糸井先生の違和感に、少しだけ答える!
京都の糸井先生が、私のブログについて違和感を表明されている。
これは歓迎されるべきことだ。
これだけブログに言いたいことを書きまくっているのである。
異論がないはずはない。
だから、さまざまに違和感が出てくるのは当然だ。
まず、糸井先生が書かれているブログを全文引用する。
★ ★ ★
9月17日 違和感を感じるのは私だけだろうか・・・
野中信行先生が、ブログで「教室の空気づくり」についてふれられている。
以下、野中先生のブログからの引用である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・引用開始
「空気」をリードしていくための1つのシンプルな条件は、とりあえず次のこと。
教師が指示したことにはきちんと従わせること。
これは「厳しさ」に通じる。
でも、教師が指示したことに従いたいという気持ちにさせるための教師の条件とは何だろうか。
これは簡単ではない。
教師に従いたいという魅力や権威や雰囲気がなければいけない。
これはどうして作っていくのだろうか。
私は、これが大学での大きな課題の1つだと思っている。
このことを親しい知り合いと考えたことがある。
知り合いは、役者としての「演技力」だと言った。
偽善だと思われてしまうかもしれないが、それぞれの教室の場面で演技していく役者としての能力が必要だと言った。
なるほど、なるほど。
まだ他にもありそうだが、これは大きな条件の1つになる。
この「演技力」を駆使して、教室の「空気」をリードする。
子供を笑わせ、時には強く叱り、そしてフォローする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用終了
キーワードとして使われているのは、
「厳しさ」
「魅力・権威・雰囲気」→「演技力」
間違ってはいない。
いないけれど、間違って伝わると怖いキーワードである。
「厳しさ」を私が思う言葉に置き換えれば、「信念」となる。
つまり、厳しくするポイントこそが大事なのであろうか。その基準となるのが「信念」だ。
また、人を動かすのは、「厳しさ」ではなく、「厳しさの中にある優しさ」である。
揚げ足をとっているのではない。
その言葉の意味をしっかり捉えていかねば、上滑りしてしまうと思うのだ。
「信念」がないから、ぶれてしまう。
「厳しさ」に「優しさ」が見えないから、子どもが離れてしまう・・・のだと思う。
「演技力」という言葉も同様だ。
昔、私が若かった頃、年配の先生によく言われた。
「糸井くん、教師は役者だよ。役者にならんといかん。」と。
そんな時、私は、こう思ったものだ。
いや、そういうの苦手やし・・・・と。
今は、こう思っている。
役者は、観客に思いを伝えるために、声の抑制、身振り手振りといったことも含めて、台詞に全霊を込める。
教師が、子ども達に何かを伝えたいなら、内容はもちろんのこと、
「どんな言葉で」
「どんな声の大きさで」
「どこを見て」
「どんな身振りで」
といったことを考える必要があるのだ。
私は、演技をしようなどとは思っていない。
結果的に、それが演技になるのかもしれないが・・・・。
最近、若い先生から、聞かれることに、
「私は面白い話ができないから教師に向いてないのでは・・・」
というものがある。
確かに、教室に笑いは必要だ。
でもね、教師がお笑いタレントのようになる必要はないと私は思っています。
なれる人はもちろん、それが武器になる。
でもね、そんなものは絶対条件ではないですよ。
私は、熱意を支えるための武器(技術)を持つことだと思っています。
京都橘大学の池田修先生は、授業の中で、学生達に、「黒板でのチョークの使い方」まで指導されています。
こういった基本的な技術を身につけることが大切なのだと思っています。
そして、手前味噌になりますが、私の主宰する教育研究会「明日の教室」では、若い方に、「講師の先生の信念(哲学)を学んでいただく」ことを目的としています。枝葉末節のことは、それぞれのキャラクターに合わせればよい。ただ、幹の部分を学んでいただきたいのです。
★ ★ ★
私は、糸井先生が言われていることにほとんど違和感はない。
その通りだと納得する。
ただ、私の書き方がまずいのか、うまく伝わっていない。
「厳しさ」については、前段で次のように書いている。
★
「空気」をリードしていくには、どうしたらいいか。
中堅やベテランの教師たちは、「厳しく」することで担任の姿勢を見せる。
昔は、これだけで良かった。
でも、現在は「厳しく」するだけでは成り立たない。
ベテランの教師たちの学級崩壊が数多くなっているのは、ただ「厳しく」していることからの結果である。
これでは通じなくなっている。
私は、「関係づくり」が必要だと考える。
橫藤先生が提唱された「縦糸・横糸」の織物モデルに引きつけられたのは、この「空気」への統率のため。
★
もはや「厳しさ」だけでは通じなくなっている。
そこで、「関係づくり」が必要だと主張する。
しかし、「厳しさ」が必要なくなったというわけではない。
それを次のように書いた。
★
「空気」をリードしていくための1つのシンプルな条件は、とりあえず次のこと。
教師が指示したことにはきちんと従わせること。
これは「厳しさ」に通じる。
★
私は先日、学級が荒れている初任者のクラスを見てほしいということで、一日そのクラスにお邪魔した。
崩壊などしているわけではなかった。
英語の時間、国際理解の先生が、「机をくっつけなさい」と指示された。
机が一人一人に分かれているので、ゲームをするためくっつける必要があった。
ほとんどの子供たちはすぐに机をくっつけた。
でも、1列目と2列目は、くっつけなかった。
TTとしてついている担任も、2,3度「くっつけなさい」と指示を出した。
でも、くっつけなかった。いつのまにか、そのままになってしまった。
そのとき、「ああ、このことを積み重ねているんだ!」と思った。
その思いで見ていると、他の場面にも、いくつもそのようなことがあった。
先生が指示したことに従わないので、先生がかわりに机を運んだり、机をくっつけたりしていた。
ここだ、と思った。
この積み重ねが、クラスを落ち着かなくさせている。
★
この思いがあったので、「教師が指示したことにはきちんと従わせること」というシンプルな条件をあげた。
教師が「こうしなさい」と指示したことに「さっと動いていく」ようにすることは、
まず第一の条件だと思われる。
ここがぶれてはその以後のことが成り立たない。
糸井先生は書かれている。
★ ★ ★
「厳しさ」を私が思う言葉に置き換えれば、「信念」となる。
つまり、厳しくするポイントこそが大事なのであろうか。その基準となるのが「信念」だ。
また、人を動かすのは、「厳しさ」ではなく、「厳しさの中にある優しさ」である。
揚げ足をとっているのではない。
その言葉の意味をしっかり捉えていかねば、上滑りしてしまうと思うのだ。
「信念」がないから、ぶれてしまう。
「厳しさ」に「優しさ」が見えないから、子どもが離れてしまう・・・のだと思う。
★ ★ ★
この考えには、まったく異論がない。この通りだ。
私は、「信念」ではなく教師としての「スタンス」と主張している。(「新卒教師時代を生き抜く学級づくり3原則」に書いたことである)
この「スタンス」として「仕事への姿勢・態度」(素直、責任感、向上心)をあげている。このスタンスの上に、キャラクターが乗り、そして最後に教育技術が乗ってくる。
こういうことを前提にしている。
★
「演技力」を「空気」を統率する大切な条件の1つだと書いている。
他にも考えられるだろう。
「演技力」というのは、お笑い芸人のような仕草ではない。
もともと「教師になるということ」は、「教師」を演じることになる。
子供との距離をきちんと取ること(縦糸を張る)も距離を縮めること(横糸を張る)も「教師」を演じなければ成立しない。
まず、学生から教師になるための第一の大きな関門は、「教師」として演じられるかどうかにかかる。
学生の気分のままに、友達みたいに接しようとする初任者が学級を荒らしていっているのはどこにでも見られる現状だ。
自分の「素」のままに子供と接しようとしてうまくいくはずはない。
そして、子供たちも「生徒」しなくては学校は成り立たない。
学校は、「教師」と「生徒」が互いに演じることで成り立っていくのだから。
★
教師としての「魅力、権威、雰囲気」をあげた。
子供たちをリードしていくために必要なものは何だろうか。
糸井先生が言われているのは「厳しさの中にある優しさ」である。
よく分かる。
それは「信念」から出てくるものだと言われるのであろう。
この「信念」は、教師にかける夢でできあがるのか、教師になるための勉強でできあがるのか、…ちょっと漠としたものになる。
ここらあたりが大きな課題だと思われる。
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