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校長に「死ね」という言葉を投げつける子供たち(1)

 ある知り合いの校長さんから話を聞いた。
「野中先生、私の学校の6年生のクラスへクラス巡りをしていくと、クラスの子供が
 私に向かって『何しに来たんだよ!うるせいなあ!死ね!』と言うんですよ」

 私はびっくりする。
「校長に対して、そんな言葉を投げかける子供がいるなんて、聞いたことがないよ」

「これは挑発の言葉ですから、真正面からぶつかってはだめなんですね。だから、
 『死ねなんか言うんじゃないよ』とかわしていくんですよ」と。
 

 確かに真正面からぶつかると「体罰」という事態が起こる。
 これはさんざん問題になったことになる。

 その校長さんから次の言葉が飛び出す。

「10月に突然辞めた教師がいて、その替わりに私も急きょ授業をしたのですが、その5年生のクラス、授業が始めるまでに5分もかかるのですよ。これは大変です。」
 
 校長が授業に来ているのである。静かに授業を受けようという気持ちがないのである。

 「校長」という権威が、まったくなくなっている。 
 
 

 もはや、「学級崩壊」なんかではなく、「学校崩壊」という状況が進んでいる。
 ★
 これはどういう事態なのか。
 
 私は「縦糸の枠組み」が壊れたのだという言い方をしている。

 今まで、学校教育の危機の状況を、「教師が悪い」「親が問題だ」「行政の問題だ」などととさんざん問題視してきたのだが、まったく説得力がなかった。

 「学校」がこれほどまでに疲弊して行っている原因は、そんなものではなく、学校の中で「縦糸の枠組み」が壊れていったことによるのである。

 「縦糸の枠組み」とは何か。
 ★
 40数年前に私が初任の教師になったとき、5年生の担任であった。
 1970年代のことである。

 この頃は、地域にも親にも「学校」の存在がきちんと認められていた。
 「尊敬の存在」とまでは言えないが、「学校」を尊い存在として存在感が認められていたのは確かであった。

 この頃の親たちは、学校へ出掛ける子供の背に「先生の言うことを聞くんだよ」と声かけをしていた。ほとんどの親がしていたと言うと、驚かれるだろうか。

 家庭訪問や個人面談では、親父さんたちは必ず「先生!先生の言うことを聞かなかったら、ひっぱたいてください!」と言われた。

 学校で教師から叱られたら、それは「オマエが悪いのだ!」と言われるために、子供は親に伝えることはなかった。

 この頃の教師が特別に優秀だったわけではない。
 「教師」というだけで、この「縦糸の枠組み」に守られていたのである。
  だから、普通に勉強を教えておけば何の問題もなかった。

 ★
 「縦糸の枠組み」とは、学校の中で勉強を教える「教師」と、勉強を学ぶ「生徒」の上下関係が成り立っていたことを言う。
 

「教師」と「生徒」は人間としては「平等」だが、関係としては「平等」ではない。
 学校では、きちんと上下関係が成り立たなければ、教育は成り立たない。
 

 その枠組みを、地域も、親たちも、そして子供たちも、自然なものとして認識していた。
 この枠組みが、学校に安定と落ち着きを与えていた。

 子供たちは、「先生の言うことは聞くものだ」という「縦糸の枠組み」は当たり前のことであり、親も地域社会も、それを後押ししていた。
  だから、先生の言うことを聞かないで、先生から叱られたら、それは当然のことであった。

 この「縦糸の枠組み」が壊れたのである。
 学校の疲弊は、ここに問題の本質があったのである。

 この枠組みの壊れは、全ての教育をねじ曲げていったはずである。
 
 この枠組みの壊れが、校長に対して「死ね!」などという言葉を投げつける子供たちを生み出していったのである。
 
 
   

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コメント

  この言葉は考えさせられますね。でも子どもの心の叫びを感じざるを得ません。 
 
 子どもにとって校長ってなんでしょうか。自分の記憶の中でも、校長はあまり出てきません。
 子どもにとっていつも小言をいう校長は邪魔な存在なのかもしれませんね。
 
  「何しに来た。うるさいな。」ということは、ある意味で校長がまだ権威を持っているのだと思います。「死ね」は余計な言葉ですが・・・・。自分が嫌な時には、よく使われているのではないんでしょうか。校長が来ると、また余計なことをいうと思っているのではないかと思います。
 ある意味で校長がその子たちの敵になっているのかもしれません。
 
 私は学校として縦糸を大事にする必要があると思います。しかし、野中先生がおっしゃることに少し違います。縦糸がなくなったのではなく、私たちが縦糸を壊してきてしまったのです。なんでも平等、なんでも同じようにとしてきたのは私たちです。そこを反省しなくては、学校がますます崩壊してしまうことでしょう。

 私は、教師集団にも縦糸、横糸が必要だと思います。きちんとできていないのならば、私たちが縦糸、横糸で紡いでいくしかないのです。それには、管理職も今の自分に胡坐をかいていてはだめです。もっと学ばなくてはならないと思います。
 山本五十六の有名な言葉に、「やってみて言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」とあります。でもそれだけではないのです。
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」
「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」
と。
 私も子どもに「校長先生を変えてほしい」と言われました。まだまだ力不足なのだと感じています。
 
 力のある校長先生だと思いますが、「死ね」と言った子どもを責めるのではなく、「死ね」と言わせてしまった自分を責めてほしいと思います。
 
 新年から自分を考えさせられた言葉でした。
 

投稿: よしドン | 2014年1月 4日 (土) 09時41分

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