福山憲市先生とのコラボでの講座であった。
「日常授業の改善」というテーマ。
会場びっしりに先生たちは参加されていた。
午前中2時間は、私と福山先生との対談。
福山先生も、研究主任として学校では「日常授業」の改善というテーマで研究を進めておられる。もうそれしかないということで、研究は進められている。
私の考えとほとんど同じ立場を共有されている。
大きな援軍を得たような気持ちになる。
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日本の授業研究は、今まで「ごちそう」授業の追求という形で進んできたことは間違いない。
その「ごちそう」授業 は、日本全国の学校で「研究授業」という形で具現化されてきた。
最初は、「日常授業」の改善をテーマに始まったはずである。ところが、いつのまにか日頃やっていない授業をお互いに公開して、それを検討していくことになった。
「研究」であるから研究テーマがあり、それに研究仮説がついていく。
これができるのは、極めて一握りの学校に限られるはずである。
他の分野の研究者にとっては、学校でやっている「研究」は、ほとんど「研究ごっこ」であると笑われる。1回か2回の研究授業で仮説などが確かめられるはずはないと…。
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今でも思いだすことがある。
私の初任の最初の研究授業。
私は日頃の授業を見せれば良いと思って、それを見せることで行った。
終わってから副校長先生に呼ばれた。
「野中先生、あの研究授業はいつもの授業だっただろう。それじゃあだめだよ。研究授業というのは、精一杯の教材研究をして、精一杯の準備をして、公開していくものだよ。これからそんな気持ちで研究授業に臨みなさい」
いわゆる「ごちそう」授業 を見せることが研究授業なのだと指導されたことになる。
そんなものかと思い、研究授業は特別な授業を見せることなのだという認識がここでできていった。
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今ではこの研究授業は、学校の行事として定着していて、その意味を問い直すということはなされない。
行事だから、粛々とこなしていけばいいのである。
研究授業は研究授業、日頃の授業は日頃の授業、そのようにきちんと区別されて行われている。
そんなものでいいじゃないかというわけである。
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ところが、毎年の全国の学力テスト実施は、この事態を徐々に変え始めている。
こんなことをしていて、一向に学力が向上していかない。
当たり前である。
日頃行っていない特別な授業を「研究授業」にして、それを互いに検討し合っているのである。
ところが、日頃は「日常授業」が展開されているのである。1000時間以上。
理屈で考えても、学力が向上しないのは当たり前ではないか。
「日常授業」が学力向上のための授業になっていないのである。
こんな当たり前のことに、なぜ気づかないのであろうか。
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福山憲市先生は、5年生の4クラス(140人)で算数の専科をされていた。
「割合」の授業、算数の市販テストで99.8の結果を出される。 これは5年生の割合の授業をした先生にとっては驚異的なこと。
なぜ、こんなことができるのか。
福山先生は、午後の1時間の講座をその答えに当てられる。
5年生の最初の1時間目の授業。どんな授業で始めたのか。
その再現をされた。
これは参加者にとっては驚くべき授業であったはずである。
これならば、やはり「割合」のテストが99.8になるのは可能である。そう私たちは受け取れる。
その授業を毎日やられたのである。
まさに「日常授業」を積み上げられていったのである。
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我々にとっては、やはり名人芸。
とてもマネできる技ではない。
私は「その割合の授業を、みんなができる授業に下ろしてもらえないか。平均は80点でもいい。」と食い下がったのだが、なかなかそれは難しいとのこと。
どうしてもそこにこだわったのは、どんな優れた実践でも、再現性がなければそれで終わるものであると、私は考えているからである。
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