質問に答えます
ブログにコメントがつきました。
いつもブログを見ていただき、ありがとうございます。
新採の先生にことについて書かれていて、このような有能な方が辞められていくことについてとても哀しくなりました。残念なことです。
今、教育現場では深刻な、異常事態が起きています。
いつ、なんどき、誰にでも学級崩壊が起きてしまうという事態です。
どんなに力量があってもこの事態は免れ得ないのです。
学校体制は、ほとんどがこれに立ち向かう準備もチーム力もありません。
ただなすすべもなく、個々の先生たちが疲弊し、病気になり、辞めていくいくことになっています。
こんな中で、先ほどの新採の女性の先生も辞められていったのだと思われます。
★
私は、それでも「まだやれます」「十分がんばれます」と主張しています。
そのためには、学級づくりの原理・原則、子供たちと関わるための原理・原則、「日常授業」への対応、それらの必要を訴えています。
先日ある小学校の6年生担任の女性の先生に電話をしました。
初任で、初めてクラスを持った先生です。
とんでもないことです。初任で6年担任などとてもできません。
とても耐えられないのです。
それでも受け持たざるをえませんでした。
私は駆けつけて、始業式前に、これから心がけることを半日かけて教えました。
一緒に学級の準備もしました。
7月までがんばりました。
何とか頑張っているのです。
「先生に始業式前に教えてもらわなかったら、とてもできませんでした!」と彼女は電話口で伝えてくれました。
私は、ある大事なこと(これはとても必要なこと)を強調しておきました。
きっとそれが生きていると考えました。
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コメントの中で、質問がいくつかありました。
この初任の女性の先生が、この6年担任をやれているということと質問のいくつかはとても関係があるのです。
その質問に答えていきましょう。
まず、コメントです。
★ ★ ★
はじめてコメントさせて頂きます。(ちなみに男性です。)
私も以前、小学校で講師をしていましたが、同じ教育の仕事ですが、どうしてもその仕事がしたいという気持ちが勝り、講師を退職しました。
ただ、もう一つ理由があります。
それは、子どもたちに対して理不尽なところを見せることがどうしてもできなかったからです。
かつて勤務していた小学校でこんな先生がいました。
新採の20代の女性の先生でした。
TOSSをはじめ、いろいろな指導法を研究されていて、授業の進め方もとても堪能でした。仕事も自分なりに効率よく進めていらっしゃいました。
また、人間的にも本当にすばらしい方でした。
しかし、その先生のクラス(1年生。一年目は別のクラスを担任。)は2年目の後半から学級崩壊を起こしました。
この先生は、3年目に退職しました。
私が原因として考えられるのは2つ。
一つ目は2年目に音楽の校務で(全校音楽の時に)全校の前でピアノを弾かなければならず、これが負担になったのではないか。
二つ目は子どもに「理不尽なところがある自分」を示せなかったことではないか。
私から見ると、学級崩壊しない先生は、どことなく(多少でも)理不尽なところがあるように見えます。
このブログでも20代の女性の先生が「教師を辞めたい」といったコメントをされていますが、若い女性の先生は、(いわゆる)民主的に学級経営をする方が多いので「理不尽な部分」がない、それで子どもたちが荒れる・・・のかな、と思う時もあります。
そこで、質問させて頂きますが、
①(特に小学校の)教師は、子どもにいくぶんでも理不尽なところを見せた方がいいのですか?
②私は、①の考え方は戸塚宏氏の教育論につながるので、このように思いたくありませんが、ただ、戸塚氏も「子どもに十分な自然体験活動をさせれば、スパルタ教育は不要。」といったようなことを言っています。これについてどのようにお考えですか?
③わが国の教育は言うまでもなく日本国憲法の理念のもと、行われています。しかし、実際には教育の場にしろ、労働の場にしろ「~のため」という名のもと、法律の基準を超えることが次々に行われています。そこで、質問なのですが、今の日本の現状を考えると、日本国憲法は「大幅に」改正した方がいいと思いますか?私は反対ですが、今の日本の現状を見ると、戦前の帝国憲法の方がこの国に合っているのでは、と思う時さえあります。
④公立小学校の教師は、子どもたちに「理不尽な部分」があるところを示せない人には向いていないと思いますか?
⑤ここまでこうしたことを書かせて頂いても、私は教育現場は「自由と民主主義の精神」がこれからのわが国のあり方を考えても必要だと思います。今、道徳の教科化が議論されていますが、もし、小学校でも高等学校の「公民」のような時間があれば、民主的な学級運営が可能ではないか、と思います。これについて意見をお願いします。
突然に、いくつもの質問、申し訳ありません。お忙しい、何か差しさわりがある等の理由がおありであれば、回答して頂かなくても全く構いません。(当然ですが。)また、一部の質問の回答に差しさわりがあれば可能な部分だけでもお答え頂けるとうれしいです。
長文、失礼しました。
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質問に答えていきます。
まず、③のことについてです。
我が国の教育は、教育基本法の第一条によって進められています。
★ ★ ★
教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければなら
ない。
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すべての教師は、これをしっかりと肝に銘じて教育を進めなければいけません。
学校は、教育の専門機関ですから、子供たちを社会に出て「国民」として生き
ていくために育てていかなければならないのです。
もう少し詳しく言うと、次のような子供を育てるのです。
①人格の完成を目指していく国民。
②平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた国民。
③心身ともに健康な国民。
今の憲法を改正しようと考えている先生でも、現在は、現憲法のもとで、この教育基本法に基づいて教育は行うのです。
総理大臣でも、文部大臣でも、そうなのです。
そのことがどうも忘れ去られているように思うのです。
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「なっちゃリズム」さんが、しばしば「理不尽なところ」という言葉を連発されています。
どうも私にはこの言葉がうまくつかめません。
意味するところが分かりません。
愛知のTOSS超末端教師さんも、分からないとコメントを出されています。
理不尽というのは、広辞苑でひけば、「①道理を尽くさないこと。②道理にあわないこと。無理無体。」とあります。
「道理」というのは、「人のおこなうべき正しい道」ですので、ここでは「人が行うべき正しいことをやっていないところ」という意味だととらえます。
「私から見ると、学級崩壊しない先生は、どことなく(多少でも)理不尽なところがあるように見えます。」
と「なっちゃリズム」さんは書かれてありますので、学級崩壊にならない先生は、「人がおこなうべき正しいこと」をやっていない結果、こうなっている。
学級崩壊になる人は、人がおこなうべき正しいことをやっているために起こってしまうのだという論法でしょうか。
厳しい言い方をすればこうなります。
でも、私が推測すれば、「理不尽なところ」は、「いつも厳しくて、どなっている」という意味なのかなと思われるし、単に「厳しく指導すること」ことを意味しているのかもしれません。
前者の意味だとすると、私も理不尽であると思います。
でも、こんな教師は、今ではかえって学級崩壊になっています。通じなくなっています。
後者の意味だとすると、「なっちゃリズム」さんの方が考え違いをしていると、私は思います。
もちろん厳しい指導ばかりでは、子供たちには通じません。
でも、ある意味では厳しく指導しなければいけないこともあるのです。
それが「教師であること」の意味だからです。
私が知っている先生で、「子供を尊重したい」「子供の意見を大事にしたい」「子供を人間として大事にしたい」という考えを持って担任をしながら、学級崩壊にあった先生は何人もいます。
人間としてはとても優しくて、立派な人でした。
学級崩壊になると、クラスはぐちゃぐちゃになり、弱肉強食の世界になります。
必ずひどいいじめが付きまといます。
子供たちはとても「人間」のようには見えません。
教育基本法が目指す「国民」ではなく、平和で民主的でもありません。
こんなクラスを作ろうとされていたわけではないのですが、結果としてまったく真逆なクラスになっていくのです。
何がだめなのか。
先生が尊重したいという考えで、子供たちの意見を聞きすぎて、そのうちにクラスの「秩序」が崩れていくのです。
一部の子供たちがやりたい放題になっていくためです。
クラスは、きちんとしたルールが生かされて、平和で民主的な「秩序」が保たれていかなければいけない場所です。
そういう中で子供たちを育てていかなければいけません。
そのためには、担任の大きなリーダーシップが必要です。
だから、ある場合には、「厳しい指導」が必要なのです。
私は、縦糸を張る(教師と生徒という関係を作り、教室の秩序を作る)と横糸を張る(子供たちとの心の繋がりや子供相互の関係を作る)という形で、教師と生徒の関係づくりを作るべきだと主張しています。
これをうまくバランス良く張っている教師の教室は、とても落ち着いています。
④の質問です。
「公立小学校の教師は、子どもたちに「理不尽な部分」があるところを示せない人には向いていないと思いますか?」
私は「教師に向いている、向いていない」という言葉は使いません。
教師に向いていない人は、ただ1つだけ。
人と付き合うことが苦手な人です。
そんな人は、最初から教師なんかになろうとしていない人でしょうから、ほとんど向いていない人なんていないのです。
ただ、条件があります。
「教師」になろうとするためには、「教師」というスタンスと「教師」としての仕事をしなければいけません。
そのためには、上に記したように「縦糸を張る」「横糸を張る」ことをしなければいけません。
それをやらなければ、「子供たち」を教育基本法に示してあるような子供に育てていくことはできないからです。
子供たちを厳しく叱れないで、「友達」のように接しようとする先生がいます。
子供たちと仲良くしたいために、ひたすら優しく接しようとする先生がいます。
そのような形では、絶対に(絶対にです)教室を平和で民主的な秩序立てたところにすることはできません。
公「教師」であることの目的を考え違いしているからです。
★
「なっちゃリズム」さん。
あとの質問は、ちょっと理解ができなくて、答えられません。
とりあえず、このように答えました。
見当違いな答えになったかもしれません。
勘弁して下さい。
いつもブログを読んでいただき、ありがとうございます。
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