タイムリーなことである。
期せずして、料理家の土井善晴さんの『一汁一菜でよいという提案』(グラフィック社)が出版される。
「食は日常」というはじめで、「この本は、お料理を作るのがたいへんと感じている人に読んで欲しいのです」という書き出しをされている。
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だれもが心身ともに健康でありたいと思います。一人の力では大きなことはできませんが、少なくとも自分を守るというのが、「一汁一菜でよいという提案」です。
暮らしにおいて大切なことは、自分自身の心の置き場、心地よい場所に帰ってくる生活のリズムを作ることだと思います。その柱となるのが食事です。一日、一日、必ず自分がコントロールしているところへ帰ってくることです。
それには、一汁一菜です。ご飯を中心とした汁と菜(おかず)。その原点を「ご飯、味噌汁、漬物」とする食事の型です。
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読みながら、納得することばかり。
私たちが提案した「味噌汁・ご飯」授業と通じるところがいっぱいあって感激する。
また、このようにも書いてある。
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日本には、「ハレ」と「ケ」という概念があります。ハレは特別な状態、祭り事。ケは日常です。日常の家庭料理は、いわばケの食事なのです。手間を掛けないでよいそのケの料理に対して、ハレにはハレの料理があります。そもそも、両者の違いは「人間のために作る料理」と「神様のために作るお料理」という区別です。それは考え方も作り方も正反対になるものです。
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まさしく、私たちが提案した「味噌汁・ご飯」授業と「ごちそう授業」の違いが浮かんでくるはずである。
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私たちが「味噌汁・ご飯」授業としての「日常授業」の改善を提起しているときに、料理界ではこうして土井善晴さんが、「一汁一菜」として日常の家庭料理を提案されている。
これは何かなのだと、私は考えてしまう。
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日本の「授業研究」は、今までずっと「ごちそう授業」を追求してきた。
それは、日本全国の学校で「研究授業」として具現化されていたはずである。
1,2時間の研究授業で、日頃やっていない授業を作り出して、それを互いに検討し合う。
そして、その研究授業が終わったら、また違う日頃の授業に戻っていく。
研究授業は、多くの時間をかけ、多くの手間をかけ、素晴らしいと思える授業を作ろうとする。
しかし、日頃の「日常授業」は、指導書を斜め読みしたぐらいのお粗末な授業。
それが多くの教師たちの「日常」である。
このことで、何が変わったのか。
私たちは何も変わらなかったと言い切っている。
当たり前ではないか。
1,2時間の研究授業にどんなに精力的に力を注いでも、1000時間以上の「日常授業」は、お粗末なままだからである。
だから、教師の授業力も、子供たちの学力も上がることはなかった。そう言い切っている。
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「ごちそう授業」を否定しているわけではない。
1年に数回は取り組んだ方がいい。そのことで、教材分析の仕方や指導方法などの向上につながる。間違いない。
だが、「日常授業」には、そんな時間はない。
私たちは、むしろこの「日常授業」をこそ、改善していくことが必要であると強調している。
土井善晴さんが提起している「一汁一菜」の、そんな授業を作り上げるべきだと考えている。
時間はない。だから、私たちは「教材研究」ではなく、「授業準備」の時間として、短い時間を考えている。
だから、「ごちそう授業」と、「日常授業」は、考え方も作り方も違ってくるのである。
これは、土井さんもハレとケの概念で強調されている。
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そうすると、「『研究授業』で『ごちそう授業』をやり、『日常授業』はそれなりにやることでいいじゃないですか?」と言われる先生がいる。
「こんなに忙しいのに、『日常授業』にまで手を出していくのはしんどいことです」と。
ここには、毎日「ごちそう授業」をやらなければならないという思いがある。
「ごちそう授業」と「日常授業」がごちゃまぜになっているのである。
私たちは、そんな提案はしていない。
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教師が一番豊かになるのは、「日常授業」がうまくいったときである。
毎日毎日行う授業の中で、子供たちが集中して取り組み、満足した顔つきをしている時、教師は一番豊かになる。
ここへ帰って行くことである。
繰り返しになるが、土井さんの言葉を引けば次のことなのである。
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暮らしにおいて大切なことは、自分自身の心の置き場、心地よい場所に帰ってくる生活のリズムを作ることだと思います。その柱となるのが食事です。一日、一日、必ず自分がコントロールしているところへ帰ってくることです。
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教師は、これが食事ではなく、授業だということである。
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私たちは、学校で行う研究授業は、「ごちそう授業」の追求ではなく、先生たちが毎日行っている「日常授業」の改善として追求すべきだと考えている。
テーマは、「日常授業」の改善。
これでいいのである。
日頃やっている授業に、少し工夫を凝らして提案し合う。
そして、互いに検討し、明日の授業につながる話し合いにしていく。
日頃できないことをしない。
べたべたと貼り紙をする授業。
教室中に張り巡らした模造紙。
こんなことは日頃しないし、できない。
そうすると、これはもう「研究」ではなく、「研修」になっていく。
一学校で、「研究」なんかどだい無理な試みである。
私たちは、そういう原点に戻っていくべきだと、考えている。
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