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明日の授業をどうするか?(2)

   前回のブログで、以下のように書いた。

 ★ ★ ★
 先生たちは、毎日授業をやっている。これが「日常」である。
 何となく、とにかくやっている。
 でも、やっているだけ、手応えがない。
 しかし、ここにほんとうに多くの先生たちが悩んでいるのか、私は懐疑的である。
  もう悩むことさえなくなっているのではないか。
 もうそのような「日常」を惰性的におくるだけになっているのではないか。
 だから、悩んでいる先生は、まだまだ大丈夫だと思うのである。
 ★ ★ ★
「松下先生のセミナーなどに反応される先生は、まだまだ大丈夫なのだ。だが、問題は、明日の授業をどうするかなどにもはや悩んでないんじゃないか!」
 というのが私の反応である。

 決められた時間に、決められた内容を、ただ淡々とだらだらと教える。
 まあ、つまんないわけである。
 
 とにかく「手応えがない」。
 目の前の蠅を追っているだけ。
 ほんとうなら授業なんかしたくない。
 でも、しなくては首になる。だから、いやいややっている。

 ★
 ここには、今まで進められてきた「授業研究」の集約点があるなあと、思い続けてきた。
 要するに、行き詰まり、煮詰まってしまっているのだ。

 今までの日本の「授業研究」は、「ごちそう授業」の追究であった。
 ここで決定的に不足していたのは、「評価」。
 自分の実践を評価するということが、極めてあいまいであった。

 「ごちそう授業」で追究されたことは、端的に言えば、「見栄えの良さ」であった。
 
 1時間の研究授業は、数多くの時間をかけて教材研究をし、多くの準備をし、精一杯の授業を追究された。
 
 その中で、子供たちの多くに発言させようとした。
 あるいは、話し合いをさせ、討論までもっていこうとした。
 とにかく、活発な子供たちの活動を生み出そうとしたのである。

 でも、ほとんどの先生方はそうできなかった。

 問題なのは、それが目的視されていたことである。
 それはあくまでも手段であるはずである。
 その活動を通して子供たちに何を獲得させ、どのような学力を身に付けさせるかであったはずである。

 結局、その試みの意識にあったのは、授業に対する「見栄えの良さ」の追究であった。 

 その過程で、子供たち一人一人がどの程度の向上的変容があったかなどは、ほとんど意識の外であった。
 
 学校現場では、研究授業の「見栄えの良さ」によって、授業がうまい先生、下手な先生が決められていったはずである。

 そうならば、誰だって「授業がうまい先生」になりたいのである。  
 ★
 ここまで書いてきて、反論があるだろうなあと思う。
 極端に書いているから(笑)。

 そうでない実践をしている先生や、授業研究している先生だって、確かに数多くいる。

 しかし、今までの「授業研究」は、もうすでに煮詰まってしまっているんだから、極端に考えないと本質が見えてこない。

 今、多くの先生たちの「日常授業」のキーワードは、「手応えの無さ」。
 そして、今までの授業研究のキーワードは、「見栄えの良さ」。

 「見栄えの良さ」の追究の果てに、辿り着いたのが「手応えの無さ」ということなのだ。

 たとえば、料理にたとえてみよう。
 お客さんがみえる時には、日頃にない「ごちそう」を提供する。ところが、それが終わると、日常にもどる。日常の食事法をもたないので、惣菜を買ってくるか、そこらにある物を食べて凌いでいくことしかしない。
 
 その結果、栄養に偏りを招いて、慢性的な病に陥っている。
 自覚症状がない。
 こんな状況ではないか。

  こんなことをやっている間に、結局新井紀子先生が指摘されるように、日本の中高生が想像を絶する基本的読解力の落ち込みを招いてしまっているのである。

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