年若き友へ(3)
教師人生をすべてに優先して考える人がいる。
自分の時間も、家族の時間も、すべて犠牲にして、教師の時間につぎこんでいる人がいる。
私は、そんな人生を送ってこなかった。
普通の人は、そんな人生をおくるべきではないとも、考えている。
人は、「個人としての存在」「家族としての存在」「社会的な存在」を生きる。
もちろん重なるところはあるが、バランスを取って、3つを生きていかなくてはならない。
教師人生にすべてを注いでいる人は、「社会的な存在」としての自分に過大な時間をかけている。
個人としての存在も家族としての存在も、極めて極小化されている。
バランスを著しく欠く。
欠いたらどうなるか。
どこかでしたたかにしっぺ返しを食らう。
「個人としての存在」の時間を欠いたらどうなるか。
定年を迎えて、何も仕事をすることがなくなったら、ぽっかりと何もない自分に気づく。
肩書きだけで生活してきたしっぺ返しである。
「家族としての存在」の時間を欠いたらどうなるか。
離婚の危機が迫る。
子供たちから総スカンを食らう。
そんな人を私は何人も見てきた。
「社会的な存在」の時間を欠いたらどうなるか。
仕事ができない。
ベテランになっても、初任者と同じような授業しかできない。クラスも持てない。学校の仕事も思うようにできない。
そんな人たちを、何人も見てきた。
人の一生は、とても平等にできているから、どこかでうまくいっても、どこかでしっぺ返しを食らうことになっている。
そのしっぺ返しを少なくするには、3つの時間を丁寧に生きる以外にない。
この3つの時間を教えてくれた思想家吉本隆明さんは、以下のように書いている。
★ ★ ★
「個人としての個人」
「社会的な個人」
「家族の一員としての個人」
この3つは次元が違いますから、何か問題が起こったときの解決の仕方も違います。ごちゃまぜにしないで、それぞれ別個に考えることが必要です。
そうしないと、個人だけで解決するべきことを、国家の問題に直接適用して考えてしまったり、他人の精神的な問題を、自分と同じように考えて首を突っ込んでしまったりという間違いをしてしまうことがあるのです。
『13歳は二度あるか』(吉本隆明著 大和書房)
★ ★ ★
吉本さんは、「個人としての個人」を個人幻想、「社会的な個人」を共同幻想、「家族の一員としての個人」を対幻想と展開された。
むずかしい。
しかし、この考え方を知っていると1つに突っ込んでいく存在の仕方を避けることができる。
私も、どうしても教師の仕事に突っ込んでいく傾向を持っていたので、この考え方がそれを避けさせてくれた。どれほどありがたかったかしれない。
ぜひとも若い人たちは、この考え方を身に付けてほしいと願っている。(終わり)
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