北海道の三和史朗先生からいつも「草の根教師道場メールマガジン」を送ってもらう。
今回は,100回記念だということで次のようなマガジンが送られてきた。
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もし,工学が人生を忙しいものにするのなら,何の意味も無い。
学問によって,数日かかるところを数時間にして,
一日の仕事を一時間にとどめ,
人が静かに人生を思う余裕を与えるもので無ければならない。
(中略)
冒頭の言葉は,小樽の北防波堤を築いた工学博士,廣井勇(ひろいいさみ)の言葉です。
私の座右の銘でもあります。
使いこなすということは,何のためか。
便利な道具を使う目的は?
と問われたら,こう答えたい。
つまり,人生に余裕をもつためである,と。
従来の道具では数時間かかっていた仕事を,便利な道具を使いこなすことで,数分で終え,
できた時間を自分の余裕にあてる。
往々にして,便利な道具を使えば使うほど仕事が増えて,逆に忙殺されてしまうということがあります。
また,仕事ができる人に仕事が行く,という法則めいたものもあります。
仕事に追われる人と,仕事を追いかける人。
こうしたことは,道具を使いこなすことと,道具に使われていることの図式に似ていると考えます。
何のために道具を使うのか。
どうして使いこなせるようになりたいのか。
くりかえし強調しますが,
それは自分の人生を思う余裕をもつという「豊かさ」のためなのです。
しかし,言葉では分かっていても,頭では理解したつもりでいても,
実際にそのように行動できないから困っているのです。
目的も本質も分かっているのに,そのようにできない。
そうです。そのようにできない原因を探ることが必要です。
自分を見つめ直してみましょう。
自分がどうして,道具に使われてしまっているのか。次から次へとやってくる仕事に追われているのか。
次に,子どもの姿にあてはめてみましょう。
子どもがどうして,受け身的な学習態度なのか。
与えられないとやらないのか。与えられたものすらやってこられないのか。
見つめ直す余裕すらなくなってやしないか…。
年度末年度初めの激務時期に入ります。ちょっと頭の片隅に置いておいてみませんか。
△ △ △
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読ませてもらい、感慨深いものがあった。
工学博士の廣井先生の言葉は、とても感銘を受ける。
こうなのだ。
教師の仕事も、まったく同じものだと思った。
もう一度繰り返したい。
「 学問によって,数日かかるところを数時間にして,
一日の仕事を一時間にとどめ,
人が静かに人生を思う余裕を与えるもので無ければならない。」
★
私が教師になった頃(1971年の頃)、全員の先生たちはガリ版で文書を作っていた。
もう教師の誰も、この経験がないはずだ。
ろう原紙にがりがりと鉄筆で書き込み、文書を作っていた。
だから、無駄な文書が出ないし、出せない。必要な文書だけが出されていた。
しかし、どの先生も学期の最後には、子供たち全員の作文を文集にして作文集を出して締めにされていた。
一人ずつの作文をがりがりと鉄筆で書くという作業を想像できるだろうか。
この他にも、通知表を書き、指導要録を書くという作業をしていたのである。
それでも、今に比べたら余裕があった。
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この頃と比べたら、便利なパソコンができ、便利な印刷機ができ、文書作りはとても簡単にできるようになった。
それなのに、学期の最後に子供たち全員の作文集を出している先生が一体どのくらいいるのだろうか。
そんなものに時間を使えないで、通知表や指導要録を書くだけで青息吐息になっている。
これが現実である。
この30年の間に、何が変わり、何が加わったのか。
便利な道具が、さらに教師の仕事を忙しくさせ、さらに余計な仕事を倍加させていったのか。
教師の子供たちと過ごす時間や、余裕をもって子供たちを見つめていく時間を奪っていったのは何か。
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今まで何回も繰り返された、この問いかけを改めて考えた。
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