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鈴木先生からの算数本感想~べき論はもういい~

   山形の鈴木玄輝先生(『新卒教師時代を生き抜く365日の戦略5年生』(明治図書)の著者でもある)が、以下のような感想をブログに明らかにされている。

 詳細に読み込んでもらえたものである。

 ★ ★ ★
 野中信行『日々のクラスが豊かになる「味噌汁・ご飯」授業 算数科編』
「日常授業を充実させる」…。多くの先生方が、当たり前のようにそのことを願いながら、日々、子どもたちに向き合っている。しかし、その願いとは裏腹に、ぶっつけ本番の授業、その日暮らしの授業をしている、あるいは、そうせざるを得ないという現実がある。自分自身はそうではない、とは言い切れない。新卒初任の頃は、ほぼ毎日がそうだった。そもそも、学級づくりの理念も方法論も持たずに現場に出て、いきなり学級担任になり、「土台としての学級づくり」がほとんどできないままにいたのだから、土台のないところに授業も行事も乗せられなかった、軌道に乗せられなかったわけである。

あれから10年。今では、明確な「学級づくり」の理念や方法論に基づいて、日々学級集団づくりに勤しみ(それでも日々困難に喘いでいるが…)、その土台の上で授業づくりや行事づくりに心血を注いでいる。日常の授業づくりでは、これまでも学習規律を徹底することを最重要視し、ノート指導にも力を入れて、自身の教え方(課題提示や指導言、教材教具の工夫など)や子どもの関わらせ方(意見交流やふり返りの共有化など)にも様々に工夫を凝らしてきた。学級づくりと授業づくりとは、連動し、重なり合う部分がほとんどなので、その点にも意識を傾けながら「崩壊予備軍」の学級を授業によって立て直し、集団化する手立てもとってきた。研究授業となればなおのこと、教材教具の工夫や場づくりに時間をかけて、子どもの興味を惹く内容のある授業を、と先行実践や関連書籍や雑誌原稿にあたり、準備に入念に時間をかけて授業に臨んできた。

こうして研究授業には時間と労力を投下する一方、「日常授業を充実させられているか?」と自問すると、必ずしもそうではないと痛感する。日々、「多忙化」が漂う中で、授業づくりに割ける時間は限られており、研究授業のような授業を年間を通して行うことは不可能である。いや、日常授業でさえ、その時々の状況によっては、ぶっつけ本番の授業、その日暮らしの授業をしているのが本当のところである。「日常授業の充実」を頭の中では願いながら、それとは逆行している自分が常にいる。

「日常授業の充実」について、野中先生は、様々な書籍やセミナーで、「年に1000時間を超える日常授業の充実なくして、これからの学級経営は非常に厳しくなる」と主張されている。多くの学校で、年に数回の研究授業は行われているが、日常授業に焦点を当てた学校研究や日常実践は、ほとんど行われていないだろう。言い換えれば「研究授業=ごちそう授業」の研究はどの学校でも行われており、どの先生も年に1回は全身全霊を傾けて、時間と労力を投下して授業づくりをしているが、それとは裏腹に、日常授業は半ば無意識に、その日暮らしに行われている。

だからと言って、「ごちそう授業」を否定するわけではない。むしろ年に最低1回は、幅広い、そして深い素材研究、教材研究を行い、研究授業を行うことは絶対に必要だと、野中先生はおっしゃっている。ただ、大事なことは、その重要性とは裏腹に、これまであまり問題にされてこなかった「日常授業」に、意識して焦点を当てようということだ。野中先生が日常授業に焦点を当てて、日常授業を充実させる上で外してはならない原理原則をもとに、その重要性を訴えたのが「味噌汁・ご飯の授業」である。

私も、2013年の6月に横浜市で、同年8月に十日町市で、野中先生主催の「味噌汁・ご飯」の授業づくりセミナーに参加し、「授業づくり3原則」をはじめとする授業づくりの考え方、方法論に多くを学び、実践を積んできた。授業力は経験年数に比例しない、ただ漫然と授業をしていては授業不成立を打開することはできない。大切なことは、どんな授業にも共通する原理原則を意識し、実践し、その上に自身のオリジナリティを加味し、色付けしていくこと、そのことを痛感したセミナーだった。

今回、その「味噌汁・ご飯」の授業づくりの国語科編に続き、算数科編が出版された。各教科の中でも、最も多くの時数を充てている国語と算数、とりわけ学年が上がっていくに従い、内容が難しくなり、つまずく児童が増えてくる算数科について、「味噌汁・ご飯」の視点からどのような内容が提案されているのか、興味をもって読み進めた。そして、算数科について、具体的な視点や方法論が本格的に示されるのは今回が初めてだったので、その点でも興味をもって読み進めた。

本書のページをめくっていくと、野中先生をはじめ、「味噌汁・ご飯」授業研究会の方々が思い切った提案をしていることがよく分かる。

まずは、学力を「テストの点数」と定義していること。野中先生は、異論があることを承知の上でそう定義している。「いや、学力は点数だけで測られるものではない」、「目に見えない学力もある」、「点数で学力を測るなら塾と変わらないではないか」…。各人が各々の「学力論」を展開し始めるから不毛になる。視点を共有しないから、伸ばすべき力があやふやになる。だから、テストの点数という目に見える形で測られるものを学力と定義し、テスト分析をするところからすべてが出発していく。

新指導要領でも、「学びに向かう人間性」だとか、「社会に開かれた学力」というものが重視されているが、学校教育で学んだ事は、そう簡単に社会の中の様々な状況に対応する力として転移してはいかない。例えば、学力テストのA問題(いわゆる基礎基本の問題)の点数はいいのに、B問題(応用力を試す問題)になるとガクンと点数が落ちる、という事実がそれを示している。同じことを問われていても、テストの文脈や問題に関わる状況が変われば、それは子どもにとって「別種の問題」になってしまうのだ。だからこそ、そうした力を問われるテストの分析に、学力向上の出発点を設定している点が、かなり思い切った主張となっている。先に述べたような、不毛な学力論によっては抗うことはできない「テストの点数」という事実で勝負する。思い切っているが、重要な視点だと思う。

次に、前述した内容とも重なるが、「日常授業」の改善というテーマが貫かれていること。中でも、「10分間授業準備法」、「指導メモ」という考え方が斬新だ。「味噌汁・ご飯」の授業では、授業準備に長い時間をかけない。また、指導案を書かない。確かに、日常授業では、一つ一つの授業に入念に時間をかけて教材研究をし、指導案を書くことは大変難しい。膨大な校務でただでさえ時間に追われ、家庭では子育て、介護など、様々な事情を抱えた先生がいる。授業準備にかけられる時間は限られている。だからといって、簡単な略案や板書計画だけでも作ろうといっても、単元全体で育てたい力や達成したい目標をしっかり意識しておかないと、その場限りのぶつ切りの授業準備になってしまう。

限られた時間の中で、絶対に外してはならないもの、例えば単元目標、本時目標、本時の課題などをサッとメモで書きこみ、確認し、日々積み上げていける「指導メモ」は、その場しのぎ、その日暮らしの授業に陥らないために、非常に有効な方法論になるだろう。記録の蓄積ができる点でも、児童の学びを振り返り、指導法を検討できるメリットがある。また、「ときかたハカセ」の提案にも大変納得させられた。準備の点では、本時の最重要ポイント、見方を変えれば児童が最もつまずきやすいところを指導者自身が意識することができる。そして、指導の際には、子どもたち、中でも低学力児にとっては大きな助けになる。「算数嫌い」を生まない、「算数嫌い」を克服するためにも「ときかたハカセ」は非常に有効な手立てになり得るだろう。しかも、授業以外の時間も使ってそうするのではなく、あくまでも日常授業の中でそれを実現していく、そのために教師自身が諦めない、という主張には、私たちが絶対に欠かしてはならない「子どもたちを伸ばす」という覚悟を痛感した。

加えて、教科書の扱い方についても、明確な主張がなされている。よく、45分の授業時間で本時が終わらないことがある。日常授業でもそうだし、研究授業などでもたまにある。例題とまとめが終わってしまえば、類題は宿題になったり、次時に扱ったり、ということになる。これでは、習得から習熟までのプロセスが授業の中で完結しないことになる。しかし、それが当たり前、仕方のないことになってしまっている。

 「味噌汁・ご飯」の授業では、教科書を教える、という主張で一貫している。「教科書で」ではない、「教科書を」である。これまでは、授業の準備の際に、ただ漫然と(自分では真剣に見ているつもりではあったが…)教科書を見てきたが、教科書は「例題-類題-練習問題」という構造になっていて、それに基づいて授業準備をし、子どもたちに指導する、という本書の主張には、思わず膝を打ってしまった。この構造が見えているか見えていないかは、教師にとっても子どもにとっても大きな差になって現れてくる。それこそ、漫然としているか、意識してくり返しているか、の差として。
本書では、「味噌汁・ご飯」の算数授業づくりについて、これら以外にも思い切った主張がされている。そして、その主張に基づいた場面別の授業や、さらなるレベルアップを目指す「応用編」、「味噌汁・ご飯」の算数授業づくりについての「Q&A」のページもある。何度も書くが、「思い切った」主張であるので、少々抵抗を感じる読者もいるかもしれない。しかし、本書の主張は「思い切った」主張であると同時に、従前の方法論にしがみつかず、「変わり続ける」教師で在り続けよう、という主張にも感じられた。それは、野中先生が学級づくりの重要性を主張されている頃から、ずっと変わらないものだ。

若手だろうとベテランだろうと、眼前の子どもたち、そして社会状況をよく観察して、学級づくりでや授業づくりに勤しむのは当たり前である。しかし、原理原則は大切にしながらも、常に新たな知識や方法論に触れ、自身の実践に採り入れ、変わり続ける教師で在り続けることが、今後、変化目まぐるしい教育現場を、社会を生き抜いていくためには絶対に欠かせない資質だろう。その資質を磨き続けることが、子どもにとっても、教師にとっても、有意義なものになると信じて疑わない。

「味噌汁・ご飯」の算数授業づくり、2学期からさっそく実践していきたい。
 ★ ★ ★

  これほど深く今回の本を読んでもらえるなんて思わなかったことである。深く感謝したい。

 私たちが力を入れて提案していることを完全に読み取ってもらっている。
 
 思い切った提案をしているのである。
 いままでタブー視されてきたことを振り切って、シンプルにしている。
  たとえば、それを鈴木先生は次のように読み解かれている。
  ★ ★ ★
 まずは、学力を「テストの点数」と定義していること。野中先生は、異論があることを承知の上でそう定義している。「いや、学力は点数だけで測られるものではない」、「目に見えない学力もある」、「点数で学力を測るなら塾と変わらないではないか」…。各人が各々の「学力論」を展開し始めるから不毛になる。視点を共有しないから、伸ばすべき力があやふやになる。だから、テストの点数という目に見える形で測られるものを学力と定義し、テスト分析をするところからすべてが出発していく。
  ★ ★ ★
 膝を打つ分析である。

 「毎日授業しているのは何のためですか?」
 と問うと、「子供を賢く育てるため」などと言うと抽象的な答えが最初は返ってくる。じっくりと聞くと、やはり「子供たちに学力を身に付けるため」という答えになってくる。
 意識している、していないにかかわらず、教師たちはそうしているはずである。
 学校には教育課程があり、そのもとに毎日の授業が組まれている。当たり前ではないか。

 「その毎日の授業で、子供たちが学力がついたかどうか、どこで評価していますか?」と問うと、「単元テストで評価しています」とほとんどの先生は答えるはずである。

 子供たちに学力が身に付いているかどうか、テストで評価しているのである。そのテストの点数で評価している。全てがそうだと決めつけることはできないが、ほとんどそうしている。

 それでは、その点数が学力になるではないか。
 そのようにシンプルに提案したのである。

 こんなことが今まで実に曖昧にされてきたのである。
 「本当の学力とは何か?」という問いかけばかりがあって、実際にやっていることが曖昧になっていたのである。

 「こうあるべきだ」「こうあってほしい」という「べき論」はもういい。「実際にはすでにこうやっている」という「現実」から出発することだと、提案したわけである。
 

 

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