手段を目的と考え違いをしていた~「授業」を問い直す(3)~
1 授業の「良し悪しの基準」とは?
授業の「善し悪しの基準」を、多くの教師たちはどのように考えているのであろうか。
簡単にまとめてみると、次の3つではないだろうか。
①子供たちの多くが挙手をして発表している授業は、良い授業であ
る。
②教師が中心にいなくて、子供たちが中心で主体的に活躍している授業が
良い授業である。
③教師があまりしゃべらない授業が良い授業である。
①がほとんどである。
これを否定的に考えている教師はなかなかいない。
この考えは、「共同幻想」のように教師たちをとらえている。
保護者は、ほとんど全部がこのような基準である。
授業参観で、保護者は「わが子が発表をするか否か」で参観している。
そして、手を挙げている子供が多いと、担任の先生は授業が上手だと判断する。
②③は、基準としてあげるが、ほとんどの教師たちはできない。
そうするためには、多くの時間をかけて子供たちを鍛えていかなくては実現できないからである。
②については、今子供を司会者にして授業をする実践が流行ってい
る。
③については、討論を中心にして進めている授業や子供たちのグループ活動(協同学習)を進めていく実践になる。
2 私たちが考える「授業の良し悪し」基準
私たちが、良い授業の条件として上げるとしたならば、2つある。
これは「味噌汁・ご飯」授業として、「日常授業」をこなしていくための条件でもある。
①きちんとした学力保障ができている。(私たちは基礎的な学力保障と言っている)
②全員参加の授業
①が必須の条件。
これが授業の中心的な目的になる。
だから、1であげた①②③は、目的ではなく、その手段である。
しかし、果たしてそれが目的達成のための手段になっているかと言えば疑問符がつく。
手段と思っていない。
それを授業の目的と考えている節がある。
なぜだったのだろうか?
正直に告白しておけば、実は私もそうだった。
手段を目的と考え違いをしていたところがある。
なぜか?
今のところ、考えられることは次のこと。
①「見栄えの良さ」をどこかで考えていた。
②「見せる」(公開)ためのことを考えていた。
③そういう「授業づくり」をすることが、「技量向上」だと考えていた。
④子供たちの学力向上に真剣に向き合っていなかった。
退職してから、こういうことに気付いていくというのも恥ずかしい限りであるが、正直に告白しておく。
これは、「味噌汁・ご飯」授業を考えなければこういうことに気付かなかったことになる。
3 授業の原点に返って考える
授業とは何か。
原点に戻って考える。
私たちは、「インプット」と「アウトプット」で成り立つのが授業であると把握してい
る。
「インプット」で、新しい課題に出会い、「アウトプット」で練習して、定着させてい
くことが目標になる。
だから、簡単に言えば、「インプット」でどのように課題に出会わせ、「アウトプット」
でどのように練習させ、定着を図るかが「授業づくり」の課題になる。
このためにすべての「授業研究」があるはずである。
私たちは、もう一度原点にかえって考え直してみる必要がある。
常識として考えられてきたことを根本から疑ってみた方がいい。
その場合、「何のために?」という問いかけをすればいい。
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