ブックオフから買ってきたピアノ曲を聴いていたら、どうにもからみついてくるピアノ曲があった。
何という曲なんだろう。
「グノシェンヌ第1番」サティ と書いてある。
クラッシックにくわしくないので、サティがどんな人かも分からない。
とにかくアマゾンでこの曲を調べて取り寄せる。
ERI K SATIE の曲。(石川晋さんならくわしいであろう)
取り寄せる。全部英語で書いてあるのでさっぱり分からない。
不思議な曲である。
こんなときには、フリー百科事典「ウィキペディア」。
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フランスの作曲家
……
「音楽会の異端児」「音楽会の変わり者」と称され、西洋音楽に大きな影響を与えた
と見なされている。
…
同一音形を繰り返す手法を用いた『ヴェクサシオン』『家具の音楽』なども書いた。
なお『家具の音楽』というのは彼が自分の作品全体の傾向を称してそう呼んだとされ、主として酒場の演奏活動をしていた彼にとって客の邪魔にならない演奏、家具のように存在している音楽というのは重要な要素であった。そのことから彼は現在のイージーリスニングのルーツのような存在であるともいえる。
△ △ △
なるほど、なるほど。だから、こんな曲が出てくるのだ。
有名な曲は、「ジュ・トォ・ヴー」と言われているが、聴いてみようという気になる。
★
しょうやさんからいつものようにコメントをもらう。
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本市も光村を国語で採用しています。
指導書は、「宇宙語」で書かれているとしか思えません。
昨年度初任で国語を教えるのに一苦労しました。
残念ながら、指導書はほとんど役に立ちませんでした。
国語の指導書はどこもあんな感じかなと思っていましたが、教育出版は違うのですね。
教育出版の指導書を見たくなりました。
初任者にとってみれば、指導書は助け船です。
それを、わらをもすがる思いで掴みます。
しかし、それが泥舟だったとしたら…考えるだけでもげんなりしてきます。
野中先生の提唱される「味噌汁・ご飯」授業の具体化を願ってやみません。
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私が良いと紹介した指導書は、東京書籍(東書)である。
他の指導書はまだ見たこともない。
これはなかなか買えないのである。
一冊1万円以上するから。
光村の指導書を「宇宙語」と言われているのには、まさにそうだろうなあと思う。
教育の世界に何年もいると、教育の世界だけで通じる言葉に慣れてくるので、この光村の指導書にも慣れてくる。
しかし、初任者にとっては何が書いてあるのか判読不明になるはずである。
まさに「宇宙語」。
おそらく作成している先生たちも、分からないで作成しているのじゃないかと思ってみる。
もう少し光村の指導書にからんでみる。
例えば、「初雪のふる日」の言語活動には次のような記述がある。
「物語を読み、読後感が生まれる秘密を探る」
「読後感」なのである。
この指導書を作成している先生も、この「読後感」にずっとこだわっている。
そして、土壺にはまっていると思われる。
「読後感」というのは、「本を読んだ後の感想」である。
読後感なんて、それぞれ人は違うのであるから、それを追求するというのはそもそもおかしいのじゃないのと素人考えで思ってしまう。
「読後感が生まれる秘密」なんて言葉に酔っているとしか思えない。
読めば誰でも読後感なんてもてるのだ。
「おもしろかった」「何か分からなかった」「不思議な物語だ」…これでいいじゃないか。
そんなことより国語の勉強は、書いてあることを読み取るということがもっと大事なことではないのか。
何か勘違いをしているとしか思えない。
模擬授業をした2年目の先生は、第1、2場面から中心の学習課題を「女の子の気持ちが不安に変わったのはどこだろう」という課題を出されていた。
生徒たち(先生たち)の意見は分かれた。
この学習課題は、指導書のどこにもない。
その先生が考え出したものだ。
私はこれでいいと思った。
なぜ、2年目の先生が考え出す学習課題を、指導書は提起できないのか。
おかしいのである。
指導書は、3時間目は次のようになる。
<めあて>
場面ごとに、心に残ったところや、読後感につながっていそうだと思うところを
書き出そう。
どちらが分かりやすいのか、誰でもが分かる。
指導書では、ほとんどの子供たちはついてこれない。
私たちの研究会のメンバーは、この指導書に替わるべき代案を出すことはできる。
物語文を読むための原点に帰ろうよという、基本的な指導案である。
6月30日の提案では、それをなそうと考えている。
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