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よしドン先生に答えます(6)~その1~

   よしドン先生から、今回もブログへのコメントをもらった。
 ありがたいものである。
 

 こうして考え方の違いをきちんと表明してもらえるうれしさ、ありがたさはかけがえのないものである。
 今回の指摘はとても大切なものなので、ここできちんと答えておきたいと思う。
 

 よしどん先生のコメントは、次のようなものである。
 
 ★ ★ ★
 野中先生、今回もコメントさせてもらいます。
 
 野中先生の書かれるように、『教師と生徒は、人間としては「平等」でも、その両者の関係は平等ではない。はっきり上下関係がある。 学校という場所は、そういうものである。そういう場所にしないと、「教育」という機能は発揮できない。』というのは確かにと思うところがあります。
 しかし、上下関係というと何かちょっと違う感じがします。
 先生と子どもの関係が縦糸、子どもと子どもとの関係が横糸ととらえられます。ここは同じ考えです。私はその関係とは、信頼関係だと思うのですが、どうでしょう。
 権威を誇示してしまう教育は、子どもの心をゆがめてしまうと思います。これは戦前の教育が代表的だと思います。魂のふれあいを通して育った信頼が、教育の基盤だと思いますがいかがでしょう。
 
 野中先生が横浜の学校で経験されたことは決して権威をふるったのではないと思います。
 先生と子どもたちがしっかり信頼関係を結べるように全校で取り組んだのではないでしょうか。
 何か、権威で子どもたちに押し付けたとしたら、たぶんその場限り、その時だけの行動になっていたのではと考えます。面従腹背という言葉がありますが、決してそんなことにはなっていなかったと思います。   
 縦糸の話をしていくときに、誤解をされてしまうといけないと思い、意見を書かせていただきました。
 ★ ★ ★

  よしドン先生の指摘をまとめてみると、次のような3点になる。

  ①先生と子どもの関係が「上下関係」というのは違和感がある。
   先生と子どもの関係は、信頼関係である。
  
 

  ②先生と子どもの関係が縦糸、子どもと子どもとの関係が横糸ととらえられる。

  ③権威を誇示してしまう教育は、子どもの心をゆがめてしまう。魂のふれあい
   を通して育った信頼が、教育の基盤だと思う。

 ★

 確かに、「上下関係」という言葉は誤解されやすい言葉である。
 ここは丁寧に私の意見を述べておきたい。ややこしいから勘弁してほしい。

 私の親しい友人(もう退職している身である)に、ある学校で学級崩壊になっている初任の2年生のクラスにT・Tで手伝ってほしいという要請がきたのである。
 
 

 友人は、「2年生だからたいしたことがない。何とかなるだろう」という気持ちで引き受けた。力がある教師であり、その力を存分に担任として発揮してきた経歴があった。
 
 

 結果は、「ほとんど何にもできなくて、体調を崩して辞めてしまった」ということになった。最近のことである。
 
 

 聞いてみると、子供たちはどこかから来た「おっさん」としか見ないで、注意し、叱っても何の効力もなく、言うことを聞かなかった。一日がもぐら叩きみたいな感じで、帰ればがっくりと疲れ、血圧が200ぐらいまでに上がり、大変であったという。
 
 

 私は「ああっ、やってしまったなあ!」という思い。
 誰でも、同じことをしたら、結局同じ結果になったであろう。
 彼等は、うるさく注意しにきた「おっさん」としか扱わないだろうからである。
 

 ★
 どうしたらいいか。

 替わりの「担任」になるか、あるいは、しょっちゅう授業をしたりしてとにかく前面に立つ必要がある。
 荒れたクラスでは、単なるT・Tでは駄目である。
 

 彼等に、私を「教師」としての存在として認めさせていかなければいけない。
 彼等が私を「教師」として認めたとき、はじめて私の指導が効力を発揮するようになる。
 

 ここはよしドン先生が言われる「信頼関係」とはちょっと違う。(まったく違うということでもないが…)
 指導してくれる「存在としての受け入れ」である。
 

 その「存在」の受け入れができたとき、単なる「おっさん」から、「教師」にあがるのである。格上げである。
 こうなったとき、「教師」と「生徒」という関係ができあがる。

「友達関係」ではない。
 
 指導していく「存在」と、指導されていく「存在」の関係。

 これが上下の関係である。

「おっさん」のままでは、この関係ができない。
「友達関係」では、この関係はできない。

 この関係は、距離がぐっと離れたものになる。
「教師」は、「教卓のこちら側」に位置することになるからである。

 ★
 この「教師」の位置について、的確に指摘した言葉がある。
 内田樹さんの本(『内田樹による内田樹』株式会社140B)からの孫引きの引用になる。

 ★ ★ ★
 教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、すくなくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。(……)無知ゆえに不的確である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに知っているのです。誰かが教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということはありません。
    (「教える者への問い」、『自我』(下)ジャック・ラカン 56頁)
 ★ ★ ★

 そして、内田さんは、次のように書く。

 ★ ★ ★
 僕自身、30年以上にわたって「教卓のこちら側」にいました。そして、僕の教師経験はこのラカンの言葉に満腔の同意を与えます。
 「教卓のこちら側」にいる人間は、「教卓のこちら側にいる」という事実だけによって、すでに「教師」としての条件を満たしている。教師は別にとりわけ有用な、実利的な知識や情報や技能を持っており、それを生徒や弟子に伝えることができるから教師であるわけではありません。教師は、「この人は私たちが何かを学ぶべきかを知っている」と思っている人の前に立つ限り、すでに十分に教師として機能します。この人に就いて学ぶ人たちは、しばしば「彼が教えた以上のこと、彼が教えなかったこと」を彼から学ぶからです。
 ★ ★ ★
 内田さんは、「教卓のこちら側」にいる人間(教師)は、「教卓のこちら側にいる」という事実だけによって、すでに「教師」としての条件を満たしていると、ラカンの言葉を引きながら書いている。
 

 そして、「この人は私たちが何かを学ぶべきかを知っている」と思っている人(生徒)の前に立つ限り、すでに十分に教師として機能しているとも指摘している。
 

 2年生の子供たちに、知り合いが、まったく効力を発揮できなかったのは、うるさく注意する「おっさん」としか見ないで、「この人は私たちに何か大切なことを学ばせてくれる」存在(教師)として認めなかった結果である。

 

「教卓のこちら側」にいる存在として強烈に印象づけなかったからである。

 私なりの言葉に置き換えれば、教える存在としての「教師」(「教卓のこちら側」)と学ぶべき存在としての「生徒」(「教卓の向こう側」)という上下の関係が「事実」としてできあがっていれば、教育の機能は成り立っていくということになる。

 この関係は、決して水平の関係ではない。
 こういう意味において、私は「上下関係」という使い方をしている。

 だから、「野中信行」と「〇〇ちゃん」は人間としては「平等」だが、「教師」と「生徒」の関係になったときは、上下の関係になると言ったのである。 
 
 
 
  

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コメント

野中先生、ありがとうございます。
 このようにして野中先生の考えを示していただけると、納得できるところがあります。
 しかし、教卓のこちら側だからということでは、子どもたちは納得できないと思います。信頼されるべきものがなければ「ただのおじさん」なのです。
 『「この人は私たちが何かを学ぶべきかを知っている」と思っている人の前に立つ限り、すでに十分に教師として機能します。この人に就いて学ぶ人たちは、しばしば「彼が教えた以上のこと、彼が教えなかったこと」を彼から学ぶからです。』と書かれているように、大前提があります。
 「この人は私たちが何かを学ぶべきかを知っている」と思っている人の前に立つ限りなのです。
 私は、これこそが先生と子どもの信頼関係の基礎だと感じています。
 先日も書きましたが、この人は自分たちのことを考えているかどうか、見ているのです。
 野中先生が書かれたTTの先生の例は完全に見張り番と思えてしまいます。子どもを信頼しているようには感じられません。そのクラスがなぜ荒れてしまったのか、その原因をつかんでいないような感じを受けてしまいますが、どうでしょう。
 
 しつこくですみません。なぜここまでこだわるかというと、「縦糸」をはる際に間違えてはならないからです。『教卓のこちら側』というだけでは成り立たない時代だと思います。こちら側がそのことを意識しないと、いけないと感じているからです。
 『先生』だからでは通用しない時代に入ったのです。『先生』として信頼されるように日々努力していく必要があるのだと思います。人間ですから時には失敗することもあります。完璧にやってくださいというのではありません。学び続けることを忘れてしまってはならないと思います。それも子どものために。
 先生のそんな姿、一生懸命やっている姿を子どもたちが見たり、感じたりしたときに、子どもたちと縦糸を結んでいけると思うのですが、どうでしょう。

 これは私の反省から出たものです。担任時代にそんな努力を怠っていた時がありました。その時の子どもたちは、よく見ていました。結果として、「同窓会をやろう」という声は出てきません。
 子どもたちと格闘したクラスは、「同窓会をやろう」と、話してくれて同窓会をやっています。
 
 また書いてしまいました。野中先生、ごめんなさい。
 
  
 
 
 
  
   

投稿: よしドン | 2014年1月11日 (土) 00時21分

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