前回のブログで、次のように書いた。
〇先生たちの仕事の感覚から、教師の仕事に対する「誇り」「目標」が喪失していこうとしている。
〇先生たちの仕事の感覚から、教師の仕事に対する「意味」が抜けおちていこうとしている。その結果、授業が「雑務」になっている。
このことの原因について、内田樹さんは、次のように書いている。
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「教育危機の原因は、世上言われるように、教師に教科についての知識が不足しているからでも、教育技術が拙劣だからでも、専門職大学院を出ていないからでもありません。そうではなくて、教師たち自身が教育を信じるのを止めてしまったからです。「学校がなければならない」ということについての教師たち自身の確信が揺らいでいるからです。
教師たちは今、そこまで追い詰められているのです。彼らは政治家や官僚やメディアや市場原理を信じる保護者たちの要請に屈して、「教育とは代価に見合う教育商品・教育サービスを提供するビジネスの一種である」という教育観を受け入れつつあります。でも、教育をビジネスの用語法で語るようになったら、もう教育は終わりです。
(『内田樹による内田樹』株式会社140B)
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内田さんは、「教師たち自身が教育を信じるのを止めてしまったからです。『学校がなければならない』ということについて教師たち自身の確信が揺らいでいるからです」と言っている。
現場感覚で言えば、先生たちが、子供にこだわり、何としてもこれは教えたいという「意味」を感じられなくなったということになる。
自分の仕事の意味が分からないから、単なる雑務にしか思えなくなる。
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それならば、「教育」とは何だろうか。
「学校」とは、何のためにあるのだろうか。
教師の仕事とは、何をすることなのか。
このような原初的な問いかけがなされる。
今、こんな問いかけが分からなくなっているのである。
ここも内田樹さんの上記の本からの言葉を引いておこう。
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学校教育の行われない社会集団(ありませんけど)をSF的想像力を駆使して思い描いてみればわかります。
そこでは幼い成員たちは成熟の道筋を示されることなく、遊興に耽り、怠惰に過ごしても咎められない。生きるための基本的な技術も知恵も教わらない。そのままに無能な成人になった後、どうなるでしょう。彼らはいずれ飢え死にするか、他の攻撃的な部族に襲われて奴隷になるか殺されて終わるでしょう。学びのシステムを持たない集団は存続することができない。これが教育についてのアルファでありオメガであるところの真理です。教育制度が存在するのは、共同体が生き延びるためです。
「どうして勉強しなくちゃいけないの?」という子どもの問いかけに対して、大人たちが間違えたのは、「勉強するのは、あなたの自己利益を増大させるためである」という利益誘導を試みたからです。勉強するのは、あなたの自己利益を増大させるためではない。共同体が生き延びるためです。教育を受けて成熟した集団成員になるのは、個人が恣意的に選択できる私事ではなく、公共的な責務なのです。
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全ての教育関係者、教師たちは、ここにもどらなければならない。
私はつくづくそのように思っている。
「教育制度が存在するのは、共同体が生き延びるためです」
子供たちをこれからの社会を担っていく存在として育てていくこと。
このことが「教育」の意味であり、「学校」の存在意義である。
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教師たちが、自分の仕事に「誇り」や「目標」や「意味」を感じられなくなっている。
これは、教師の責任であると、決して私は言えない。
私は、37年間を担任として過ごし、教師たちがどんどん萎縮し、疲弊していく様を見てきた。
もちろん、私もである。
私はその生き証人みたいなものである。
世間に叩かれ、マスコミに叩かれ、……ことごとく存在意義を喪失させられていった。
それと同時に教育も、学校も、どんどん悪くなっていったのである。
彼等は教師や学校を叩きながら、1つだけ忘れていたことがある。
それは、教育を再生、立て直ししていくのは、やはり教師たちであるということ。
このことである。
彼等は、教師に対して罵詈雑言を繰り返し、人権も、権限も、ほとんどない状態にして、どんどん萎縮、疲弊させ、もはや立ち直れないようにしておいて、「さあ、教育を再生しましょう!」と言おうとしている。
政府は、そのようなプログラムも作ろうとしている。
勝手なものである。そんな調子のいいことがあるだろうか。
はっきり言っておきたいが、今の日本の教師たちの現況のままでは、これからの日本の教育の再生はできない。
エネルギーが枯渇しているからだ。
忙しさに忙殺され、目の前の蠅を追っているに過ぎない。
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では、「オマエは何をしているのか?」と言われそうである。
私は、今北海道の道教委が進めている学校力向上の事業にアドバイザーとして関わっている。3年目である。
今、19校の小学校がこの事業に関わっている。
多くの学校を、この3年間で訪問してきた。
今年も9校の学校を回っている。
この事業に加わると、学校に⒊,4名の教師が加配され、事務職も1名加配される。
学校を訪問して気付くことは、訪問する学校の先生たち、とりわけ若い先生たちが元気で、学校を盛り上げている。
学校も、職員が加配されているので、余裕がある。
1つの授業に、担任以外で2名の教師がついている場合もある。
先生たちは決して疲弊していない。
かすかな光明が見える思いがした。
指導主事の先生たちからも「この事業は完全に成功しました。あらゆる学校がうちも、うちも、この事業に加わりたいと言うようになっている」と。
何が先生たちを元気にし、何が学校をもり立てていくのかを、目にしている。
「これだよ!」と。
もちろん、この事業の趣旨がすぐれていたこともある。
だが、教職員を増やすことの効果は大きい。
このことをとりあえずやるのである。
根本的な再生にはならないが、とりあえずここから始めるべきである。
そのように強く思うようになった。
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私は、今まで全て教師の立場で発信してきた。
教師を守り、もり立てていく立場で発言を繰り返してきた。
それは、以上書いて来たように今教育を再生していくのは、まず先生たちを「元気にする」ことであると思い続けてきたからである。
教育内容を改訂することでも、ICTの教育を進めることでも、子供たちを何とかしようということでもない。
そんなことではない。
まず、先生たちなのである。
先生たちを元気にすることである。
ここに視点を当てて、さまざまなことを考え直していくべきである。
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