授業において、一番大切なのは、発問ではなく説明である
NHKの番組で、「未来をつくる森永卓郎のリーダー論」をやっていた。
何気なく見ていると、佐賀の藩主であった鍋島直正のことを取り上げていた。
森永さんが、佐賀の成章中学校の生徒に2日にわたって授業をするという設定である。 佐賀城が何度も取り上げられて、佐賀藩が江戸の末期にもっとも進んだ藩として成立していたことを森永さんは取り上げていた。
この佐賀城跡は、今は復元されて記念館になっている。
だが、もとは赤松小学校であった。
私の母校である。
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森永さんの授業は、1日目はほとんどが講義形式で進み、2日目は生徒たちのグループ発表ということで終わった。
森永さんの講義形式の授業を見ながら、この授業はどこかで見た授業だなと思った。
「そうそう、この授業は、初任者が最初にやる授業だ!」
そう思った。
さまざまな説明を続けながら、時々質問を投げかけ、生徒に答えさせる。そして、また説明の授業を続ける。講義形式の授業になる。森永さんの説明は分かりやすくてとてもいい授業である。
ところが、小学生に毎時間このような授業を進めていけば子供が飽きてくるのは目に見えてくる。
初任者は、塾の授業や高校の授業のイメージがある。
ここから抜け出るには、多くの時間がかかってしまう。
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しかし、考えてみれば、まだ多くの教師たちの授業はこの講義形式の授業の枠を抜けられていないのではないかと、思っている。
「説明を主としながら、ときどき発問や指示を出していく」授業。
この授業には、指導言としての発問、指示、説明が区分されていない。
この「指導言」という言葉を使ったのは、私の記憶では大西忠治先生だったように思う。
そして、法則化運動が指導案にこの3つを使ってブームになった。
この「指導言」がいま教育界でどの程度に市民権を得ているのか分からない。
学校現場では、まだ市民権を得ていないと、私は思っている。
「発問」だけは市民権を得ているが、指示、説明はほとんど意識されていない。
これが現状である。
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3年間、初任者指導をしながらずっと初任者の授業を見続けてきた。
強く感じたのは、つぎの2つのこと。
①指導言としての発問、指示、説明がほとんど意識されていない。
②説明がへたくそ。ただ、話しているだけ。意味不明なこともかなりある。
しかし、これは初任者だけの問題ではなく、現場教師共通の問題ではないかとも思っている。
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「発問」だけは市民権を得ていると書いたが、今までずっと授業では「発問」を中心に考えられてきた。だから、「発問」の本は数限りなくある。
私たちが授業を考えるとき、やはり「発問」を中心に考える。
子供たちの思考をゆさぶる「名発問」は今でもいくつか思い出すほどだ。
その点、「指示」や「説明」はほとんど取り上げられることはなかった。
正確には、「指示」は取り上げられた。
これも法則化運動時代に話題になったことがある。
岩下修先生が出された名著『「指示」の明確化で授業はよくなる』(明治図書)がある。 しかし、「説明」についてはほとんどない。
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だが、大西忠治先生が残されていた。
これに気づいたのは数年前のことになる。
『大西忠治教育技術著作集10』(指導言<発問・説明・指示>の理論 明治図書)
『大西忠治教育技術著作集11』(指導言<発問・説明・指示>の技術 明治図書)
これは今では手に入らない。
でも、『発問上達法』(大西忠治著 民衆社)は今でもアマゾンで手に入る。
この本には、次のように書かれている。
△ △ △
授業において、一番大切なのは、発問ではなくて説明である
△ △ △
そして、説明についてかなりくわしく取り上げてある。
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授業において、私も、一番大切なのは、発問ではなく説明であると思っている。
発問のない授業はあるが(大学の講義形式の授業はみんなこれである)、説明のない授業なんてありえないからである。
現実的にも、この先生が説明がうまくいくようになると、ずいぶん授業は分かりやすくなると何度も考えた。
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私は、学生時代ずっと算数ー数学が苦手であった。
でも、一度だけ中2の時、数学が好きになったことがある。もちろん、成績もあがったのだが、大好きになった。授業は、「たこ先生」(あだな)として有名な先生だった。
なぜ、あれほど嫌いだった数学が大好きになったのか、何度もその時のことを反芻してみた。
ほとんど記憶の彼方に消えていることだ。
でも、今ならば1つだけ言える。抜群に「たこ先生」は説明が上手だったことである。 ストンと私にも落ちる授業をされた。
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「説明」が上手になる。それはどうすることだろうか。
今、ワークショップ型授業やファシリテーションを使った授業などが先進的に開発されている。
その中で、「説明」をどうするかなどまったく時代遅れな発想である。
ましてや退職した、実践の場を持たない私が言うことでもないのかもしれない。
ただ、「味噌汁・ご飯」授業を提唱している一人として言えることは、「日常性」を繰り込むという発想だけがやはり生き続けるのだと、そのように夢想する。
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