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2014年11月

登別に行きました!~登別市立幌別小での一日~

  今年になって何回北海道へ来たのだろうと思いつつ、新千歳空港に着いた。
 通い慣れた空港。
 
 ここからすぐに南千歳まで行き、登別行きの特急に乗る。
 

 登別まで50分ほど。
 思ったよりも短い時間。
 
 

 登別温泉。
 この温泉は、日本の中で有数の温泉地。
 
 どうしてこんなに有名なのか。
 

 「ウィキペディア」では次のように紹介してある。

「湧き出る湯量は豊富で1日1万トン。11種類の泉質を有するといわれているが、登別観光協会による泉質の案内は9種類である。泉質は硫黄泉、重曹泉が中心である。」

 なるほど、なるほど。泉質が豊富なことなのだ。

  この日、ホテルの薦めでホテルの裏にある料理屋で夕食をとる。
 新鮮な魚介類に舌鼓を打つ。うまい!

 ★
 翌朝5時に起き、その日の講演の準備をする。
 晴れている。
 
 

 8:50に教頭先生に迎えにきてもらえる。
 学校はすぐ近く。
 
 

 幌別小学校。
  132年の伝統校である。
  きれいな二階建ての学校。

 横浜での鉄筋4階建てに慣れている私にとっては、「うわあ~~きれいな学校だ!」ということになる。
 北海道中を回ったが、ほとんどがきれいな学校であった。
 北海道の人たちがどれほど学校を大切にしているのかがよく分かる。

 まず、目に付くのが靴箱。
 整然と靴が並べてある。
 こんな靴箱は初めてだなと思ってしまう。

 ★
 2校時。
 3年未満の先生たち5クラスを9分ずつ参観する。
 ポケットにストップウォッチをいつも入れているので、それを押しながら参観する。
 
 

 何を見るのか。
 もちろん決めている。
 9つの視点。ここではちょっと公開できない。(笑)
 
 

 最近は授業を見せてもらうことが多いので、漫然と見ないようにしている。
 短時間でクラスの状況やその先生の良さ、問題点が見えなければ、どんなに時間を費やしても見えはしないのである。

 3校時。
 そのほかのクラスの先生の授業を見せてもらう。
 

 3、4分。
 中堅やベテランの先生たちの力量が高いことがすぐに分かる。

 黒板の右上にどこのクラスも日課表が貼ってある。
 きちんと時間が明示されている。
 

 強く私が主張していること。

「朝自習が何時から何時まで、1時間目が何時から何時まで、……給食の時間が何時から何時まで、…そのことをきちんと子供たちが知っている。分からなければすぐに見るということができるようになっていることはとても大切なことです。教室はその時間で動いているからです。その時間管理でスムーズな活動を作ることができます」

 クラスが崩れているクラスは、きまってこの時間管理ができていない。
 だらだら、まったり、のろのろ、…スピードがなくなっている。

 ★
 4校時。
 初任の4年K先生のクラスで、詩の授業をする。
「ごちそう」授業ではない。

「味噌汁・ご飯」授業。
 最近私が主張している「小刻み授業法」での授業になる。
 おもしろい男の子たちがいる。ワクワクする。

 ★
 13:00から1時間だけ、先生たちに集まってもらって話をする。

 「今、授業で問われていることとは何か?」というテーマ。

  ①目ざすべき「良い授業」とは?
  ②授業力の向上のために
  ③今日の授業解説
  ④先生方の授業の感想
 
 

 ④の先生方の授業の感想は、一人ずつの先生方に行う。
  3年未満の先生方には、良いところと問題点を伝える。

 14:00にぴたりと終わって、すぐに講演会場へ向かう。

 ★
 登別市教育研究会の教育講演会。
 登別市の小中の先生方が集まってこられる。300名近く。
 市民会館のホールでの講演になる。

 最近は、このような大きなホールでの講演もあるが、さすがに緊張する。
 演題は、「日常授業の改善を考える」。70分。
 
 短い時間で何が語れるか。
  具体的なことを語る以外にないのである。

 熱心に聞いてもらえた。
 終わって、控え室へ行くときに1人の校長先生から質問を受ける。
 

 控え室に行っても、もう一人の先生が訪ねて来られて質問を受ける。
 熱心な先生方である。感激する。

 ★
 終わってすぐに今度は東室蘭まで幌別小の校長先生と一緒に出掛ける。
 知り合いのK支援課長から懇親会に誘われていたのである。
 
 

 学校力のアドバイザーとしてずいぶん本庁でお世話になったのである。 
 「やあやあ、生きてました~~~」と挨拶。(笑)
 
 

 東室蘭は二度目。
 「ぶたを焼いても焼き鳥」という。
 焼き鳥で有名なところ。
 
 

 ずいぶん飲み、話す。すっかり飲み過ぎる。
 そして、東室蘭から幌別まで電車で帰る。
 つくづく北海道はいいところだなあと思ってしまう。
 

 
 残念だったことは、肝心な登別温泉に入れなかったこと。
 そんな時間が取れなかったのである。

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つれづれなるままに~がんばってほしいな~

  ●目が充血し、これはいかんと目医者へ。
 1年ぶりの充血。いつも左目。
 

  いつもの目医者は、混むのである。待ち時間が大変。
 9:30に行って、1時間30分も珈琲店に行き、そしてまた1時間も待った。
 

  診察。
 「また、いつもの左目ですね。いつも同じところが充血しますね。また、目薬3つ出しておきます」と。
 

  30秒。2時間30分待って、30秒。あ~~あ~~~。 

●ブログに、「悩んでいます」と質問をくれた初任の先生が、返事をくれている。
  とりあえず、3月までは休まず続けることを目標に頑張りますということ。
 うれしいことだ。 
 ★
 ふと思いだしたことがあった。
 40代の10年間、フルマラソンにいそしんだことがある。
 

  1年に1回、いつも11月の末に走った。
 10回走ったことになる。
 
 

  8月ごろから準備を始め、9月、10月にはそれぞれ300キロ程度走り込む。
 市民ランナーは、いかに距離を踏んだかでタイムが違ってくる。
 

  50歳の時に、最後のフルマラソンで、3時間45分で走っている。
  ★
 フルマラソンから学んだことがある。
 どんなに練習をしても、35キロからゴールまでの7キロは辛い時間になる。
 
 

  30キロまではあんなに軽やかに走れたのに、この距離は辛い、辛い時間になる。
 常にそうであった。
 
 

  この苦しさは、たとえようがないもの。
 誰かが女性が子供を産むときの苦しさと同じだと、教えてくれた。
 
 

  この7キロを走っているとき、この苦しさから逃れようとさかんに止める理由を考える。
 その理由がないので、仕方なく走り続ける。
 
 

  立ち止まって歩き始めたら、もう二度と走り続けることができないからだ。
  このような葛藤を繰り返して何とかゴールにたどり着く。
 この繰り返しが、フルマラソンだった。

 そこから学んだことは、必ず35キロからの辛い時間があること。 
 
 でも、ゴールしたあとに待っているのは、やり終えた満足感や我慢したあとの爽快感であった。
 そのために、10年間フルマラソンにいそしんだことになる。
 ★
 ブログに質問をくれた若い先生も、今35キロからの7キロを走っているのだ、と。
 これからの人生では、何度かこのような事態は訪れる。

 でも、走りきった経験は、多くの糧と、たくましさを身につける。
 志さえ失わなければ、きっとこれからもちゃんと生きていけるのである。

 がんばってほしいな。

●今回、高倉健さんの「あなたへ」と「鉄道員(ぽっぽや)」を見る。
 やはり、健さんらしさを引き出しているのは、「鉄道員」だなと思う。
  
 

  淡々と進む画面から、悲しみが浮き出てくる。
 健さんの代表作ではないだろうか。


●27日から北海道の幌別小学校へ行く。
 登別温泉のあるところ。
 これもアドバイザーとしての仕事である。  

  この3年間で北海道の各地を訪ねた。
 多分北海道に住んでいる人たちよりも、私の方が北海道中を回ったことであろう。
  すっかり北海道にはまり込んでいる。

 今回も多分雪の登別ではないか。
 ちょっと期待して……。

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授業術の本が、重版になる!

  『新卒教師時代を生き抜く授業術』(明治図書 野中信行・井上雅一朗著)が

 3版の重版になった。

 買っていただいた方、ありがとうございます。

 Jyugyoujyutu

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つれづれなるままに~健さんが亡くなった~

●8日、東京の神保町に出掛ける。
 本屋街のあの街である。
 

  13:00からマンダラートの今泉浩晃先生の講演。
 以前から一度今泉先生の話を聞きたいと願っていたので実現する。

 最近は、今泉先生は本を出されていないので、マンダラートについては知らない人が多い。
 このマンダラートは宗教ではない。
「考える」ツールとして開発された画期的な方法である。

 私は退職してから、このマンダラートに巡り会った。
 「考える」ことについてずいぶん助けられる。
 この方法で、「味噌汁・ご飯」授業はほとんど全て考えてきたのだと思う。

 それまでは、何かのテーマを考えるときには、いつもさまざまな本を読むという作業から入ったのだが、それをしなくなった。
 

  今泉先生は、もう自分の中には蓄えがいっぱいあるのだから、自分で考えるという作業をすることなのだと、強く主張されている。
 その考え方を指南されている。
  ★
 講演が終わって、懇親会に誘ってもらった。
 もう今泉先生は80歳になられる。
 デザイン関係の仕事をされている。
 

  長寿の秘訣は何ですかという問いに「歳を考えないようにしている」と。
 かくしゃくとされていて、まだまだ現役のばりばりである。
 
 

  私は、ぜひとも再びマンダラートを書物にしてほしいとお願いした。
 帰りは新宿まで一緒する。
 颯爽と帰って行かれた。
 

  私が生きていて80歳になったとき、あのように振る舞えるであろうか。
 そんな思いになった。

●11月16日(日)の天声人語から。

 ★ ★ ★
 山あり谷ありだっただろう人生の最終章を楽しく過ごす達人に多く出会った。
 彼らから得たのは「笑うが勝ち」という教訓だ。来し方、そして今を肯定しよう。そんな思いが自分史額に結びついているのだろう。▲詩人田村隆一の詩句がふと浮かぶ。
<人生痛苦多しといえども/夕べには茜雲あり/暁の星に光あり>。題を「生きる歓び」という。
 ★ ★ ★

●高倉健さんが亡くなった。
 今日は悲しい一日。

 学生時代、映画館で、健さんのやくざ映画を見た。
 あの頃は、オールナイトで、安酒を飲んではみんなで映画館に繰り出した。

 一番の前の席に座り、わいわいとにぎやかに映画を見た。

 映画の中で、健さんが、敵のヤクザを追いかけてきて、きょろきょろとする。
 私たちは「右!右!」と叫ぶ。
 健さんは、右の方へ走って追いかけていく。
 場内からどっと拍手や歓声が出る。

 今ではこの盛り上がりをとても想像ができないであろう。
 良き時代であった。

 健さんは、私たちにあの良き日の思い出を残して去って行った。
 

 

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斬新すぎてイメージがわきません(3)~K先生の国語授業について~

  ゆたQさんから質問のコメントがついた。
 いつもありがとうございます。

 ★ ★ ★
日常授業の研究会、すばらしい取り組みだと感じました!私もそこから学びたいと思ったのですが、質問があります。

国語の授業で課題とまとめを同時に板書するというのはどういうことでしょうか?

斬新すぎてイメージがわきません。それは学校体制でやっていることなのでしょうか?

教えていただければ幸いです。よろしくお願いします。
 ★ ★ ★

 私のブログの次のところに反応されたのであろう。

「②「学習課題」と「学習のまとめ」を同時に板書している。
   児童が何をめあてに読みを深めていけばいいか、本時ではどこに到達す

    ればいいかが明確になっている。
   このような国語の授業は、初めての提起ではないか。」

 私もK先生の授業は見ていない。
 一緒に行った小島先生からの話である。
  聞けば聞くだけ、ぜひとも見てみたいと思ったものである。

 指導案を見る。

 学習課題は次のようになっている。

 「団子を食べたことで、二人と紺三郎の関係はどのように変わったかを読み取ろう」

 そして、「学習のまとめ」は次のようになっている。

 「団子を食べる前は(     )だったが、食べた後は(     )という
  関係に変わった。」

 最初に学習課題が設定され、そして本時がどこへ到達すればいいかということで、「学習のまとめ」が提示される。
  だから、本時がどんな読み方をしていけばいいかが明確に示されるということになる。
 
 この方法は、国語の他の先生方の指導案でも確認できることであるので、他の国語授業にも広がっているではないかと予想される。

 授業の最初に、到達する「学習のまとめ」が示されている。
 こんな授業は、今まで見たことがない。
 
 今までの国語授業の曖昧さを克服しようという画期的な方法である。
 


 今まで国語授業で、子供たちがどれほどの学力を身につけたか。
 教えている教師自身が、子供たちにどんな学力を身につけさせたか。
 曖昧なままできているはずである。
 
 そこで、このような提案がなされたことは、大きな問題提起になっていると、私には思える。

 指導案に書かれている板書計画を上げておきたい。(ちょっと不鮮明になっています.。左クリック2回押してもらえば拡大できます。
 どんな授業だったか、予測がつくと思われる。

 この中で使われている「心情語」は、『「味噌汁・ご飯」授業 国語編』(明治図書 野中信行・小島康親編集)のP113に載せておいたものである。
 
 

  K先生はこれを使ってみごとに授業に取り込んでおられる。
 しかも、この「心情語」を教室に掲示されている。
 プラスの心情は赤、マイナスの心情は青、どちらでもないものは黄色と色分けしてある。 
  これは私たちの提案よりもさらにレベルアップされていることになる。

 

Photo_4

 

  以上のブログを出したところで、橫藤校長からゆたQさんへコメントが出された。それも合わせて掲載しておきたい。

 ★ ★ ★

 大曲小校長の横藤です。ゆたQさんのコメントに私からお答えします。

(1)課題とまとめの同時板書
 授業のはじめに子供にある活動(音読表現の違いだったり、発問による予想分布の違いの確認だったり)をさせ、課題を顕在化させてから、まず課題を板書します。
 そして、「じゃあ、この1時間の終わりに何が分かれば(言えれば、はっきりすれば)いいのかな?」と問い、黒板の後方にまとめのフォーマットを示すのです。
 今回の公開授業の場合は、5年生「雪わたり」で四郎とかん子という2人の人間の子供が、紺三郎というきつねと近づいていく場面でした。そこで授業者のK教諭は、課題として「団子を食べたことで、二人と紺三郎の関係はどのように変わったか読み取ろう。」をまず提示しました。
 そして、その調べ方として心情語を使うことを確認し、「では、まとめはこうなりますね。」として、「団子を食べる前は (   )だったが、食べた後(   )という関係に変わった。」というまとめのフォーマットを示したという訳です。
 これは、K教諭ら数人が私と共に秋田県に視察に行った際に見た授業にヒントを得たものです。

(2)学校体制でやっているのか
 はい。
 これに限らずユニットで授業を組むことやフォローを意識すること、そして課題とまとめを明快なものにすることなどを、学校全体の取組としてやっております。学習規律やノートの約束も全校で統一しております。
 しかし、本校は若い教師が多く、また毎年転勤者も多く、まだすべての教師がいつも実践できているという状態では残念ながらありません。全校体制でやろうとし、一部できつつあるものの、安定した実践にはまだまだ時間がかかりそうだというのが実情です。
 そこで、これはゲリラ的にですが、よく校長室で「課題道場」を開いています。授業者が考えた課題やまとめを板書し、模擬授業風にそれらをつなぐ活動の指示を言わせます。それを数人で検討し、「課題はこの言葉の方がいい。」とか「このまとめでは、課題に正対していないのでは。」とか言い合うのです。これを1時間の授業につき、5~10分程度で行います。これはかなり効率のいい授業準備になっていると感じています。

 

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どんな授業が展開されたのか!(2)~大曲小での公開授業研究会~

  大曲小の公開研究会に参加した私と小島康親先生は、それぞれ手分けして授業を参観した。
   ★
 小島先生は、国語の授業を参観された。

1 5年生のK先生の「雪わたり」の国語授業。
  
  小島先生のメモ書きからまとめてみる。

 「味噌汁・ご飯」授業として提起されている。
  ①全員参加の授業
  ②学力の保障がきちんとなされている。

 ①、②の2つのことが見事に生かされている授業である。
 
 ●「授業の組み立て」での特徴
  ①3本立てで成立するユニット型。
   ア、漢字学習(全員)
   イ、音読(全員)
   ウ、本時の課題追求の学習
      アとイについては必ず毎時間学習するように授業の中に組み込んでいる。
   
  ②「学習課題」と「学習のまとめ」を同時に板書している。
   児童が何をめあてに読みを深めていけばいいか、本時ではどこに到達すれば
   いいかが明確になっている。
   このような国語の授業は、初めての提起ではないか。

  ③「心情語」が使われている。
   私たちが「味噌汁・ご飯」授業本の中で提起した「心情語」が登場人物の
   心情の変化に見事に使われている。
   

● 「全員参加」についての教師の配慮
  ①音読について……7回の音読がなされている。
      自分の席で1回、橫に移動して1回、黒板の前で1回、自分の席で1回、
   代表が読む1回 そして後半にペアで読む2回

  ②ネームカードを使って、全員が参加する。

  ③「一人学習」でノートにまとめる。

2 3年生のI先生の算数の授業「かけ算の筆算(1)」

    「全員参加」の考えが随所で徹底されている。

●「授業の組み立て」での特徴
  〇ユニット型の構成になっている。
       ア、フラッシュカードでウォーミングアップ
   
    イ、学習過程が「見通す」ー「思考の深化」で成立。
     ・本時の学習課題の導き出し方…子供たちに考えさせている。
     ・間違い探しで理解の深化を図っている。
      
    ウ、本時の学習課題が明確に提出されている。

● フォローを授業の中にシステムとして位置づけている。
  「すごくいいですね」「すばらしい」「りっぱだね」「なるほど」「さすがあ」
  などの評価言が活動のあとには必ずかけられる。

    ★
 私たちが授業で注目したのは、その「授業スタイル」であった。
 とにかく、テンポがいいのである。

 参観されている先生方には、「速すぎるのではないか」と思われた方はいるのではないか。
 私たちは違う。
 
「ゲーム」で育っている子供たちにとっては、この速さが快いのである。

 私たちが現役の頃は、おおまかに言えば「発問中心に構成される授業」をしていたのである。
 その発問に多くの子供が発表する。
 できれば、討論ができるようにしたい。
 そのような授業を目指していたのである。

  でも、ゲーム世代の子供たちにとっては、もうそんな授業をじれったいと感じるのではないか。
 また、そんな授業では、「全員参加」の授業を構成することもできない。
 2人の先生の授業を、シンプルに簡略してまとめてみれば次のような授業になる。

 1指示(あるいは1発問)→ 1活動  → 発表(あるいは確認)→ フォロー

 

今までスモールステップの繰り返しと言われていたものである。
 

私は、この一連の流れをシステムとして繰り返していく授業法を「小刻み授業法」と名付けたい。
 
 

この授業法は、教科の授業法である。
 生活科や総合には使えない。

 私たちが参観した2人の先生の授業は、この「小刻み授業法」を駆使してみごとな授業に構成されていた。
 ここには、新しい授業スタイルをもった実践家が育っているのだと、そんな気持ちになった。

 ★
 「みごとな授業」という表現を使っている。
 戸惑われる先生方は、多いと思う。
 

「ごちそう」授業 を数多く見られてきた先生たちは、特に不満を持たれるのではないだろうか。
 
 

発想も考え方もすべてを転換しなくてはならない。
 
 

私たちが目指しているのは、今日も行い、明日も行う日常の5,6時間の授業の充実である。
 この「日常授業」を豊かにしたい。
 
 

  80点以上の授業なんて目指さないでいい。
 毎日そんな授業を目指したら息切れしてしまう。
 70点の授業で充分。
 
 

  でも、「きちんと子供たちに最低限の学力保障をする」「全員参加」の授業をする。
 そのためには、「おしゃべり授業」を克服しなければいけない。
 それが「味噌汁・ご飯」授業である。

 どんなに忙しくても、「日常授業」がしっかり充実しておけば教師たちは元気になれる。
 それが教師としての仕事の根幹であるからである。


   
 

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おそらく日本で初めての公開授業研であった!①~北海道大曲小でのこと~

   おそらくこんな公開授業研究会は、日本で初めて開かれているはずである。

 12日に北海道の北広島市の大曲小学校へ行く。
 橫藤雅人校長の学校である。
 
「北広島市教育研究会研究中心校発表会」。
 当校の職員含めて227名の参加者を集めているのである。
 
 

 今回は、公開授業研究会の一般参加として訪問する。
 橫藤先生から公開授業研究会の話を聞いて、すぐに「参加します」と伝えた。
 「味噌汁・ご飯」授業本の編集者の一人である小島康親先生と一緒に参加する。
 ★
 「日本で初めての公開授業研究会」と書いた。

 この学校の研究会テーマ、研修内容を見てほしい。

 「研究会テーマ」
  日常授業の充実に向けた研修の持ち方について
   ~最低学力保障の取組と授業スキルの向上を目指して~

  研修内容がまたいい。

 「研修内容」
  キーワード 子供たちが自信をもつため、
            「ごちそう授業」から「味噌汁・ご飯授業」へ!
 (1)最低学力保障の取組と日常授業の改善
   「検定」や基礎的指導を含めた授業構成と「味噌汁・ご飯授業」を意識した
    日常授業の充実を目ざす。
 (2)全員参加の校内研修の在り方
    参加者が受け身ではなく、主体的に取り組み、実践に役立てられるよう「ワークショップ型」の研修による日常実践の充実を図る。

  全員の先生たちが授業をされた。
  そして、次のようなテーマごとに分かれて、ワークショップ型の話し合いで構成される研究会なのである。
 
   1 「音読・漢字」指導に向けて
  2 「学習規律・立腰」の指導
  3 全員参加の授業に向けて
  4 学習ツールと意欲化の取組
  5 発問・指示・説明
  6 「板書・ノート」指導の工夫
  7 ユニット授業・授業づくり
  
  すべてが具体的である。 
  ★
 「内容はまだまだですので、あまり期待しないでください」と言われた。
 そんな問題ではない。
 こうした研究会が始まったことが、特筆することなのだと、私には思える。
 


 今、子供たちに何が必要なのか?
 先生たちは、どのようにして授業技術を高め、どんな授業をしていくのか?
 そんなメッセージが研究会テーマや研修内容の随所に込められている。
   ★
 特筆することだと書いた。
 どこなのか。4つある。

 ①研修会であるということ。
  研究会となっているが、実際には研修会と位置づけてある。
  研修なのである。
  

  研究として仮説を設けてやっていくなどということがない。
  
  もう、私は学校で何か研究をすることなど止めていくべきだと思っている。
  実際には、研究などできていないのが実情である。
  習慣としてやっているだけにしかすぎない。
  
  

  研究テーマと研究仮説を設定し、一人1回の研究授業をし、最後には研究紀要をまとめてそれで終わりにする。
  ほとんどがこんな研究をしている。
  
  それでどうなったのか。
  

  それはよく分からない。
  研究紀要の研究結果を見ても、簡単にまとめてあるだけで分からない。
  
  

  子供の学力が向上したのか。
  先生たちの授業力が向上したのか。
  さして変わらない。
  
  

  結局、運動会や学習発表会などと同じように定期行事の1つとしてやっているに過ぎないのである。
  研究など普通の学校でできることではない。
  年に1,2度の研究授業をやって研究などできない。
 
  

  そんなことより研修を深めていくべきである。
  大曲小は、そういう位置づけをしていると考えられる。
 
 

 ②「日常授業」の提案であること。
  研修内容が、「日常授業」を対象にされている。
  
 

  「ごちそう」授業 の追求ではない。
  「日常授業」をどう高めていくかである。
  
 

  今まで、このような公開の授業研究会は「ごちそう」授業 の発表会であった。
  日頃やっていない、飾り立てた授業を公開するということで行われてきた。
  
  それをはっきり止めていくと宣言されていると、私には思える。
   
  私たちが提唱した「味噌汁・ご飯」授業がその対象として採用されている。
  うれしいことである。

 ③授業検討は分科会方式で行われたこと。
  テーマごとのワークショップで、参加した先生たちと「日常授業」の検討をし
  ようという提案である。 
   
  今までは提案する側と参観する側とはっきり区別されてきた研究会だったが
  そうではなく、共に参加する会にしようという提案である。
  研究会にも「全員参加」の精神が込められている。

 ④最低学力保障の提案があること。
  大曲小は、さまざまな問題を抱えている子供たちが登校している。
  学力も決していい方ではない。
  多くの先生たちが悪戦苦闘して闘っている。
  
  

  その中で、どんな学力を子供たちに保障していくのかをはっきりと明示している。
  このことは、何にも増して特筆すべきことになる。

   ★
 その日、授業研究会が終わったあとに、橫藤校長や教頭先生と一緒に反省会が持たれた。その後、ホテルの私の部屋で、えんえんと授業の反省会をする。
 終わったのは、ちょうど12時。
 

 私も、小島先生も、参観した授業にいささか興奮していた。
 

 K先生の国語の授業を参観した小島先生は、「すごい授業だった!」「初めてあんな国語の授業を見たよ!」と言われた。
 

 横浜で校長として長く国語授業の講師をされてきた小島先生が、そう言われるのである。
 
 

 私も、I先生の算数の授業を参観していた。
 テンポの良い、みごとな授業。
 「フォローがあのように繰り出されていく算数の授業を初めて見たよ!」と。

 今まで見てきた「ごちそう」授業 ではない。
 そこには、「日常授業」として展開されているはずの授業があった。

 「味噌汁・ご飯」授業として描いていた私たちの構想が、こうして具体化されているのである。
 
 

 次回は、もう少し授業の内容をお伝えしたい。
 


 

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時代が変わっている!子供が変わっている!

   堀裕嗣先生が、フェイスブックで次のように書いていたことに注目した。

  ★ ★ ★
今日、隣の学校の新卒さんが半日僕の授業を参観しに来た。新卒さんと言っても新卒ではなく、臨時採用を7年間経験した29歳の新採用。僕らの研究会にも何度も参加してくれている若者である。朝、職員室から4階まで昇っていき、生徒たちが教室で朝読書を始めたのを確認して、二人で教育相談室に行った。僕が日常的に自分の居場所にしている小部屋だ。ソファに座って話し始めた
彼は言った。
「もうここまででも来た甲斐がありました。ものすごく勉強になりました。」
僕は「?」である。
「何が?」と訊くと、「生徒たちとの接し方です。」と彼。...
ああ、なるほど。僕にとっては当然の間合いの取り方とか、言葉がけの仕方とか、そういうことを言っているらしい。
まず、二人で階段を昇っているときに、遅刻してきた5組の女子が階段を昇っていた。1分程度の遅刻である。僕は横に並んでだんだん間合いを詰めていった。「嫌いだなあ。こういうチョロ遅刻…。」とニコニコしながら言う。「ごめんなさいごめんなさい。」と彼女。「まあ、じゃんけんでオレに勝ったら許してやる。ただし、オレが勝ったら一発ね。」と僕。最初はグー!じゃんけんぽん。僕はパー、彼女はチョキ。僕は瞬時に、「5対2でオレの勝ち!とうー!」と言って、彼女の頭をぽかり。即座に逃げた。「ずるいずるい」と女子生徒は笑顔で追いかけてくる。4階に昇ったところで「明日から遅刻すんなよ~」と声をかけると、「は~い」と彼女。一つはこのやりとり。
その後、4階を巡視していると、階段を昇ってきた2組の男子生徒。こちらは3分程度の遅刻。既に2組の教室には担任が入っていたので、引き渡しがてら、他の生徒たちにも聞こえるような声で、「よし、申し訳なさ100パーセントで教室に入っていけ」と伝える。生徒たち全員がその子に注目。「すいません…」と入って行く。間髪を入れず、「ダメだ。申し訳なさ感が足りない。やり直し。」と僕。ダメ出しを繰り返し、5回目でやっと合格。教室は大盛り上がり。ちょうどチャイムが鳴り、朝読書が始まった。
新卒さんは「どうしてあんな対応なんですか?」
そう訊かれても困る。僕のキャラクターに過ぎない。ただ、正面から対峙しないことは大切だ。たいしたことでもなく、本人もまずいなと思っているところに、正面から対峙したのでは生徒も教師もきつい。正面から対峙して説教するのは、こういう指導が繰り返されたにもかかわらず、常習化したときでいい。要するにそういうことだ。
 ★ ★ ★

 「僕のキャラクターに過ぎない」と書かれている。
 そうとばかり言えないなというのが、私の感想。
 
 ここには、きちんと原理・原則が存在すると、私はとらえている。

 ちょっと長いが、堀先生の「生徒指導10の原理・100の原則」から引用したい。

 ★ ★ ★
 私は1966年生まれですが、私の中学校時代は校内暴力の真っ只中で、廊下には竹刀をもった生徒指導の先生がいたものでした。何が悪いことをしたときにも、自分の話などはほとんど聞いてもらえず、とにかく怒鳴られる……そういう指導を受けてきたものです。別に当時の先生方には恨みはないですし、それで良かったとは思っていますけれども……(笑)。
 実はこのことは、私の受けてきた教育からもいま私たちが行っているような教育へと、時代がシフトしてきたことを示しています。つまり、「中学生らしい生活態度」や「あるべき学生の姿」のような理念を前面に押し出し、「こうあるべきである!」といった指導から、生徒たちに嫌な思いや疑問を抱かせることなく、周りに迷惑をかけたり周りから非難されるような生活態度を改めさせていく指導へ、というシフトです。教師の指導姿勢として考えれば、要するに「これが正しい」というメッセージをひたすら投げかける指導姿勢から、<マクドナルド>のようにそうとは気づかせないままに目的を達成する指導姿勢へと変化してきているわけです。東浩紀は前者を「規律訓練型権力」、後者を「環境管理型権力」と呼びました。(『自由を考える』東浩紀・大澤真幸、NHKブックス、2003年)。そして、私も、こうした教師の指導姿勢のシフトについて、方向性としては間違っていない、と感じています。ただし、私は「管理」という言葉が教育に導入するときにはちょっときつい言い方だと感じていますので、同様のことを「規律訓練型権力から環境調整型権力へ」という言い方をしています。
 私は先に「インクルージョンの原理」において、教師が自分自身を生徒に規範へと導く指導者と捉えるのではなく、生徒自身がよりよく成長したいという願い実現していくための<環境>の1つ(要素)と位置づけて捉えることが必要だと述べましたが、こうした自らを生徒の成長を促す環境の1つと捉える教師像は、本項で述べた「教師は規律訓練型権力の発動から環境調整型権力の発動へと移行した方がよい」という理念に基づいています。それは、生徒に対して絶対正しい唯一の在り方を強制するのではなく、自分も含めて生徒を取り巻く様々な環境を調整していくなかで、少しずつ目的を達成していく指導の在り方を追究することなのです。
 ★ ★ ★

 長い引用で申し訳ない。
 大事な指摘なのである。

 時代が変わっている。子供たちが変わっている。
 何が変わっているのか、どのように変わっていくべきなのかが指し示されている。

 50代の力量のあるベテラン教師のクラスが学級崩壊の憂き目にあっているのは、このことを理解していないためである。

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悩んでいます!~このように答えてみました~

   「悩んでいます」という次のようなコメントをいただいた。
 すでに、いつもコメントをもらう愛知の先生よりコメントが来ています。
 ありがとうございます。
 
 

  読まれた方、高校の先生の悩みですので、このようにコメントをいただければありがたいです。
  ★
 私は公立の小学校の経験しかなく、高校しかも私立の高校だということで、ちょっとどういう状態か想像ができないところであります。
 だから、一般的にしか書けないことをまずお断りしておきたいと思います。
 
 まず、コメントはつぎのようなもの。

 ★ ★ ★
今年から、新任で私立高校の教員をしています。
担当は音楽、他に音楽の教員が2名おり、合計3名で回しています。
(人員の関係上、芸術は生徒全員強制的に音楽しか出来ないそうです)

受け持ちは教科が1学年8クラス、2学年3クラス、
副担任は教科を持っていないクラス2学年2つなので合計13クラスになります。
1クラス36人くらいです。
(副担任のうち1クラスは荒れすぎて誰も持ちたがらないクラスでした…)

校長が合唱部を作って欲しいとの事で、合唱部も作りました。
他2名の音楽教員(うち一人は管理職です)は
「荒れているから無理」と30年間ずっと断っていたそうです。
入学式の時、2、3年生が1年生の為に全く歌えず、指揮もピアノ伴奏も長らく先生任せ…の酷い状態でした。2名先生方の仲もあまり宜しく無い様です。

他の音楽教員から必要以上の嫌がらせを受けない様、
楽譜や譜面台、その他自主研修費等、部活に係る出費は自分の給料から出し、
部活の手当等は貰っていません。
もちろん勤務時間表も残業代が出ない様、指定時間で働いているという事にしております。
お給料も幾らもらっているの?と先輩方に良く聞かれますが、15万ほどです。

誰も歌を歌いに来ないだろうと言われた状態から、道筋は見えて来たのですが、
同僚との関係が上手く行きません…。
授業やその他(一人でも校門に立って挨拶するなど)に関して反対されても
前例と違う事ばかりやってしまった所為か
何となく非協力的で嫌われている様に感じます。先日も「○○さんの、こういう所直した方がいいわよ~。噂になってるし(要約)」と書かれた紙が机の上にあがっていて、
思わず破いてしまいそうになりました。もちろん、教えてくださってありがとうございますと、すぐ直しましたが、勤める前に「新人がすぐやめるから止めないでください、ここの先生はここしか知らないから」と聞いていたのですが、もしかしてこの事かな・・・・と考えてしまいます。

高校は同僚との関係もうまく納められないと仕事上大変ですよね…。
幸いな事に公立を経験してこられた非常勤の先生がいらっしゃって
生意気な考えにも色々話を聞いてくださるのですが、来年から余所へ行かれるそうで、不安です。

前から勤務されている先生方の「生徒の為」に良く頑張っていらっしゃる所は尊敬しています。
荒れた高校でもそれなりに続いているのは先輩方の努力の賜物だと思います。
どちらかというと、自分は「生徒の為よりも音楽の為」にやっている所がありますので…。

最近は何となく元気が出ず、職員室へ行くのが憂鬱です。

投稿: 悩んでいます。 | 2014年11月 5日 (水) 22時47分
  ★ ★ ★

 音楽に熱意をもった先生です。
 新任ですでにこれだけの試みをされているのですね。
 やはり、目立っているので、何かと噂になっていることでしょう。

 初任の先生は、主に3つの悩みを持ちます。
 

  1つは、クラスの子供たちとの関係についての悩みです。
 2つ目は、クラスの親との関係についての悩みです。
 3つ目は、同僚の先生たちとの関係の悩みです。

 コメントの先生は、この3つ目の悩みですね。
 
 新しい学校へ行ったときに、一般的に行わなければいけないことは3つのことです。
 
 

1つ目は、学校の様子を知るために1年目は目立った動きはしないこと。
 

2つ目は、その学校の良いところをできるだけつかむこと。
 

3つ目は、自分と波長が合う先生と知り合うこと。

 
 1つ目のところですね。
 荒れた学校で、そこの学校を何とかしたいという熱意がコメントの先生にはあります。
 
 

  しかし、その熱意を包んであげられる度量がその学校の先生たちになければ「あの先生、初任なのにいきがって何をやってるんだろうね!」ということになりがちです。
 組織は、必ずそういう要素を持っています。
 
 

  動くことがちょっと早すぎたのかもしれません。
 学校をつかまなければいけないのです。
 どんなところをつかむのか。
 


 ①その学校で管理職は信頼に値する先生なのか。
 
 ②その学校を実質的に動かしている先生は誰か。(管理職以外)
 
 ③その学校が特に力をいれて取り組んでいることは何か。
 
 ④その学校の職員会議で話されていることはどんなことか、その様子はどうなのか。
 
 ⑤その学校の先生たちの自由度はあるか、自分たちの意見が反映される学校なのか。
 など
 
 

  そこで自分ががんばれる内容、場所などがあるのかを見極めていく。
 初任の先生だから、まずその前に自分の目の前のことに一生懸命にならなければいけないですね。

 2つ目です。
 異動した先生や初任の先生は、すぐにその学校のマイナス面は見つかります。
 欠点はすぐに見えるのです。
 
 

  そして、それをすぐに口にしてしまいます。
 今までいた先生たちは、おもしろくありません。
 
 

  マイナス面は、意外と今までの自分の経験がなかったところが多いのです。
 そんなことより、良いところはないのかどうかを探すことです。
 
 

  それが見つけられたら、今までいた先生たちにそれを伝えるようにするのです。
 そのことで、今までいた先生たちは、自分たちの仲間にしていくのです。
 
 

  3つ目です。
 これはとても大切なことです。
 

  自分の意見を心置きなく話し合える人と一緒になれることは大事な要素です。
 
 非常勤の先生がおられるのですね。
 

  この学校のこととか、この学校でやっていけるのか、この学校に未来はあるのかなどいろいろと率直に聞いた方がいいですね。

 1つの学校で3年が目安です。
 自分がやりたいことがすぐにできるはずはないです。
 まずじっくりとあわてないでやってみることです。
 
 

  そこで、その学校でやっていける未来があるのか、判断すればいいですよ。
 すみません。悩みの答えになっていませんね。

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手段を目的と考え違いをしていた~「授業」を問い直す(3)~

   1  授業の「良し悪しの基準」とは?                                              
                                                                             
 授業の「善し悪しの基準」を、多くの教師たちはどのように考えているのであろうか。
                                                                              
 簡単にまとめてみると、次の3つではないだろうか。                            
                                                                              
                                                                              
    ①子供たちの多くが挙手をして発表している授業は、良い授業であ 

   る。          
                                                                              
    ②教師が中心にいなくて、子供たちが中心で主体的に活躍している授業が

   良い授業である。                                                   
                                                                             
    ③教師があまりしゃべらない授業が良い授業である。                           
                                                                              
                                                                             
 ①がほとんどである。                                                         
 これを否定的に考えている教師はなかなかいない。                              
 

 この考えは、「共同幻想」のように教師たちをとらえている。
 

 

 保護者は、ほとんど全部がこのような基準である。
 授業参観で、保護者は「わが子が発表をするか否か」で参観している。
 そして、手を挙げている子供が多いと、担任の先生は授業が上手だと判断する。                     
 

 ②③は、基準としてあげるが、ほとんどの教師たちはできない。                  
 そうするためには、多くの時間をかけて子供たちを鍛えていかなくては実現できないからである。                                                                  
                                                                             
 ②については、今子供を司会者にして授業をする実践が流行ってい

  る。            
                                                                              
 ③については、討論を中心にして進めている授業や子供たちのグループ活動(協同学習)を進めていく実践になる。                                                   
                                                                              
2 私たちが考える「授業の良し悪し」基準                                        
                                                                             
 私たちが、良い授業の条件として上げるとしたならば、2つある。                
  これは「味噌汁・ご飯」授業として、「日常授業」をこなしていくための条件でもある。
                                                                              
 ①きちんとした学力保障ができている。(私たちは基礎的な学力保障と言っている) 
 

 ②全員参加の授業                                                            
                                                                              
  ①が必須の条件。                                                            
 これが授業の中心的な目的になる。                                             
 

 だから、1であげた①②③は、目的ではなく、その手段である。                                                                           
  しかし、果たしてそれが目的達成のための手段になっているかと言えば疑問符がつく。                                                                           
 

 手段と思っていない。                                                      
 それを授業の目的と考えている節がある。

 なぜだったのだろうか?
 
 正直に告白しておけば、実は私もそうだった。
 手段を目的と考え違いをしていたところがある。

 なぜか?
 今のところ、考えられることは次のこと。

 ①「見栄えの良さ」をどこかで考えていた。
 ②「見せる」(公開)ためのことを考えていた。
 ③そういう「授業づくり」をすることが、「技量向上」だと考えていた。
 ④子供たちの学力向上に真剣に向き合っていなかった。                                       
 

 退職してから、こういうことに気付いていくというのも恥ずかしい限りであるが、正直に告白しておく。
 

 これは、「味噌汁・ご飯」授業を考えなければこういうことに気付かなかったことになる。                                                                              
             
3 授業の原点に返って考える                                                   
                                                                             
 授業とは何か。                                                               
  原点に戻って考える。                                                      
                                                                              
 私たちは、「インプット」と「アウトプット」で成り立つのが授業であると把握してい
る。                                                                           
 「インプット」で、新しい課題に出会い、「アウトプット」で練習して、定着させてい
くことが目標になる。                                                          
 

 だから、簡単に言えば、「インプット」でどのように課題に出会わせ、「アウトプット」
でどのように練習させ、定着を図るかが「授業づくり」の課題になる。               
                                                                             
 このためにすべての「授業研究」があるはずである。                            
                                                                             
 私たちは、もう一度原点にかえって考え直してみる必要がある。                  
 常識として考えられてきたことを根本から疑ってみた方がいい。                  
 その場合、「何のために?」という問いかけをすればいい。                        
                                                                              
                                                                              

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なぜ毎日授業をしているのに授業がうまくならないのか(2)

   なぜ、毎日授業をやっているのに授業がうまくならないのか。
 
 

 それは、1つに「指導書に頼り切って自分なりの基本型の授業を身につけていないから」ということ。

 反論が返ってくる。
 そうは言うけど、毎日の多忙さははんぱではない。
 その中で、満足な教材研究の時間など取れない。指導書に頼り切ってしまうのは仕方ない。

 確かにそうである。
 毎日は、ほとんど時間がない。
 勤務時間に1時間の教材研究の時間さえも取れない。
 指導書を参考にすることは必要である。

 しかし、それだけでいいわけでもない。

 ★
 結論から言えば、多くの教師たちが自分の授業の腕を上げるための「上達論」がなかったのだと考えている。

 かつて、齋藤喜博先生とか向山洋一先生などがこの「上達論」に言及された。
 「研究授業100回行え」など。

 しかし、これは普通の教師たちには無理である。
 よほどの一握りの人たちができることになる。

 私が言っていることは、こんなことではない。
 普通の教師が、普通のやり方で、自分の授業の腕を上げたいと思ったとき、何をすればいいのかという「上達論」になる。
 

 その気になれば、誰でもができる「上達論」。
 
 

 今まで「普通の教師の上達論」が、今までなかったのである。
 
 

 考えてみれば、そんなことは今まで見たことも、聞いたこともないのである。
 
 

 学校では、「研究授業」がその任を果たしていくと考えられたであろう。
 教育委員会では官制研修で、その任を果たしていこうとされているはずである。

 しかし、「研究授業」も官制研修も、ほとんどその実を上げていない。
 この実態については、このブログでもさんざん書いたきたことであるので、繰り返さない。
 

 結論から言えば、この2つとも、現実的には多くの教師たちの授業の腕を上げるためにはほとんど寄与していないと断言しておきたい。
  行事として行っているだけである。
 
 ★
 さて、その「普通の教師の上達論」ということになる。

 「上達論4条件」を考えている。
 でも、これはまだまだ仮説段階のものできちんと実践で確かめているわけではない。
 ここでそれを明らかにするのは、躊躇われるが、今考えていることを書いておく。 

   ①簡便な教材研究をマスターする。
  

  ②「日常授業」を展開する基本型を身につける。
  

  ③模擬授業をする。
  

  ④「一人研究授業」をする。

 ①については、私たちの中で「10分間教材研究法」を考えている。
 日常は、多くの時間をかけて、教材研究をする時間はない。
 

 1教科、せいぜい10,15分間。
 その時間で教材研究をする。
 

 何をすべきか。どうすべきか。
 

 授業はせいぜい70点の授業。それでいいではないか。
 


 ②についてはすでに私たちは出している。
 「授業づくり3原則」。
 

 日常を乗り切っていく基本型の授業法。
 
 

 ③④についての具体化は、ここでは繰り返さない。
 これは、個人の努力に任されてしまうが、研究授業のシステムの中に組み込まれれば学校全体で取り組める。
 

 初任者研修では、必須のものになる。
  初任者には、この2つを1年間きちんと取り組ませれば授業は上手になる。
 

 「一人研究授業」については、明治図書から出している「味噌汁・ご飯」授業本を参考にしてほしい。

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なぜ、毎日授業をやっているのに授業がうまくならないのか?(1)

   37年間、担任をもって教師をやってきた。
 最近になって、その現役時代のことを振り返ることがよくある。

 まず、授業のことについて少し考えたことを書いてみることにする。

 多くの教師は、普通毎日5,6時間の授業を行っている。
 これだけの授業を行っていて、どうして授業がうまくならないのか?

  この問題である。
 そんなことはない。
 私はうまくなっているという教師もいるだろうけど、そんな人は例外である。
 

  ほとんどうまくならない。
 
 どうかすると、ベテランになるにつれて若い頃よりも授業が下手になる恐れがある。
 

  若い頃には、エネルギーいっぱいの若さを授業にぶつけることができるが、ベテランになるにつれてだんだん勢いがなくなっていく。

 だから、中堅やベテランの先生でも、初任の先生レベルの授業をする人も出てくる。

 これはどうしてなんだろう?
 他の職業ではとても考えられないことではないだろうか。

  なぜ、毎日毎日授業をしているのに、授業がうまくならないのか。
 これは考えてみれば、大きな問題である。

 ★
 ある親しい知り合いの先生に聞いた。
 「どうしてだろうか?」と。
 
 次のように答えられた。
 「授業で国語の学習させるとき、ある学年の説明文の授業では指導書に従って
  授業をしていく。また、ある学年の説明文の授業では指導書に従って授業を
  していく。毎年毎年、説明文の授業をしていく時は、ゼロスタートでそれぞ
  れの単元にあわせて授業をする。物語文もまったく同じ。その都度物語文に
  あわせて授業をするだけ。説明文は、このようにしていこうという基本型を
  もっていない、物語はこのように授業をしていこうという基本型を持ってい
  ない。だから、その都度、単元に合わせて授業をするだけ。その都度、ゼロ
  スタート。積み重ねがないから、国語の授業がうまく教えられるようになら
  ない。」

 なるほど、なるほど。
 まず分かったのは、次のこと。

  ①指導書に頼りっきりで、自分なりの基本型を持っていない。

 大工さんが、いつも図面や制作本を見ながら家を作っていくみたいなものである。
 
 そう言えば、ほとんどの先生たちが指導書を参考に教材研究をしている。
 また、赤本の指導書を片手に授業をしている先生たちだっていっぱいいる。
 

 このことを続けていて、自分なりの基本型を身につけることができないのである。

 

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つれづれなるままに~今とこれからを生きることが人生である~

  ●過去の嫌なできごとや失敗が思いだされて、一日中ブルーな気持ちに満たされてしまう時がある。
 そんな時はないだろうか。
 
 

  私もかつてそんな思いに何度もなった。
 一つの過去にずるずると嫌な思い出や失敗がつながって出てくる。
 

ほんとに、こんな失敗ばかりで過去のその人たちに迷惑をかけたのだと、ひたすら「ごめんなさい」と謝るばかり。
 
 私ほど、そんな失敗が数多い者はいないのではないかと思ったほどである。

  かつてと書いた。
 今はそんなことはない。

 思いだすことはあるが、その場でぱっと忘れる。
 忘れるようにしている。
  こんなことができるようになっている。

 ★
 外山滋比古さんは、次のように書いている。
 
 ★ ★ ★
 青森へ行った帰りに、朝市に寄ってリンゴを買った。キズのあるリンゴを売っているおばあさんがいる。こちらが、
「キズのあるリンゴの方が甘いんですよね」
と言うと、おばあさんが、
「東京の人のようだけど、よくごぞんじです。みんなにきらわれています」
という意味のことを土地のことばで言った。うれしくなってもち切れないほど買ってしまった。
 キズのついたリンゴ。なんとかそれをかばおうとして、力を出すのであろう。
 無キズのリンゴよりうまくなるのである。キズのないリンゴだってなまけているわけではないが、キズのあるリンゴのひたむきな努力には及ばないのか。
 人間にも似たことがある。(『りんごも人生もキズがあるほど甘くなる』幻冬舎)

 ……
 ★ ★ ★

 過去にキズがあるからこそ、今日を懸命に生きていかれることだってあるわけである。

 ★
 40代の頃、フルマラソンを走っていた。
 練習をしていると、30キロまではそんなに苦しまないで行く。
 しかし、35キロからゴールまでの7キロばかりは、経験したことがない苦しみに会う。毎回である。
 
 

 そんなとき、アメリカのビル・ロジャースというマラソンランナーの言葉に出会ったことがあった。
 

 「ビル、走っているときにはどんなことを考えているんだい?」
という問いかけに、
「何にも考えないよ。今走っていることだけを考えているよ」
という答えだったと思う。
 
 この答えに驚いた記憶がある。
 

 一流のランナーは、今、今、今のことを考えて走っているのだ、と。
  
  これは人生に通じるなあと思ったものである。

 ★
 そうそう、過去の思い出に悩まされる時、それを打ち消す方法である。

 これは、経営コンサルタントの小宮一慶さんに学んだこと。

 手に輪ゴム(女房が髪留めに使っていたもの)をはめて、過去の嫌な思い出がでてきたときは、それをぱちんとして忘れる。それだけ。

 半年ぐらいやった。
 今は、手首をぱちんとやれば充分。

  こうして今、今、今を生きるのである。

 ★

 「今」と「これから」をどうするかだけが人生なのである。

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