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2011年9月

支えたのは元気な体じゃないですか!

   かつてある心理学者から次のような話を聞いたことがある。

 △ △ △
 
「最新の心理学の到達点には、かつて日本で言われていた『健全な肉体に健全な精神が宿る』という言葉は、あり得ないのです。ただただ『健全な精神が必要だ』ということだけが到達点なのです」

 △ △ △

 私は、そのとき「ほう、そんなものか!」と感心したことがある。
 健全な「心」、健全な「精神」が大切なんだと。
 思いつくことがいっぱいあった。
 オリンピック出場や甲子園野球で肉体を鍛え抜いた人間でも、いざ普通の生活をするときにはその鍛えた肉体はほとんど何の支えにもならないことを自分の目で見てきたからである。
 かつて私の周辺にもそんな人たちがいた。
 ★
 だが、「精神」や「心」を鍛えるためにはどうするのだろうか。
 大相撲で大関になる琴奨菊が、躓いていたのはこのことだった。
 大一番に弱かったから。
 期待される重圧に耐えられなかったから。
 琴奨菊は、イメージトレーニングでこの壁を越えていったようだ。
 ★
 イチローが184安打で今シーズンを終えた。
 200安打が潰えた。
 今年のイチローは、どうしたのだろうか。
 17年連続の打率3割も潰えた。
 イチローは「今年はいろいろ出来る年だったのでね。昨年10連続やって、一応区切りのところまできたので」と答えている。
 自分の中でさらなる進化を求めて挑んだ年だったらしい。
 注目する言葉を今日の朝日新聞に載せている。(2011.9.30朝刊)
  「苦しい時期を支えたのは」という問いかけに次のように答えている。
 △ △ △
 支えたのは、元気な体じゃないですか。心はポキッと折れたことがありますけど、
 体がとにかく元気だったから、それに支えられた。普通は、体がしんどくなってくるから、それを心が支えるという順番が多いが、全く反対だった。折れた心を体で支えていたという特殊な現象があった。
 △ △ △

 「普通は、体がしんどくなってくるから、それを心が支えるという順番が多いが、全く反対だった。折れた心を体で支えていたという特殊な現象があった」
と言っている。
 これは意味深な言葉だ。
 心理学の到達点はともかくも、私もまたやはり元気な「体」が「心」を支えるという
ことはあるのだと、最近しみじみと思うのである。
  
 
 

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彼岸花が咲き乱れている

   藤沢の湘南台小出川に彼岸花を見に行った。
 小さな小出川の両側3km、ずっと彼岸花が咲き誇っている。

1_2


  彼岸花がこんなに咲いているのを見たことがなかったので、そのスケールに驚く。
 彼岸花は、秋にぴったりの花。
 ごんぎつねの物語を思い出した。
 兵十のおっかあの葬式の場面に彼岸花が咲き乱れていたはずだ。
 歩いていくと、ずっと向こうに薄く富士山が見える。
 うっとりする場面である。
 秋の一日。
 こんな日を持てるようになっている。 
  
 
 

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業務連絡です

   7月30日(土)に京都橘大学で講座を持った様子がDVDに収められている。

  早速沖縄の琉球大学の図書館に入れてもらったとの連絡である。

 

 ありがたいことである。

 この内容は、現在の私の到達点になる。

 学級の荒れをどのように克服していくか、初任者が学級の子供たちにどのように学力を保障していくかなどの内容を語っている。

9月26日発売開始! 
1学期のまとめと立て直し

                                  野中信行 元横浜市立小学校教諭

                     ★DVD価格 3,000円(本体価格2,857円)
                      平成23年7月30日 於:京都橘大学

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ベテラン教員 すり減る意欲

    朝日新聞朝刊(2011.9.26)に「ベテラン教員すり減る意欲」という見出しで大きく報じられている。
 
 

 △ △ △
 教員の感じる働きがいはベテランになるほど落ちている。そんな結果が全国の教員1万人を対象にした、社団法人「国際経済労働研究所」(大阪市)と日本教職員組合の共同調査で明らかになった。一般企業の従業員とは正反対の傾向だ。特に男性教員で働きがいの「劣化」が激しかった。
 

 △ △ △
  <教員>  管理職でない教員
 「今の仕事が楽しい」→ 30歳未満80%、30代75%、40代67%、50歳以上59%

 「今の仕事を続けたい」→30歳未満76%、30代76%、40代74%、50歳以上55%

 「今の仕事に生きがいを感じる」→30歳未満74%、30代73%、40代69%、50歳以上62%

 <企業の従業員>  管理職でない従業員
 「今の仕事を続けたい」→30歳未満39%、50歳以上52%

 「生きがいを感じる」→30歳未満23%、50歳以上32% 
 △ △ △ 
 
 

 現場で長く教員をやっていた私の立場から言えば、当然の結果だ。
 確かに、教員の場合ベテランほど数値が落ちているが、これは当然のこと。
 それでも一般企業の数値と比べたら、教員の場合はまだまだこんなに数値があるのだ。 20代、30代は高い数値を示している。
 これはうれしい結果だ。
 むしろ若い先生たちに働きがいがないという低い数値が出たら、これこそ深刻な事態を考えなければいけない。
 私はそのように見る。
 

 ★
  なぜ、教員は、ベテランになるほど働きがいがなくなるのか。
 これは1980年半ば以降の傾向だろうと思う。
 1970年代の頃までは、ベテラン教師にとっても働きがいはあったのだ。
 小学校では高学年の子供たちも落ち着いていて、しっかりとした学級経営を行うことができた。
 教員にとって平穏な日々をおくることができた、最後の年代だったと言える。
 37年間担任として過ごしてきた私は、大きく変わっていく時代を経験した一人になる。
 最後の10年以上は、高学年の担任をした。
 心がカサカサに渇ききるという気持ちになった。
 主要都市圏は、今ほとんど高学年担任を希望する教師がいなくなっている。
 高学年担任は、特別な仕事になっている。
 新聞で男性教員の劣化が激しいとあるのは、多分高学年担任などの経験が関係あると私は踏んでいる。
 

 ★
 なぜこういうことになるのか。
 それは端的に私は表明している。
 子供たちの変貌と、親たちの変貌にある。
 担任は教室で、2,3人のやんちゃに学級をかき乱されている。その一部は学級崩壊になっている。
 そして、一部の親たちによって理不尽な担任攻撃がある。
 この対応に教師たちは身をすり減らしている。
 教師の人権などはほとんどなしに等しい。
 

 ★
 ベテラン教員は、こうした事態に対応できなくなっている。
 (もちろん、ベテラン教員だけの問題ではなくなっているが)
 もはや対応することにうんざりしている。馬鹿馬鹿しくなっている。
 その結果は、定年を待たずに教師を辞めていく。
 はっきりした数値をもたないが、主要都市圏では、定年まで勤め上げる教師たちの数は限りなく少なくなっているのではないだろうか。
 
  
 
 

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富士山大噴火~不気味な5つの兆候~

 東北大震災が起こったとき、まず一番目に思ったのは、海洋地震学者木村政昭さんは、今回の大地震を予知していたのかどうかにあった。
 木村さんのことを知らない人は多い。
 今中心の地震学会からは外れている。(外されている?)
 でも、木村さんの実績は、1986年伊豆大島三原山噴火、91年雲仙普賢岳噴火、95年兵庫県南部地震、2004年新潟中越地震をすべて予測しているのである。
 木村さんの研究手法が、主流と言われている地震学者の手法と異なる。
 だから、外れている。
 ところが、今回の大地震に対して、主流の地震学者たちはまったく予測ができなかった。完敗のはずである。
 そこで、木村さんは今回の大地震をどのように考えていたのか?
 ★
 2007年6月の太平洋学術会議において講演をしている。
 そこで、東日本沖に「2005±5(M8±)」の大地震が起きると予測している。
 そして、今回の本に、次のことを書いている。

  △ △ △
 「私自身は、予測は的中したが、予知が完全だったとは思っていない。太平洋学
 術会議の地図では、期限を2010年までとしている。また、M9.0というのは
 私の想定をはるかに超えていた。しかし、三陸沖で大地震が起こる可能性があ
 ることは、周辺の火山活動と『地震の目』が教えてくれていただけは真実だった」
 △ △ △ 

 ★
 今回の本とは、「富士山大噴火~不気味な5つの兆候~」(宝島社)である。
 おい、おい、富士山大噴火なのだ。
 これにはちょっと驚くではないか。
 マスコミはじめ、まだ誰でも、どこでも、1回も話題にされていない。
 1707年の宝永噴火以来、304年が経つ。
 私たちは、生きている間に富士山が大噴火をするなんて考えていなかったはずだ。
 木村さんは、次のように予測する。

  △ △ △
  このような状況で、東日本大地震直後から富士山付近で劇的に増えている地震
 活動が富士山下のマグマを刺激している。1707年の宝永噴火以来、300年にわた
 ってたまっているエネルギーは、解放されることになるだろう。
 私は、その年を「2011年±4年」と推定した。
 △ △ △

 ということは、2015年までに噴火が起こるということになる。
 すぐには信じられない事態だ。
 
 △ △ △
    噴火の直前になれば、前兆は必ず現れる。どんな規模の噴火になるかはわから
 ないが、未曾有の大災害が起きると考えて対策を打つべきだろう。山麓全域が火
 山灰や噴石で埋まることを想定すべきだ。
    首都圏に与える影響は、東日本大震災をはるかに凌駕すると覚悟したほうがい
 い。我々は、「想定外だった」という言い訳が何の役にも立たないことをすでに
 知っているのだから。
 △ △ △
 どう考えますか?   

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2つのブログに注目する!

   最近、2つのブログに目を止めた。
 いずれも「大阪維新の会」を話題にしたブログである。
 1つは、池田修先生のブログ。
 もう1つは、内田樹先生のブログ。
  それを紹介しておこう。
 最初は、池田先生のブログから。どこかの新聞記事だろうか。
  ★ ★ ★
 維新の教育条例案に異論噴出、陰山委員「間違っている」

大阪府の橋下徹知事が率いる地域政党「大阪維新の会」が府と大阪市の9月議会に提出を予定している「教育基本条例案」について、16日に開かれた定例の大阪府教育委員会会議で異論が噴出。なかでも「百ます計算」で知られ、学力向上を掲げる橋下知事の要請で教育委員に就任した陰山英男委員が、教員の管理を強化すれば現場がよくなるという発想は根本から間違っているとして、「(可決されれば)辞めますよ」などと激しく反発した。

 約90分の話し合いのうち、大半を条例への反発と疑問が占めた。

 特に異論が相次いだのが、一定の比率の教員に最低評価を行わなければならないなどと定めた管理強化の規定。陰山委員は「あの先生を辞めさせたいといういじめが始まる」「評価者の方向ばかり向く教員や、一部の保護者とつるむ教員も出てきます。(現場は)むちゃくちゃになりますよ」などと反対理由を述べ、「これで学力が上がりますか、先生のやる気が上がりますか」と訴えた。

  ★ ★ ★

 次のブログは、内田先生が書かれたもの。

 ★ ★ ★
神戸新聞に隔週で「随想」というコラムを書いている(これが二回目)。神戸新聞を読んでいない方のために再録しておく。
これは先週書いたもの。

橋下大阪府知事は、持論である大阪都構想に賛成の市職員を抜擢し、反対する市職員を降格するためのリスト作りを維新の会所属の大阪市議に指示した。
首長選の候補者が選挙に先立って公約への賛否を自治体職員の「踏み絵」にするというのは異例の事態である。
公務員が遵守義務を負うのは、憲法と法律・条例と就業規則だけのはずである。「大阪都」構想は、その当否は措いて、今のところ一政治家の私念に過ぎない。それへ賛否が公務員の将来的な考課事由になるということは法理的にありえまい。
まだ市長になっていない人物が市職員に要求している以上、これは彼に対する「私的な忠誠」と言う他ない。彼はそれを「処罰されるリスクへの恐怖」によって手に入れようとしている。
私はこの手法に反対である。
脅迫や利益誘導によって政治的意見を操作してはならない。私はそう信じている。それは強制された政治的意見は必ず間違っていると思うからではない。暴力的に強制されたのだが「内容的には正しい政策」というものは論理的には存在しうる。
私は政策の当否について論じているのではない。
「強いられた政治的意見」は「自発的な政治的意見」より歯止めを失って暴走する傾向が強いことを案じているのである。
歴史を振り返るとわかるが、「強制された政治的意見」を人々は状況が変わるといとも簡単に捨て去る。
後になって「ほんとうは反対だったのだが、あのときは反対できる空気ではなかった」という言い訳が通ると思えば、人はどれほど過激な政策にも同調する。私が恐れるのはそのことである。
あからさまな強制は、それに屈服した人たちに「説得力のある言い訳」を用意してくれる。その「安心」が人を蝕む。

  ★ ★ ★
「大阪維新の会」の正体が表れてきたのであろう。
 橋本知事は、大阪府民の圧倒的な支持の元に誕生した。
 今でも多くの府民から支持されている。
 しかし、危うさもあった。
 今、日本全体が強い指導者を求めている。
 それに格好な存在の一人が橋本知事になる。
 でも、私たちは慎重に見極めなければいけない。
 強い指導者を求める基盤には、ともすればファッシズムの温床が潜んでいる。
 ★
 ヒトラーは政権を取ると最初に労働組合を解体し、ストライキを禁止している。
 ところがおもしろいことに、「労働組合」を廃止し、「労働戦線」を組織している。労働幹部を引き抜き、労働戦線の指導者的な立場につけている。
 労働環境は悪化していくように思われるが、ナチスの根幹は「ドイツ労働党」であり、明らかに労働者の味方の政策を打ち出しまくっている。
 労働時間は8時間と定め、有給休暇を導入し、健康診断も徹底。
 1930年代にしてすでに福利厚生にも注力し、100人以上の労働者がいる職場には格安で食べることのできる社員食堂の設置を法律で義務づけたという。
 驚かされるのは母子支援で、貧困家庭にはパン、ミルク、寝具が無償で提供されたという。
 1928年に世界大恐慌がおこり、その後に失業者が大量に発生し、1932年には557.5万人になる。1933年に政権を取ったヒトラーは、1934年には271.8万人まで減らしている。半減だ。さらに、1938年には42.9万人に減少。
 重たすぎる戦後賠償とハイパーインフレを背負って虫の息だったドイツが、奇跡的なピッチで雇用問題を解決してみせている。
 ヒトラーは、最初にこんなことに力を入れて人々の支援を惹きつけている。
  こうして多くのドイツ国民は、圧倒的な支援をヒトラーに送ることになる。
 ★
 私たちは、この歴史的事実を見逃すべきではない。
 慎重にその指導者がどんなことをやろうとしているのか、見極めなければならない。
 

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伝えたいこと、ありますか?

     高橋源一郎が、論壇批評に書いていたことがずっと胸に残っている。
    ちょっと長いが引用したい。(朝日新聞朝刊8/25)

   ★ ★ ★
 まいりました。「なにが?」って、スタジオジブリの小冊子「熱風」の表紙に(中身じゃなくてすいません)。
 ジブリのある東小金井の路上で、作業用のエプロンを着た宮崎駿御大が「NO!原発」のプラカードを首からぶら下げ、ひとりでデモをしている。その後ろを、傘を持った女性と右手に「Stop」のプラカード・左手で犬を引いた男性が、付き従うように歩いている。デモというより、散歩みたい。というか、どう見ても、黄門様と助さん格さん(もしくは、大トトロと中トトロ・小トトロ)だ。自転車に乗り、たまたますれ違った男性が、「えっえっ?変なオジサンがと思ったらミヤザキハヤオじゃん!」という表情を浮かべている。すごく面白い。けれど、ただ面白いだけじゃない。
 この面白さは、この写真が醸し出す「柔らかさ」から来ている、とぼくは思った。「柔らかさ」があるとは、いろんな意味にとれるということだ。ぼくたちは、このたった一枚の写真から、「反原発」への強い意志も、そういう姿勢は孤独に見えるよという意味も、どんなメッセージも日常から離れてはいけないよという示唆も、でも社会的メッセージを出すって客観的に見ると滑稽だよねという溜め息も、同時に感じることができる。
 なぜ、そんなことをしたのか。それは、どうしてもあることを伝えようと考えたからだ。そして、なにかを伝えようとするなら、ただ、いいたいことをいうだけでは、ダメなんだ。それを伝えたい相手に、そのことを徹底して考えてもらえる空間をも届けなければならない。それが「柔らかさ」の秘密なのである。
 ★ ★ ★
 おもしろい。
 ミヤザキハヤオが意図していることも、高橋源一郎が言いたいことも、よく分かる。
 その後に、高橋は、後継首相レースへの出馬宣言したノダさん、マブチさん、カイエダさんとかが政策について書いたり語ったりしているが、ぜんぜんおもしろくないことを付け加えている。
 彼らは、ほんとうに国民に伝えたいことがないのかもしれない。
 伝えたいことがあるのならば、もっと工夫するはずだ、と。
 ★
 私は、高橋の問いを自分にも向けてみた。
 「オマエは、ブログを書いたり、本を出したり、講演をしたりしているけれど、ほんとに伝えたいことがあるのか、あるのならばどんな工夫をしているのか?」と。
 厳しい問いかけだ。
 伝えたいことはある。
 それは明確だ。
  しかし、ミヤザキハヤオが意図した「柔らかさ」の工夫はない。
 いいたいことをただ言うだけで終わっているように思う。
 なるほど、なるほど。
 「伝えたい」ことがあるとき、そこには「柔らかさ」の工夫がなければいけない。
 そうしなければ伝わらない。
 

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「演じる」ということの意味

   先日のブログに「演技力」について書いた。
 これはなかなかうまく伝えられないなという思いになった。
 ★
 かつて何かのテレビ番組に、劇作家平田オリザさんが出演されていた。
 「演じる」ということを強調された。
 「ある中学生の男の子だったか、『僕はもういい子を演じるのに疲れてしまった』という言葉を聞いたことがある。普通なら同情するところだが、私は『いい子ぐらいずっと演じろ。そんな弱いことでどうするんだ』と思った」というようなことを言っていた。
 私も、その通りと思った。
 オリザさんは、「演じる」というのは人生のさまざまな場面で要求される、「演じることこそが人生なのだ」ということを強調された。
 そんな記憶がある。
 ★
 「演じる」という言葉には、「欺瞞」とか「偽善」という匂いがつきまとう。
 だから、どうしても否定的にとらえられてしまう。
 だが、実際は普通に演じているのだ。
 「演じている」と意識的でないだけ。
 ★
 人間は、基本的には3つの顔を持っている。
 これは驚かれるかもしれない。
 私の持論になる。
 職場で見せる顔。家族に見せる顔。一人になったときの顔。
 それぞれ違う。
 違って当たり前だとも思う。
 一人になったときの顔が「素」の顔というのであろう。
 だが、この顔が一番本当の顔だと言われたら、ちょっと違和感を感じる。
 私は、この3つの顔がその人の顔だと思っているから。
 他と関わり合うとき、人は必ず「演じる」ことになる。
 無意識にそうしている。
 「いや私は演じてなんかいない。素のままに振る舞っている」という人がいるのであろうが、人はそのようには振る舞えない。
 ★
 職場ではあれほど優しそうに見えた人も、家族にはとても横暴に振る舞っていたりする。
 また、反対の場合もある。
 「あの人は、私たちの前では優しそうに振る舞っているが、あれは欺瞞だよ。ほんとうは実に横暴なんだから。」と指摘する人がいる。
 やはり違和感がある。
 職場で見せている顔は、社会的な集団の前で見せる、その人の1つの顔だ。
 横暴に振る舞う顔は、家族の中で見せる1つの顔だ。
 やはり、違ってくるのが当たり前。
 ★
「あの子は、学校ではいい子だとみんなは評価するけど、うちに帰れば大変なわがままだよ。それがあの子の本質よ」というようなことを何度も聞いたことがある。
 一面的な評価をしてはいけないということ。
 それはそれでいいのだけれども、「学校で見せる顔も、その子の1つの顔だよ」と私は思ってきた。
 いわゆる社会的な集団の前で見せる顔だ。
 家では、わがままな姿を見せるのは誰でもある。
 家でもいい子なんて、とてもできることではない。
 ★
 だから、親は「うちの子は家では元気に言いたい放題なんだけど、学校ではどんな顔を見せているんだろう」と思わなければいけない。
 家で見せる顔と学校で見せる顔は当然違ってくるから。
 違って当たり前だ。
 ところが、このように思えない親がいっぱい。
 家で親に素直に従っている子供が、学校でも素直にしていると勘違いをする。
 学校で事件を起こすと、「うちではあんなに素直に聞き分けのいい子なのに、どうして学校であんな事件を起こすんだろう?きっと周りの子供に引きずられて、いやいやしてしまったんだ」と思う。(ほんとうは首謀者なのに)
 こんな親がいっぱい。
 まったく、人間認識が欠けている。
 ★
 自分を振り返ってみたらいい。
 職場で見せる顔と家族に見せる顔と一人の顔と同じはずはないであろう。
 そこに共通するその人の顔はあるだろうが、絶対に違っている。
 違って当たり前。
 人は、どうしてもそのように振る舞ってしまうという本質を持っていると、私は考えている。
 人は、他との関わりを持つとき、一つの顔を「演じる」。
 自然にそうなる。
 ★
 「教師」というのも、学校という場所で演じる私の顔だ。
 「生徒」に向かってものごとを教えていく「役割」を持っている。
 だが、私は家に帰れば「夫」の顔(役割)になり、「父親」の顔(役割)になる。
 それぞれの役割を演じる。(そう振る舞っていない人も多いが)
 そして、部屋にこもれば、一人の顔だ。 
 きちきちと分けて考えることではないが、つまりはそういうことになる。
 ★
 「演じている」のであるから、「演じる」ことを意識的にしたい、というのが私の主張点になる。
 「叱る」ことも演じる。
 「フォロー」することも演じる。
 笑いを起こすことも演じる。
 要するに、「教師」することを演じることになる。
  

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ブレずに生きて今輝く

 19日の敬老の日に、NHKの8:15から画家堀 文子(93歳)の「ブレずに生きて今輝く」が放送された。
 小説家戸井十月が、対談の相手になっていた。
 堀文子の絵は、覚えていた。
 何度も見たことがある。
 日展でも、院展でも。
 あまり印象には残っていなかったが、絵を見せられてすぐに思い出した。
 ★
 堀さんは、画壇というところとは無縁にずっと過ごしてきた。
 一人で絵を描き、一人で過ごしてきた。
 私も、教師生活37年間ほとんど組織に所属することがなかったので、とても共感を覚えた。
 何物でもない人生。無駄なことこそ大切。
 興味深い言葉が飛び出してくる。
 
 

  群れない  慣れない  頼らない 

  これが信条。
  93歳になって、かくしゃくと生きる。
 

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にっこり笑って、指示を徹底すること

   先日のブログで次のように書いた。 
  ★
「空気」をリードしていくための1つのシンプルな条件は、とりあえず次のこと。

  教師が指示したことにはきちんと従わせること。
 

   これは「厳しさ」に通じる。
  ★
  「教師が指示したことにはきちんと従わせること」
 この言葉は、きつい。
 反発もある。
  しかし、大切な条件であることにはかわりはない。
 私の知り合いのiwaiさんからコメントがついた。
 iwaiさんも、初任の時とても学級づくりで苦しんだ経験をしている。
  ★
「教師が指示したことに従わせること」
わたしはこのことを意識した時に、自分のクラスの荒れがおさまってきた実感がありました。それまでは、遠慮があって徹底できなかったのです。その後、やたら厳しく指示を徹底したときには、反発がありました。次に持ったクラスでは、にっこり笑って、指示を徹底しました。それがよかったように思います。

  ★
  これはとても貴重なコメントだ。
 やはりそうだったのかという思いがある。
 初任の時は、子供たちへの遠慮がある。
 自分が厳しいことを子供たちに要求したら、ものすごい反発が返ってくるのではないかと恐れる。
 ほんとうは子供たちは何とも思っていないのだが…。
「次に持ったクラスでは、にっこり笑って、指示を徹底しました」と言われている。
 これは貴重な提言になる。
「にっこり笑う」という演技が必要だったのだ。
  この提言は、2,3月の今年度初任者研修会で必ず伝えたい言葉になる。

「教師が指示したことにはきちんと従い」、すぐに子供たちが動いていけるようになることから全ての学級活動が始まる。
 これは最初の必須の条件になる。

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糸井先生の違和感に、少しだけ答える!

   京都の糸井先生が、私のブログについて違和感を表明されている。
 これは歓迎されるべきことだ。
 これだけブログに言いたいことを書きまくっているのである。
 異論がないはずはない。
 だから、さまざまに違和感が出てくるのは当然だ。
 まず、糸井先生が書かれているブログを全文引用する。
 
  ★  ★ ★

9月17日 違和感を感じるのは私だけだろうか・・・

野中信行先生が、ブログで「教室の空気づくり」についてふれられている。
以下、野中先生のブログからの引用である。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・引用開始

 

「空気」をリードしていくための1つのシンプルな条件は、とりあえず次のこと。

 

教師が指示したことにはきちんと従わせること。
これは「厳しさ」に通じる。

 

でも、教師が指示したことに従いたいという気持ちにさせるための教師の条件とは何だろうか。
これは簡単ではない。
教師に従いたいという魅力や権威や雰囲気がなければいけない。
これはどうして作っていくのだろうか。
私は、これが大学での大きな課題の1つだと思っている。
このことを親しい知り合いと考えたことがある。
知り合いは、役者としての「演技力」だと言った。
偽善だと思われてしまうかもしれないが、それぞれの教室の場面で演技していく役者としての能力が必要だと言った。
なるほど、なるほど。
まだ他にもありそうだが、これは大きな条件の1つになる。
この「演技力」を駆使して、教室の「空気」をリードする。
子供を笑わせ、時には強く叱り、そしてフォローする。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用終了

 

キーワードとして使われているのは、
「厳しさ」
「魅力・権威・雰囲気」→「演技力」

 

間違ってはいない。
いないけれど、間違って伝わると怖いキーワードである。

 

「厳しさ」を私が思う言葉に置き換えれば、「信念」となる。
つまり、厳しくするポイントこそが大事なのであろうか。その基準となるのが「信念」だ。
また、人を動かすのは、「厳しさ」ではなく、「厳しさの中にある優しさ」である。
揚げ足をとっているのではない。
その言葉の意味をしっかり捉えていかねば、上滑りしてしまうと思うのだ。

 

「信念」がないから、ぶれてしまう。
「厳しさ」に「優しさ」が見えないから、子どもが離れてしまう・・・のだと思う。

 

「演技力」という言葉も同様だ。
昔、私が若かった頃、年配の先生によく言われた。
「糸井くん、教師は役者だよ。役者にならんといかん。」と。

 

そんな時、私は、こう思ったものだ。
いや、そういうの苦手やし・・・・と。

 

今は、こう思っている。
役者は、観客に思いを伝えるために、声の抑制、身振り手振りといったことも含めて、台詞に全霊を込める。
教師が、子ども達に何かを伝えたいなら、内容はもちろんのこと、
「どんな言葉で」
「どんな声の大きさで」
「どこを見て」
「どんな身振りで」
といったことを考える必要があるのだ。
私は、演技をしようなどとは思っていない。
結果的に、それが演技になるのかもしれないが・・・・。

 

最近、若い先生から、聞かれることに、
「私は面白い話ができないから教師に向いてないのでは・・・」
というものがある。
確かに、教室に笑いは必要だ。
でもね、教師がお笑いタレントのようになる必要はないと私は思っています。
なれる人はもちろん、それが武器になる。
でもね、そんなものは絶対条件ではないですよ。

 

私は、熱意を支えるための武器(技術)を持つことだと思っています。
京都橘大学の池田修先生は、授業の中で、学生達に、「黒板でのチョークの使い方」まで指導されています。
こういった基本的な技術を身につけることが大切なのだと思っています。

 

そして、手前味噌になりますが、私の主宰する教育研究会「明日の教室」では、若い方に、「講師の先生の信念(哲学)を学んでいただく」ことを目的としています。枝葉末節のことは、それぞれのキャラクターに合わせればよい。ただ、幹の部分を学んでいただきたいのです。

 

   ★  ★ ★
 私は、糸井先生が言われていることにほとんど違和感はない。
 その通りだと納得する。
 ただ、私の書き方がまずいのか、うまく伝わっていない。
 「厳しさ」については、前段で次のように書いている。
   ★
「空気」をリードしていくには、どうしたらいいか。
 中堅やベテランの教師たちは、「厳しく」することで担任の姿勢を見せる。
 昔は、これだけで良かった。
 でも、現在は「厳しく」するだけでは成り立たない。
 ベテランの教師たちの学級崩壊が数多くなっているのは、ただ「厳しく」していることからの結果である。
 これでは通じなくなっている。
 私は、「関係づくり」が必要だと考える。
 橫藤先生が提唱された「縦糸・横糸」の織物モデルに引きつけられたのは、この「空気」への統率のため。
 ★
  もはや「厳しさ」だけでは通じなくなっている。
 そこで、「関係づくり」が必要だと主張する。
 しかし、「厳しさ」が必要なくなったというわけではない。
 それを次のように書いた。
 ★
「空気」をリードしていくための1つのシンプルな条件は、とりあえず次のこと。

 

  教師が指示したことにはきちんと従わせること。
 
   これは「厳しさ」に通じる。
 ★
  私は先日、学級が荒れている初任者のクラスを見てほしいということで、一日そのクラスにお邪魔した。
 崩壊などしているわけではなかった。
  英語の時間、国際理解の先生が、「机をくっつけなさい」と指示された。
 机が一人一人に分かれているので、ゲームをするためくっつける必要があった。
 ほとんどの子供たちはすぐに机をくっつけた。
 でも、1列目と2列目は、くっつけなかった。
 TTとしてついている担任も、2,3度「くっつけなさい」と指示を出した。
 でも、くっつけなかった。いつのまにか、そのままになってしまった。
 そのとき、「ああ、このことを積み重ねているんだ!」と思った。
 その思いで見ていると、他の場面にも、いくつもそのようなことがあった。
 先生が指示したことに従わないので、先生がかわりに机を運んだり、机をくっつけたりしていた。
 ここだ、と思った。
 この積み重ねが、クラスを落ち着かなくさせている。
  ★
 この思いがあったので、「教師が指示したことにはきちんと従わせること」というシンプルな条件をあげた。
 教師が「こうしなさい」と指示したことに「さっと動いていく」ようにすることは、
まず第一の条件だと思われる。
 ここがぶれてはその以後のことが成り立たない。
  糸井先生は書かれている。
  ★ ★ ★
  「厳しさ」を私が思う言葉に置き換えれば、「信念」となる。
つまり、厳しくするポイントこそが大事なのであろうか。その基準となるのが「信念」だ。
また、人を動かすのは、「厳しさ」ではなく、「厳しさの中にある優しさ」である。
揚げ足をとっているのではない。
その言葉の意味をしっかり捉えていかねば、上滑りしてしまうと思うのだ。

 

「信念」がないから、ぶれてしまう。
「厳しさ」に「優しさ」が見えないから、子どもが離れてしまう・・・のだと思う。
 ★ ★ ★
  この考えには、まったく異論がない。この通りだ。
 
 私は、「信念」ではなく教師としての「スタンス」と主張している。(「新卒教師時代を生き抜く学級づくり3原則」に書いたことである)
 この「スタンス」として「仕事への姿勢・態度」(素直、責任感、向上心)をあげている。このスタンスの上に、キャラクターが乗り、そして最後に教育技術が乗ってくる。
 こういうことを前提にしている。
 ★
 「演技力」を「空気」を統率する大切な条件の1つだと書いている。
 他にも考えられるだろう。
 「演技力」というのは、お笑い芸人のような仕草ではない。
 もともと「教師になるということ」は、「教師」を演じることになる。
 子供との距離をきちんと取ること(縦糸を張る)も距離を縮めること(横糸を張る)も「教師」を演じなければ成立しない。
 まず、学生から教師になるための第一の大きな関門は、「教師」として演じられるかどうかにかかる。
 学生の気分のままに、友達みたいに接しようとする初任者が学級を荒らしていっているのはどこにでも見られる現状だ。
 自分の「素」のままに子供と接しようとしてうまくいくはずはない。
  そして、子供たちも「生徒」しなくては学校は成り立たない。
 学校は、「教師」と「生徒」が互いに演じることで成り立っていくのだから。
  ★
 教師としての「魅力、権威、雰囲気」をあげた。
 子供たちをリードしていくために必要なものは何だろうか。
 糸井先生が言われているのは「厳しさの中にある優しさ」である。
 よく分かる。
  それは「信念」から出てくるものだと言われるのであろう。
 この「信念」は、教師にかける夢でできあがるのか、教師になるための勉強でできあがるのか、…ちょっと漠としたものになる。
 ここらあたりが大きな課題だと思われる。
 

 

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教師が指示したことにはきちんと従わせること

 石巻の佐々木先生から、再びブログへのコメントが付いた。
 

 野中先生がおっしゃっていることが、もっと基本的なことであることが分かりました。私なりにまとめてみると、つまり、それぞれのキャラクターのやり方の共通している部分、原理・原則をまとめていこうということでしょうか。一見違っているようだけれど、共通している部分。表現はいろいろだけれど、野中先生の言うところの「縦糸・横糸」に集約されるようなそれ。
確かに、私も皆さんの実践を読んで、聴いて、「あ、根っこは同じだな。」と感じたことが多くあります。そこを整理する、ということでしょうか。
 
  ★
 私の言わんとすることを適切にまとめていただいている。
 「学級づくり」にどうしても必要なものとは何か。
 「原教育実践」とか「原教育技術」という言葉を使っている。
 佐々木先生も言うように「原理・原則」と言えば済むものをこのような言い方をしている。
 でも、そこにこだわっているのは、今までの実践家たちが提起してきた「学級経営論」の共通している部分に注目していたからであろう。
 ★
 最近は、まず学級を成立させていくことを、次のように言い切っている。

 
 学級の「空気」と「時間」を統率すること

 1ヶ月の仕事になる。
 これを統率できれば、1年間の見通しができる。
 とくに、「空気」がむずかしい。
 学級の「空気」をやんちゃたちにリードされるようになるか、担任がリードするようになるか、決定的な決め手になる。
 ★
 「空気」をリードしていくには、どうしたらいいか。
 中堅やベテランの教師たちは、「厳しく」することで担任の姿勢を見せる。
 昔は、これだけで良かった。
 でも、現在は「厳しく」するだけでは成り立たない。
 ベテランの教師たちの学級崩壊が数多くなっているのは、ただ「厳しく」していることからの結果である。
 これでは通じなくなっている。
 私は、「関係づくり」が必要だと考える。
 橫藤先生が提唱された「縦糸・横糸」の織物モデルに引きつけられたのは、この「空気」への統率のため。
 ★
 「空気」をリードしていくための1つのシンプルな条件は、とりあえず次のこと。

 

 教師が指示したことにはきちんと従わせること。
 

   これは「厳しさ」に通じる。
 
  ★
 でも、教師が指示したことに従いたいという気持ちにさせるための教師の条件とは何だろうか。
 これは簡単ではない。
 教師に従いたいという魅力や権威や雰囲気がなければいけない。
 これはどうして作っていくのだろうか。
 私は、これが大学での大きな課題の1つだと思っている。
 このことを親しい知り合いと考えたことがある。
 知り合いは、役者としての「演技力」だと言った。
 偽善だと思われてしまうかもしれないが、それぞれの教室の場面で演技していく役者としての能力が必要だと言った。
 なるほど、なるほど。
 まだ他にもありそうだが、これは大きな条件の1つになる。
 この「演技力」を駆使して、教室の「空気」をリードする。
 子供を笑わせ、時には強く叱り、そしてフォローする。
 中村健一先生の「安心感のある学級づくり」(黎明書房)は、その実践が満載だ。
 ★
 教員養成の大学は、このようなことをほとんど意識していない。
 大学では、教室の「空気」をリードする「演技力」をどうして身につけさせるかをもっと真剣に考えなければいけない、と思っている。
 教員になろうとする人は、ただ真面目で、大学の単位を優秀な成績で習得するだけでは現実的には通用しない。
 まったく通用しない。
 ★
 教室の「空気」は、子供との「関係づくり」になる。
 教室の「時間」は 、教室の「仕組みづくり」になる。
 この2つが1ヶ月の課題。
 そして、この2つを踏まえて「集団づくり」に挑戦していく。
 私が絞って絞ってまとめたことは、この3つ。
 「学級づくり3原則」と提唱する。

 

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業務連絡です~明日の教室のDVDができました~

   7月30日(土)に京都橘大学で行った明日の教室講座がDVDになった。
 プロモーションビデオができあがった。 
 
  http://www.youtube.com/watch?v=W28798Vbsa0

  この講座は、私の最新の学級づくり論が収められている。
 明日の教室DVDシリーズ第18弾になる。
 テーマは「1学期のまとめと立て直し」。
 くわしくは、次のものを見てほしい。

   http://sogogakushu.gr.jp/asunokyoshitsu/dvd_1.htm


  次回の京都明日の教室の登壇も、3月3日(土)に決まった。
  関西地区にいる初任者へ向けての今年度初任者研修会になる。
  新しく先生になる初任者に、この講座を受けると1年間が変わるという内容に
  していきたい。
  ブログで予告している「1ヶ月のシナリオ」もここで渡したい。
   関東地区の東京明日の教室の初任者講座は、2月12日(日)に決まっている。
  ここでも同じ内容を提起していきたい。

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それでも私はここにこだわった!

 「初任者の学級づくり」について先日のブログに書いた。
 藤本先生、赤坂先生、池田先生、青山先生などの大学の先生たちに支援の声をいただいた。心強い限りである。
 今日は、私の親しい知り合いである石巻の佐々木潤先生からメールで意見をいただいた。
 違った角度から、こうして意見をいただけることは、ありがたいことだ。
 佐々木先生の意見には、私もちょっと意見を言っておきたいという気持ちになった。
 佐々木先生は、次のように言われている。
 ★

 さて、先生のブログの記事の中で「初任者の学級づくり」についての内容がありました。
私も同感でした。
大学では教えてくれないことです。
しかし、もっとも必要なことです。

先生は、1か月のシナリオづくりをするとおっしゃっていましたね。
とても貴重な資料になることでしょう。

それについて、私見を述べさせてください。

私はこれまで様々な教育実践をしてきました。
その中の一部は技術として紙面で発表してきました。
しかし、読んだ人がそれをそのまま実践できるだろうか、と考えると
一部はできるだろうけれど、一部はできないだろうと思っております。
その理由は、「技術と人はワンセット」だと思うからです。
たぶん、私の実践は「私」というキャラクター、「私」という人間が行うから可能であって
他の人が行うと微妙にずれが出てくるだろう、と。
これは、他の先生でも同様です。
野中先生が行うからできること、有田先生が行うからできること、野口芳宏先生だからできること…。
ですから、初任者の学級づくりの資料は、いろいろなタイプの先生のものをそろえた方がいいと思った次第です。
例えば赤坂真二さんの、例えば土作さんの、例えば石川晋さんの、例えば佐藤正寿さんの…。
というように、いろいろな方が自分の学級づくりのエッセンスを初任者向けに提供する。
日本の中でも超一流の教師がそのノウハウを伝授する、
初任者の方はいろいろなやり方の中から、自分に合ったやり方を見つけていく。
そういう事が出来たなら理想的だなあ、と思いました。

 ★
 多分、多くの方が納得される意見だろうと思う。
 私も納得する意見である。
 佐々木先生は、次のように言われている。
 

 

 「私はこれまで様々な教育実践をしてきました。
  その中の一部は技術として紙面で発表してきました。
しかし、読んだ人がそれをそのまま実践できるだろうか、と考えると
一部はできるだろうけれど、一部はできないだろうと思っております。
その理由は、「技術と人はワンセット」だと思うからです。
たぶん、私の実践は「私」というキャラクター、「私」という人間が行うから可能であって他の人が行うと微妙にずれが出てくるだろう、と。」

 言われることはよく理解できる。
 たとえば、「100マス計算」がある。賛否が分かれた。
 ある本には、この100マス計算批判がまとめられているものもあった。
 うまくいかない実践を載せられていた。
 この計算をちょっと実践してみたら、こんなにおかしなことになったという批判。
 私は当たり前だと思った。
 批判をするために実践したものがうまくいくはずはない。
 この100マス計算というのは、あくまでも方法だ。
 この方法は、使い方によっては効果を発揮するし、ただの実験として使用するなら、うまくいくはずはない。
 方法というのは、そういうものだ。
 その人がどういう視点からその方法を使っているかどうかが大きな境目になる。
 技術というものを考えるとき、このことは踏まえておかなくてならない大切なことだ。
 ★
 それでも私は、ここにこだわった。
 たとえば、赤坂先生の初任者指導の方法がある。土作先生の方法がある。石川晋先生の方法がある。佐藤正寿先生の方法もある。……
 初任者は、それを見て自分に合う実践を学んでいけばいい。 
  それはそれでいい。
 そんなことができる初任者は、学級が荒れることなんかない。
 私が知っている青森の初任者のIさんは、この部類に入る先生だ。
 しかし、ほとんどの初任者はこれができない。
 だから、私はここにこだわった。
 名だたる実践家は、自分なりの学級づくりの方法論があり、名人芸的な技術を含めてとても初任者にはまねができない方法になるのではないか。
 そうではなくて、あくまでも初任者の誰でもが「これならやれそう」という技術を提起していくことが必要だと思われた。
 私は、あえてそれを「原教育実践」「原教育技術」とでも言っておきたい。
 この「原教育実践」「原教育技術」を実践していけば、何とかなっていく、そんな領域があるのではないかと思い続けてきたことになる。
 この「原〇〇」の位置づけは、次のようになる。
 
 

 

 ・名人芸的な技術をそぎ落とす。
 ・その気になれば誰でも、いつでも使うことができる。

 

 しかし、繰り返しになるがいい加減な気持ちで、上っ面だけでまねしようとしてもそれはうまくできない。
 きちんとしたスタンスを持った取り組みが必要だ。
 そこにこだわって、私は、「学級づくり3原則」として「関係づくり」「仕組みづくり」「集団づくり」を提唱したことになる。
 昨年度担当した初任者は、私の3つの方法を用いて実践し、すばらしい学級づくりをしてくれた。
 とても意を強くして、「新卒教師時代を生き抜く学級づくり3原則」という本を明治図書から出させてもらった。
  「学級づくり3原則」という方法は、私の色を削りに削って、最低限残される「学級づくり」の方法だというつもりで出させてもらったのである。

 繰り返しこだわっておく。
「学級づくり3原則」は、野中流学級づくりを示したとは思っていない。
 この3原則は、学級を作っていくためにどうしても必要な原則だと思っている。
 ただ、内容的にはまだまだ整理できていない。
 それは率直に認めなくてはならない。
 もっともっとシンプルにまとめられれば、初任者の先生たちが、学級を荒らさないで何とか1年間を生き抜いていける、そんな3原則になると意を強くしている。  
 ★
  この延長上に、「1ヶ月のシナリオ」を構想する。
 このシナリオは、初任者がその気になって実践すれば、学級は何とか機能するようになる学級づくりである。
 「その気になる」というのは、なぜその実践をするのかという意味が分かること。
 勝負は1ヶ月になる。

 

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「死の街」騒動に一言!

   私は、今回の鉢呂経済産業大臣の辞任騒ぎにはとても違和感を感じた。
 「死の街」さわぎである。
 確かに大臣としての安易な言葉遣いだったのかもしれない。
 しかし、辞任に値するとはとても思えなかった。
 もし私が、放射能で大変な、人っ子一人いない街を訪れたならば、やはり「死の街」という表現を使ったかもしれないと思った。
 住民が一人もいないのだ。住民がいたならば、こんな表現をするはずはない。
 一人もいない異常な街なのだ。
 その責任は、東電と政府が負うべきもの。
 でも、何なのだ、この騒ぎは!
 政治が、このような端々の問題にエネルギーを費やし、肝心な問題を避けていく傾向になるというのならば、それが大きな問題である。
 ★
 「死の街」をいくつかの英語メディアは「ゴーストタウン」と訳した。
 英語訳としては普通だ。
 この言葉は、朝日新聞を含めて日本のメディアにもしばしば登場してきたらしい。
 今回騒いだメディアも、どこかでこの言葉を使ったのではないか。
 記者たちの言葉や、また避難している住民自身の言葉として、現実に自分のふるさとを語る言葉として適切な言葉だったはずである。
 それが、外来語でなくなったとたんに大騒ぎをするという、今回の異常さは実に違和感がある。
 ★
 2011.9.11の朝日朝刊の「社説余滴」で大野博人氏が、この問題を次のように指摘している。

 
 

「政治がこんなことにエネルギーと時間を費やしていると、肝心な問題が後回し
 になる、からではない。政治が肝心な問題を後回しにしたくて、こんなことに
 エネルギーと時間を費やし、メディアがそれを助長したように見えるからだ。
  肝心な問題とは『事故原発周辺にはもうずっと住めなくなるのか、住める
 ようになるとしてもいつからなのか』だ。が、これは希望のもてる答えが見つ
 かりそうにない重い問いだ。
  それと向き合わずにすますため、政治家の手慣れた失言問題に飛びつき、メ
 ディアがあおる-。こう感じたのは今回が初めてではない」


  政治家への不信は、今回の大震災でますます増幅された。
 彼らは、もうこんな数いらない。
 半数にでも減らさなくてはならない。
 月50万円減らした国会議員の歳費が、10月から元の129万円に戻りそうだと天声人語は書いている。もう呆れる。
 メディアも、もうまったく信じられない。
 彼らの仕事は、肝心なことに目をふさぎ、些末なことを大げさに騒ぎ立て、足ひっぱりをする。
 騒ぎ立てと足引っ張りが彼らの仕事だ。
 私は、一切の週刊誌たぐいは買わないことにした。
 これから協力したりすることは一切あり得ない。
 新聞も、信用に値しない。
 義母はよく言った。
 「新聞に書いてあることをそのまま信用してはいけないよ」
 まさにその通り。 

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教師が「時間」を統率できない!

      S小学校へ行った。
    初任の先生の学級をぜひとも見てほしいということであった。
    久しぶりに朝早く起きて、7:30には出勤。
    学級を見るには、朝の時間から見なくてはならないからだ。
    8:15には学校へ到着。
    ★
    教室へ行く。5年生の学級。
    1,2時間目は図工。図工室での作業。
    人なっこい子供たち。自己紹介を簡単に行う。
    「この学校に5年間いました」と紹介。
    子供たちはびっくりしていた。
    3時間目は、国語の授業だというので、急きょ「私が授業していいですか?」と担 任の先生に頼む。
    図工の時間は糸鋸を使っての作業。
    この間に、全部の子供たちの名前を覚えようとする。
    国語の時間は、一人一人名前を呼んで授業をしたい。
    一人だけK君がいた。
    「お兄ちゃんはいないか?」
    「います。でも、もう別のところへ住んでいます」
    「〇〇〇という名前じゃないかな?」
    「そうです。」
    「何歳なんだ?」
    「もう24歳です」
    「うん、それじゃあ私が担任したお兄ちゃんだ。よろしく言っていてね」
    担任してからもう10年以上が過ぎているはずだ。
    この男の子は、きちんと敬語(丁寧語)で話ができた。
    それをうんと褒め称える。
    「きみは、その言葉はどこでおしえてもらったんだい?」
    彼は、ちょっと満足そうに「分かりません」と答える。
    ★
    3時間目。
    「うとてとこ」の授業をする。
    一人一人名前を呼んであげる。
    子供たちは、「えっ」という顔をする。
    この授業は、野口芳宏先生の看板授業である。
    この授業が初めての「模擬授業」という名前で示されたものだ。
    それを追試している。
    5年生でも十分通用する。
    ただ、「味噌汁・ご飯」授業的に少し変えている。
    一番後ろに座っているMくん。最初から私になれなれしく話しかけてきた。
  給食を食べながら話した。
  彼は、「ぼくは、勉強がきらいだ。でも、今日の野中先生の勉強はおもしろかった。
 ずっとあんな授業だと良いなあ」と話してくれた。
    ちょっとずぼらで、勉強嫌いなM君。
    私は、「今日はMくんに会えて良かった。」と返してあげた。
    帰るとき「野中先生、今日はありがとうございました」と3回も繰り返して帰っていった。
    教師と生徒の出会いは、多くの時間を必要としない。
    一粒の種を蒔くことでいいのだから。
    ★
  放課後、初任の先生と話し合いをもった。
    学級は荒れているということではないことを話した。
    先生の指示に従って、行動はしているのだ。
    ただ、けじめやルールがうまく守れなくてちょろちょろする子供がいる。
    私が主張する「空気」と「時間」の統率がうまくできていない。
    とくに、「時間」の統率がままならない。
    学級のどこにも一日の時間の掲示がない。(あることはある。でも、ほとんど子供には見えない)
    だから、1時間目が何時から何時まで、休み時間が何分間、給食が何時から始まり、何時に終わるのか、清掃の時間が何時から始まり、いつ終わるのか、そして何分間なのか…その全てがはっきりしない。
    ただ、今までの経験で行っているだけ。それも先生の指示でほとんど動くだけだ。
    「掃除の始まりは何時なの?」と質問しても、誰も答えられない。
    こんな学級は、先生の指示待ちになる。
    自分たちで動いていけない。
    要するに自律的な「集団」になれない。
    だから、今の状態はまだまだ「群れ」の状態のままなのだ。
    しかし、こういうことを初任の先生はどこからでも学んでいない。
    昔の記憶にある生徒時代のことを思い出して行っているに過ぎない。
    ★
    掲示物の大切さを感じる。
  現役の時には感じなかったこと。
    初任者指導の経験がなければ、これは感じられなかった。
    ほとんどの教師たちが放置していることでもある。
    習字や絵は、空いているから貼っているだけだ。
    掲示物の大きな役割の1つは、教室の一日の「時間」がはっきり明示されてあるこ と。
    これだなと、思う。
    これがない教室は、教師が「時間」を統率できない。
    そういうふうに考えてしまう。

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この夏を経て考えたこと

      この夏、何人もの若い先生たちに会った。
    初任の頃の様子について聞いた。
    どの先生も、最初の学級づくりがとても混乱したことを話してくれた。
  どのように進めていいかまったく分からないままに、隣の先生に聞きながら進めて いく以外になかったということを語ってくれた。
   ここを何とかしないといけないなとしみじみと感じた。
    ★
    ある大学の「小学校教諭免許取得課程」を手に入れた。
    何の授業を受けているかがはっきりする。
    32課程で修得単位は75。
    この中で教科に関することが21課程。
    これだけでも「教科」(授業)にものすごく力を入れていることが分かる。
    それで「学級経営、学級づくり」という課程はないのかと探すが、ない。
    他に名前を変えているのか。
    「教育方法学」というのがあるが、どうも違うような気がする。
    とすると、何にもない。
    これは、大学でいろいろ工夫していいのか、文科省で決められてあるものかどうか、 それは確かではない。
    この免許取得課程で分かることは、免許が教科いわゆる授業を教えていくことを前 提に作られていることである。
    学級経営、学級づくりなどまったく問題にしていない。
    そういうことになる。
    ★
  私が知る限り大学の講座で「学級担任論」を教えているのは、京都橘大学の池田修 准教授だけだ。
    なぜ、他の大学はやらないのか?
    「免許取得課程にはないから」と言うのであろうか。
    これほど現場で初任の教師の学級が荒れまくっている。
  しかも、その原因の多くはうまく学級を作れないことにあるのに、大学は、そのことを無視していいのか。
    教育実習があると言うのであろうか。
  あれは、現場の担任が作ってくれた学級の基盤の上に乗っかって行うパフォーマン スにしか過ぎない。ちょっとした物まねだ。
    そんなことは分かりすぎるほど分かっているはずである。
    ★
    今、初任者は最初の学級づくりを学年主任か隣の先生に教えてもらいながら進めて いる。
    それでも一歩遅れる。隣の先生の物まねだから。
    その遅れが致命的になる場合もある。
    学級づくりだけは、初任もベテランもない。
    子供たちは容赦をしない。
    給食指導がうまく進まなくて、給食を取りに行くのも遅い、返却するのも遅い、配膳も遅い、……。
    こんな混乱が、朝自習でも、朝の会でも終わりの会でも、清掃でもあったら、学級の一日の「時間」が混乱する。
    これが学級の「荒れ」を起こしているのである。
    この学級づくりだけは、どうしてもベテランと同じように進めていかなくては最初 の1ヶ月を乗り切れない。
    この1ヶ月が勝負だということは、私が繰り返し主張してきたことである。
    ★
    私はこの夏学級崩壊にあっている何人もの先生たちに出会った。
    どの先生も真面目な先生たちだった。
    うまくいかず苦しんでいた。
    何とか手助けができないものかと思ったが、私の力では限界がある。
    日本全国では、このように嘆き苦しんでいる先生たちが数多くいるであろう。
    どこに視点をおけばいいかは、絞ってきている。
    1ヶ月の学級づくりを、教室の「空気」と「時間」の統率という視点から押さえていけばいい。
    ★
    この夏を経て、ちょっと決意したことがある。
    「教室1ヶ月のシナリオ」を作りたいということ。
    今まで「1週間のシナリオ」を作ったり、「必ずクラスがまとまる教師の成功術」(学陽書房)の中で明らかにしてきていたりする。
    しかし、これは私の実践をそのまま載せているだけである。
    今回は、初任者にあわせて作り直してみたいということだ。
    初任者が最初の1ヶ月はこのようにしていけばいいというシナリオを作りたい。
    それをこのブログで公表し、添付で希望者にお渡ししたいと思う。
    2月、3月には関東、関西(橘大学)で今年度初任者講座を行う。
    そこへ持って行きたい。
    すでに決まっているのは、2月4日(土)広島県福山、2月12日(日)東京明日の教室、3月10日(土)新潟、3月25日(日)横浜野口塾、3月29日(木)愛知小牧初任研。
    ここには持っていきたい。
    著作権はないので、どんどん初任者にコピーして手渡してほしい。
    そんなものを作って、私なりの精一杯の闘いをしたい。

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授業の中に「交流活動」を設けよう

   新潟の研修会で、一番目に着いたことがある。
 2日に、赤坂先生と堀先生の授業を見た。
 3日に、北海道の先生方3人(この3人ともよく知っている先生方)と新潟の先生方3人の授業を見た。
 とても印象的な授業ばかりであった。
 この8人の先生方の授業で、8人とも共通していたことがある。
 それは、授業の中に「交流活動」を設けていたこと。
 4人グループが多かった。
 堀先生の授業のとき、5人グループがあった。
 堀先生が私にささやく。
 「やはり、5人になるとああやって一人傍観者が生まれてくるのですよ」
 ★ 
 子供たちの中からコミュニケーションしていく力がなくなっていっている。
 それは、端的に子供たち同士のコミュニケーションがなくなっているから。
 好きな子供同士でしか会話がなされていない。
 その現状を嘆いても始まらない。
 私たち教師ができることは、こうして授業のなかに「交流活動」を設けていくことしかない。
 でも、思いつき程度ではだめだ。
 「続けること」が新潟では話題になった。
 毎日の授業のなかに組み込んでいくことを考えなければいけない。
 私も提案している「味噌汁・ご飯」授業のなかに、「交流活動」を組み込んでいけないものかと考える。
 ★
 先日のK小学校の「プラス思考で考えよう」という授業では、急きょ授業内容を変えて「交流活動」を設けることにした。
 3人グループ、4人グループにした。
 「黒板に書かれていることで、『この意見はいいね』『この意見は良くない』などと話し合って、黒板に書かれていることで一番賛成の意見を選んでほしい」と言って、話し合いのルールを提起。
 先日、赤坂先生が提起していたルールである。

  ①全員が話そう。いつも誰かが話している。
    ②思いついたことはどんどん話そう。
    ③「いいね、いいね」と認めよう。
    ④全員が自分の意見を言えるように助け合おう。
      
 実際には、2分ぐらいしか続かなかった。
 でも、こうしたところから始めることが大切だ。
 そんなことを放課後の講座のなかで、先生たちに話した。

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研究授業を変えていこう!

   新潟の十日町市立東小学校の研修会で、赤坂真二先生が印象的な発言をされた。

 「授業と学級づくりは車の両輪だと言われてきたが、今はそれを超えて表裏一体と考える」
 
  それほどまでに「学級づくり」の大切さを表明したものである。
 私は、以前から強調してきたことは次のことだ。

 学級づくりの土台の上に授業が乗っていく。

  「学級づくりをきちんとできない限り、授業もうまく乗っていくことはできない」ことを主張してきた。
 だから、4月の1ヶ月は精力的に学級づくりへ奔走し、(もちろん授業も同時進行だが)その土台の上に「授業づくり」を本格化するというのが私が描く図式になる。
 ★
 昨日、K小学校での懇親会の席で、重点研究で「学級づくり」が取り組みの対象にならないものかが話題になっていた。
 学校の重点研究が、授業研究になっていることは日本全国ほとんどといっていい。
 戦後教育の歴史のなかでは、当たり前の常識になっていた。
「授業で子供たちを変えていく」という歴史である。
 学級づくりは、学級経営の大切さという形で追求されてきたが、多くの先生たちにとってはそんなに大きな課題になることはなかった。
 とにかく多くの先生たちにとっては、「研究授業」なのだ。
 運動会や修学旅行や学習発表会などの行事以上に、先生たちが重要視するのは、「研究授業」になっていた。
 自分のプライドをかけて、何としても研究授業をうまくこなして、「良い授業だったね」「子供たちがうまく育っているね」と褒めてもらいたいと内心先生たちは思っているはずである。
 ところが、現実的にはほとんどが行事消化的な研究授業になってしまっていて、決まりきった研究紀要にまとめられて終わり。
 その研究紀要は、書いた本人が自分の原稿をざっと目を通すだけで、誰も読まない代物だ。
 研究授業だと言っているが、学校で研究ができるはずがない。
 研究テーマを掲げ、研究仮説などを設けているが、ただの付け足しである。
 研究成果を見ても、ほとんどがおざなりの結果が書かれているはずである。
 ★
 一生懸命に研究授業をやっているところに水を差すようなことばかりを言っていることになる。
 しかし、冷静に分析してほしい。
 今やっている研究授業が、学校の先生たちの日常授業につながるものになっているのであろうか。
 研究授業の積み重ねで、先生たちの授業が確かに向上しているのであろうか。
 私はほとんどないのではないかと思っている。
 なぜなら、今の研究授業のシステムは、そのようになっていないから。
 ★
 私は、2年前に札幌の山の手南小学校の全クラスの授業を見せてもらった。
 この学校の重点研究の研究テーマが「確かな学力を育成する日常授業の改善」だった。
 見事なテーマだと思った。
 日常授業を改善できない重点研究などどんな意味があるのかとさえ思った。
 研究授業を改めて、研修授業にしていけばいい。
 日常授業を改善していくために、どんな授業をしていけばいいか。
 このテーマで、さまざまな授業をお互いに見せ合って、お互いの授業を向上させていけばいい。
 そこでは授業名人が唸るような授業を公開することはない。
 多くの子供たちが双方に分かれて、がんがん討論をするような授業でなくていい。
 そんな授業は誰もまねができない。
 「あっ、そういうふうに変えていけばいいのか!」「ああいうふうに子供へ指示を出していくのか!」「ああいう発言を子供たちにさせていけばいいのか!」……というヒントをさまざまに提起していける、そんな授業がいい。
 授業は決してうまい授業でなくていい。
 先生たちが批判的に摂取できる授業であればいい。
 学校の先生たちが日頃行っている「日常授業」につながっていく道筋がきちんとその研究授業になければいけない。
 そのような研究授業に変えていくことなのだ。
 私は、強くそのように思っている。
 
 
 
 

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二学期制と五日制の検討

 Y市では、学校での二学期制や五日制についての再検討を始めるらしい。
 二学期制とは、前期、後期のこと。
  五日制とは、土日の休みのことだ。
 それを隔週に改めていきたいということらしい。
 ★
 二学期制は、私が勤めているときに実施されたもの。
 ほとんど反対ができないように強引に導入された。
 もちろん教育委員会サイドの強い要望である。
 その意図は、授業時間の確保であった。
 「学びの連続性」などという言葉がまことしやかに強調された。
 ところが、実際に実施してみると、時間の確保など夏休みを1,2日少なくしていけばすむ程度のことでしかなかった。
 こんなことなど事前に計算してみれば済むことだったのだ。
 学制発布実施以来ずっと続けてきた3学期制を止めて、結局この程度の結果に終わったこと、まったくもって恥ずかしいことではないか。
 再検討するという。
 そのためには、なぜ始めたのか、その意図が結局達せられなかったのは何故か、もとの3学期制に戻す意味は何か…などの総括をきちんと行うことである。
 それを委員会は、きちんと示すのか。
 多分しないだろう。
 またうやむやにして、3学期に戻すのではないだろうか。
 要するにトップの思いつき程度の発想にしか過ぎなかったことになる。
 ★
 五日制を隔週にするという動きは、すでに東京で起こっている。
 要するに学力を向上させるために、授業時間を増やすという動きである。
 これもあまりにも短絡的な考え。
 世界で学力が高い国々の共通の特徴は、授業時間が少ないことである。
 このこととまったく逆行する。
 世界は、授業時間の「量」ではなく、「質」を問題にしている。
 なぜ、日本だけは「量」を問題にするのであろうか。
 そこをまったく答えない。
 「授業時間を増やす→子供の学力が向上する」という簡単な図式しかない。
 現場で37年間授業をしてきて、6時間目というのがあまりにもつらい時間であることを実感した。
 教師も疲れているが、子供たちも疲れている。
 夏の暑い日なんか、我慢大会をやっているようなものだ。
 この時間は、決して意味がある時間だとは思えなかった。
 「質的転換」をどのように図るかを考えることが大切なのだ。
 
 

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Nくんを授業に組み入れていく!

 K小学校へ行く。
 以前の学校で同僚だったI先生(今は、この学校の校長)に呼ばれてのこと。
 4時間目は、4年のM先生の授業(理科の「とじこめた空気や水をおしてみよう」)を見る。
 落ち着いた学級。
 その中で、1人の子供が気になる。
 ほとんど学習をしないで、ふらふらしている。
 いつもこんな状態らしい。
 名前を確認する。Nくん。
 5時間目は、私が授業することになっている。
 このNくんを私の授業に繰り込んでいくことを考える。
 早速、給食をそのクラスで食べさせてもらうことをお願いする。
 ★
 配膳が終わって食べ始めると、早速自己紹介をさせてもらう。
 「私は怖い話に、汚い話、おもしろい話が得意です。」と話し出すと、とたんに「怖い話して!」と子供たちは目を輝かす。
 子供たちは、怖い話が大好きなのだ。
 給食中、Nくんがいるグループで食事をする。
 私はさかんに周りの子供に話しかけてNくんとの接触を試みる。
 Nくんは、怖い話に反応している。
 給食を食べ終えて、私のところへ来る。
 「怖い話をいつもテレビで見ているよ。その怖い話してあげようか?」
 「おねがい。それほんとうにあった話なの?」
 Nくん、私の耳に口をつけて、内緒話のように話し出す。
 「こわいね~~~~~」と反応してあげる。
 ★
 5時間目は道徳の授業。「プラス思考で考えよう」という授業。
 TOSSの高山佳巳先生の「足太いね」の授業を私なりに修正した授業である。
 
 「2週間前に相鉄線に乗りました。鶴ヶ峰で乗って、本を読んでいたら、次の西谷の駅から3人の女子高校生が乗ってきて、私の隣に座りました。さかんにAKBの話をしています。」と話し出した。
 その様子をくわしく話す。
 そして、突然端に座っていた女の子が真ん中の女の子に言う。
 「足太いね」
 ★
 それに対して、みんなだったらどう答えるかと問いかける。
 答えを書いたらもってこさせて、板書させていく。
 Nくんは、「あ、うるせこのやろう」と書いていた。
 ちゃんと乗ってきている。
 ここで4人グループを作り、グループ討議をすることを設定。
 話し合いで、この板書のなかで一番良い答え方を選ぶ。
 ★
 一度だけNくんは、机を離れて、ふらふらしようとする。
 私は厳然と「席に着きなさい」と言う。
 Nくんは、素直にすぐ席に着く。
 給食中の関係づくりが効をそうしている。
 ★
 その女の子はどう答えたのだろうか。
 じらして教えてあげる。
 「うん、太くてかわいいでしょう」
 このような答え方を「プラス思考」と教える。
 そして、「プラス思考」の練習をしようということで、「チビだね」と問題を出す。
 Nくんは書いている。
 「チビのほうがかくれんぼのときみつかりにくいんだよ」
 私は、「すごい、すばらしい。これがプラス思考だね」と褒め称える。
 ★
 Nくんは、授業の感想に「たのしかたです」と書いていた。
 1時間中、席について授業に集中することは珍しかったことらしい。
 まずは、成功である。
 ★
 放課後、先生たちに「学級づくり」についての話を1時間ほどする。
 

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「叱る」ということ

   新潟の十日町市立東小学校の「学級づくり講座」で、最後に「叱り方の実演」を行った。
 最近の講座では、よくやる実演だ。
 ★
「すぷりんぐぶろぐ」には、次のように書かれてあった。
 
 

  野中先生の「学級づくり講座」。
 そこでの圧巻は、叱り方の実演であった。

 体育館での授業、集合していることが約束の学級において、子どもたちが自由勝手に遊んでいる状況…そこで教師はどう声をかけるか。
 それは様々な方法があろう。
 そこにどの学級にも通用するような最適解などはない。
 ただ、教師の思い、願いはしっかりと伝えねばならない。
 
 それがエネルギーを伴う場合にのみ、子どもたちの糧になっていくと考えている。
 だから、いつ使うかは別問題として、大きく強い声は教師が身につけたい必須科目である。
 いや、どこでどんなふうに身につけるかも結構重要な問題だなあ…あれれ?どうする?

 だからこその学級づくり研修なのかもしれないし、それ以前の問題になっていくのかもしれない。

  ★
 「叱る」ことは教師にとってどうしても必要なことだ。
 これができない教師は、教師を続けることができない。
 でも、この「叱ること」には麻薬のような毒がある。
 それは知っておかなくてはならない。
 この「叱ること」を無防備に使い続けると、麻薬のように蝕まれていく。
 しょっちゅう叱るようになる。
 いけないと時々反省するが、また使い続ける。
 ひどい教師になると、ものすごい大声で叫び続けることになる。
 それはいいことだと勘違いしている。
 とんでもないことである。
 私は強調する。
 「叱り」は必要だが、「叱る」ことだけで子供は育たない。
 「叱り」は、夕立のようにさっと済ます。
 「叱る」時には、自分から「終わり」と宣言する。
 ★
 前回のブログで紹介した中村健一先生の本「安心感のある学級づくり」(黎明書房)には、章を設けて書かれている。
 
 

 「厳しく叱る」で教室を安心感のある場所に

 「叱る」ことをこのようにはっきり示された本は、初めてではないだろうか。
  
  子供が最も好む先生は、「厳しくておもしろい先生」だという。
 

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中村健一先生、この本で、学級づくりの舞台に参戦!

 上越新幹線の中で、この本を読んだ。
 
 

 「中村健一の安心感のある学級づくり」(黎明書房 中村健一著)
 

 一気に読み通した。帯には次のように書かれてある。
 
 

 必ずうまくいく「お笑い」「フォロー」「厳しく叱る」の中村式学級づくり

 まさしくこの通り。

  「健一さんも、この本を持って『学級づくり』の舞台に参戦してくれたんだ!」とうれしくなった。

 

 ★
 今までは「お笑い」の中村健一で名をとどろかせてきた。
 しかし、この本を読みながら、「フォロー」もしたたかなのだ。
 この本を読み終えて、十日町市立東小学校で赤坂真二先生の道徳の授業を見た。
 何か中村先生の「フォロー」がそのまま赤坂先生の授業に乗り移ったような感じであった。

 

  この「フォロー」がこれから授業でも、学級づくりでも焦点になる。
 そんな気がした。
 ぜひとも、手に入れて読んでほしい。

 ★
 「一緒に講座を持てる日が来るのでしょうか」と中村先生とメールを交わしたことがあった。
 来年の2月に広島でその講座が実現しそうである。
 何とも楽しみなことである。

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刺激的な授業対決だった!

 9/3(土)は、庭野先生の車で新潟まで連れて行ってもらう。
 ものすごい暑さ。もうすでに30℃を超えているのではないのだろうか。
 9時過ぎには、研修会の場所へ到着する。
 「学級づくりを学び合う会」の主催である。
 堀先生と私が、1時間ずつ提案をし、その後授業対決がある。
 新潟の先生方と北海道の先生方が3人ずつ、25分の授業提案をするということになっている。
 ★
 会場に入ってしばらくすると、「えっ、I 先生!どうしたの?」という出会い。
 びっくり。
 愛知から深夜バスに乗って新潟へ到着されたということ。
 もう何年も前からの親しい知り合いである。
 「堀先生、赤坂先生、野中先生の共演ということで駆けつけてきました」と。
  この行動力に敬服。
 ありがたいことである。
 ★
 堀先生の講座が始まる。
 「教育のこれまでを踏まえてこれからを見据える」
 戦後のこれまでの流れがまとめられている。
 大学の先生が何人も束になってかかっても打ち負かしてしまう堀先生の論理的な強さは、この提案にはっきりと提示されている。
 私にとっては学ぶことが多かった。
 私の講座は、「学級づくりのこれからを考える」。
 堀先生と比べて、まことに具体的な提案になる。
 ★
 授業対決がすごかった。
 実力がある3人ずつの先生たちの授業提案である。
 その授業を斬るのは、私と北海道の南山先生、そして堀先生。
 私は、日常授業へすぐに生かしていけるという視点から切り込みをかける。
 この会の代表である大島先生(大島先生も授業提案をされている)は、かつて私のブログへのコメントで次のように指摘されていた。
 
 

「先生の提案されている『味噌汁・ご飯授業』に賛同しています。
 忙しい忙しいと言いながら、先輩たちは何故年に1,2回の研究授業に多
大な時間を費やしているのだろうと私もずっと思ってきました。そして、その研究授業の成果が日常の授業にほとんどかえっていない事も疑問に思ってきました」
 
 

全国の学校で進めているほとんどの研究授業システムは、役目を終えている。
 ただ行事処理の役目しかしていない。
 大島先生のコメントどおり。
 研究授業は、ともに進めている先生たちの日常へ帰っていくものでなければ何の意味もなくなっている。
 授業提案された内容が、参観している先生たちの明日の授業へ生かされていく、その視点を持たないのならば何の意味があろう。
 ★
 その意味で、6人の先生の授業は提案性のあるすばらしい授業であった。
 参加されている先生たちにとっても、とても刺激的な授業だったのだと思われる。
 ★
 20人ばかりの先生たちが懇親会へ参加される。
 ここで出された話も、実におもしろかった。
 北海道の南山先生と再び話せたこともうれしかった。(ともに団塊の世代なのだ)
 二次会から衝撃的に参加されたH先生の話もおもしろかった。
 お会いしたいと思っていた先生である。
 ホテルに帰り着いたのは、12時過ぎだっただろうか。

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9/2は、十日町市立東小学校を訪れる

   9/2日は、朝の6:30に自宅を出る。
 東京まで1時間30分ほどかかる。
 上越新幹線で越後湯沢まで行き、そこからホクホク線に乗り換えて十日町まで。
 十日町駅から十日町市立東小学校までタクシーに乗る。
 運転手さんが、水害があった地区を特別に選んで案内してくれる。
 「ほら、あそこまで水が来たんですよ」と。
 1時間に120ミリの雨が降ったらしい。
 「そんなに降るというのは、どんな感じですか?」
 「バケツの水をひっくり返したと言うより、風呂桶をひっくり返した感じですね」
 「それは、すご~~~~い」
 十日町で水害。ニュースで大きく報道されたのを私も覚えていた。 
 ★
 久しぶりに校長の庭野先生にお会いする。
 十日町を訪れるのは、昨年に続いて2回目になる。
 70名の外部参加者と聞いていたが、実際には当日参加が20名ぐらいあったらしい。 視聴覚室に100名以上の先生がぎっしり。
 6年1組の授業。赤坂先生の道徳の授業。
 初めて見る。
 テンポ良く進む。
 子供たちをその気にさせていく。
 まさにフォローの名人。
 1つだけおおいに感心したことがあった。
 クラスで2,3人の子供が赤坂先生の発言に一々反応する。
 それをめざとく見つけて、
 「先生の話に一々反応してくれる。すばらしい。ありがとう」
 と持ち上げていく。
 なるほど、このようにしてやんちゃたちを引き込んでいくのである。
 今までこのようなつぶやきや相づちは避けられてきた。
 「静かに先生の話を聞くこと」への妨げだと考えられてきた。
 私も現役の頃は、制止させてきた。
 だが、赤坂先生は積極的に受け入れていこうというのである。
 これは、これからの1つの方向だ。
 赤坂先生は語る。
「子供たちは仲良しの子供たちの間だけでしか話していない。圧倒的にコミュニケーションの量が減少している。それを何とかしなくてはならない」  
 だから、赤坂先生の授業は2人組、4人組でさかんに話し合いをする。
 話し合いの方法も教える。

    ①全員が話そう。いつも誰かが話している。
    ②思いついたことはどんどん話そう。
    ③全部「いいね、いいね」と認めよう。
    ④全員が自分の意見を言えるように助け合おう。
    ⑤おしゃべり感覚で。

 すぐにはできないが、積み重ねれば絶対にうまくなる。
 素晴らしい授業だった。
 おそらく見ていた先生たちは、赤坂先生の名人技だと感じたかもしれない。
 確かにその部分はある。
 でも、この授業提案の底流に流れているポイントは、クラスを活気づけ、コミュニケーションをどのように図っていくかというさまざまな方法なのである。
 ★
 6年2組の授業は、堀先生。
 中1の生徒に初めて教える説明文の授業。
 冒頭から「ノートを開けなさい」とノート指導が始まる。
 視写、聴写、文章構成図などきちんとノートに写させ、ノートの空け方も指導される。
 「小学校の教師がもっとも手を抜いている部分だ」と思う。
 文章構成図を教える問いかけも巧みである。
 考えさせ、ノートに書かせ、話し合わせるという活動がある中で、中心はノート指導という流れ。
 「『味噌汁・ご飯』授業が目指す理想型の流れがここにあります」
とコメントしたほどである。
 この授業は、小学校の先生たちにおおいに参考になったはずである。
  ★
 その後、45分間私が「学級崩壊を防ぐ学級づくり」について話をする。
 ★
 6年生2クラスの子供たちのすばらしさ。
 東小学校では、このような子供たちが育っている。
 これほどしっかりしている6年生の姿は、そのまま現在の東小の現況であろう。
 

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台風が近づいている!

   台風が近づいている。
 関東直撃という予報が変わった。台風が向きを変えからだ。
 9月2日(金)は、「学級力・授業力アップ研修会」で出かけることになっていた。
 赤坂真二先生と堀裕嗣先生が授業提案をし、私が学級づくりの提案をする会。
 新潟の十日町 十日町市立東小学校。
 上越新幹線で越後湯沢まで行き、特急に乗り換えて十日町まで。
 もし台風で新幹線が動かなくなった場合は、もうアウトだ。
 だから、1日に出かけるか、2日でもいいのかと、やきもきしていたことになる。
 ★
 赤坂先生の授業を見るのも、堀先生の授業を見るのも初めてであり、楽しみにしている。
 今のところ、外部から70名ぐらいの参加者があるらしい。
 学校が始まったばかりの教室を空けるのは大変ではないだろうか。
 私が主張している「銀の時間」でもある。
 参加してもらえるのは申し訳ない気もする。
 ★
 3日(土)は、学級づくりを学び合う会が、新潟協同組合新潟卸センター(NOCプラザ)で行われる。
 講座1「教育のこれまでを踏まえてこれからを見据える」(堀裕嗣)
 講座2「日常を磨き上げ特別なレベルにする」(野中信行)
 それに北海道の先生たちと新潟の先生たちの授業対決がある。
 これも台風が心配だ。
 台風が近畿地方を直撃し、日本列島を横断するとしたら大変なことになる。 
 どうか被害が少なくなることを願うばかり。

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