板倉先生の授業~底辺校での仮説実験授業~
仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんが、20数年ぶりに授業をやられた。(2014年の12月号に『高校生の勉強観』でその様子を書かれている)
高校の授業。
その高校は県内でも一二を争う底辺校。
4時間目、「空気を通すもの通さないもの」というもの。
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その4時間目の前の3時間目に、クラス担任の数学の授業を参観されている。
授業が始まっても、なかなか教室に入ってこない生徒がいる。
前の方の一画ではトランプが始まる。
教室へ入ったり出たりウロウロする連中がいる。
視聴率はほぼゼロ。
だが、先生が黒板に書き終わって、「はい、ノートをとりなさい」と言うと、それからノートを取り始める生徒がいることはいる。
教室を見渡したとき、一番明るいのはトランプをしている生徒たち。
一番暗いのは授業に乗ろうとする生徒たち。
どうして暗いかというと、「分かろうと思っても、自分には分かりっこない」という感じ。
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板倉先生の授業。
「どんどん進んじゃおう」という方針で進む。
ところが、板倉先生は致命的失敗をしたことが分かったと書いてある。
生徒たちに黒板を写させなかった。
黒板を写させないから勉強の雰囲気がなくなって、単なる<あてもの>の授業になってしまった。
<あてもの>というのは、前の問題の結果を使う必要がない、単なるクイズみたいなもの。
回路の間に一円玉をはさんだら、豆電球はつくかどうか。
生徒たちは間違える。五円玉も間違える。十円玉も百円玉も間違える。もちろん、当たる場合もある。でも、系統性がない。
「勉強とは黒板を写すものだ」という勉強観。
「教科書にそった勉強をやる」という勉強観。
勉強が最も遅れた生徒たちの勉強観というのは、この2つにあるのだと、板倉先生はしみじみと書いておられる。
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板倉先生は自分の授業の失敗を反省して、このような生徒たちにどうしていくかという提言をなされている。
ほとんどの先生方は、「授業を妨害したり全然授業に乗らない生徒を救う、救いたい」「一応授業に乗ろうとする生徒は、ひとまず放っておく」という方針。
板倉先生は、違う。
全然授業に乗らない生徒への対策は当面あきらめて、「<授業に乗ろうとする生徒>が明るくなるようにしたい」と。
授業に乗らないでトランプをしている生徒の方が明るいというのはおかしい。
授業に乗ろうとしている生徒たちが明るくなれば、乗らない生徒たちの方が引きずられる。
今、乗らないでいる生徒たちの方が明るいから、そちらに引きずられる。「勉強というのは苦しくものだけどやらなきゃならない。だけどできない。やる気にならない」という思いがあるから暗くなってしまう。
だから、そういう状態から、「半分くらいの生徒たちがそれなりに楽しそうに分かって、先生が話をしたら、その半分のうちのまた半分でも話に乗って、<先生、そこ、どうなってんの?>と、途中で聞けるような状態」にもっていきたいし、それは可能ではないかと、板倉先生は提言されている。
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板倉先生の提言は実にまっとうなものだと考える。
多くの先生たちは、授業妨害をする生徒たちを何とかしたいと対処されているが、やはり基本的な方向が間違っている。
暗い生徒たちを少しでも明るくする方向を模索することだ。
目の前の絶望的な状況に、目を閉ざされてはならない。
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