したたかに生きましょう~「法然的発想」ということ~
親しい友人である宮城の佐々木潤先生がフェイスブックに次のようなことを書かれていた。
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本当に小学校というのは恐ろしいところだ。
何しろ,その担任とずっと1年間過ごすのだ。合えばいいけど,合わなかったら地獄だ。子どもにとって担任は最大の環境であるが故,自分は最大公約数的な教師でい続けたいと思うが,厳密に言えばそれは不可能だ。多くの子どもは私を信頼してくれたが,私のことが嫌でしょうがなかった子もいるだろう。それは自然なことでもあると思う。だって,教師も子どもも人間なのだから。だから子どもにとっては,いろいろな先生と勉強できる環境がいいのだろう。
本当に小学校というのは恐ろしいところだ。
先日,知り合いの先生が病休をとったことを知った。精神的な病が理由だという。その先生は大変力のある方で,私も何度も助けてもらったことがある方だ。学級づくりも上手で,子どもや保護者からの信頼も高かった。
しかし,それゆえに問題のあるクラスばかり担任させられ,いつも苦労していた。それは自分にも言えることなので,そうやって疲弊していく過程を自分はよく知っているつもりだ。おそらくその方も,毎年のように大変なクラスを担任し,疲弊していったのだろう。そして,病休をとらざるを得ない状況になってしまった。おそらくそういう状況だ。
もう,一人の先生が一つのクラスを担任する制度は限界にきているのではないかと思う。それは,子どもにとっても教師にとっても不幸だ。単純に教科担任制ということではなく,学年や学校にフリーの先生を配置し,学級経営も生徒指導も協同で行えるような学校組織・システムが必要ではないだろうか。多くの目で子どもを見ることで,子どものディティールがよりはっきりする。深い子ども理解につながる。また,問題が起きたときに担任が一人で抱え込まずに済む。単純に問題が起きたときだけ誰かが関わるのではなく,常に一緒に見ているわけだから,一人が気づかなくても他の先生が異変に気づくこともできる。
繰り返すが,一学級一担任制度は限界にきている。早急に改善しないとみんな不幸になる。
と同時に,今担任している子どもに対して,どの子にも最大公約数的なよい環境であり続けることができるように最後まで努力しなければ,と思う。
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私も佐々木先生の意見にまったく同意する。
そのとおりである。
ただ、1つだけ、今までは子供が担任と合わなくても、それはそれで問題はないと思ってきた。
子供が合わせていけばいい。合わせていくすべを身につければいい。社会に出ればどこもそうなのであるから。
そのように思ってきた。
だから、子供はいろんな教師がいるのだと分かることは、学校で学んでいく大切な1つである、と。
しかし、この考えも、担任が自分に合わないからと「生徒しない」(学びの姿勢を取れない)子供が出てきたとき、どうにもならなくなる。その子供は教室を壊しにかかるのであるから。
佐々木先生が紹介されている有能な先生のクラスにも、きっとそんな子供がいたのである。
一学級一担任制度の限界はその通り。
だが、一学級一担任制度を克服していく手立てが現実的に実現される見込みはない。
ほとんどないと言っていい。
学校の中に教職員の余裕がなければとても実現にこぎつけない。 これから教職員を減らそうとしているのである。
また、管理職などの賛同と学校での思い切った改革の試みがなければ実現ができない。
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今の学校現場が抱えている「リアルな現実」である。
私は、抱えている現場の状況が、一段階ステージが下がったのだという認識になっている。
ステージが上がったのではない。下がったのである。
だから、今までのステージで通じていたことが通じなくなっている。
今までのステージで考えたり、実践したりしていることがダメになっている。
今までのステージで十分にうまく学級を経営してきた、力量ある先生たちが疲弊し、うまくいかなくなっている。
学校現場も、多くの先生たちも、こういう発想にはない。
だから、問題状況が起こると、モグラ叩きをしている。
どういう対応をしていいか、分からないのである。
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私は「法然的発想」を考えている。
あの浄土宗の法然である。
法然は、あの平安末期に比叡山を自ら下りて、易行を進め、念仏を勧めた。これが浄土宗の始まり。
それまでは、奈良と比叡山が仏教体制の中心で、ほとんど全てを占めていた。
道ばたには、死体がごろごろと転がって、民衆は何の希望も持てない時代だったわけである。
こんな時に、比叡山に籠もって修行を繰り返しても意味がないと法然は判断したのであろう。
むずかしい修行や、難しい念仏を唱えても、そんなものが民衆を救うわけではない。
だから、法然は、南無阿弥陀仏と唱えるだけでいい、と。
だが、私たちは法然になれるわけではない。
しかし、「法然的発想」を持たなければ「現実」を生き抜いていけない。もはや、そういう時代を迎えていると私は認識している。
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「法然的発想」とは何か。
シンプルであること。
希望が持てること。
日々の安寧があること。
こんなことである。
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ここに中村健一先生の2冊の本がある。
『策略 ブラック学級づくり 子どもの心を奪う!クラス担任術』と、そして近刊の『策略 ブラック保護者・職員室対応術』。
多くの異論がある本であろう。
「品がない!」「こんな本をよくぞ明治図書が出している!」「教育は『策略』とか『戦場』とか『武器』とかを使ってはいけないはずだ!」というような批判が寄せられるであろう。
今までのステージから放たれる批判である。
これは、極めて戦略的な本。
1冊目の本は、2015年の明治図書で売れた第1位の本であるという。
近刊の本などは、勇気が必要な本だ。
現場教師として、手の内をさらしているからである。
この本を保護者や同僚の先生たちに見られると、まずいことになる。
それでも、そういうことを全て前提にして、この本は出されている。そこが戦略的である。
中村先生は、今までの現場のステージが一段階下がったのを分かっている。
今までのやり方ではもはや通じなくなっていることを認識している。そういう「現場」を歩いてきたのである。
提起されていることは極めてシンプル。
「策略」を「手立て」や「方法」と言い換えたら、ほとんど凡庸な本になる。
しかし、これをきちんと実践できたら、予防的に日々を生き抜いていく強力な武器になる。間違いない。
恐らく、中村先生は手の内をみんなさらしても、それ以上に「先生たちがんばりましょう」というメッセージの方を選んでいる。
法然と同じように「比叡山」から下りているのである。
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どんな状況になろうとも、私たちは生き抜かなければならない。
したたかになろう。
そう、呼びかけたい。
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