嘆いていても始まらない。先生たちも工夫するのである。
宇都宮教育委員会が教員の雑務軽減へ指針を出したというニュースを知る。
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20140305-OYT8T00485.htm?from=tw
画期的なことだと評価したい。
かつて2学期制の学校で、前期だけで学校へもたらされる報告文書などの類いが3000枚になったと聞いたことがある。
びっくり。
おいおい、それじゃあ1日当たり23枚から24枚になるではないか。
だれが処理をしているのか。
ほとんどが教頭(副校長)が処理をしているが、担任に回ってくる文書も多いのである。
最近は、メールでの通信が多いらしいが、その数の多さに辟易すると知り合いの校長さんから聞いた。
遅ればせながら、宇都宮教育委員会の指針は画期的である。
他の教育委員会も続いてほしいものである。
★
いじめ自殺事件である新聞社から取材を受けたことがあった。
記者から「野中先生、こんなひどいことが学校で行われているのに先生たちは気づかないのですか?それとも見て見ぬふりをしているのですか?」と問われたことある。
あまりにもひどい大津の中学校のあの事件である。
結果的には,ひどい事態がニュース報道で流されていた。
私は答えた。
「いや、先生たちはいじめ防止などにさぼっているわけではないですよ。この学校も対応はしていたはずです。
だが、今の先生たちにあるのは、『何が大事で、何が大事でないか』の判断ができなくなって、目の前にある対応に追われて、全てが雑務のような感じになっていることです。『いじめ対策』も『部活指導』も、『生徒指導』も『授業』も……忙しさの中で雑務のような感じで対応してしまっているのです。そこが最大の問題です。」
記者には、このことがピンとこなかったみたいで記事は没になった。
「いや、私達の学校は違います!」
と言われるならば、それはまともである。
学校がきちんと機能しているのだ。
★
だが、はっきりしているのは、多くの教師たちが普通に展開している「日常授業」が「雑務」として感じられていることである。
学校の「日常」は、教師たちの「日常授業」によって成り立っている。
これが雑務として感じられているとしたら、学力を向上させるなどということはお題目になってしまう。
教師の本務が、雑務になっていることは深刻なことである。
これは教師だけの責任ではありえない。
あまりにも忙しすぎる、その仕事の有り様にある。
★
私は多くの講演会の中で、「先生たちは、学校の中で一日1時間の教材研究の時間を確保できますか?」と質問してきた。
多くの先生たちは、手を挙げられなかった。
一日に1時間の教材研究の時間が取れなくて、明日は5,6時間の授業をするのである。
どんな授業がなされるか、想像できるであろう。
学校で、一日に1時間の教材研究の時間を確保するのは最低ラインのことである。
学校は、この時間を保障するために何とかしなければいけないはずである。
しかし、絶望的である。
こんなことさえ学校は実現できないのである。
★
嘆いていても始まらない。
先生たちも工夫しなければいけない。
その工夫の初めは、テストの丸付けを放課後の職員室で行うことを止めていくことだと、私は思っている。
会議がない放課後は、全て教材研究の時間として確保することである。
では、丸付けはどうするんですか、言われる。
テストの時間内に終えることである。
ドリルや書写ノートなどの丸付けは授業中に終えることである。
そんなことができるのですか、と言われる。
もちろんできる。
そのように授業を構成していけばいいのである。
「テストや、ドリルや書写ノートの丸付けは、放課後にする」という習慣(考え方)ができあがっているから、その習慣で行っているだけである。
その「やり方」を変えていけばいい。
これだけのことであるが、それがむずかしい。
何が大事であるか、何が簡単に済ませていくことなのか、そういう考えを取り戻していくことが、私は今とても必要なことであると考えている。
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