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自前の授業法を作り上げること

  フェイスブックに、糸井登先生が、授業研究のことについて書かれている。

 糸井先生は、京都立命館小学校の先生。
 来週の土曜日は、研究発表会になるという。

 私のことも書かれている。
 そこで一言、書きたい気持ちになった。

 ★ ★ ★
学校から新しい風を!
 
1月20日 誰が見ていても、誰も見ていなくても・・・・ 2018年 01月 20日
誰が見ていても、誰も見ていなくても・・・。
この言葉は、若い頃から、常に自分に言い聞かせてきたこと。
この言葉の先に続くのは、「同じでなければならない」である。

簡単そうで、これがなかなか難しい。

本校の研究発表会が、いよいよ迫ってきた。
来週の土曜日、1月27日(土)である。
保護者の方の参観もあるということなので、1000名近い方が学校にお見えになるのではないだろうか。
授業だとか、分科会の用意に追われている。

今、私の頭の中にあるのは、上記の言葉と、野中先生の言葉だ。
野中先生は、研究発表会の授業を「ごちそう授業」と称されている。
つまり、その時だけのいつもとは違う授業を指す。
そうじゃなくて、大切なのは「味噌汁。ご飯」のような毎日の基本の授業でしょう。それを大切にしましょうよと。

だから、私は「誰が見ていても、誰も見ていなくても・・・」に、こだわりたい。
もちろん、公開授業ということで、いろんな縛りがある。
けれど、基本の授業の流れは同じでありたい。
いつもの私の授業を見ていただき、御意見をいただきたいと思っている。

いつものように資料を用意し、いつものように問えば、いつものように子どもたちは考え、話すだろう。
そこに参観者が誰もいなくても、教室が埋まるほどの参観者がいようとも、同じなのだと信じたい。
 ★ ★ ★
 私の主張は、糸井先生が言われている通り。
 
 日本の授業研究は、日頃の授業とは違って、「ごちそう授業」を追究することで成立してきた。
 もともとは、「日常授業」の改善の課題を設けて、研究授業はなされてきたはずである。
 
 だが、今では、ほとんどの学校で、研究授業は飾り立てた授業で、「日常授業」は、粗雑な、カスカスになっている。

 研究授業では、見栄えの良さが追究されている。
 教室中に張り巡らされた模造紙や、黒板に、ごてごてと貼り付けられたカード。日頃は、決してしないことをやっている。
  ★
 私立の立命館小学校は、多分教科担任制になっている。
 1つの教科を、教材研究する時間が与えられている。

 ところが、普通の公立の学校は、それができない。
 ほとんどない。
 教材研究をしようとすると、遅くまで学校にいなくてはならないということになる。

 だから、時間が限られているママさん先生は、綱渡りにような生活を強いられる。
 ★
 研究授業は、どのようになされるか。
 指導書と、ネット検索であろう。

 教材研究というと、この2つ。
 今はネット検索をすれば、指導案はほとんどコピペでいいし、授業展開も、それなりの指導案も検索できる。

 1時間の研究授業は、2つで十分。
 おそらく教材研究というのは、この2つであると思い込んでいるのかも知れない。

 ところが、「日常授業」というと、まとまった時間がない。だから、指導書の斜め読みぐらいしかできない。

 こんなことを何十年もやっている。
 授業が上達するはずはない。

 なぜなら、自前の基本の「授業法」を持っていないから。
 常に、誰かが書いた指導書と、誰かがアップしているネットの資料に頼っている。
 ★
 糸井先生は、ここから抜けている。
 「誰が見ていても、誰も見ていなくても」同じ授業を提起できる。
 それは、基本となる授業法があるからである。
 2月10日の解散セミナーでは、ここのところをくわしく提起できればいいなと思っている。

 大切なのは、いかに早く自分なりの自前の授業法を作り上げられるか、そこにかかっているのである。

 

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