教師はどこへ行こうとしているのか(1)
●ふと見たツィッターで次のように書かれていた。
「書類整理に大忙し。ああ、授業のせいで仕事が中断だと言ってしまった」
学校の書類を整理している。空き時間だろうか。
せっかく整理がうまく行きだしているのに、授業をする時間が近づいている。
中学校の先生だろうか。
「ああ、せっかくうまく行っているのに中断だ!」
「言ってしまった」と書かれているので、負い目はある。
でも、正直なつぶやき。
★
この先生だけではありえない。
日本中の多くの教師たちが、このような感覚を味わっている恐れがある。
「授業がなかったら、どれほど心豊かなんだろうか!」
教師は、絶対言ってはならない言葉なのだが、本音はそうなる。
要するに、日頃の授業(「日常授業」)は「雑務」なのである。
できればやりたくない。
でも、やらなかったら首になるのでやっている。
だから、テキトウに流す。
とにかくやればいいんだから。
教科書を使って、テキトウにやっておけば誰に文句を言われない。
子供からも、親からも、管理職からも。
★
先生たちの仕事の感覚から、教師の仕事に対する「誇り」「目標」が喪失していこうとしている。
では、何のために仕事をしているのか。
給料をもらう仕事だから。
「それじゃあいけないんですか?」と言われそうである。
教師の仕事が「聖職だ」いうつもりはない。
教師は、ある意味では「聖職」にもなり、ある意味では「労働者」でもあり、ある意味では「専門職」にもなる。
考えていく視点が違えば、そうなる。
かつて「先生は、聖職者か労働者か?」という論争があったが、私の中ではもう解決済みだ。
そんなものは、「位相の違い」に過ぎなかった。(『困難な現場を生き抜く教師の仕事術』学事出版 拙著を参考にしてほしい)
★
先生たちの仕事の感覚から、教師の仕事に対する「意味」が抜けおちていこうとしている。
その結果、授業が「雑務」になっている。
できればやりたくない。
仕方なくやっている。
だから、自分のクラスに「繰り上がり・繰り下がりの計算」や「かけ算九九」ができない子供がいても、ほとんど何の手立ても打たれない。
教科書を拾い読みしていても、何の手立ても打たれない。
何とかしたいという気持ちはあるが、結果としてほとんど何の手立ても打たない。
そんなことをするためには大変な労力が必要なので、こんな忙しい仕事をしていてとてもそこまで手が回らない。
結果として、ほとんど何もできない状態で上の学年に上げていく。
「痛み」「後悔の念」もほとんどない。
そんなことにしがみついて何とかしていこうということに、あまり「意味」を見つけられない。
学校の他の仕事で忙しいのである。
★
皮肉っぽく書いてしまった。
大げさに書いたとは思わない。
こんな感覚が多くの先生たちを襲っていることに、私は大変な危機感を持っている。
もちろん、先生たちを責めることはできない。
今、日本の教育とりわけ教師を取り巻く教育状況の大変さは構造的である。
教師たちはどこへ行こうとしているのか。
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