アクティブ・ラーニングは危険である!
本屋の教育書のところへ行く。
アクティブ・ラーニングの本が、数多く並べられている。
今回の学習指導要領が、アクティブラーニングが中心になると言われているので、そうなっている。
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この光景は、かつて26,7年前の「新学力観」が文科省から提起されたときと同じである。
総合が導入されたときである。
このあと、ゆとり教育と名付けられた教育が始まる。
「指導するな、支援をすること」
「子供たちの個性を大切に。できないのも個性」
このような言葉が一人歩きする。
漢字学習がいい加減になる。
基礎的な計算(繰り上がり、繰り下がり、かけ算九九など)を嫌がる子供は無理に教える必要はない。
教え込みをしてはならない。
支援だ、支援だ。
私は、その様子を始まりから終わりまで全部見てきた。
失敗したのである。
このあと、基礎計算ができない、まともに読み書きができないという子供たちがぞろぞろ続出する。いわゆる低学力児の続出である。
私は、この時がアクティブラーニングの1回戦だったと思っている。
今度は2回戦。
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『アクティブ・ラーニングを考える』(東洋館出版社)という本を読む。
中教審の委員、文科省の中心メンバーなどいわゆる有識者といわれる人たちが書いた本。
文科省側は、今アクティブ・ラーニングが一人歩きしていることに憂慮している。そのような噂を聞いたことがある。
だから、このような本を出さなければならなかったんだと、納得する。
文部科学省初等中等教育局教育課程課長の合田哲雄さんがこの本の中で、「今、なぜ『アクティブ・ラーニング』か」を書いている。
この人は、今回の学習指導要領作成の中心になっている人であろう。
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このように資質・能力を育むことを重視しているからこそ一層大事になるのが「どのように学ぶのか」であり、今回の
学習指導要領改訂において、子供たちの学びを「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」という授業改善の視点として捉え直し、さらなる改善を進めようとしている理由もここにある。
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この主体的・対話的で深い学びにとって大事なのは、対話、グループ学習、討論といった外形ではなく、授業において子供たちがアクティブ・ラーナーになっているかどうかであろう。
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クラスにおいて、ただ座っているだけの「お客さん」が一人もいない授業、全ての子供がそれぞれの観点や力量に応じて集中して考え、取り組んでいる授業にいかにするか。
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このように子供たちがアクティブ・ラーナーとなるためには、教師自身が教職のプロとしてアクティブ・ラーナーになることが求められる。その意味では、「アクティブ・ラーニング、これをすれば絶対大丈夫」「アクティブ・ラーニング、これ以外にない」という「型」にとらわれて授業をすることはむしろ主体的・対話的で深い学びの対極で、このような特定の型を表面的に整える指導は、パッシブ(受け身の)・ラーナーによる授業の典型と言えよう。
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基礎的・基本的な知識が十分でない子供たちをアクティブ・ラーナーにするために、知識の習得を優先させることが「教え込み」に見えるから、アクティブ・ラーニングの視点に立った授業改善が十分でないと判断するのは誤りである。
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これくらいでいいであろう。
ずいぶん、これから学校現場でやろうとされていることと違うことを主張されている。
合田さんの書かれていることを、私なりにまとめると次のことになる。
①今回の学習指導要領改訂の目玉は、子供たちの学びを「主 体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」と いう授業改善の視点で捉えることである。
②主体的・対話的で深い学びにとって大事なのは、対話、 グループ学習、討論といった外形ではなく、授業におい て子供たちがアクティブ・ラーナーになっているかどう かになる。
③この授業は、クラスで座っているだけの「お客さん」が いない全員参加の授業にすること。
④何かのアクティブ・ラーニングの「型」を設定して取り 組むことは、主体的・対話的で深い学びの対極である。
⑤基礎基本ができていない子供たちには、きちんと習得の 授業をしなければならない。
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予言しておいてもいいが、学校現場は、合田さんがここで言われていることと真逆のことをやろうとする。
公開の研究授業では、それなりのことをやろうとする。
つまり、対話やグループ学習や討論などをやろうとする。
だが、一旦研究授業が終われば、それとは反対にほとんど「教え込み」に近い授業をする。
そうしなれば、勉強は終わらないからである。
26,7年前の新学力観のときも、そうであった。
ほとんどがこのように流れた。
私は、それは二枚舌の研究ではないかと指摘したが、同情的に言っただけである。
多くの教師たちは、そうせざるを得なかったからである。
今回も、それが起こる。
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先ほどの本を書いた有識者の人たちの指摘に、反対しているわけではない。切羽詰まった思いがあることはよく分かる。
だから、今回は大学入試を改革していこうとしている。
だが、1つだけ問題なのは、多くの教師たちは、この方向を担えませんよということである。
考えていることと、現実の現場には大きな断絶がある。
このままアクティブ・ラーニングを進めていけば、ますます学級崩壊は進み、学力も身に付かない。
考えてみてほしい。
今だって、都市圏を中心にする多くの教師たちは、普通の教室を存続するだけでもへとへとになっているのである。
そんな教室に、対話やグループ学習や討論などをやろうとして、どうなるのか。
砂上の楼閣を打ち立てようとしている。
私には、そのように思えて仕方がない。
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