なぜ多くの先生は授業がうまくならないのか?(3)
なぜ授業がうまくならないのか?(3)
「日常授業」に耐えられる授業力とは、どういうものかという視点から考え直す必要があった。
さまざまに検討した結果、次のような視点をまとめた。
① 全員参加の授業ができる。
② 指導言(発問・指示・説明)の区別が明確である。
③ 全体に視線が向けられている。
④ 子供たちを引き込んで、集中させられる。
⑤ 学習規律がきちんとしていて、とくにノート指導が
しっかりなされている。
この視点から先生たちの授業を見ていこうというわけである。
ここに先生たちの授業力が集中して表れると考えたわけである。
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この視点が、多くの教師の授業力の向上とどうつながりがあるのだろうか。
この5つの視点は、初任者は最初ほとんどできていないことである。
しかし、中堅やベテランになると、この視点ができるようにならなければいけない。
これができるようになることが、授業力を向上させていくということではないかと、考えたわけである。
この視点は、あくまでも「授業づくり」の基本的技量である。
だが、多くの教師たちがきちんとできていない。
いつまでも初任者レベルの力量でしかないという先生は数多くいる。
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この視点について、少し説明しておこう。
なぜ、これが基本的な授業技量なのかということである。
①について(全員参加の授業)
授業は「全員参加」が原則である。これは当たり前の原則であ る。「でも、クラスには授業についてこれない子供たちがいます。全員参加の授業にすることができません」という先生がいる。他のプリントなどをやらせている。しかし、これは駄目である。できるところできちんとやらせる必要がある。
むしろ、問題なのは、挙手発言だけで授業を進めていることである。いつも発言する子供3,4人だけが発言して、先へ進んでいく。ほとんどの子供が傍観者になっている。こんな授業が多すぎる。
②について(指導言の区別)
教えたいことが多くあるために、ずっと説明していく授業をしている。「おしゃべり授業」と名付けている。授業の8,9割ずっとしゃべっている。しかも、指導言がめちゃくちゃで、発問なのか指示なのか、説明なのか分からない平板な授業。
子供たちは聞いていない。飽き飽きしている。
まず、きちんと「今発問を出しているとき」「今指示を出したとき」「今説明をしているとき」と区別を自覚して授業を進めるべきである。
③について(全体への視線)
発言している子供だけを見て、聞いている。黒板に書いている子供だけを見ている。こんな先生が多い。
それでは駄目だ。発言している子供をちらちら見ながら、他の子供の方を見る。黒板に書いている子供をちらちら見ながら、他の子供の方を見る。
大切なのは、当事者だけではなくて、他の子供たちがどのように当事者の意見や黒板に注目しているかである。
そのことでクラス全体の授業への集中が分かる。
だから、常に全体に視線を向けておくこと。ただ、漠然とみていては駄目だ。
④について(子供たちへの集中力)
いつも「おもしろい」「楽しい」授業をしよう、と意気込むことはない。所詮「日常授業」でそれを実現していくことは無理である。そういう授業を準備する時間もない。
ただ、必要なのは子供たちを引き入れ、集中させていく方法論である。
私が見てきた700人の授業者の中で、一握りの授業者は、子供たちを集中させる授業をしていた。
その授業を分析してみると、共通する授業法を駆使していることが分かってきた。
⑤について(学習規律)
北海道で訪問した学校で、学力向上を果たしている学校が共通に取り組んでいた課題が、学校ぐるみで学習規律を統一していたことである。特に、ノート指導を徹底している学校は軒並み学力向上を果たしていた。ここが大きなポイントになる。
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以上あげた5つの視点が、基本的な技量に関わることであることは明らかである。
だが、多くの教師たちにとって、このような技量を身につけようと試みることはなかったのであろう。
だから、いつまでも授業がうまくならない。
この5つの視点を基盤にしなければ、その上に乗せていく授業の課題などは夢のまた夢になる。
さて、どうして多くの教師たちは、このような技量を身につけられないのか。
もう少しそのことについて考えたい。
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