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私たちは「研究授業主義」に汚染されてきたのではないか?

   授業中の私語の対策について、池田修先生がブログに書かれている。

  http://ikedaosamu.cocolog-nifty.com/kokugogakkyuu/2006/08/post_1a64.html

 池田先生の結論は次のようなことになる。
   △ △ △
私語を言う子どもに対して、子どもが自分を変えなければならないという事は、私はほとんどないと考えている。今まで書いたことの中を見ていただければ、子どもが工夫する所はないことが分かると思う。私語の原因の9割以上は、教師の工夫で無くなる、教師の責任だというのが、私の考えだ。
  △ △ △

  私も、まったく同感する。
 私の知り合いで管理職をしている先生がいる。
 各クラスを見て回ると、ほとんどの先生がずっとしゃべり続けているということ。
 そんなことに気づいたと聞かせてくれた。
 ある知り合いにも、学級の授業の様子をビデオにとったという話を聞いた。
 それを見てみると、95%ぐらい教師が話しているという授業だった、と。
 こんなものである。
 ほとんどの教師たちは、授業中ずっとしゃべり続けている。
 それを6時間中ずっと聞いておくなんて、ちょっとそれは大変である。
 私語ぐらいしたくなるはずだ。
 ★
 日本全国でどこの学校も「授業研究」を続けてきた。
 ずっと重点研究として授業研究を続けてきたのである。
 私は最近そういう研究がもはや破産していると考えるようになった。
 なぜか?
 40年も50年も、そんなことを続けてきて、多くの先生たちの普通の授業は、相変わらず教師が1時間中ほとんどしゃべり続けている授業なのである。

 もう少し言うと、ほとんど教師がしゃべっていて、時々発問をして3,4人のいつもの子供たちが発言をして、そして先へ進んでいく授業。
 
  このような授業なのである。
 このような授業なんか、40年も50年も先からやっている授業なのである。
 ほとんど何の変わりもない。
 ほとんど、何の進歩もない。
 それでもずっと授業研究はしていたのである。
 何の研究をしていたのであろうか。
 今までの授業研究は、普通の多くの先生たちの日常授業を変えるということにはならなかったのである。

 続けてきた「授業研究」は、研究授業のための授業をしていただけなのだ。
 そんなことに気づいてきた。
 ★
 えらそうにこのように言っている。
 実は私もそのような授業研究をしていたのである。自己批判として書いている。
 渦中にいたときには、やはり夢中で授業研究に取り組んでいたのである。
 現場を離れてみて、初任者指導を3年間やってみてはじめて、そのことに気づいたのである。
 ★
 研究授業では、さまざまに工夫した授業が公開される。
 それについては喧々がくがく話し合いをしてきたのである。
 ところが、一旦「日常の授業」になると、とたんに研究授業とは打って変わって教師がべらべらとしゃべっていく授業になってしまう。
 これが現実である。
 多くの先生たちが「研究授業主義」に陥っていて、1時間(あるいは数時間)の研究授業を終えたら1年間が終わってしまうような意識が染み渡っている。
 あとの2000時間以上の日常授業は、まったく変わりなく、40年や50年前の授業と同じような授業を続けている。
 その証拠に研究授業で提案される学習指導案は日頃誰も使わない。
 あんなものを作っていたら日常授業はできない。
 あれは研究授業用の指導案だったのである。
 それでは日常授業用の指導案はあるのか?
 そんなものは見たことがない。
 あるとしたなら本時用の指導案になってこよう。
 結局、私たちの授業は「研究授業主義」に汚染されていたのである。
 もちろん、このようになっていない教師もいる。
 ところが、多くの教師たちの、普通の日常授業はこのようになっている。
 教材研究がほとんどできない現実では、こうなってしまう。
 ★
 多くの教師たちは、子供たちにとっては「聞く」という受け身的な活動(言語活動)をずっと続けているということになる。
 それは耐えられないはずだ。
 もう一度、多くの教師たちの「日常授業」の問題点をまとめてみる。

  ①ずっと教師がしゃべっている。
  ②発言する子供たちは3,4人。あとは傍観者。
  ③ほとんど活動がない。

  端的にまとめるとこうなる。
 これが今まで問題にされてきた一斉授業の大きな問題点なのである。
 ★
 私が提唱してきた「味噌汁・ご飯」授業は、この問題点を克服したいという提案になる。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

野中先生、引用ありがとうございます。

研究授業の功罪はきちんと整理されなければならないなと思っています。研究は、ユニークであることが大前提だと思います。ここで大きな間違いがあると思っています。研究方法をユニークにすることだけに力が入っていると思うのです。

ユニークなのは子どもたちの方です。
毎年変わりますf(^^;。
その子ども達に対してどう独自に指導したのかが問われるべきではないかと思うのです。同じ指導方法をしたところで、通じる、通じないということがあるのは、現場にいれば当たり前のように分かることですから。

研究は大事だと思います。
現場の研究は大事だと思います。
しかし、研究のための大前提として現状の分析が必要な訳です。

ところが、研究授業の指導案には、子供観、教材観、指導観と書くことはあっても、教師の指導力に関する現状分析はありません。つまり、自分の力量を認識する部分がないのです。現状の分析があった上で、そこから指導をすることによって、自分の授業力を改善することが可能になると思うのですが、ここがありません。

ま、自分の授業の現状を知るためのあれこれをきちんと、厳密にやるいこともないし、やれるとは思えませんが、少なくとも自分の授業を録音して聴くということぐらいを全ての教員(校長も含む)が、するという「研究」があるべきではないかと思います。

まとまりませんが、長くなりました。

投稿: 池田修 | 2012年1月13日 (金) 22時06分

私は、

>学級担任ではないけど、教科担任ではある。なんとかするのは、その先生だ。

という一文に、違和感を感じました。


こういう論だと、職員室の雰囲気は悪くなるばかりだと考えます。
みんながみんな、優秀な教師ではないはずです。

果たして池田先生はご自身の「想い」をその先生にお伝えしたのでしょうか。
あるいは、その先生と共同して何か対策を講じられたのでしょうか。
みんながみんな、池田先生の教育観念を持っているわけではないはずです。

註:私は、「静かにしなさい」と教師が言うことは、教師の負けだと考えています。ただし、その考えを、他の同僚に要求はしません。

投稿: しょうや | 2012年1月14日 (土) 08時09分

 遅ればせながら、今年もよろしくお願いします。
 実態を見ていないので、私の経験から・・・ということでご容赦ください。
 
「私語の90パーセントは教師の責任である」賛成です。
(教室がうるさくなるほどの私語はほとんどこれ。残り10パーセントは発達障害系がらみであることが多数。これは別の対策が必要。TOSSの特別支援用のさまざまな技術が生きます)

「なんとかするのはその先生だ」全くその通りです。
 ただ、これをストレートに伝えると(人によるが)人間関係が壊れるのは必至です。よほど人間関係ができていなるか、やる気があると見込まれるか、どちらかでなら有効ですが。
私は3~4年目に指摘されました。どうにかしないと・・・という思いはあったのですが、手段がわかりませんでした。ただ、その先生は私のクラスの飛び込み授業で実演していただけた後だったので、納得できました。
 やがて、その先生とは勤務先が変わった後、法則化サークルで再会することになります。


「静かにしなさい・・・他の先生に要求はしない」条件付きで賛成です。人をみて判断します。その人の考え、言動でアドバイスが変わってきます。
 若い(精神的に)先生なら、実態を聞いたうえで、アドバイスするでしょう。素直な人はやってみようとしますから。ヤル気が感じられる人なら「この部分の考え方は変えた方がいいよ」くらいまではいいますね。
 老いた?(精神的にです!)人には、実態を聞きつつ、こんな教材ありますけど、といってはみます。(多くはTOSS教材)変な言い訳されることは覚悟の上で。(経験がかえって邪魔してしまうことがあります。多くは疲れとやる気の喪失からきています。まあ、しかたないですけどね) 

 団塊の世代の大量退職後は、いやでも経験の浅い人たちにも頼らざるを得ません。残った我々がリードしなければいけません。(私は今年度末で45歳。あと20年あります。)
 その時に、多くの若い人がやる気がなくなるほどのいやな思いを経験することは避けなければいけません。そのための「味噌汁・ご飯授業」であり、TOSSインターネットランドの活用であると思います。

 私の学校もとりあえず「研究のまとめ」は担任が書かなくていいようになりました。(市教委への提出のため、教務主任が作成することで決着)大きな前進だと思います。これから、普段の授業づくりに力を注いでいけるように、様々な働きかけをしていこうと思っています。

投稿: TOSS末端教師 | 2012年1月14日 (土) 14時54分

しょうやさん、コメントありがとうございます。池田です。

>>>学級担任ではないけど、教科担任ではある。なんとかするのは、その先生だ。

>>という一文に、違和感を感じました。

ということですが、その後に、

>>協力はするし、生徒に話もする。しかし、その私語はその先生の授業の中で起きているの
>>だ。

と書いております。

つまり、最終的にはその先生にしかなんとかできないということを書いています。中学校は、学年で動くことが基本であり、チームで動くことは前提になっています。その上で、私語で困っている先生の授業へのフォローはしてきましたし、困っている生徒へのフォローもしてきました。

つまり、私語が減らなくて授業がうまくいかない先生と、そのような授業を受けることになってしまってやる気をなくして授業を放棄している生徒達へです。それは当然のことです。私はそのようにして来たつもりです。しかし、

「あなたの授業のクラスがうるさいのだから、あなたがなんとかしてください」

そのようなことを言って突き放す先生もいました。私は冷たいなあと思いましたが、最終的にはそうなのだと思います。そこを引き受けないで、生徒のせいにしてしまうのは、能力の問題ではなくプロとしての問題だと私は考えています。優秀だからできるということではなく、工夫次第で出来る部分をきちんとすべきだと考えています。

やはり最終的には、その先生がなんとかしなければなりません。その授業で行われている訳ですから。その先生以外の指導で静かにしていたとしても、それは子供達が、静かにすることにつき合ってくれているだけで、何も解決しないと思います。

私語を生徒のせいにしてはならない。私語を生むのは、その先生の授業です。中学校では、先生ごとに同じ生徒であっても私語が生まれる授業と生まれない授業があるのですから。これは事実です。ここを引き受けることをしないと、その先生の授業は良くならないでしょう。

>>みんながみんな、池田先生の教育観念を持っているわけではないはずです。

その通りです。教育に関する信念は違うことがあるでしょう。子供を大人に育てる仕事をする上で、何を大事にするのかは教師によって、または対応した子供によって変わってくることだと思います。

しかし、私語を生み出す授業をしているのは、その先生です。これは教育観念ではありません。事実です。協力もサポートもしますが、これを直すのは、最終的にはその先生でしかないということです。

投稿: 池田修 | 2012年1月14日 (土) 16時56分

池田先生

たいへん詳しいコメントをありがとうございます。恐れ入ります。
先生のblog内容をよく読んでいなかったり、その背景にあるものを読み解こうとしなかったりしたことを反省しております。

これからも先生のblogを拝見させていただきます。
楽しみにしております。

投稿: しょうや | 2012年1月14日 (土) 20時11分

「授業中の私語」ということで、私には苦い思い出があります。

初任の年のことです。道徳の授業でした。松谷みよ子さんの「わたしのいもうと」を題材に、いじめについて考えようと授業をしました。わたしの授業の前の日に、同学年の先輩の先生が師範授業をしてくださいました。大変しっとりとした雰囲気の中で、子ども達はいじめについて真剣に考えていました。私はそれを参考に当日の授業をしました。師範授業をしてくださった先輩の先生も見に来てくださいました。
しかし、そもそも学級経営でもたつき、行動面で配慮が必要な児童が数人おり、頃から私語が絶えない状態の学級です。いざ授業をしたところ、いじめについて考えるどころか、ざわざわした状態の中、時折「うるさい」と私が怒鳴りながら、授業は進みました。私は心の中で「(先輩の)先生も一声注意してくれないかな。」と思っていました。
授業後、「うるさくてすいませんでした。」と先輩の先生に言いました。するとその先生は「私が注意すればきっと静かになっただろうけど、それは学級経営上まずいよね。」と言いました。当時は、その意味がうまく理解できませんでしたが、今は十分理解できます。

また、同じ時期、理科の授業に別の先生が教科担任として入っていました。あれだけ私語のあるクラスだったのに、その先生の授業だけは子ども達が真剣なまなざしで臨んでいました。当時は「この先生は経験もあるし力もあるし・・・」と思っていましたが、今はそれだけではない、と思います。

つまり、私語は授業者の責任であり、子どもの責任ではありません。医療的アプローチ・支援が必要な子どもを除き、私語は「授業がつまらない」という子どもの正直な反応と読みかねなければならない。この点、池田先生と同意見です。

私は小学校教師で、日常の学級経営があり、その上に成り立つ授業、という枠組みで日々仕事をしています。中学校は、教科担任制ですが、事情は違えど「授業をしている先生」がその授業という空間を把握し、空気を統率する責任があります。
決して、子どもの責任にしてはならないことです。

投稿: 佐藤玄輝 | 2012年1月14日 (土) 21時11分

 再度コメントを。
 最近の私の授業は、下の中レベル(能力も態度も)がいかについていけて、その上のレベルの子たちも飽きず、意欲的に取り組めるようにするには、どうしたらよいか・・・を出発点に考えています。
(下の下レベルは、ついてこれる内容はやらせる。できそうにない内容は、ひたすら「なぞる+写す」に終始する。)
 
 TOSS型の授業はそうだと思います。
 ただし、私は“TOSS末端”です。どうしても限界があります。
 “TOSSどっぷり”の方なら、下の下レベルの子たちも満足できる授業が組めているでしょう。

 何にせよ、子どもたちが意欲的に取り組めれば、私語は出てこないでしょうし、あったとしても一時的なものになると思います。
 もちろん、ふだんの学級経営が基盤にあることはいうまでもありません。

投稿: TOSS末端教師 | 2012年1月20日 (金) 21時23分

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