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「教室ファシリテーション10のアイテム100のステップ」を読む

    京都へ行く新幹線の中で、堀裕嗣先生の最新書「教室ファシリテーション10のアイテム100のステップ」(学事出版)を読んだ。
 最近画期的な提案を連発している堀先生だが、今回の提案もとても画期的なものだと感心した。
 なぜこの本を出版したのかという趣旨は「まえがき」にはっきり表明されている。
 
 △ △ △
 これまで当然と思われていた学校教育システム、授業システムが<制度疲労>を起こしているのです。もちろん、授業から座学をすべて排除するなどということはできません。授業の中心は知識の伝達であり技術の継承ですから、それは不可能なことです。しかし、「座学だけでできている多くの授業」を「座学中心だけど交流場面も必ずある授業」に転換できないでしょうか。この明らかに<制度疲労>を起こしているシステムを少しだけ、現代的な子どもたちの実態にあわせてシフトしてみてはいかがでしょうか。
 △ △ △
 
 この提案には、私も大賛成だ。
 実際に今年度、学級への飛び込み授業で交流場面を設ける授業を何回も提案してきた。
 もちろん、子供たちには初めての試みであるので抵抗があったが、やろうとすればできていくのである。続けていけば、きっと子供たちもうまくこなしていけるようになるはずである。
 これがとても現実的な提案であると私は思っている。
 堀先生は、フェイスブックで次のようにも提言されていた。 

 △ △ △
 一斉授業がちゃんとできる人じゃないと、協同学習とかファシリテ​ーションも機能させられない。そういう認識をぼくはもっている。一斉授業をただ否定して協同をやっている人に、一斉授業を勉強しようとしている人以上の自己満足とか逃避とか、要するに傲慢さを感じることがある。この認識がとても大切。
△ △ △

80年代から90年代にかけて、技術の法則化運動が現場に大きな問題提起をした。
何よりも大きく変わったのは、提案している先生たちの授業だった。
向山洋一先生や大森修先生などの授業を私は見たのだが、それは目を開かれるものだった。
「指名なし討論」で子供たち同士が討論していくのである。
「すごい!」という場面。
当時、この授業に憧れて、自分のクラスでも指名なし討論をしてみたいと思った先生もいっぱいいたと思う。
 だが、やってみればいいと思うがこのような授業は、よほどの技量がなければできないのである。
 クラスの半数ぐらいが討論に加われなければ無理である。そして、子供たちには自分の思いを言葉にしていく語彙力が必要になる。
 それでもクラスのあと半分は傍観者になる。
 クラスで5人から10人ぐらいが討論できれば、それは見ている人たちに衝撃を与える。
 研究授業になれば、それは注目を集める。
 ただそれだけである。
 担任は満足して、それでいいのだと思ってしまう。
 大半は傍観者になってしまっている事実には目がいかない。自己満足にしか過ぎないのである。
 ★
 もはやこんな「研究授業的な授業」からは離れていかなくてはならないと思っている。  その意味で、堀先生の今回の提案は、実に現実的で、普通の教師たちが取り組んでいくための多くの示唆を与えているものだ。
 そのように読み進んだ。

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