かつてあった倫理観の喪失
知り合いの友人の教師が学校を異動した。
6年生の担任と言う。
こういう人事も、今でこそありふれたものになったが、以前ならば絶対になかったことである。
肝心な人事は、現有の教師たちでまかなっていくというのは当たり前の倫理であったはずである。
おまけにその6年生のクラスは、最初から荒れまくっているという。
そのクラスに問題のある子供たちを集めているらしい。
こんな人事があるのであろうか。
おそらく当たり前の倫理をかなぐり捨てているのである。
新しく異動してくる教師にとって、当然今までの子供たちとの関係ができていない。
これは大きな壁である。
だから、新しく異動してきた教師には、普通の教室を持たせていく。
これが当たり前の倫理である。
ところが、そうではなく、異動してきた教師にこんな大変なクラスを持たせていくという倫理感とは一体何であろうか。
★
かつて仙台で東北福祉大学の上條晴夫先生とお会いしたとき訪ねられたことがある。
「野中先生、最近学校では問題があるクラスを現有の先生たちが持ちたがらなくなり、そのクラスを異動してきた先生たちに持たせていこうとするということを聞いたのですが、ほんとうですか?」と。
ほんとうである。
ますますそのような傾向が増している。
★
ただそういう人事をする校長に対してはいささか同情するところがある。
要するに、手持ちの人材がいないのである。
たとえば、高学年を持てる教師たちが限られてきている事実がある。
実際には、どんな教師もどこの学年を担任してもいいはずである。
ところが、高学年を持たせたら確実に荒れてしまうという教師は、当然校長は最初から避けていく。
そうすると、高学年を持ってもらう教師は限られてしまう。
高学年を担任するということは、特別な仕事になっている。
私は、高学年担任に管理職並みの特別手当を支給すべきであると主張している。
せめてそのような報酬で報いるべきであると思っている。
身を削るような思いで担任をしている教師たちがいっぱいいるのである。
もちろん、地方ではそんなひどいことにはなっていないであろうが、主要都市圏での高学年担任は大変である。
今、学校を異動する教師たちは、高学年の経験を持っていれば必ず高学年の担任に回されていく。これは覚悟しなければいけない。
学校にかつてあった倫理感をかなぐり捨てなければ、学校は成り立ちえなくなっている証しであると私は思っている。
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