまれます。しかし、残念なことに、授業がスカスカなんです。「ねらい」「全員参加型」ここに意識が向いていないんです。研究授業のときだけ、仰々しいほどの資料を用意して授業を終わらせて、それが済んだら、また元のスカスカ授業です。「日常の授業を改善しましょう!」と助言するのですが。。。
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300学級の授業を見てきている先生のコメントである。
やはりなあという思い。
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今まで何度も訴えているのだが、今までなされてきた授業論の多くが破綻していることについてである。
どんなことが破綻しているのか。
真っ先に思いつくのが「教材研究」。
これが必要ないと言う先生なんていない。
初任者指導の先生などは、初任者に、「もっと教材研究をしなさい」と強く指導されることである。
だが、実際にこれをやっているのは、研究授業のときだけ。
しかも、そのやり方はほとんどがネット検索。
膨大な指導案が出てくるので、そのコピペをやっている。
日頃は、教材研究などほとんどしない。
赤刷りの指導書の斜め読みである。
これでしか乗り切っていない。
最近は、もうこの指導書を公然と手に持って授業をしている先生が多いと聞いている。
昔は、指導書を教室に持ち込むなんてすべきではないという暗黙のルールがあったのである。
こういう「現実」で、「教材研究をもっとやろう」という呼びかけがどんなに虚しいものか、分かるはずである。
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同じような呼びかけが、さまざまな研究会や研修会で行われている。それは、民間の研究会でも同じである。
たとえば、社会科の研究会で「学習問題づくり」とか「子供の問題意識を大切にしてとか……そんなことを言う先生たちがいまだにいるということ。
親しい知り合いの先生から聞く。
社会科をずっと研究してきた先生である。
国語でも算数でも、他の教科でも、同じような提起をしているはずである。
「そうあったらいいね」という「べき論」である。
誰もやらない、誰もやっていない、「べき論」。
ああっ、極端な言い方である。訂正!
一部の熱心な先生たちがやっている実践。
そんな先生しかやっていない実践。
あまりにも学校現場の「具体」から隔絶した実践なのだ。
そういうことに早く気づくことである。
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赤刷りの指導書斜め読みの指導(「ぶっつけ本番授業」と言っている)を否定することは簡単である。
現実では否定なんかできない。
それしかできないのだから。
アクティブ・ラーニングが出てきたときに、初めに思ったのは、「そんなことが多くの先生たちにできるのだろうか?」という疑いだった。
今では、その言葉はなりを潜めて「主体的・対話的で深い学び」になっているが、状況はまったく同じである。
そんなことができるのか?
やれと言われて先生たちは研究授業でそれなりのことをやる。
しかし、「日常授業」になると、また指導書の斜め読み指導に戻る。
それを繰り返すことになる。
かつて、新しい学力観という形でゆとり教育が始まったが、その二の舞になることは必定である。
多くの先生たちは、同じことをしたのである。
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しかし、「指導書の斜め読み指導」を擁護はできない。
それが陥っていく「結末」は、決してうまくない。
①何とか今を乗り切っているつもりであるが、それはつも りにしかならない。
授業はスカスカで、その時間時間を何とか乗り切れるだ けで、それっきり。
子供たちに学力もつかない。
つまらない授業だから、クラスによっては学級崩壊の危 機が潜在的に控える。子供たちは、もう嫌気がさしている。
②クラスにいる低学力児を引き上げることはもちろんでき ない。そのままで上の学年に上げていくだけ。
いつのまにか、そんなことも望まなくなる。
③授業力が上がらない。いつまでも初任者並みの授業しか できない。だから、中堅やベテランになっても、その日 暮らしで乗り切っていくだけになる。
一番大きなものは、仕事に「手応え」がなくなることである。
授業の「手応え」とは、目の前の子供たちが、自分の実践で目を輝かせ、意欲や自信を示してくれることである。
もちろん、熱心な先生たちも、それを願って提案しているのであるが、しかし「べき論」にしか過ぎない。
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教える内容をどのように工夫するかなどをもう追究できなくなっている。
発問などの指導法をどのように工夫するかなども追究できなくなっている。
学校現場の「具体」で、多くの先生たちに、突きつけられているのは、忙しさの合間に、とにかく授業をこなしていく手立てなのである。
知り合いの社会科の先生は、社会の専門の先生ばかり集まっている会で次のように発言されている。
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社会科の専門の先生から社会の授業を学ぶ。算数の専門の先生から算数の授業を学ぶ・・・。それをすると、先生は大変。苦しくなる。
専門外の先生で、結構上手にされている先生に学ぶ方が、現実的ですよ」という内容。
社会の専門の先生ばかり集まっている会で言いました。まあ、みなさん、何とも言えない顔をしてました。
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ここで指摘されている意味が分かっていただけるだろうか。
そこで、次のようにも指摘されている。
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私は、教科書を使った授業をしたらよいと、私流の教科書を使った授業を代案として書いて配りました。
小学校の教員は毎日5時間も6時間も授業をするんです。忙しいです。
それでも、毎日の授業を少しでも充実させる。
そのためには、教科書を使った授業を上手にすることです。
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長年、社会科を研究されてきて、多くの実践を残されてきた先生が、このように指摘されている意味は、実に重い。
もうここには「べき論」がない。
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今、何が突きつけられるのか。
これほど混迷する時代も、かつてなかったのではないか。
いや、もう混迷というところを超えているのかもしれない。
私は、先に「『日常授業』の改善ということ」を書いた。申し出のあった方には、算数の授業記録まで付け加えておいた。
今求められているのは、「日常授業」の、その展開の仕方である。
教材は、教科書。
その教科書を、子供が集中できるように、どのように展開していくかにかかっている。
私は、とりあえず3つの条件を出しておいた。
「日常授業を乗り切る3条件」
①全員参加
②スピード・テンポ
③小刻みに
このような条件は、いろいろ考えられた方がいい。
今求められているのは、「こうあるべき」論ではなく、「日常授業」のカタチなのである。
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