「アクティブ・ラーニング」ということ(1)
「アクティブ・ラーニング」という言葉がどこでも話題になっている。
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文科省は、次期の学習指導要領の改訂でアクティブ・ラーニングをメインに展開することははっきりしている。
文科省は不退転の覚悟で臨もうとしている。
日本がこれから世界の中で生き残っていけるかどうかの瀬戸際の提起であることは明確である。
趣旨も、必要度も、よく理解できる。
これから日本の教育はアクティブ・ラーニング一色で染め上げられるであろう。
しかし、私の思いはそう簡単ではない。
私の中にある「わだかまり」は何だろうか?
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このアクティブ・ラーニングは、2回戦なのだという思いがある。
もう1回戦は終わっている。
ほぼ大失敗に終わったという認識でいる。
「えっ、アクティブ・ラーニングは前にもやったの?」
という声が聞こえてくる。
40歳後半から50歳代の先生しか認識がないだろうが、確かに1回戦はあったのである。
「新学力観」という展開。
1989年改訂の学習指導要領に採用された学力観。
今から26年前になる。
「旧来の学力観が知識や技能を中心にしていた」として、それに代えて学習過程や変化への対応力の育成を重視しようと考える学力観であった。
児童生徒の思考力や問題解決力を重視した。
生徒の個性を重視。
体験的な学習や問題解決学習を推奨し、評価でも関心・意欲・態度を重視した。
教師の役割は、旧来の知識注入の指導から支援・援助への転換をするというもの。
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「指導で」はなく、「支援」「支援」なのだと強調された。
その結果、どうなったのか。
「教えるのはまずい」「子供が嫌がることは無理強いしない」「できないのも個性なのだ」……という言葉がはびこった。
どうしても教えなくてはならない内容(繰り上がり・繰り下がりの計算、かけ算九九、カタカナ、漢字の書き取り、音読など)を無理強いすることがなくなったので、基礎学力はがたがたになった。
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多くの教師たちはどうなったのか。
「二枚舌的授業」をすることになる。
研究授業では、求められている授業をそれなりに披露し、日常授業では、教え込みの授業に終始した。
教える内容は厳然として数多くあるのである。
「支援」ばかりで済ませるわけにはいかない。
だから、必然的に「二枚舌的授業」になっていかなくてはならなかったのである。(「二枚舌」とは悪い表現であるが、そうせざるを得なかった現実があったのである)
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新学力観は、趣旨も必要度も、評価できるものであった。
だが、下に下りていくにつれて、趣旨が矮小化されていった。
総合の研究協力校で授業をした。
私なりにうまくいったと思っていたが、指導主事は、「授業の最初に教師が語っているのは問題である。子供が発しなくてはならない」ということで、私の授業を批判した。
授業の最初は、教師が話し始めてはならない。子供が話し始めなくてはならないというのである。
授業の内容ではなく、このような形式にこだわった。
このように矮小化したのである。
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何が問題だったのか。
①大学の入試改革(本丸)はそのままにして、形態だけを変えよ うとしたこと。
大学入試は、厳然として「知識・技能」をいかに記憶している かのテストだったのである。
②新しい学力観を実践していく授業方法論がほとんど提起されな かったこと。
③基礎・基本の知識獲得をなおざりにしたこと。
①については、今回ははっきり入試改革を行うことを提起している。これがなければ絶対に変わることはない。
②については、まだなされない。これから提起できるのかどうかに関わっている。
問題は、文科省が新学力観の失敗をどのように総括し、代わるべき提起ができるかどうかにかかっている。
③については、全国学力テストでA問題を継続していくことで確保されていくことであろうが、これもまだ不鮮明である。
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