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2011年12月

そんなわけで、1年を終えようとしている!

 今年もこのように暮れようとしている。
 NHK9:00からの「旋律よ゛殿堂 ゛に響けピアニスト・辻井伸行 夢のカーネギーホール作曲の現場に完全密着」を見る。
 辻井が、このカーネギーホールを作曲家としての世界に出て行く足がかりにしたいと臨む場なのだ。
 その作曲の指導を日本を代表する作曲家加古隆に依頼する。
 加古の指導に釘付けになった。
 「あなたのピアノは素晴らしい。それは左手の和音が奏でる素晴らしさ。
  しかし、その左手にいつまでも頼っていると、可能性が限界になる。
  これからは右手のメロディーに振り向ける必要がある」
 このような指導であった。
 辻井の右手での挑戦が始まる。
 しかし、それは苦難の連続。
 1つの音も出せなくなる。
 曲作りでは大きな危機であった。
 ★
 その時、映画音楽の作曲も依頼されていて、苦難の末に右手のメロディー弾きで乗り越える。
 その経験をもとに、自作の「ジェニーへのオマージュ 作品1」を作り上げる。
 そして、カーネギーホールで初披露。
 弾き終えて辻井は泣いていた。
 感動の涙。
 「もう満足!新しい、今までなかった新しい世界が見えてきた!」と。
 ★
 私は、加古隆の指導に惹きつけられていた。
 「左手に頼っていないで、右手のメロディーに振り向ける」という指導。
 ★
 そうだなあとつくづく思う。
 私も今まで「左手を使った和音」に頼ってきた生き方をしてきた。
 これからは「右手のメロディー」を奏でられる生き方。
 ★
 私は来年65歳になる。
 もうとっくに現場を去り、隠居生活をしなくてはならない歳になっている。
 だが、現実はこのままで引き下がれなくなっている。
 私が抱え込んだ課題はまだまだなのだ。
 私自身はもうとっくに限界がきているはずなのに、まだまだ先へ進まなければいけない。
 そんなときに、加古隆の指導を目にする。
 そう、そう。まだ、右手があった。
 右手のメロディーならひょっとしたら奏でられるかもしれない。
 ★
 そんなわけで(笑)、1年を終えようとしている。
 ブログに付き合ってもらったみなさん。
 ほんとに有り難い。ありがとうございます。
 20代の頃、「無名通信」を出していた。
 数人の友人たちに配布してきた通信だ。
 それが私の精一杯のアウトプットだった。
 今、私のブログに付き合ってもらっている方は常時400人程度の方。
 コメントも、kiki さんやTOSS末端教師さんなどに常時付き合ってもらっている。
 ほんとにありがたい。
 私は、20代の頃数人の友人たちに配布していた通信の志はまったく変わらない。
 思ったことを偏りをもって(笑)書く。
 ずいぶん顰蹙を買うこともあるであろう。勘弁してもらいたい。
 ★
 そんなわけで、1年を終えようとしている。
 今、「元気に教師生活をおくる原理原則」(仮)というような本の原稿を書いている。
 来年の7月頃の発刊になるであろう。
 そして、これから初任者へ向けた「1ヶ月のシナリオ」に取りかかる。
 これをもって、2月、3月、4月の講座は出かける。
 ★
 江戸の儒学者 佐藤一斎は、その「言志四録」の中で次のように語っている。

 長い人生のうちには、暗い夜道を歩くようなこともあるが、一つの提灯を
 掲げていけば、いかに暗くとも心配することはない。その一灯を信じて歩
め。

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石川晋さんの「音楽ベスト10」発表

   年末恒例のベスト10の発表である。
 北海道の石川晋さんの音楽アルバムになる。
 私はこの中からいつも自分に合ったものを買い求めている。

 △ △ △
10位 柴田淳"僕たちの未来"
 とてもきれいなアルバム。しばじゅんの美しい声を聞かせるということを、ぶれ
ず丁寧に作っているなあと思う。ただ、初期のはかなげな感じがずいぶん後退して
しまったなあ、とも。

9位 安藤裕子"大人のまじめなカバーシリーズ"
 シングルのカップリングにしてきたカバー曲を集めたもの。もうひとひねりあっ
てもいいけど、でも、早瀬優香子の"セシルはセシル"とか、郷ひろみ&樹木樹林の
"林檎殺人事件"とか小沢健二の"ぼくらが旅にでる理由"とか、なかなかおもしろい
選曲。歌もそつなく楽しく。 

8位 〓橋優"リアルタイム・シンガーソングライター"
 最初、おしゃべりが過ぎるなあと思ったのだが、秋口あたりに聴き直して、すご
く切実な感じが伝わってくるなあと思い直した。このスタイルを押し通していくこ
とは難しいだろうから、今がまさに旬だろうか。

7位 メレンゲ"アポリア"
 デビュー以来一貫して押し続けてきたメレンゲ。クボケンジくんのユニットだ。
日本の叙情派ロックの看板を背負えると思うのだが、今回がメジャーからの最後の
アルバムになってしまうかも知れないな。このアルバムも、詩的ではかなげで、と
てもステキだ。親友だったフジファブリックの志村正彦の死もあって、やはり特別
な一枚に仕上がっていると思うのだが。

6位 伊藤サチコ"TruthfullⅡ"
 自作のピアノ弾き語りの第二弾。切実な声。特徴的な声は好き嫌いもあろうが、
彼女の詩世界は一聴に値する。

5位 中川敬"街道筋の着地しないブルース"
 言わずと知れたソウルフラワーユニオンの中心。ギターの弾き語り。震災後の世
の中に、名曲"満月の夕"の再録も含めてしみじみとだみ声が響く。ぼくには猪苗代
湖'sのようなアプローチよりも、こういう方が響くなぁ。

4位 ストレイテナー"STRAIGHTENER"
 バンド名を付したアルバムタイトル。長い活動歴の中で今、バンド名をシンプル
にタイトルにするということは、当然の自信作ということで…大変なスピード感、
はずれなしのシンプルなロックアルバム。彼らの代表作になると思う。

3位 Salyu×salyu"s(o)un(d)beams"
 Salyuがコーネリアスと組んだ一枚。Salyuの圧倒的な声量と声質の魅力、それに
ヴォーカリストとしての技量の高さがあってはじめて成立する「遊び」があふれて
いる。声って素晴らしいなあと思う。コーネリアス名義の新作も聴きたいなあ。

2位 YUKI"Megaphonic"
 今作も聴きながら温かい気持ちになる一枚。ただここ何作かの中で、このアルバ
ムが飛びぬけていいかというと…うーん、どうかな。

1位 サカナクション"DocumentaLy"
 前作を遥かに超える、大傑作。志の高さ。鳴る響くということをイメージした中
で設計されていく言葉。"エンドレス""years"の2曲は、ロック史に残る名曲とな
るだろう。

 今年はおおむねおもしろくないミュージックシーンだった。相対性理論(やくし
まるえつこ)のオリジナルな新作が出なかったのも残念だった。
 来年は、育児休暇に入ります。個人通信を出す量も10数年ぶりくらいにぐぐっ
と増えるかも?!
  △ △ △
 ★
 石川晋さんは、来年度はうららちゃんの育児休暇に入るという。
 私が知っている限り、男性が育児休暇に入るというのは初めてだ。
 実にいい。
 だれかがこういう道も切り開いてくれなくてはならない。

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「カオス化する社会」に対して「地上戦」を展開している

   内田樹さんのブログで重要なことが提起されている。

  「劇化する政治過程・カオス化する社会」

  http://blog.tatsuru.com/

 私は印刷して何度も読んだ。
 今日本でどのようなことが展開されているか納得するブログである。
 ★
 「カオス(混沌)化する社会」になっている。
 その通りだとしみじみと思う。
 教育界で90年代後半に表面化した「学級崩壊」は、今から考えれば「カオス化する社会」の先鞭であったのだ。
 この「学級崩壊」は、今都市圏を中心に深刻な広がりを見せている。
 この広がりは地方へ波及する。
 いやすでに波及している。
 「カオス化する社会」は、それぞれを「機能不全」に陥らせていく。
 ★
 この状況に、京都大学の瀧本哲史先生は「僕は君たちに武器を配りたい」という本を出された。
 同感する。
 私は、この「カオス化する社会」に対して「地上戦」を展開している。
 武器とか地上戦とかは、教育には違和感がある言葉だが、この言葉がぴったりくる。
 私が言う「地上戦」とは、孤立化している先生たちに「武器」を配って歩き、「子供たちのためにがんばりましょう」という呼びかけである。
 「カオス化する社会」は、個々の人たちを孤立化、無援化する。
 とりあえず、個々の先生たちが元気にならなければいけない。
 そのための「武器」を配って歩きたいという願望である。
 その「武器」とは何か。
 「学級づくり3原則」「味噌汁・ご飯」授業である。
 シンプルで、普通の先生が手にしようと思ったらいつでも身につけられる「武器」だ。
 ただ、今のところ「学級づくり」は何とかまとまっているが、「味噌汁・ご飯」授業はまだまだまとまっていないのが心許ないところである。
 あわてず、急いでいる。
 

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漢字指導をどうするか?

 新潟の大島先生からコメントがついた。

 △ △ △ 引用始め 
  今年は漢字学習を第二グループのやり方でやっています。昨年まで試行錯誤やって来た結果、このパターンが良いのではないかとたどり着いたやり方です。
漢字学習→テスト→間違った字の練習→テスト→間違った字の練習→テストという風に合格するまでやります。初回満点だった子達も二回はテストをします。
明確な根拠をもってやっていた訳ではないので、内田先生の記事を読んで、やはりなと確信しました。昨年度までより、定着率が高いのです。テストの回数が増えたので、丸つけの回数が増えましたが、丸が多くなるので、それ程負担感が有りません。
△ △ △ 引用終わり

 ★
 漢字学習についてである。内田先生のブログにある第二グループの実践が書かれている。
 漢字指導については、ほとんどの先生方が効果をあげていないのではないだろうか。
 私は勤務最後の学校で、徹底した漢字学習に挑戦したことがあった。
 国語の重点研究の一環である。
 学校全体で取り組んだ。
 学校全体で、週2回、朝自習の時間に漢字学習の時間を設定した。
  私の学年では、今まで学習した漢字の5問テストを作成し、その時間に漢字テストをしていくのである。
 やり方は、大島先生の方式と同じだ。
 テスト→間違った漢字の練習→テスト→間違った漢字の練習→テスト
 これで合格したら、先に進んでいくのである。
 これを2回繰り返していた。
 学校全体では、1年間に3回の全校テストを行い、合格を80点以上として全クラス80点以上が何人、以下が何人と全員の先生たちに報告していた。
 分かったことは、それだけ徹底してやっていても各クラス80点以下の子供たちが何名も出てくるのである。
 漢字スキルは、全校が光村のあかねこスキルを使っていて、学年の最初には、重点研の委員が全体を集めて模擬授業をして使い方を徹底していた。
  ★
 あかねこスキルは、きちんと取り組んでいけばかなり漢字を覚えることができる。
 それはこのスキルのシステムをきちんと徹底していった場合である。
 しかし、このシステムを使わないで自己流で使っている場合が多いので効果はあまりない。
 「ゆびかき→なぞりかき→うつしがき」 がきちんと徹底されていない。
 ★
 しかし、私の学校で、この「あかねこスキル」を使っていて、やはり問題があることが分かってきた。
 その都度のテストでは、ほとんどの子供が100点を取るのであるが、時間をおいてテストをすると無残な結果になってしまうのである。
 これは、「あかねこスキル」の使い方に問題があるのだろうと思っていたが、必ずしもそうでもない。多くの先生たちがやはりそうなるのである。
 ずいぶん時間が経って、これはアウトプットの問題であるのだと気づいたのである。
 どういうことか。
 子供たちは覚えたものは忘れるのである。
 きちんとインプットをさせたら、子供たちは覚えているものだという幻想を私たちはどこかでもっているが、それは幻想だ。
 どんなにすぐれた教え方でも、それだけでは覚えるということにはならない。
「覚える」ためには繰り返しのアウトプットが必要である。
 ★
 だから、漢字指導については私は次のような指導をしていた。
 国語の授業の中の5分間をこれにあてる。
 1日に2,3個の漢字指導。
 漢字のスキルやドリルを使いながら、漢字テスト(5問テスト・合格したら進級していくテスト)を朝自習(週に2回)に繰り返していた。その漢字テストシステムのなかに、定期的に20問テストを繰り込んでいた。まとめのアウトプットである。 
 クラスの中には、2,3人はこれについてこれない子供がいる。
 覚えるという習慣が身についていない子供である。
 それは特別指導をしなければいけない。
 しかし、覚え始めると画期的に変わりはじめる。
 たかが漢字指導であるが、効果が早く出てくるので、その変化を実感させるためにはこれは効果的である。
 私は、4,5,6月の3ヶ月間で漢字指導と音読と発言の3つを特別に指導し、効果を出させて7月の三者面談でおおいに褒めまくった。
「やればできるのです。これからがんばりましょう」と。
 子供たちは、自分ができるようになっているという「事実」(変化)を自覚できなければ自分で伸びようとはしないものである。

 だから、早めに効果が出てくるこの3つを使ったのである。    

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病気休職者の文科省報道を受けて

 文科省が、病気休職者の状況を報道した。
 平成22年度の状況である。
 ★
 病気休職者は、相変わらず増えているが、そのうちの精神疾患による休職者は、5458人(平成21年度)から5407人と少し減っている。
 病気休職者の学校種別を見ると、次のようになる。

 ・小学校→3967人(45.8%)そのうち精神疾患43.4%
 ・中学校→2509人(29.0%)そのうち精神疾患30.9%
 ・高校 →1295人(14.9%)そのうち精神疾患15.1%

 中学校が多いのではないかと予想されたが、実際は小学校がかなり多い。
 小学校の方が大変になっていると予想される。 
  ★
 年代別に見ると次のようにある。

 ・50代→44.3% そのうち精神疾患39.8%
 ・40代→31.0% そのうち精神疾患33.8%
 ・30代→18.9% そのうち精神疾患19.7%
 ・20代→ 5.8% そのうち精神疾患 5.8%
 
 40代、50代が跳ね上がる。とくに、50代が多くなる。
  ★
 性別で見ると次のようになる。

 ・男性→42.1%(そのうち精神疾患48.1%)
 ・女性→57.9%(そのうち精神疾患51.9%)

 ★
 精神疾患による休職発令時点での所属校における勤務年数

 ・6月未満………………6.2%
 ・6月以上~1年未満…17.0%
 ・1年未満~2年未満…22.5%
 ・2年以上~3年未満…15.7%
  ・3年以上~4年未満…11.2%
 ・4年以上~5年未満…8.6%
 ・5年以上~6年未満…6.4%
 ・6年以上………………12.4%

  これを見ると、2年未満で休職した先生は、45.7%になる。
 精神疾患で休職した約半分の先生は、その学校へ転任して2年以内でそのようになっていることになる。
 ★
 この統計を見る限り、次のような傾向を示している。

 ・小学校に病気休職者(精神疾患)が多くなっている。
 ・40代、50代の年配者に休職者(精神疾患)が多くなっている。
 ・しかも、勤務年数2年以内に精神疾患になる先生が約半数いる。

 
  私が初任者指導で各学校を回り、把握してきた実情はこの統計通りになる。
 精神疾患のほとんどは、学級崩壊による鬱病である。
 最近耳にする学級崩壊は、ほとんどが初任者と50代の先生のクラス。
 特に、50代の女性の先生のクラスは危険信号が灯っていると思った方がいい。
 ★
 Y市は、教育委員会から退職管理職の先生たちへボランティアの呼びかけをしている。
 1ヶ月間だけ初任者について毎日指導をしてもらえないかという呼びかけである。
 Y市は、やっと1ヶ月がとても重要な期間であることを認識したのだと思える。
 いわゆる「学級づくり」の時間である。
 私はとても良いことだと思っている。
 ただし、指導できるのは初任者指導を数年経験してきた先生たちだけだ。
 この時間に、子供たちとの関係づくりを教え、徹底して学級に「学級システム」を構築することを指導できる先生でなければいけない。
 私が管理職を経験した先生の初任者指導を信頼していないのは、自分の経験でしか指導できないからである。
 つまり、授業指導を一生懸命やろうとする。
 ことごとく失敗している。
 いま、最も大切なのは、学級の土台をしっかり構築してその上に授業を乗せていく試みである。
 このようにしている先生たちは、落ち着いた学級になっている。
 ★
 何度もこのブログで主張していることであるが、管理職にならず平教師のままで退職したいと願っている先生たちは、次のことをぜひとも考え直さなくてはならない。

 ①今までの厳しい指導は、もう子供たちには通じない。
  叱ることは、1分以内なら有効だ。しかし、1分を超えた叱りは、子供たちには
    もう逆効果になる。
  ②子供たちとの関係づくりをもう一度考え直す必要がある。
    私たちが提起している縦糸、横糸張りを身につけてほしい。
    とくに、「横糸を張る」ことを絶対にやらなければいけない。
  ③経験的に身につけてきた「学級づくり」はもう耐用年数を過ぎている。
  私が提起している「3・7・30の法則」などを参考にもう一度構築し直さな
  ければいけない。そういう経験的なものはもうだめだと思わなければいけない。

 

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コメントを受けて

 ブログにコメントがついた。hdkz さんありがとうございます。
 内田樹さんのインプットとアウトプットの考えである。
 これは大切なことだ。ここでも紹介したい。

  △ △ △ 引用開始
さて、インプットとアウトプットに関して、以下のような話が内田樹さんのブログにありましたので、ご紹介させていただきます。
わたくし自身、とても参考になった内容ですので。

 

池谷裕二さんが中之島の朝日カルチャーセンターで講演をすることになったので、ご挨拶にお伺いする。
(中略)
忘れないうちにメモしておこうと思ったのは、スワヒリ語40単語を覚えるプログラムの話。
それをご紹介しよう。
スワヒリ語の単語40語を学習して、それから覚えたかどうかテストする。
という単純な実験である。
ただし、4グループにわけて、それぞれ違うやり方をする。
第一グループはテストをして、一つでも間違いがあれば、また40単語全部を学習し、40単語全部についてテストをする。
それを全問正解するまで続ける。
いちばん「まじめ」なグループである。
第二グループは、間違いがあれば、間違った単語だけ学習し、40単語全部についてテストをする。
第三グループは、間違いがあれば、40単語全部を学習し、間違った単語についてだけテストをする。
第四グループは、間違いがあれば、間違った単語だけ学習し、間違った単語についてだけテストをする。
これがいちばん「手抜き」なグループである。
全問正解に至るまでの時間はこの4グループに有意な差はなかった。
まじめにやっても、ずるこくやっても、どの勉強法をしても、結果は同じなのである。
ところが、それから数週間あいだを置いて、もう一度テストをしたら、劇的な差がついた。
「まじめ」グループの正解率は81%。「手抜き」グループの正解率は36%。
まあ、これは天網恢々粗にして漏らさずというやつである。
さて、問題は、第二グループと第三グループはどういうふうになったかである。
第二と第三はやったことがよく似ている。勉強に割いた時間も変わらない。にもかかわらず、大きな差がついた。
さて、どちらが正解率が高かったでしょう。
1分間考えてね。
第二グループの正解率は81%(「まじめ」グループと同率)。
第三グループの正解率は36%(「手抜き」グループと同率)。
これから何がわかるか。
「学習」は脳への入力である。
「テスト」は脳からの出力である。
つまり、脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化するのである。
平たく言えば、「いくら詰め込んでも無意味」であり、「使ったもの勝ち」ということである。
  △ △ △ 引用終わり
  ★
  また、あべたかさんからも次のような指摘があった。ありがとうございます。
 
 △  △ △ 引用開始
アウトプット中心という考え方。
ずいぶん前に、小西正雄先生(鳴門教育大学)が提案されていた、出力型授業観を思い出します。
今でも、わたしはこのあたりの考え方をさまよっているので。
  △ △ △ 引用終わり

 

 小西先生の本を探し出してきた。
 「消える授業 残る授業」(明治図書 オピニオン叢書31)
 明治でまだ出されているかどうか分からない。
 もう一度読み直したい。

 

 ★
 とりーちさんの指摘は、まさにその通り。
 私が提案している「味噌汁・ご飯」授業は、この指摘の線上に考える。

 

 △ △ △
 ですから、アウトプットを想定したインプットの授業構想をしなければなりません。
そうなると、だらだらとした説明?は論外。
アウトプットを想定して授業を考えていくと、
自然と、発問や説明がとぎすまされていくはず。
  △ △ △
  ★
 池田先生!「正しい『泥縄式』」というのは、どういうことになるのでしょうか。
 教えてください。

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アウトプットが中心であること

   [インプット]と[アウトプット]にもう少しこだわりたい。
 マンダラートの今泉浩晃さんは、このことについて次のように書かれている。
  親しい知人が私のブログを見て、このことを知らせてくれた。

 △ △ △ 引用始め
学習という言葉の理解には どうしても[インプット]と[アウトプット]という言
葉が必要だということも 経験を通して知ったことだ。

学びとる 習熟する とは「何かを(脳や体に)インプットする」ことです。
そして なぜインプットするのかといえば そのインプットしたものを使って 何か
をアウトプットするためなのです。

このアウトプットしたい(ものがある)から そのために 知識や技術をインプット
したいのだ というカタチで学習したものは ほとんど忘れない。

このアウトプットしたい心が強ければ強いほど 学も習も 活性化する。
アウトプットしなければならないという ニーズが強ければ強いほど 学習もまた
強力になっていく。
どうしてもアメリカに住まなくてはならなければ 英語がしゃべれるようにもなるし
経理事務を どうしてもパソコンでやるとなれば エクセルも使えるようになる。

経験が教えてくれた「どのように学ぶか?」という問題の答えは まずアウトプット
したいものを持て! それについて昼も夜も想い続けろ! そのために必要と思われ
るものを片端から学び習得していけ! ということだった。

ここが分かってくると モノの学び方も見えてくる。
習熟のためには どんなシクミが必要かも分かってくる。

学んでから(つまりインプットしてから)アウトプットするのではなく アウトプッ
トすることがインプットの 最も効率的・効果的な方法なのだ ということです。

例えば 料理がうまくなるには まず 料理を作り続けることなのです。
出来るようになってから やる! のではなく やっているから 出来るようになる
というカタチが 正しい(?)学習のあり方なのだということです。

そうと分かったら まずは アウトプットしたいものを持つことです。
今年は 何をアウトプットするか? それが決まれば学習プランは自動的に立つ。

  △ △ △ 引用終わり
  ★
 この引用から学ぶことはさまざまにある。
 私は次のようなことを学ぶ。

 ①アウトプットが中心であること。
 ②アウトプットがインプットの最も効率的・効果的な方法。
 ③なぜインプットしなければいけないかを考えるよりも、まずアウトプットしな
    がら考えていくこと。
    だから、まず行動を起こすことが大切。
 ★
 このように考えてくると、岩下先生が言われた「インプットとアウトプットのバランス」も少し違ってくるのかもしれない。
 JJさんがまたコメントを書かれていて、この視点から学習を考え直していくことを提起されている。
 私もそう思う。
 さて、これをどのように具体化するか。
 それが問われる。  

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インプットとアウトプットのバランスを取る!

   「挙手指名発言」のブログでは5名の方のコメントをいただいている。
 いつもありがとうございます。
 これを読むと、現状での小学校や中学校の授業の様子が垣間見える。
  多くの教師たちが次のような授業をしている。

  ●教師のおしゃべり(あえて「説明」と言わないでおしゃべりと言う)が多く、
   ときどき発問をして3,4人のよくおしゃべりをする子供に発表させて先へ
   進んでいく授業。(講義式授業)
  ●発表はほとんど挙手発言。
  ●作業などはほとんど取り入れない。  

 これが現状である。
 はっきりしているのは、傍観者を作り、きわめて受け身的な授業に終始していることである。
 ★
 この現状を「一斉授業そのものの問題である」と括ることは容易い。
 私はそのように括らない。
 多くの教師たちも、この現状を必ずしも肯定をしていない。
 このように進めていくしか方法論を持っていないし、現状はとにかく忙しいのである。 私は、この「現状」から出発したいと思った。
 この「現状」を受け入れて、さて何ができるかというように考える。
 ★
 子供が教室で行う「活動」は次のことになる。
 
 

 <見る><聞く><書く><話す><読む><動かす><おぼえる>

 ほとんどの「活動」がこれに入るであろう。
  講義式の授業は、<聞く><書く>の活動になる。
 日頃多くの教師たちがやっていることは<聞く>だけの活動になる。
 インプットだけの、きわめて限定的な活動である。
 ときどき「挙手指名発言」をさせる。
 それは<聞く>―<話す>という活動になる。
 ここで<話す>というアウトプットが入る。
 だが、3,4人のよくしゃべる子供だけのアウトプット。
 これも限定的だ。
 しかし、これに<聞く>―<書く>―<話す>という「挙手指名発言」方式にしていくと場面は変わる。
 子供たち全員がノートに自分なりの答えを<書く>という「活動」が加わるからである。これは全員がアウトプットの活動をしたことになる。
 インプットとアウトプットを組み合わせて、多様に展開していくと場面は変わる。
 インプットとは、主に<見る><聞く><読む><おぼえる>になる。
 アウトプットは、主に<書く><話す><動かす>になる。
 ★
 コメントでJJさんが立命館小の岩下修先生が言われていたことを記してある。

 △ △ △  引用始め
 6月に立命館小の岩下修先生とお話しする機会がありました。
 その中で「1時間の授業の構成を考えるとき、子供のインプット(の活動)と
 アウトプット(の活動)のバランスをとるようにしている。」というお話があり
 ました。同感しました。
  △ △ △  引用終わり

 さすがに授業名人の岩下先生である。
 言われることが違う。
 ★
 担当した初任者が漢字指導をしていた。
 テレビを使って筆順指導をし、ノートに書かせている。
 宿題でもノート1ページ書かせている。
 これはインプットになる。
 ところが、「これだけ指導しているのにまとめのテストはひどい」ということになる。
 どうしたらいいのか、ということになる。
 私が指導したのは、「インプットは熱心にやっているが、アウトプットが弱い」ということ。
 どうしたか。
 インプットと同時に、アウトプットも小刻みに実施していく必要である。
 小テストというアウトプットをもっと使わなければ「おぼえる」活動はできないのである。
 ★
 活動の<見る>を中心にして展開されている授業がある。
 玉川の堀田先生、愛知の玉置先生などは「ICT」を使った授業を主張されている。
 私も同感している。
 子供たちは<聞く>時代から<見る>時代へ変わっているからである。
 <ラジオ>から<テレビ><パソコン>などの時代へと様変わりしている。
 だから、どうしても<聞く>よりも<見る>に視点を移していった方がいいことは当然になる。
 私はそのように理解している。
 ★
 「一斉授業そのものの問題」に括ることを問題にした。
 私が考える一斉授業の問題点は、多くの教師たちが<聞く>という活動を中心に進めている授業しかも傍観者を多く作る授業になる。
 そこから脱皮していくことである。
 脱皮していくとは何か。
   
 ① 多様な「活動」を授業に組み込むこと。
 ②インプットとアウトプットのバランスを取ること。

 
  さしずめこんなところになるのであろうか。

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「挙手指名発言」はアウトプットの1つにしか過ぎない

   合田先生のブログには、Y先生のブログからの引用がある。 

 △ △ △    引用始め
 本日,市教育センター主催の社会科の授業改善研修に参加しました。1年生の授業を参観した後,約15名で授業研究を行いました。ここで私が次のような指摘をしました。挙手指名システムをとっているために,分かる生徒ばかりが指名されています。ということは,分からない生徒は置き去りになってしまっているのです。

その後,意見交換がありましたが,私の意見に触れるものはありませんでした。むしろ,挙手指名システムの方が,テンポがあっていいという意見も出ました。

しかし,どうして挙手指名システムにこだわるのでしょうか。野口先生も言われていましたが,手を挙げさえしなければ,1時間の授業中に指名されることはなく,安心して参加できるのです。しかし,これでは,個々の生徒の学力は伸びるでしょうか。分からない生徒は授業に参加して楽しいでしょうか。

授業改善研修ではなく,授業システム改善研修というのを開催してほしいと思いました。
△ △ △    引用終わり

「授業改善研修」で、いまだに「挙手指名システム」がこのように問題にされ、それに対して深めた討論がなされないというのはどういうことであろうか。
 このように指摘したいところである。
 ただ確認しておきたいのは、多くの先生たちの授業の中心は、いまだに「挙手指名発言」であるということである。
 これだけでほとんどの授業が進められている。
 私が言う「日常授業」の実態はこれである。

 特徴的なことは、次のことになる。

 ①3,4人のよく発表する子供たちの発言をもとに授業は進行する。
 ②クラスの多くの子供たちが受け身的な傍観者になっている。

 教育界はずっとこれで過ごしてきたことになる。
 ★
 どうしてこれほどまでに「挙手指名発言」にこだわってきたのであろうか。
 もちろん、手軽さがあることは言うまでもない。
 だが、それ以上のものがあると考えてきた。
 それは、多くの教師たちが憧れてきた「授業」がこの方式に基盤をおいてきたからだと、私は考えている。
 どういうことか。
  私たちが目指し、憧れてきた授業は次のようなものだった。

 A、クラスの多くの子供たち(できれば全部の子供たち)が発言する授業
 B、クラスの多くの子供たちが討論する授業
 C、教師がほとんどそばにいて、子供たちがどんどん発言し、討論する授業

 このようなクラスになることを目ざし、子供たちを鍛えてきたのだと思う。
 「指名なし発言」などというのは、この最たるものになる。
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 ところが、このようなクラス作りを目指しても、なかなかこのようなクラスは作れない。
 討論をしようとしても、10名以上の子供ががんがん発言できなければむずかしい。
 それでももしそのようなクラスが実現できたとしても、やはり何人もの子供たちが傍観者になっているのである。
 ★
 「挙手指名発言」というのは、どうしても限界がある。
 1時間の中で、「挙手指名発言」を全員にさせようとすると、簡単で、誰でも発言できそうな発問を繰り返す以外にない。
 つまらない授業になる。
 やはり、「考え方」を変えなければならない。
 どう考えるのか。
 「アウトプット」として考えていけばいいと思う。
 どういうことか。
 ★
 子供たちが授業で行う言語活動は、主に<聞く><読む><話す><書く>になる。
 「アウトプット」とは、この中で<話す><書く>ということになる。
 かつて野口芳宏先生が、発言は「ノート発言」だってあるのだと言われたのは、この「アウトプット」だったのである。
 そう考えれば、「挙手指名発言」というのは、「アウトプット」の単なる1つにしか過ぎないもの。
 いつまでもこれだけにこだわっているというのは、おかしなことである。
 さまざまな<活動>を授業に取り入れながら、<全員参加>の授業を目指していくというのが日常授業として考えられる最上のものになる。
 

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現場は、「サッカー」から「野球」に変わっている!

 京都「明日の教室」で、瀧本先生は初任者が現場へ入っていく状況を次のようなたとえを使って表現された。
「サッカーの仕方を習ってきたのに、実際の現場に行ったら野球をやっていた」と。
 私は見事なたとえだと思ってしまった。
 ある初任者研修会へ行って、130名の初任者に「初任のクラスは7,8割が荒れると言われているが知っていましたか?」と聞いて挙手させたことがあった。
 知っていたと挙手した初任者は3,4人。
 あとは知らなかったと挙手した。
 私は驚いてしまった。
 これだけの情報がある中で、ほとんどの初任者が知らないのである。
 現場は、すでに「野球」をやっているのに、まだ「サッカーの仕方」しか習得していない。
  この状況そのものが7,8割の荒れを生み出していく。
  ★
 以前のブログで私はこのように書いた。

 △ △ △ 引用
 ある大学の「小学校教諭免許取得課程」を手に入れた。
    何の授業を受けているかがはっきりする。
    32課程で修得単位は75。
    この中で教科に関することが21課程。
    これだけでも「教科」(授業)にものすごく力を入れていることが分かる。
    それで「学級経営、学級づくり」という課程はないのかと探すが、ない。
    他に名前を変えているのか。
    「教育方法学」というのがあるが、どうも違うような気がする。
    とすると、何にもない。
    これは、大学でいろいろ工夫していいのか、文科省で決められてあるものかどうか、 それは確かではない。
    この免許取得課程で分かることは、免許が教科いわゆる授業を教えていくことを前 提に作られていることである。
    学級経営、学級づくりなどまったく問題にしていない。
    そういうことになる。
  △ △ △ 引用

  今の大学の現状は、このようなものだ。
 大学は、「教科」(授業)にものすごく力を入れている。
 「サッカーの仕方」を教えている。
  もちろん、力を入れるのはいい。しかし、その一方で実際の現場は「野球」をやっているという現状と「野球の仕方」も教えなくてはならないのである。
 こんな当たり前のことをやっていない。
 やっているのは、一部の大学だけである。
 ★
 新人教師が辞める原因のほとんどが「精神疾患」であるという文科省調査を京都橘大学の池田修先生が紹介されている。

 http://ikedaosamu.cocolog-nifty.com/kokugogakkyuu/2011/12/post-f8cf.html

 私たち団塊の世代がどっと現場に入ってきた70年代の初頭(今よりも何倍も多い人数が教師になった)、初任者が学校に5,6人いるというところもざらにあったのである。
 だが、少なくとも私の周りでは学級崩壊や教師を辞めていく事例は1つも聞いたことがなかった。
 団塊の世代は多くの人数の中でもまれてきたのだという指摘はある。今の若い世代はヤワになっていると。
 しかし、はっきりしているのは、子供たちの変貌と親たちの変貌、そして社会そのものの変貌が現場を変えているのである。
 その証拠に、学級崩壊は50代の教師たちのクラスに数多く出てきているのである。
 今までの方法論では通用しなくなっている。
 現場は「サッカー」から「野球」に変わったのである。
 「野球」に合わせた指導を大学も、教育委員会も、現場も、やらなければいけないことは「当たり前」ではないか。 

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ああ、ネット依存症

 「ネット依存」と聞いて心穏やかではない。
 私のような機械音痴でも、しょっちゅうパソコンの前に座っているからである。
 メールを見たり、インターネットを見たり、原稿を書いたり、…さまざま。
 家にいるときは必ずこれらをやっている。
 私もまた依存症状になっていないか心配になる。
 ★
 散歩をよくしている。
 最近、散歩しながら気になるのは、散歩をしている母親たちのこと。
 子供の手を引いたり、乳母車に子供を乗せたりしながら、手には携帯がある。
 それを見ながら、あるいはメールをしながら歩いている。
 こんなところまで携帯を持ち歩かなければならないのか不思議に思うのだが、これが「ネット依存」ということではないかと思ってみる。
 ★
 依存症は、行動のコントロールができなくなる症状である。
 現実の生活より、ネットに重きをおくようになったら、要注意。
 朝日新聞(夕刊)は、ネット依存について掲載している。
 インターネット依存が社会問題化している韓国の学校で使われているチェックリストが載せてある。(携帯電話の使用も加えている)
 
 

 ①他にやることが多いときでもゲーム・インターネット・ケータイを使用してしま

   う。 

 ②ネットなどをしている間は自分にもっと自信がわいてくる。
 ③ネットなどできない生活は退屈で楽しくない。  
  ④ネットなどできないと落ち着かずそわそわする。
 ⑤ネットなどをしているとき、誰かに邪魔されたらいらいらして腹が立つ。
 ⑥オフラインよりもオンラインの方が私を認めてくれる人が多い。
 ⑦ネットなどにお金をたくさん使うようになった。
 ⑧ネットなどを途中でやめたらまたやりたくなる。

 

 2項目当てはまった人は要注意。3項目以上はかなりネットに依存している状態。4項目以上は依存症と言える。5項目以上は放っておいたら悪化する可能性があり、治療が必要。専門機関へいかなければいけない。
 大変なことである。
 ★
 厚生労働省研究班が2008年、無作為に抽出した成人男女7500人に調査した結果をもとに、国内でネット依存傾向がある人は、約271万人と推計された。
 久里浜アルコール症センター(神奈川県)の臨床心理士三原聡子さんは「未成年者も含めれば500万人に上る可能性がある」と話す。
 これで思い出したことがあった。
 現役時代のころ、家庭訪問などで中学生を持っている保護者の苦情をよく聞いた。
「先生、うちの子は勉強するときにもそばに携帯をおいてるし、お風呂にももって入るんですよ。」
 これは依存症だったのだ。
 でも、中高生でこんな子供はいっぱいいるにちがいない。
 ★
 ネット依存症の治療をしている成城墨岡クリニックを訪れた28歳の主婦は携帯電話を使って他人と交流しながら遊ぶ「ソーシャルゲーム」にのめり込んだ。家事や育児がおろそかになり、食事中にもゲームをするようになり、夫が相談に訪れたという。
 こうしたケースも増えている。
 墨岡クリニックの院長がまず訪ねるのは、食事のときに携帯電話をどこに置いているかだ。
 「すぐ手が届く食卓に置いてあるのは危険信号です」
 ★
 治療はカウンセリング。
 やめさせようと家族が取り上げると家庭内暴力に発展しかねない。
 だから、まずは、家族が医療機関に相談し、本人に自覚を促すところから始める。
 墨岡さんは、「プライベートでの使用が2時間におさまればいい」と話していると、朝日には書いてある。
 

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あの日の夜

 あの日からもう9ヶ月が経つのである。
 この月日のはやさ。
 私たちはもう何かを忘れようとしている。
 ★
 詩人は祈る。

  祈り 2  ーあの日ー
                                  菊田郁
  あの日の夜
  雪が降った
  横なぐりの烈しい雪が吹き荒れ
  余震が続く中
  1本のろうそくをたよりに
  毛布をかぶり
  空き地に身を寄せ合った

  夜更けに雪が止むと
  青く澄み渡った夜空に
  いつもより多くの星が
  ささやくように
  光った

  その日
  たくさんの
  たくさんの命が
  空に昇った  

            「追悼詩集 沈黙の海」より(路上121号よりの引用)
    

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瀧本哲史先生の講座に行ってきました!

 瀧本哲史先生の講演を聞くために、京都「明日の教室」に出かけた。
 まだ30代ではないかと思えるくらいの若々しい先生だった。
 「武器としての決断思考」(星海社)は、18万部が売れたらしい。
 「僕は君たちに武器を配りたい」(講談社)も売れているらしく、今書店では手に入らない。
 早口で、どんどん話が進んでいく。
 「スピード・テンポ・リズム」が必要だなどと言っている私だが、これははやい。
 瀧本先生は学生への講義よりも今日は少し遅めに話していると言われていたのだが、私にははやい。
 でも、私の周りの若い先生たちは大丈夫なのであろう。
 このテンポなのだなあと、しみじみと思う。
 ★
 これからの教育についての話はおもしろかった。
 まったく違う分野で仕事をされてきた瀧本先生が、今の教育や、これからの教育についてどのように考えられているか、とても興味があると思っていた。
 思った通りに、まったく違う話だった。
 たとえば、「消える教員」、「残る教員」という提案をされた。
 こういう発想は、教育界にはない。
 実に面白い発想だ。
 「残る教員」とは、次のような提案。

 〇マーケター型教員  
    ・教員のブランド化
    ・ニーズに合わせたパッケージング
    ・ストリーとしての教員コンテンツ
 〇インベーダー型教員
    ・教育方法なり、教育内容なりの現存のシステムを破壊する形で変える教員
  〇リーダー型教員
    ・コモディティ化した教員を統括する教員

 休憩時間に立命館の糸井先生とちょっと話をした。
 「野中先生が言われている「味噌汁・ご飯」授業は瀧本先生の言われているものに
  なりますね」
 確かにそのようにも私は受け取れた。
 「味噌汁・ご飯」授業は、「教育方法なり、教育内容なりの現存のシステムを改変していこう」という提案であるから。
 ★
 また、次のような例を出された。
 ある某塾についての話である。
 この塾は、神奈川県で広がっている塾で私の住むところにもある。
 この塾は、難関校の合格はむずかしいが、普通の私立校ならば合格させていくシステムを持っている。広がっているのである。
 このシステム化は徹底していて、学生アルバイトを教師に仕立てて成り立っているということ。
 ちょっとびっくり。
 具体的にどんな授業形態になるのか、瀧本先生に質問をしたのだが、企業秘密に関わることらしくてそれ以上は聞けなかった。 
  ★
 今回の講演の半分も、私は理解できなかったのではないかと思った。
 でも、まったく違う分野で仕事をされている方が、実際にどのように教育について考えておられるのかを聞くことは必要なことで、とても貴重な時間だった。
 私たちはともすれば、今の興味に合わせてしか人の話を聞こうとしない傾向になりがちだ。
 夏にある教育委員会の研修講座でのこと。
 2年目の中学の体育の先生がいた。いかにも関係ないという態度で参加していた。
 私の話は主に小学校のことを話題にしていた。
  その先生は、指導主事の先生に「話がまったくオレの仕事と関係ない」と話したという。
 その先生は、中学の生徒の話題や体育の話題しか念頭にない。
 違う分野から学んでいこうとする発想がない。
 とても残念なことであった。
 この先生は極端だが、私たちの発想がこのように限られてきていることは確かにあるのである。私の中にもある。
 ★
 初めて大津に泊まった。
 京都はこの時期ほとんど空きがない。修学旅行生もいっぱい。
 京都から9分なのだ。
 朝、ホテルから見える琵琶湖は素晴らしかった。 

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また登場した「脱社会的存在」

   埼玉県三郷市で女子生徒が刃物で切りつけられた事件で、逮捕された通信高校2年の男子生徒(16)は、逮捕された際、別の女性を殺害しようと決意し、「確実に殺すために刃物を2本、用意した」と供述したとされている。
 早く気づき、犯人逮捕に動いたことが第3の被害者を出さないで済んでいる。
 この事件で、思い出すのは酒鬼薔薇聖斗事件である。
 1997年に起きた一連の事件は、世間を凍り付かせた。
 このときも、「さかきばらせいと」は猫の首に興味を持ち、それを収集していたと報じられていた。
 今回のこの高校生と類似している。

百科事典「ウィキペディア」酒鬼薔薇聖斗事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E9%80%A3%E7%B6%9A%E5%85%90%E7%AB%A5%E6%AE%BA%E5%82%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

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 今回のこの事件をどのように考えるべきか。
 「さかきばらせいと」事件が起きたときに、社会学者宮台真司さんは、「脱社会的存在」という告知をした。
 このような存在が、人々の中に一部紛れ込んでいるということである。
 今回も、この存在がこのような事件を起こしていると、私は考えている。
 どういう存在か。
 宮台さんは、次のように言う。

 △ △ △ 引用開始
 我々は一般に、尊厳を「社会」に関係づけています。すなわち、社会の中に位置を占め、他人と関わることで、何かを実現しようという意欲を持つし、そうした実現によって尊厳を構築・維持します。ところが、「脱社会的」な人間は、そういう意欲を持ちません。コミュニケーションによって何かを達成できるとは信じていないし、コミュニケーションの中で尊厳を確保しようとも思っていない。その意味で、「脱社会的」な存在にとっては、人とモノの区別がつきません。
 △ △ △ 引用終わり   『脱社会化と少年犯罪』(創出版)

 ★
 マスコミは、動機探索や病名探索に躍起になるはずである。
 しかし、まったく意味がない。
 ふと思いだしのだが、酒鬼薔薇聖斗事件が起きたのは兵庫・淡路大震災(1995年)が起きた2年後の1997年、兵庫県須磨区で起きている事件である。
 今回は、東北大震災が起きてから9ヶ月後、埼玉県三郷市で起きている事件。
 大震災という巨大な事件が、彼等「脱社会的存在」を揺り動かし、混乱させたのかもしれないと想像してみた。
 まったくの当てずっぽうな推測。
 ★
 さて、どうするかということ。
 宮台さんは、上記にあげた本で2つの提案をしている。
 1つ目は、こうした人格障害者すなわち「脱社会的存在」が生み出される原因を探り、そうした原因が分布しないような社会を実現するためのプログラムを考えるということ。
 2つ目は、すでにかなりの数の「脱社会的存在」が広く分布していることだから、そうした人が人を殺さないですませるプログラムを早急に作らなければいけない、という提案である。これについては、アメリカではすでに探求課題になっているらしいが、日本ではまだ問題意識さえもないということ。
 いやいや、とんでもない社会になっているということだ。

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ともかく動けよ

   岩手の佐藤正寿先生のブログで、いいことを教えてもらった。
 佐藤先生は、移動中のラジオでこのことを知って、次のブログに行き着いたということ。  
  http://its-diary.jugem.jp/?eid=995

 △ △ △ 引用始め
今回は、私が人生の師として尊敬する、GACKT氏の
感銘を受けた言葉を紹介します。

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成功する人と、しない人にはパターンがある。

成功しない人 というのは、物事をまず「知る」、そして「覚える」。

でもほとんどの人はすぐに考えるんだ。
この「考える」という行為は、「悩む」に近い

でもその中の一部の人が、ちょっとやってみようかなって思って「行動する」。
けど考えた上での行動だから、とにかく遅い

じゃあ、世の中の 成功する人 のパターン。

「知る」、「覚える」、ここまでは一緒。

で、その後はすぐ「行動」に移す。
で、行動した瞬間から出てくるのが障害

それに対して、
どうやったらクリアできるのか
アイデアを「考える」、工夫を「考える」。

初めてここで「考える」という行為が出てくる

今まで出てきた、「知る」、「覚える」、「動く」、「考える」、
この4つの中で一番大切な行為は何だと思う?

実はこれ、もう答えが書いてあるんだよ

知る、覚える、動く、考える、これの漢字を読んでいくと、
”とも・かく・うご・こう”。

つまり”ともかく動けよ!”ってことなんだ

動かなきゃ!って。とにかくやらなきゃ!って。

頭の中で考えて、ああでもないこうでもないってことじゃないんだ。

やってみればいい。やらなきゃいけないんだよ。
やった後で工夫を考えりゃいいんだって、

何でそんな単純なことに今まで気付かなかったんだろうってさ。

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去年の年末に、この言葉に出会いました。

自己啓発系の本は好きなので、感銘を受けてきた言葉もそこそこあるんですが、
コレはコレで、ハッ!とする驚きがありました

言葉にして書くとすごく当たり前。

だけど、未知の分野へ挑戦する時等、
いつのまにか最後の二つが入れ替わってしまうことが多いように思う。

個人的にインパクトの強い言葉だったので、
いつも頭の片隅に残っていて、いざという時に背中を押される気がします。

ええ言葉です・・・

 △ △ △ 引用終わり

 私は、今まで若い人へ向けてメッセージを発してきた。

 「悩むな、反省するな、次が大切」

「悩むな、反省するな」というのはとても評判が悪い。
それというのも、今まで「悩み、きちんと反省して」身につけることが必要だとさんざん言われてきたからである。

 しかし、私が言いたいことはこのGACKTのメッセージと同じである。

 考え込まないで、とにかく「動いてみようよ」というメッセージなのだ。

 次のことを考えることが人生なのだから。

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徒然なるままに

   旅行仲間の人たちと、一足早い忘年会をしに熱海へ行った。
 泊まったところは、会員制のリゾートホテル。
 私の教え子が、ここのホテルの総支配人をしているので、頼んで入れてもらった。
 素敵なホテルで、窓の外はすぐに海が見える。
 ホテルの人からさんざんサービスしてもらう。ありがたい。
 ★
 明治図書の青い本が13版になった。『新卒教時代を生き抜く心得術60』

Photo_2

 ピンクの本も4版になった。「新卒教時代を生き抜く学級づくり3原則」

 

Photo_3


ありがたいことである。来年度へ向けて動き始めている。
   

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