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2014年9月

「当たり前」を徹底すれば特別になる!

  岩見沢市立南小学校を訪れた。
 2回目の訪問になる。
 
 講演をすることになっている。
 
 平成26年度の公開研究会。
  テーマは、次の通り。

 『基礎・基本の定着をめざした授業の研究』
     全員がわかる・できる指導法の工夫
  ~より効果的に教科書を活用した授業のあり方~

 この学校は、算数で教科書を効果的に使う研究をしているのである。
 テーマにはないが、「日常授業」の改善を強く意識した取り組みでもある。

  ★
 驚くのは、全国学力テストの結果。
 国語Aも算数Aも、全道、全国よりも格段に高く、国語Bも算数Bも全道、全国よりも相当高い結果を出している。

 国語Aや算数Aは、秋田の平均よりも高いのである。

 教科書を効果的にどのように使っていくのかという地道な研究をしている学校が、このような結果を出しているのである。

 普通の家庭環境の学校であり、塾に通う子供が数人。
  いかに学校での取り組みがすぐれているのかが分かってくる。

  ★
 この南小は何をやっているのか。
  何か特別な指導をしているのではないかと思われるであろうか。

 そんなことはない。
  私の視点で把握したことをいくつか指摘しておきたい。
 
 

 ①「教えること」と「考えさせること」をきちんと区別されている。
 ② スモールステップ指導が繰り返されている。
 ③ ノート指導が徹底されている。
 ④ 効率指導のために、ICT機器が活用されている。
 ⑤ 分からない、できない子供には、何重もの指導を重ねて指導を徹底されている。

 全部「当たり前」で基礎・基本に従った当然の指導がなされている。
 この学校は、これが徹底されていることである。

 ★  
 多賀一郎先生がフェイスブックに次のように書かれていた。(多賀先生、いつも引用させてもらってすみません)

 ★ ★ ★
この前、テニスのコーチをしている教え子と話していたとき
「錦織は、チャンに基礎基本を徹底させられた。」
という話になった。

彼は、
「かなりプレーのレベルが上がってしまうと
なんでも簡単にできてしまうから、
基礎基本のことをくり返してすることをしなくなるんですね。
そこをチャンコーチは徹底させたから、急に伸びたんです。」
と言った。
なるほど。
これは、教育においても同じことが言えるなあと
感心した。

若いときに、岡本先生から
「若いときは、もっと基礎基本のことをやりなさい。」
と言われて反発したが、
僕は今、若手に基礎基本の愚直な教材研究を奨める。
自分もいつも一から教材研究をする。
そうすることで得られるものは、計り知れない。

フェイスブック等で、授業をするために
「何かいい方法を教えてください。」
等と公募して、他人のアイデアをもらうことしか考えない人がいる。
なんか違うような気がする。
 ★ ★ ★

 「当たり前」を徹底していけば特別になるのである。
 これを忘れてはならない。

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つれづれなるままに~見事な授業に出会う~

  ●18日に静岡県の高校の初任者研修会に呼ばれて90分講演をする。
 掛川市の教育センターに行く。
 
 

 もう3回目のこと。
 最初、小学校の実践が、高校の先生たちに通じるはずはないのだがと断ったのが、
 「小学校の実践を話して下さい」ということで引き受けた経緯がある。
 
 

 テーマは「学級経営における生徒理解」。
 200名近くの先生たちに学級経営の話をする。
 
 

 高校の初任者の皆さんは、実にうまく話を聞いてくれる。
 ありがたいものである。
 

●25日、北海道の岩見沢へ行く。
 学校力向上アドバイザーとしての仕事になる。
 
 岩見沢市立南小学校の訪問。昨年に続いて2回目になる。

 研究部の先生たちとある企画の打ち合わせをする。
 そして、懇親会。
 さまざまな話に盛り上がる。

●26日、南小学校の公開授業研究会。
 3時間目に、全部の先生たちの算数の授業を見せてもらう。

 4時間目は、特設授業として3年生のA先生の算数の授業。
 私が助言者になっていたので、1時間ずっと参観させてもらう。

 感激する。見事な授業である。
 今、私が主張している「スモールステップの繰り返し」が見事に授業で具体化されている。

 子供たちの集中力もすごい。

 また、挙手発言型の授業を乗り越えられてあって、それも見事。

 先生の発問に、指名カードがぱっと提示されて、そのカードの子供が答えていくシステムで授業がテンポ良く進んでいく。
 ある場合は、列指名にもなる。
 
 なるほど、なるほど。
 うまいことを考えたものである。

●27日、「花子とアン」の連ドラの最終回を見て、岩見沢の駅へ向かう。

 この脚本家中園ミホさんが、「いまの時代が、このドラマの当時と似てきているのを感じる。」とテレビで話していた。

 戦争の悲惨さを、中園流で描いたのであろう。
 改めて戦争に通じる時代を作ってはならないと視聴者はしみじみ感じ取ったのではないのだろうか。

●10月1日からまた北海道へ行く。
 今度は、倶知安小を訪ねる。

 今度もアドバイザーとしての仕事。
 倶知安は、ぜひとも一度訪ねてみたいと思っていた。

 倶知安から蝦夷富士と呼ばれる「羊蹄山」を見てみたいのである。
 今の時期、紅葉が素晴らしいのではないだろうか。

 今年は、今回で8回目の北海道。12校目の訪問になる。
 もうすっかり北海道にはまってしまっている。 

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挙手発言型の授業がまだまだ主流なのだが……。

 さまざまなところで、授業を見せてもらう。
 圧倒的に主流なのが、挙手発言型の授業。
 当然と言えば当然なのかもしれない。

 一斉授業なので、挙手発言型になるのであろうが、それにしても全てが挙手発言であるのはちょっと違和感がある。
 これには考え込んでしまう。
  ★
 私も現役の頃は、確かにこの挙手発言型の授業をしていたことを思いだす。
 明治図書の青い本にも「クラスの子供8割を発言できるようにする方法は?」という方法論を書いている。
 
 

  私は、多くの子供が参加する討論の授業を目指したので、いかに多くの子供を参加させるかというのが目標であった。
 

  でも、最後の勤務校は、全員参加という授業にはほど遠いもの。
 
 原因は、語彙力の圧倒的な不足。
 

  これがないと討論にならない。
 

 文として発表する、そのための語彙力がないためにしゃべることが続かない。
 

  こんなことを目指さないで、早く切り替えなければいけなかったと、今ならば思う。全員参加にならないのだから。
 ★
 今でも挙手発言型は、主流だ。ほとんどと言っていいかもしれない。

 子供たちが手を挙げて発表する。
 そのことに先生たちは、重要なポイントをおいている。
 
 

  メリットは、確かにある。
 子供たちの積極性を高める。
 

  なかなか意見を言えない子供が、意見を言えるようになることでがらりと変わっていく。そんな姿を何度も見てきた。

 なぜ、挙手発言型の授業がまだ主流なのか。
 
 多くの子供たちが挙手をして、多くの子供が発表することを「授業の善し悪し」の判断に使われているからだと思われる。
 
 

  「多くの子供たちが発表していてとても良い授業でした」
 「とても積極的な子供たちが育っていて、素晴らしい学級経営です」
 
 

  保護者は、全部と言っていいほどに担任の「授業の良し悪し」の判断は、手を挙げる子供が多いか少ないかにかかっているといい。
  ★
 しかし、この挙手発言型の授業にはさまざまな問題点もある。
 「味噌汁・ご飯」授業を考えるようになって、そのことに気付くことができた。
 

  今問題点として考えてみると5つほどあげることができる。

 ①「はい、はい、はい」と盛んに手を挙げている授業は、冷静に見ると他の  子供の意見はそっちのけで、とにかく自分に当ててほしいという一心である。
 
 

 ②課題に対して深く考える。友達の発言をよく聞く。授業では、こちらの子  供の姿勢がもっと大切であるはずなのに、こんなことはそっちのけになる。

 ③「発表すること」だけが良きことだという考えを子供に植え付けていく。
   
 ④手を挙げながら考えようとする外向的な子供を大事にし、内向的な子供を  引っ込ませていく。

 ⑤このような挙手発言型の授業を続けていると、結局傍観者を多く作り、全  員参加の授業になることはできない。

  ★
 「じゃあ、それに変わる授業というのはどうすればいいのか?」
と言われるのかもしれない。

 さまざまなところで、私も授業をしている。
 「味噌汁・ご飯」授業である。
 下手な授業だが、挙手発言型の授業とは違った授業をしている。

 全員参加の授業。
 緘黙の子供だって、知らぬ間に発言しているという感じになる。

 どんな授業なのか。

 スモールステップの繰り返しの授業。

 小刻みに活動を繰り返していく。

 アウトプット型の授業と言っていいだろうか。
 
 書く、発表する、ペアで話し合う、グループで話し合う、さまざまに動く。

 これらのものが混ざっていく。 

  子供にとっては、片時も暇な時間がない、スピード感いっぱいの時間だが,彼等はこんな授業に乗ってくるのである。

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なぜ先生たちの授業には、フォローが少ないのか(2)

   前々回に紹介した外山滋比古先生の本には、次のようなことも書いてある。

 ★ ★ ★
 人を育てるにはホメるに限る。ということは、あまり広く知られない。教師でも、教育とは叱ることなりと考える人が多い。
 一クラスをA・Bに分けて、同人数、学力もほぼ同じにしておく。
 テストをして、Aグループは点を見せず、各人に、よくできた、とデタラメにほめる。Bグループにはめいめい採点した答案を返す。
 これを数回くりかえして、Aグループも採点してみると、Bグループよりずっとよい点になっている。
 このように根拠がなくても、ホメられると成績がよくなることをピグマリオン効果という。
 ギリシャの昔、ピグマリオンという伝説上の王様がいた。彫刻の名手で、あるとき彫った女人像がすばらしい美女。王はこれに恋し、結婚したいと神に祈る。祈りがとどいて彫刻が生身の女人となり、王は結婚して幸せになったという。ピグマリオン効果は、これにちなんでつけられたのである。(『リンゴも人生もキズがあるほど甘くなる』幻冬舎)
 ★ ★ ★

 ピグマリオン効果は、心理学をやった人にはおなじみのものだ。

 ★
 前回に、先生たちが「フォロー」が少ないのは、「フォローの言葉」を持っていないからだと書いた。

 しかし、決定的なのは、自分の授業の方法論の中に「フォロー」が入っていないことなのだと思われる。
 
 指導言(発問・指示・説明)と子供たちの活動だけで授業は成り立つと考えている。
 ここに「フォロー」を入れてくる必然性が、自分の授業の方法論にないのである。

 それが一番の理由だと思われる。
 褒めることの必要は感じる。みんなも言っているから。
 
 

  ときどき、褒める。
 ただ、それだけなのである。
 
 何がだめか。
 自分の授業の方法論に「システム」としてフォローが入り込んでないのである。

 ★
 私は、山口の福山憲市先生を「フォローの天才だ」と思ってきた。
 算数の割合の授業(140人の専科授業)で、平均99点を取らせることができたと聞いて、山口下関まで講座を聞きに行った。
 
 

  その講座で、その時の授業を再現されるというのである。
 すごかった。
 とにかく感動した。
 
 

  一流の授業人は、こんな授業をするのかと感じ入った。
 
 私なりの視点で聞いていると、福山先生は、次のシステムが授業の中に張り巡らされている。

    指導―活動―フォロー

 その一つ一つが、徹底されている。

 必ず福山先生の授業の中には、「フォロー」(福山先生がこのような言葉は使わないが)が畳みかけて出てくる。
 
 

  天才的なフォローだと思われた。
 


  ★
 私の「味噌汁・ご飯」授業が目指すものは、福山先生みたいな「ごちそう」授業 ではない。 
  でも、このことから学ぶことは多い。

 「味噌汁・ご飯」授業としての「日常授業」には、「日常授業」としてのシステムが必要である。
 

  私達は、それを次のように考えている。

   指導言―活動―フォロー
 

  「フォロー」は、授業の中に必ず必要なものである。
 これがなければ授業の効果は半減する。
 
 

  そのくらいに必要なものである。
 だから、授業の方法論の中にきちんと位置づける。

 (くわしくは、『「味噌汁・ご飯」授業』(明治図書)を参照してほしい)

  ★
 外山滋比古さんは、再び書いている。

 ★ ★ ★
 ノーベル化学賞を受けた田中耕一さんもホメられたのがきっかけで大科学者になった。
 小学5年生だかのとき、田中少年は理科の授業で、実験をしていた。担任の澤柿教誠先生は、生徒の机の間をまわっていた。
 田中少年は先生に「これどうして、こうなるのですか」と実験について質問した。先生はびっくり、「先生にもよくわからない。キミ、すごいね」とホメた。
 このひとことで、田中少年は科学志望をかため、その通りの道をすすみ、大業績をあげた。田中さん自身は、そのことをよく知っていた。
 ノーベル賞を受けて帰国すると、空港から澤柿先生宅へ直行、受賞報告をしたといわれる。
 ホメことばの力はかくも大きい。
 ★ ★ ★

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なぜ先生たちは、授業でフォローが少ないのか(1)

 さまざまな授業を見せてもらうことが多い。
 ほとんどの授業で感じることは、フォローが少ないことである。
 
 ほとんどないと言っていい。

 フォローとは、中村健一先生からの受け売りの言葉である。
 さまざまな子供たちの活動に対してなされる「評価言」である。

  ★
 なぜ、先生たちの授業でフォローが少ないのか。

 ①教えるのに精一杯でフォローまで手が回らない。
 ②もともとフォローを出そうという気持ちがない。
 ③フォローは「どうも苦手だ!」と思っている。
 ④フォローの「言葉」を持っていない。
 
 

 こんなことが考えられる。どうだろうか?

  ★
 国語の野口芳宏先生からは、「否定」することも必要だと何度も教えられた。
 褒めてばかりではだめだ。そんなことばかりでは、子供が弱くなると言われる。
 

 その通りだなと思う。
 だめなところや、間違っているところは、きちんと「否定」することも必要である。
 
 

 反面、10歳までの子供は、「否定」を「肯定」にすることは難しいと教えてもらった。
 つまり、教師から「否定」されたことで、それをその子供は自分の中でなかなか「肯定」に変えていくことは難しいということである。
 アメリカの大学の心理学の先生から教えられたと、カリフォルニアの日本人学校(補習校)のある先生は私に教えてくれた。
 これも納得できる事例はいっぱいある。 

  ただ、「褒めること」が必要なのは誰も否定はされていない。
 フォローの必要性である。
  ★
 私は、上記のフォローが少ない理由の④に注目してきた。
 
 フォローはとっさに言葉として出てこなければいけない。
 

 だから、自分の中に「フォロー言葉」の蓄えがなければ、とっさには無理である。

 おそらく、フォローの必要性を感じていても、この「フォローの言葉」を持っていなくてはなかなか使えないのではないだろうか。

 そこで、「フォローの言葉」を考えた。

 「SOS話法」がある。
 

 これは、経営コンサルタントの箱田忠昭さんが提起されたもの。

   S…すごいね
      O…おどろいたなあ。
   S…さすがだね。

 これは個々の子供には適用できるが、授業の中ではなかなかむずかしい。
 

 そこで、私は「SWIM話法」を考え出した。

   S…すごいね。すばらしい。さすがだね。その調子。
   W…うまい。分かるよ。
   I…いいね。
   M…みごとだね。

 このくらいは、子供たちの発言や活動に対して、フォローをかけてあげたいではないかということである。

 

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人と人は近ければ近いほどよいということはない!

   
 「T先生は評判の小学校の先生だった。小うるさい親たちも、先生には心酔しているみたいだった。同僚からも羨ましがられるほどだったが、実は、ひとつ悩みがある」
と、外山滋比古先生は書き出される。

 ★ ★ ★
 小学生のひとり息子が、どうもぱっとしない。勉強もふるわない。
 あんなりっぱな先生で、よその子はうまく育てるのに、肝心のわが子がどうしてもうまく育てられないのだろう。そんな噂をする親たちもいた。T先生は、つらい思いで、そんな噂を耳にして心重くしたのである。
 ★ ★ ★

 昔からこんな話題には事欠かない。
 教師の子供は、できそこなうことが多いと言われている。(失礼!でも私にも娘がいる)
  なぜだろうか?

 外山先生は続ける。

 ★ ★ ★
 先生が悪いのではない。こどもがいけないのでもない。親と子がすこし近すぎたのである。T先生はおそらく自覚していないが、学校で教えるこどもたちより、ずっと近い関係でわが子に接していた。親子の距離が小さすぎると、子は親の圧力で小さくなる。ストレスを受けて自由を失い、成長することができにくい。
 学校での生徒と先生の距離を保てれば、家庭でも、よりよき父親となり得ただろう。
 人と人は近ければ近いほどよいなどということはない。近いものは、近いものに、よい影響を及ぼすことができない。フランスの哲学者がそう言っているが、真理をつくことばである。(『リンゴも人生もキズがあるほど甘くなる』幻冬舎)
 ★ ★ ★

 これは含蓄のある言葉である。
 このことは知っておかなくてはならない。
 東北の偉人宮沢賢治は、花巻の近くの人たちからは、「変わり者の賢治さん」と呼ばれていたらしい。
  キリストは、郷里ではまったく神通力がなかったということ。
 「馬屋の息子がなにをえらそうなことを!」と。

 ★
 外山先生は大切なことを続ける。

  ★ ★ ★
 学校を出たての新人教師はハリキっている。こどもの前で「キミたちといっしょになって勉強しよう。先生ではなく兄貴だと思ってくれ」などとイキがるかもしれない。こどもとの年齢差が小さすぎる。教師として致命的なハンディである。それに輪をかけるように年齢差を縮めるようなことを言ったりするのはものがわかっていないのである。もののわからない人が人の子を導くことは難しい。
 若い教師が若ぶるのは悲しむべき誤り。逆のことを考えるべきだ。若く見られてはいけない。服装なども、すこし地味に、きちんとしたものにする。
 昔、田舎の医師が、若いくせに金縁のメガネをかけ、上等な洋服を着こんで患者に、この先生、かなりの年輩かと錯覚させるような工夫をした。のんきな学校の先生よりよほど人間を知っていたのである。
 ★ ★ ★

 初任の先生たちの教室が荒れていく原因の1つを、外山先生はずばり指摘されている。

 学校現場は、若い先生たちを歓迎する。子供たちも最初は歓迎する。

 「こどもとの年齢差が小さすぎる。教師として致命的なハンディである」と外山先生は指摘される。
 若い先生たちは、この言葉をどう受け取るだろうか。

 ★
 子供たちと「横糸」だけで関係づくりをしてはならない。
 「縦糸張り」で毅然と子供たちに対しなくてはならない。
 私は、そのようにずっと主張している。
 

「若い教師が若ぶるのは悲しむべき誤り。逆のことを考えるべきだ。若く見られてはいけない。服装なども、すこし地味に、きちんとしたものにする」

 91歳になられる外山先生の貴重な言葉を噛みしめるべきである。 

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「学校が危ない」

   「学校が危ない」という特集に目をひかれて、久しぶりに雑誌を買った。
 週刊東洋経済の9/20号。

 「先生が辞めていく」「燃え尽きる先生」「ブラック化する職場」「多忙と疲労の果てに」というルポが載っている。

 この見出しは、初めて目にする人たちには驚くことであろうが、現場の人間にとっては当たり前の内容で、私はずっとブログで明らかにしてきた内容である。

 読んでみて、まあまあよく取材している。
 正確な内容である。
 

 こんな内容を知らない人たちにとっては、「まさか?」ということになろうが、本当である。
 ただ、雑誌であるので、雑然とまとめられてあるだけである。

 ★
 数年前、ある通信講座の会社から呼ばれて話に行ったことがある。

 その時に、そこの会社の方々に尋ねたことがある。
「これから学校がほとんど機能を果たさなくなる『学校の終わり』現象が始まるのです。学校がなくなるのではなく、ハコモノは存在するのですが、その中で教育という機能が働かなくなる。だから、親たちは、通信講座や塾などの助けを今まで以上に求めてくるはずです。今まで学校が果たしてきた役割を通信講座とか塾が背負わなくてはならなくなるはずです。そのための準備をされていますか?」と。

 そんなことは考えていないという答えであった。

 九州佐賀の武雄市では、公教育が塾と連携を始めている。
 武雄市の市長は、私が考えていた通りの考えである。(ただ、進めていることはちょっと私の考えと違っている)

 もう始まっているのである。

 ★
 「アベデュケーション」と安倍政権が主導する教育政策を呼ぶらしい。

 次々と教育政策を打ち出すらしいが、ほんとに学校現場が求めていることとはほど遠い。
 

  教師たちが疲弊して、もう教育政策を背負えなくなっている。

 学校が荒廃して、もはや教育政策を実践していくことができなくなっている。

 この実態をどれほど知っているのか、疑わしい。

 さて、さてである。

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「考え方」は、「実践」として行動化されていかなければいけない。

   M県のeラーニングの収録は、82分にもなった。
 

 明日の教室では、もうすでに3本のDVDがある。
 しかし、それは私の講演を撮られたものである。
 


 今回は、スタジオで正面と側面からカメラを構えられての収録。
 黙々とカメラとそばにあるパワーポイントの画面を見ながら座って話し続けることになる。
 


 緊張した顔つきだったのだと思われる。
 ★
 初任者へ向けての話。8つの課題で話す。
 1つ目は、「教師になる」ということはどういうことだろうか?
 
 

 その人が、教師という仕事に対して、どんな「考え方」を持つかが教師としての人生が決まると結論づける。
 
 

 どんな「考え方」を持てばいいのか。
 

 もちろん、それは自分で考えることではあるが、教師になりたいと思ったときに自分なりの夢や希望があるはずである。
 こんな教師になりたいという願い。

 ★
 しかし、ここで勘違いが起こる。

 担任を持てば、すぐにでもその夢や希望を実現しようとする。
 うまくいくはずはない。

 「教師」にもなりきっていないのに、そんなことができるはずはない。

 まず、教師になる準備をすることだ。
 私は「態度づくり」と言っている。

 そのように話は続く。
  2つ目の課題は、「教師になるための準備をしよう」となる。
 ★
 「考え方」は、行動化されなければいけない。
 現場教師は、自分の「考え方」をすべて「行動」(「実践」と言う)で表現しなければいけない。
 
 

 私の現場教師のときのことを思いだす。
 私は、職員打ち合わせのあと、誰よりも早く教室に行くことにしていた。
 

 それも、教室までのルートはシステム化されていた。
 (必ず子供たちの靴箱を通ることをシステムの1つに入れていた。)

 朝の打ち合わせが終わったのに、ぐずぐずと職員室に残っている教師がいる。
 打ち合わせが終わってから、学年の打ち合わせをするところもある。

 私は絶対にこのようなことはしなかった。
 どんな素晴らしい「考え方」を持っていたとしても、このようなことをしている教師を信用しなかった。

 現場教師は、「実践」がすべてになる。
 「考え方」は「実践」に行動化されていなければいけない。

 ★
 多賀一郎先生がフェイスブックに次のようなことを載せられていた。

  ★ ★ ★
 若い先生の授業。
何よりも、子どもとのコミュニケーションが凄い。
一人の発言に対して、必ず何かコメントをしようとする。
子どもの声を聞くとき、あまり聞いてない子どもの横に行って
並んで聞く。
少し離れて、腰を落として、子どもたちと同じ目線で聞く。
一生懸命、子どもの声を聞く。
だから、曖昧な発問でも子どもたちが考える。
先生の足りないところを、子どもたちが補う。
授業の基本は、やはりコミュニケーションだなあ。
もちろん、国語の授業としては課題も多いが、
こういうコミュニケーションを持てるというのは
大きな資質だ。
  ★ ★ ★

私が強く主張している「フォロー」(中村健一先生からの受け売りであるが)をこの若者は実践している。

「子供を大事にする」「子供の声に耳を傾ける」などの「考え方」を「実践」化できている。
 こういうことなのだ。
 
 

 本を読んでそれをマネする。
 誰かの講座に感激して、それをマネする。
 「〇〇型」の授業をする。

 これも必要だ。
 だが、一番大切なことは、目の前の子供たちに対してどうしていくかということになる。
 
 

 この若者は、次のようにしている。
 

 ★ ★ ★
  一人の発言に対して、必ず何かコメントをしようとする。
子どもの声を聞くとき、あまり聞いてない子どもの横に行って
並んで聞く。
少し離れて、腰を落として、子どもたちと同じ目線で聞く。
一生懸命、子どもの声を聞く。
  ★ ★ ★

どんなにすぐれた発問よりも、どんなにすぐれた板書よりも、どんなにすぐれた教育技術よりも、このことが大切である。 
 
 

 私もこのようにはできていなかった。
  だから、感動している。

 

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eラーニングの手法での初任者研修

   初任者が大変である。
 これからどのように初任者指導をしていくのか、改めて考え直さなくてはならない。
 
 

 ほとんど教育委員会の初任者指導は、形骸化して、実の指導を上げていない。
 それが実情である。

 私が関わっている教育委員会は、もう赴任前研修(研修とは名付けられないが)に踏み切っている。
 当然のことだ。
 

 子供が変貌し、以前のような指導が通じなくなっている。
 
 

 大学でほとんど何も学んできていない初任者が対応できなくなっているのは当たり前である。
 
 ただでさえ、経験を持たない初任者をすぐに担任につけるというのは、他の職種からしたら考えられないことなのだ。
 

 私は、最初の1年目は副担任のような形で経験させるというのが、ベターなことであると思っている。
 ★
 そんな中で、M県教育委員会は、「ネットDE研修」ということで、eラーニングの手法で研修を始めている。
  今回私を呼んで、初任者研修の話を収録し、ネット研修を始めるというのである。

 おもしろい試み。これならば、初任者研修に来られない人たちにも伝わっていく。
 ★
 現実はすぐには変わらない。
 何としても初任者に、1年目を失敗しない方法論を伝えなくてはならない。
 そんな思いになっている。

 お陰様で、私が関わっている教育委員会は、辞めていく初任者がほとんどいない。
 それだけ力を入れて、初任者研修をやっている成果である。

 私が初任者に伝える話も、もし行動化(実践化)できるならば効果的であるのは実証済みである。

 とにかく1年目を乗り切るための方策を伝える。
 複雑なこと、むずかしいことはダメだ。
 

 シンプルで、行動化できる形で伝えなければいけない。
 

「子供との関係づくり」「教室の仕組みづくり」「教室のルールづくり」。
 この3つだけでもきちんとできれば、何とかなる。

  そんな思いで収録に向かいたい。

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つれづれなるままに~こうして3日間は終わる~

  ●9日、朝早く羽田へでかける。
 北海道の新千歳空港へ向かう。
 
 北海道のえりも町にある「えりも小学校」へ行く。
 思ったよりも早く羽田へ着いたので、ラウンジで講座の修正をする。

 10:30の飛行機。
 平日なのにぎっしり満員。

 ★
 12:00に新千歳へ着くと、札幌行きの電車が止まっている。
 人身事故が起こったいう放送。

 仕方がない。
 昼食タイム。

 電車が動き出し、札幌へ。
 14:20のバスでえりも方面へ向かう。

 バスしか交通機関がないのである。
 浦河というところまで3時間30分。

 そこからえりもまでは、さらに1時間かかるという。
 
 浦河のバス停では、指導主事の先生が待っていてくれる。
 バスを降りると、よく知っている指導主事のY先生がいる。
 「えっ~~~~、どうしてこんなところにいるの?」という呼びかけ。
 「実は、私はここの日高局の所属なんです」と。

 その日は、指導主事の先生たちとこちらの海産物を堪能する。
 北海道は、オホーツクの魚が一番うまいと思っていたが、日本海の江差もうまかったし、こちら太平洋の浦河の魚もうまい。魚好きには堪えられない。 

 ★
 次の日の朝、指導主事の先生に迎えにきてもらい、えりも小へ行く。

 丘の上に立っているえりも小。
 その学校の美しさにうっとりするぐらい。

 芝生の学校。(風が強いので、そうなっているということ)
 校舎は、木造。さまざまに工夫がなされている。
 全校(180人ぐらい)で給食を食べる給食室もある。
 体験学習みたいな雰囲気。

 廊下に出ると、つきあたりに海が見える。
  それは、それは、きれいな学校である。

 ★
 2時間目と3時間目に、5年生と2年生の算数の授業をじっくりと見せてもらう。
  そして、4時間目は、他の全部のクラスの授業を参観する。

 最近は、このような参観が多い。
 だから、5分ぐらいの参観で、その教室の何を見るのかを決めている。
 
 決め手になるものがある。
 それに目を向ける。

 若手の先生たちが一生懸命にがんばっている。
 子供たちも素直で、きちんと学習に向かっている。
 安心して参観できるのである。

 ★
 放課後、90分の講演をする。

 講演の最後に、東書の算数教科書で7,8分の模擬授業をする。
 題して「明日の日常授業を変える4ポイント」。

  ①簡単な発問。
  ②小刻みな活動。
  ③スピード・テンポ。
  ④フォロー

 「スモールステップ」の授業はこのようにしていくという実演である。

 夜、えりもの町のお寿司屋さんで、海の幸をいただく。
 校長先生や教頭先生とじっくりと話をする。

 ★
 えりも小での一日は、曇りだという天気予報を覆して晴れ渡る。
 講演の最初では、『私が晴れ男だから晴れたのですよ。私のせいですよ。』と言いながら始める。

 ところが、一転11日の朝、テレビをつけると札幌は大変なことになっている。
 そこへ戻るのである。
 
 大丈夫だろうかと心配になる。
 空港への電車は動いていない。  
 さて、さて。札幌でのもう一日の宿泊を覚悟する。

 そこへえりも町教育委員会のHさんから電話。
 「もしかしたら、バスがうまく札幌へ着くのかも分からない状態。私が空港まで車で送ります」という申し出。
「そんなことをお願いしていいのでしょうか?」
「いやいや、無事送り届けるまでは私達の責任ですから」と。

 3時間かけての車の旅。
 途中、ものすごい雨にあって、視界が遮られる。
 叩きつける雨。
 こんな雨は久しぶりに見る思い。

 それでも、昼過ぎには無事新千歳の空港へ着く。

 飛行機は、16:00発。
 どうして時間を潰そうかとウロウロ。

 結局、1時間遅れで、飛行機は出発する。
 自宅の横浜へは、20時30分には帰れたのである。

  こうして大変な3日間は終わる。

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教師たちはどこへ行くのか(2)

      前回のブログで、次のように書いた。

 〇先生たちの仕事の感覚から、教師の仕事に対する「誇り」「目標」が喪失していこうとしている。
 〇先生たちの仕事の感覚から、教師の仕事に対する「意味」が抜けおちていこうとしている。その結果、授業が「雑務」になっている。

 このことの原因について、内田樹さんは、次のように書いている。
   
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 「教育危機の原因は、世上言われるように、教師に教科についての知識が不足しているからでも、教育技術が拙劣だからでも、専門職大学院を出ていないからでもありません。そうではなくて、教師たち自身が教育を信じるのを止めてしまったからです。「学校がなければならない」ということについての教師たち自身の確信が揺らいでいるからです。
 教師たちは今、そこまで追い詰められているのです。彼らは政治家や官僚やメディアや市場原理を信じる保護者たちの要請に屈して、「教育とは代価に見合う教育商品・教育サービスを提供するビジネスの一種である」という教育観を受け入れつつあります。でも、教育をビジネスの用語法で語るようになったら、もう教育は終わりです。
                   (『内田樹による内田樹』株式会社140B)
 ★ ★ ★  

  内田さんは、「教師たち自身が教育を信じるのを止めてしまったからです。『学校がなければならない』ということについて教師たち自身の確信が揺らいでいるからです」と言っている。

 現場感覚で言えば、先生たちが、子供にこだわり、何としてもこれは教えたいという「意味」を感じられなくなったということになる。
 自分の仕事の意味が分からないから、単なる雑務にしか思えなくなる。

 ★
 それならば、「教育」とは何だろうか。
「学校」とは、何のためにあるのだろうか。
 教師の仕事とは、何をすることなのか。

 このような原初的な問いかけがなされる。
 今、こんな問いかけが分からなくなっているのである。

 ここも内田樹さんの上記の本からの言葉を引いておこう。

 ★ ★ ★
 学校教育の行われない社会集団(ありませんけど)をSF的想像力を駆使して思い描いてみればわかります。
 そこでは幼い成員たちは成熟の道筋を示されることなく、遊興に耽り、怠惰に過ごしても咎められない。生きるための基本的な技術も知恵も教わらない。そのままに無能な成人になった後、どうなるでしょう。彼らはいずれ飢え死にするか、他の攻撃的な部族に襲われて奴隷になるか殺されて終わるでしょう。学びのシステムを持たない集団は存続することができない。これが教育についてのアルファでありオメガであるところの真理です。教育制度が存在するのは、共同体が生き延びるためです。
 「どうして勉強しなくちゃいけないの?」という子どもの問いかけに対して、大人たちが間違えたのは、「勉強するのは、あなたの自己利益を増大させるためである」という利益誘導を試みたからです。勉強するのは、あなたの自己利益を増大させるためではない。共同体が生き延びるためです。教育を受けて成熟した集団成員になるのは、個人が恣意的に選択できる私事ではなく、公共的な責務なのです。
 ★ ★ ★  

 全ての教育関係者、教師たちは、ここにもどらなければならない。
 私はつくづくそのように思っている。

  「教育制度が存在するのは、共同体が生き延びるためです」

 子供たちをこれからの社会を担っていく存在として育てていくこと。
  このことが「教育」の意味であり、「学校」の存在意義である。

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 教師たちが、自分の仕事に「誇り」や「目標」や「意味」を感じられなくなっている。

 これは、教師の責任であると、決して私は言えない。

 私は、37年間を担任として過ごし、教師たちがどんどん萎縮し、疲弊していく様を見てきた。
 もちろん、私もである。
 私はその生き証人みたいなものである。

 世間に叩かれ、マスコミに叩かれ、……ことごとく存在意義を喪失させられていった。
  それと同時に教育も、学校も、どんどん悪くなっていったのである。

 彼等は教師や学校を叩きながら、1つだけ忘れていたことがある。

 それは、教育を再生、立て直ししていくのは、やはり教師たちであるということ。
 このことである。

 彼等は、教師に対して罵詈雑言を繰り返し、人権も、権限も、ほとんどない状態にして、どんどん萎縮、疲弊させ、もはや立ち直れないようにしておいて、「さあ、教育を再生しましょう!」と言おうとしている。
  政府は、そのようなプログラムも作ろうとしている。

 勝手なものである。そんな調子のいいことがあるだろうか。
 
 はっきり言っておきたいが、今の日本の教師たちの現況のままでは、これからの日本の教育の再生はできない。
 
 エネルギーが枯渇しているからだ。
  忙しさに忙殺され、目の前の蠅を追っているに過ぎない。

 ★
 では、「オマエは何をしているのか?」と言われそうである。

 私は、今北海道の道教委が進めている学校力向上の事業にアドバイザーとして関わっている。3年目である。

 今、19校の小学校がこの事業に関わっている。
 多くの学校を、この3年間で訪問してきた。
 今年も9校の学校を回っている。

 この事業に加わると、学校に⒊,4名の教師が加配され、事務職も1名加配される。
 
 学校を訪問して気付くことは、訪問する学校の先生たち、とりわけ若い先生たちが元気で、学校を盛り上げている。
 

 学校も、職員が加配されているので、余裕がある。
 1つの授業に、担任以外で2名の教師がついている場合もある。

 先生たちは決して疲弊していない。
  かすかな光明が見える思いがした。

 指導主事の先生たちからも「この事業は完全に成功しました。あらゆる学校がうちも、うちも、この事業に加わりたいと言うようになっている」と。

 何が先生たちを元気にし、何が学校をもり立てていくのかを、目にしている。
 「これだよ!」と。

 もちろん、この事業の趣旨がすぐれていたこともある。
 
 だが、教職員を増やすことの効果は大きい。
 このことをとりあえずやるのである。
  根本的な再生にはならないが、とりあえずここから始めるべきである。

 そのように強く思うようになった。
 
 ★
 私は、今まで全て教師の立場で発信してきた。
 教師を守り、もり立てていく立場で発言を繰り返してきた。

 それは、以上書いて来たように今教育を再生していくのは、まず先生たちを「元気にする」ことであると思い続けてきたからである。

 教育内容を改訂することでも、ICTの教育を進めることでも、子供たちを何とかしようということでもない。
 そんなことではない。
 
 

 まず、先生たちなのである。
  先生たちを元気にすることである。
  ここに視点を当てて、さまざまなことを考え直していくべきである。
 

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教師はどこへ行こうとしているのか(1)

  ●ふと見たツィッターで次のように書かれていた。

 「書類整理に大忙し。ああ、授業のせいで仕事が中断だと言ってしまった」

 学校の書類を整理している。空き時間だろうか。
 せっかく整理がうまく行きだしているのに、授業をする時間が近づいている。
 
 

  中学校の先生だろうか。
 「ああ、せっかくうまく行っているのに中断だ!」
 
 「言ってしまった」と書かれているので、負い目はある。
 

  でも、正直なつぶやき。
 
  ★
 この先生だけではありえない。
 日本中の多くの教師たちが、このような感覚を味わっている恐れがある。

 「授業がなかったら、どれほど心豊かなんだろうか!」
 教師は、絶対言ってはならない言葉なのだが、本音はそうなる。
 
 

  要するに、日頃の授業(「日常授業」)は「雑務」なのである。
 できればやりたくない。
 でも、やらなかったら首になるのでやっている。

 だから、テキトウに流す。
 とにかくやればいいんだから。
 
 

  教科書を使って、テキトウにやっておけば誰に文句を言われない。
  子供からも、親からも、管理職からも。
  ★
 先生たちの仕事の感覚から、教師の仕事に対する「誇り」「目標」が喪失していこうとしている。

 では、何のために仕事をしているのか。
 給料をもらう仕事だから。

 「それじゃあいけないんですか?」と言われそうである。

 教師の仕事が「聖職だ」いうつもりはない。

 教師は、ある意味では「聖職」にもなり、ある意味では「労働者」でもあり、ある意味では「専門職」にもなる。
 考えていく視点が違えば、そうなる。

 かつて「先生は、聖職者か労働者か?」という論争があったが、私の中ではもう解決済みだ。
 そんなものは、「位相の違い」に過ぎなかった。(『困難な現場を生き抜く教師の仕事術』学事出版 拙著を参考にしてほしい)

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 先生たちの仕事の感覚から、教師の仕事に対する「意味」が抜けおちていこうとしている。 
  その結果、授業が「雑務」になっている。
 
 

  できればやりたくない。
 仕方なくやっている。

 だから、自分のクラスに「繰り上がり・繰り下がりの計算」や「かけ算九九」ができない子供がいても、ほとんど何の手立ても打たれない。
 
 教科書を拾い読みしていても、何の手立ても打たれない。

 何とかしたいという気持ちはあるが、結果としてほとんど何の手立ても打たない。

  そんなことをするためには大変な労力が必要なので、こんな忙しい仕事をしていてとてもそこまで手が回らない。

 結果として、ほとんど何もできない状態で上の学年に上げていく。
 「痛み」「後悔の念」もほとんどない。

  そんなことにしがみついて何とかしていこうということに、あまり「意味」を見つけられない。
 学校の他の仕事で忙しいのである。
  ★
 皮肉っぽく書いてしまった。
 大げさに書いたとは思わない。

 こんな感覚が多くの先生たちを襲っていることに、私は大変な危機感を持っている。

 もちろん、先生たちを責めることはできない。
 今、日本の教育とりわけ教師を取り巻く教育状況の大変さは構造的である。

 教師たちはどこへ行こうとしているのか。
 

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つれづれなるままに~願いは実現するのである~

●五十肩の痛みに悩まされて4か月。
 ヒアルロン酸の注射を4回(1,2週間ごとに)打ったら、ほとんど痛みがなくなった。
 
 

  まだ、左手の肩胛骨のところは固まっていて、まっすぐ上にあげることはできないが痛みがないだけでもほっとする。
 
 

  これからストレッチでリハビリをしなければいけない。
 完全に元に戻ることはない、と医者に言われた。

●東京のO小学校へ行く。
 もう何回も訪れている学校。
 
 

  夏休み明けからの学級経営をどうしていくかというテーマで2時間。
 1部では、どうしても必要な学級経営の原理・原則について話す。
 2部では、これからの学級経営のポイントについて話す。 

  昨年、5年生の担任で学級が厳しい状態にあった先生が、今年はとても元気になられているのに注目。良かったなあ。

●姪の旦那が教員採用試験に合格した。
 最高の知らせ。
「やった!」と喜ぶ。
 

  この夏、最高のできごとである。
 
 

人は、自分の夢や希望や願いをどのように実現していこうと思っているのだろうか。
 ほとんどの人が、そんなものは実現するものではないと考えている。
 だから、夢や希望なのだ、と。

 とんでもない勘違い。
 夢や希望や願いは、かなえるものである。

 方法があるのだと、と言ったら、「また、また…」と言われそうである。(笑)

 あるのである。
 私は、55歳の時に1冊目の本を出して、それから単行本を10冊ばかり出しているが、これも自分の願いの実現であった。

 「味噌汁・ご飯」授業も、発想したときには、とても口に出して言えるネーミングではなかった。
 だが、願いは実現するのだ。
 明治図書から本にまでなった。
  もちろん、さらに願いは実現していくはずである。

 私は、この方法を神田昌典の「非常識の成功法則」(フォレスト出版)から学んだ。
 自分もやってみて、確かにそうだと確信した。

 願いは、その願いの強さによって実現は決まる。
 ひたすら願うのである。

 あの日航を立て直した稲盛和夫さんは、日航のあらゆる掲示板に次の言葉を張り巡らせていったという。

 「新しい計画の成就は只不屈不撓の一心にあり。さらばひたむきに、只想え、
  気高く強く、一筋に」

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