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2011年5月

「只の人になって」~2ヶ月の報告記~

  初任者指導を終えて、「只の人」になった。
 もう2ヶ月が過ぎようとしている。
「教諭」という肩書きがなくなっただけだから、たいしたことはない。
「家で何をやっているのですか」とよく聞かれる。
  家ではふらふらしているが、暇なわけではない。
 一日はあっという間に過ぎていく。
 まだまだ講演とかが結構あるので、その準備などに追われているけど、それもたいしたことではない。
 そんなものはいずれなくなっていく。
 ★
 まず、覚えたのが「ゴミ出し」のこと。(笑)
 横浜では、曜日ごとにゴミ出しのゴミが違う。
 これをきちんと覚えるまでにだいぶかかった。
 紙に書いて、机のところに貼りだしている。
 一日は、その「ゴミ出し」から始まる。
 歓送迎会で言われた。
「先生、ゴミ出しなんかよりもっと学校へ行って初任者を育てて下さい」って。
 ★
 次に心がけているのが、3度の食事の後片付け。
 茶碗を洗い、拭いてもとの食器棚へ戻し、台所をきれいに片付ける。
 食事は、女房が作ってくれる。
 私が作ってもいいが、もうずいぶん食事を作るということから離れているので億劫になっている。
(現役時代、6,7年間の夕食は私が作っていたことがある)
 この後片付けは大変である。
 食べた食器を3度同じように洗い、同じように食器棚に片付けるという繰り返し。
 要するに、この繰り返しなのだ。
 食事を作るのはいいが、食器を洗うのは嫌いだという人は多い。 この繰り返しに耐えていくのは大変なことだなあと毎度思う。
 ★
 食事づくりを復活していきたいとは思っている。
 食事づくりも原則をマスターすれば、そんなに苦ではない。
 いずれ誰でもが一人になる。
 昔は、主人が先立って、後の始末を妻がつけた。
 このようになる場合が多かった。
 しかし、今は違う。
 どちらが先立つかは分からない。
 先に奥さんに先立たれて途方にくれる旦那を何人も見てきた。
 これほど惨めなものはない。
 そうならないために、家事の方法と基本的な食事の方法を身に付けておくことは定年後を過ごしていくためには必須のことなのだ。
 ★
 もう一つ大事にしていることは、足の鍛えになる。
 歳をとれば誰でもが足腰が弱る。
 一旦病気にでもなれば、ほとんどが寝たきりになる。
 これが大変だ。
 「私はもうそんなにならないでぽっくり死ぬから大丈夫。おいしい物をたらふく食べて死ねたら本望だ」などとうそぶいてさんざん飲み食いしている人がいるが、実際に具合が悪くなったら大騒ぎをする。
 ぽっくり死ぬなんて、現状ではほとんど無理なのだ。
 寝たきりになる確率が高い。
 ただそれをできるだけ避けていくためには、日頃からの足の鍛錬しかない。
 歳を取れば、どうしても自然に足の筋肉が衰える。
 自動車に乗り慣れている人は、老後は大変である。
 ★
 一日でめざすのは、13000歩。
 朝起きて食事を済ましたら、しばらくして30分家の中を歩く。
 その場合、足にそれぞれ2キロの重りをつける。
 11時から1時間は散歩。
 夕方の4時から1時間はジョギング。
 こんな過程になる。
 だから、一日があっという間に過ぎていく。
 ★
 「もう教育関係の仕事はしないのですか」とよく尋ねられる。
 そんなことはない。
 実際には、味噌汁・ご飯研究会の代表でもあり、最近は、教材の授業づくりをよくやっている。
 これは楽しい時間である。
 現役のときにもっとこんな楽しさを味わっておけばよかったとつくづく思っている。
 そんなこともいずれなくなっていく。
 ほんとうの「只の人」になる。
 いつまでも肩書きか何かにしがみついて「只の人」になることを恐れている人がいるが、「只の人」ほど気軽な生き方はないのである。
 
 

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糸井先生とのやり取りの中で~まず行動ありき~

  京都立命館小学校の糸井登先生のブログに次のようなことが書かれたあった。
 http://susumu.exblog.jp/m2011-05-01/
 糸井先生とは、京都「明日の教室」主宰者でもある。
 今や「明日の教室」は、京都だけでなく、東京、大阪、宇治、そして福岡でも主宰されている。
 これだけの広がりを持っている。
 これは糸井先生や池田先生の志が広がっている証である。
 私は、二人の思いに共鳴をして、頼まれれば進んで、また私の方から頼んで、登壇してきた。
 多分、登壇回数は私が一番多いはずである。
 私は、自分に言い聞かせていることがある。
「人を見るときには、その人の地位や職種では見ない。その人がどのような志を持っているかどうかで判断する」と。
 志は、まず一人から行動に移される。
 糸井先生の志は、これだけ各地に広がっている。
 私は常に言い聞かせる。
「点は線にしなくてはならない」と。
 ★
先日、野中信行先生に「明日の教室」への御登壇のお願いのメールを出しました。
7月30日(土)に御登壇いただけることになりました。
これは、3月に実施した若手のための講座の続編です。
3月の講座が終了した席で、夏休みの講座をお願いしました。

理由は、夏休みに自分の学級を振り返ることがとても大切だからです。
ベテランでさえ、振り返ることもせず、リフレッシュなどという言葉を使い、忘れようとする。
そして、状況が更に悪化し、10月頃にダウン・・・という流れがとても多いのです。

そて、野中先生からいただいた折り返しのメールの中に、
「元気がない。糸井さんらしくない・・・・」
と励ましの言葉を添えていただいていた。

私は、もうかれこれ10年ほど、自分らしさということを模索し続けているような気がする。
ひょんなことから、「明日の教室」の主宰を務めることになったが、それほど素晴らしい教師としての技量があるわけではありません。
今の学校に赴任するまで、私の紹介についてくる言葉に、「学外との連携、コラボレーション」というものがありました。
今の学校でもやろうと思えばできるのでしょうが、一年目の昨年は、そういったものを封印しました。
自分一人の力というものを再確認する、まずは地道な実践を、と考えたためです。

そして、2年目です。
学校の中で、少し自分の考えをいうこともできるようになりました。
そんな中、大切なのは「目の前の子ども達」です。
まず、「方法ありき」ではなく、「子どもありき」でなければ、なりません。
そんなことを考えていると、なかなか行動に移せない自分になってしまっていました・・・。

まず、行動ありき、か・・・。
それが私の持ち味の一つだものな。
野中先生からいただいたメールを読みながら、そう思いました。
ありがとうございます。
月並みな言葉だけれど、頑張らなきゃ・・・ね。

 ★
 私が糸井先生にメールした内容が少し書かれてある。
 糸井先生は呟いている。
「まず、行動ありき、か・・・」と。
 私は、「アウトプット」を中心に生きてきた。
 自分の中で思い詰めたり、悩んだりするより、とにかく何かの行動をすることだと思い決めてきた。
 それで自分の道を切りひらいてきた。
 要するに、したたかに生きることなのだ。
 糸井先生が言われるように「まず、行動ありき」なのだ。
 そんなことを糸井先生のメールとのやりとりで考えた。 

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「荒れる」ということ

   秦先生のブログで、「朝を創る」という内容が書かれていた。
 同感する内容である。
 http://dousureba2.blog.so-net.ne.jp/

 ★
 「荒れる」という現象がある。
 私は、クラスが荒れているかどうかより、その先生が「荒れていないか」どうかを気にする。
 クラスが「荒れる」というのは、「担任の指示に従わない」「担任に反発」「クラスのルールに従わない」「授業中のおしゃべり・立ち歩き」という現象である。
 だが、クラスだけが荒れるのではない。
 担任も「荒れていく」。
 担任の先生の職員室の机の上はどうだろうか。荒れていないだろうか。
 机にユンケルのビンがあったり、仕事ができないぐらいに書類が積み上げてあったり、……。
 担任の先生の教室はどうだろうか。
 放課後に訪れてみればいい。
 学級が荒れている場合、ほとんど教室も荒れているのである。
 机はぐじゃぐじゃ。雑巾は方々に散らばっている。草花は枯れたまま放置されている。 ドリルやスキルが積み上げてあり、何冊かは散らばっている……。
 ★
 かつて凶悪犯罪がはびこるニューヨークの街。
 その街を立て直すために立ち上がったのが、市長ルドルフ・ジュリア-ニだった。
 彼が就任してから8年後に殺人の発生件数を67%減らしている。
 取り組みの根拠になったのが、ジョージ・ケリング博士が主張する「ブロークン・ウィンドウ理論」であった。
                                                                              
│①小さな犯罪こそが、大きな犯罪を引き起こす引き金になるということ。 │      
│②割れた窓を放置していると、人の目が及ばない場所であると受け取られ、│      
│ 小さな犯罪を誘いやすく、それがエスカレートしていずれ大きな犯罪に │      
│ つながる。                                                       │      
│                                                                   │      
  
  いわゆる「割れ窓理論」として有名である。
  ★
 思い出すことがある。
 80年代の初めに、中学校で「校内暴力」が荒れまくったことがあった。
 当時、教研集会で中学校を訪れるとき、しばしば教室に入って驚くことがあった。
 何とも殺風景で、本当にここで生徒たちが勉強しているのであろうかと疑わせるものだった。
 もちろん、中学校が小学校と違うということも分かる。
 だから、掲示物も違ってくるというのも分かる。
 でも、あまりにも人間の匂いがしないのである。
 何か特別教室という感じであった。
 この殺風景さは、きっと「校内暴力」につながっているにちがいないと、当時思ったものだ。
 ★
 「割れ窓理論」の教えるところは、人は身の回りのささいなことに影響を受けやすいものだということ。まずは、身の回りの小さなことに気を配らなければいけないということだったと思う。
 ★
 今回2月、3月に行った初任指導研修会で、私が最後に伝えていった「初任者として大切にする5ヵ条」がある。
 1 挨拶は自分からすること
 2 スタンスをしっかり
 3 公私の区別をつけること
 4 教室の整理整頓
 5 時間管理に気を付ける
  「公私の区別をつけること」で、初任者に聞いた。
 「職員室の自分の机は、公的なものですか私的なものですか」「教室は公的な場所ですか私的な場所ですか」「自分の部屋は公的な場所ですか私的な場所ですか」
 私は、公私の区別をすることはとても大切なことだと思っている。
 公的な場所は、こざっぱりと片付けておくこと。
 私的な場所は、どうなっていても一向に構わないこと。
 このように初任者には話したのだが、私たちはこの「公的な場所」を勘違いする。
 私もまた若い頃は勘違いしていた。
 公的な場所は、他者もまた過ごす場所である。
 自分一人の場所ではない。
 職員室の中の自分の机も、決して私的な物ではない。
 たまたま自分のスペースとして割り当てられている物にしか過ぎない。
 ★
 「荒れる」のは「授業」とか「学級経営」だけではない。
 何気ない小さなところから「荒れ」始めていくのである。
  

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デジタル教科書なのだ!

   愛知の玉置先生から「啓林館デジタル教科書 体験版」を送ってもらった。
 玉置先生は、先日「玉置流学校が元気になるICT活用術」(プラネクサス)という
本を出されたばかりなのだ。
 「味噌汁・ご飯」授業に最適なものではないかとコメントが入っていた。
 すぐに見た。
 びっくりした。
 先日、このブログでも三重の中林先生が「実物投影機で教科書を拡大するだけでも
授業をおもしろくすることができますよ」と言われたことで、実物投影機はぜひとも教室の中で日常的に使っていく必要があることを強調した。
 ところが、このデジタル版は、すでにこの教科書が拡大されているのである。
 ボタンを押せば、自動的にページがめくれる。
 部分的にページの拡大ができる。
 書き込みをしたいならば、ペンが使える。
 もうこのような段階まで開発されているのである。
 今までは、教科書を拡大機で一々拡大させて使っていたのが解消される。
 横浜などは、どの教室にもでっかいテレビが設置されているので、パソコンさえあればすぐに操作できるということになる。
 おそらくすぐにどこの教科書会社も、このような「デジタル教科書」を作り出すに違いない。時間の問題だ。
 そうすると、大きいテレビがないところがどうするかということになる。
 これについては、解決法はあるのであろうか。
 プロジェクターを使っての操作になるのであろうか。
 ここらあたりが私にはまったく分からなくなる。

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「包み込み法」ということ

   東京書籍の5年の4月音読単元「だいじょうぶ だいじょうぶ」は、とても印象に残る物語である。
 2回ぐらい読んで指導計画を作るつもりが何度も読んでしまった。
 この物語は、おじいちゃんとぼくが登場する。
 二人はいつも散歩しながら、おじいちゃんの案内によって、まほうにかかったみたいにどんどん視野がひろがっていく。
 でも、新しい発見や楽しい出会いが増えれば増えるだけ、困ったことやこわいことも増えてくる。
 けれど、そのたびにおじいちゃんが「だいじょうぶ だいじょうぶ」と助けてくれたのである。
 おまじないのように。
 そして、ぼくはずいぶん大きくなり、歳をとったおじいちゃんに、子供の頃のお礼に
おじいちゃんの手を握り、「だいじょうぶ だいじょうぶ」と声をかけていく。
 そんな物語である。
 ほのぼのとした、素晴らしい作品。
 ★
 この物語を作ったいとうひろしさんは、最後の作者の言葉の中で、この作品ができたモチーフを語っている。
 初めて生まれてくる子供。親になる自信がない時に、ほしかったのは、「だいじょうぶ、なんとかなるさという自信でした。根拠のない自信でした」と書いている。
 おじいちゃん、おばあちゃんから育てられたといういとうは、二人といっしょにいると、とても安心できたと言う。

「例えば、泣いて帰ってきた時です。今の親なら、どうして泣いているのかを問いただすでしょう。誰かにいじめられたのかとか、どこかけがでもしたのかという具合です。だけど、おじいちゃんやおばあちゃんは違いました。泣いている孫をみつけると、おお、かわいそう、かわいそうと、だきよせてくれました。涙をそのまま、受け止めてくれました。
 そこには理屈はありませんでした。泣いているぼく、苦しんでいる私への共感しかありませんでした。でも、それだけで充分です。ぼくらは、自分を守ってくれる人がここにいると確信できました。この人といっしょならだいじょうぶだと思えました。まったく根拠がありませんでした。
 ぼくたちは、おじいちゃんやおばあちゃんのようにはできません。でも、子どもたちが、いつでも最後には、うん、だいじょうぶって思えるような、親になれたらうれしいねと思いました。」
  ★
 教師は、とてもおじいちゃん、おばあちゃんのようにはできない。

 でも、意識的ならこの共感はとりえるはずである。

  私たちは「横糸を張る」と言っている。
 子供たちとの心の通じ合いをする。
 そのためには、このおじいさん、おばあさんの共感である。
 ある音楽の時間に、同学年の男の子が暴れていると呼ばれて行ったことがある。
 私とは馴染みの男の子だった。
 ケンカになって暴れていたのであった。
 私はその時ただただ「○○君、大丈夫だ、大丈夫だよ」と手を握っていただけだったが、そのうちにすっ~~~と気持ちが落ち着いてきた。
 余計な事を言わないで、ただただそうしていただけだった。
 そのことを思い出した。
 「包み込み法」と言っている。
 余計な事を言わないで、ただただ共感をし、味方になってあげることである。
 
 
 

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「味噌汁・ご飯」授業の授業づくり

   「味噌汁・ご飯」授業としての「授業づくり」(国語物語文)をしている。
 短時間に、すばやく作っていくことをモットーに挑戦している。
 今日は、東京書籍(東書)の5年単元「だいじょうぶ だいじょうぶ」。
 4時間分の音読単元である。
 まず、指導書を読む。
 私たちは、教科書や指導書に沿って作ることを心がけている。
 そうしなければ初任者は授業づくりができない。
 最初から教科書や指導書から離れて独自の教材を持ってくることなどできない相談である。
 ★
 4時間分の「音読単元」という表現をしている。
 学習指導要領の「読むこと」の目標は調べてみると、6つ。
 その1つを「音読単元」と名付けている。
 目標が高学年の場合「ア自分の思いや考えが伝わるように音読や朗読をすること」となっている。
 それとセットになっているのが、「読解」することを目標にしていて、「場面読み単元」と名付けている。
 その2つがほとんどの物語の単元目標になっている。
 だから、私たちはその2つの単元の流し方のモデルがあれば、そのモデルですぐに指導計画が作れるはずだと考える。
 ★
 この「だいじょうぶ だいじょうぶ」の単元も音読単元である。
 4時間分というのは、厳しい時間であるが、仕方がない。
 その4時間分で指導計画を作る。
 「音読単元」のモデルは、音読発表会をメインとする単元である。
 そのように組み立てればいい。
 ★
 指導書を読む。
 単元目標などを確認する。
 東書の指導書を読んでちょっと驚いたことがある。
 私は、37年間ずっと光村の教科書を使ってきた。
 だから、光村の指導書は分かっている。
 しかし、東書の国語指導書は初めて見ていることになる。
 驚いた。
 すごく分かりやすい。
 これははっきり言っておきたいのだが、光村の指導書と格段の差だ。
 光村は、ぐじゃぐじゃ書いてあって、初任者はそれを読むだけで精一杯であろう。
 とても授業をイメージできない。
 だが、東書の分かりやすさは格別。
 私はなるほど、なるほどとすっと入ってきた。
 ただ、初任者にはどうであろうか。
 これでもなかなか授業のイメージは湧かないかもしれない。
 中堅やベテランの先生にとっては、とても参考になる指導書である。
 本来ならばこうなくてはならない。
 どうして光村の指導書はあんなにわかりにくいのであろうか。
 私は光村に親しい知り合いが何人もいるのであるが、これははっきり言っておかなくてはならない。
 私が国語について素人だから余計に分かることかもしれない。
 ★
 それにしても、こうした「授業づくり」が楽しいというのは何ということであろうか。
 現役の頃に、こんな思いになっていればもう少し「授業づくり」の腕があがったのかもしれない。(笑)
 「味噌汁・ご飯」授業・学級づくり研究会(非公開)のメンバーにはぜひとも短時間でトントンと授業づくりができる力量をつけてもらわねばならない。
 そのためには、どんな準備が必要なのか。
 その論議を繰り返ししなければいけない。

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6月4日の東京明日の教室の講座案内です

 愛知の玉置先生の仕事日記には、このようなことが書かれていた。
  http://www.enpitu.ne.jp/usr9/98434/diary.html

 2005年05月19日の仕事日記には、大村はまさんのこんな厳しい言葉を記録しているじゃないか。

 「熱心と愛情、それだけでやれることは、教育の世界にはないんです。子どもがかわいいとか、よく育ってほしいとか、そんなことは大人がみんな思っていること。教師としては、人を育てる能力、教師の教師たる技術を持っていなければ困る。熱心、結構。いい人、当たり前。悪い人であったら、たまったものでない。なのに、教師の世界では、いい人ということがかなり幅を利かせている。ほかの社会では仕事の能力と切り離して、いい人をここまで尊重はしないのではないか。技術を忘れたただのいい人では困るのです」

 人を採用する立場となった今、この言葉の重みをつくづく感じている。 

  ★
「熱心と愛情、それだけでやれることは、教育の世界にはないんです」と大村はま先生はきちんと言われている。
それでも「熱心と愛情」でやれると勘違いしている若い教師はかなりいる。
はま先生が強調されている時代よりも、もっともっとそんなもので教育の世界は乗り切っていけない時代になっているのに、である。
 ★
 私は、今年の2月から3月にかけての5回の初任者講座で、勘違いをするなとずいぶん強調したはずである。
 それでもなかなか通じない。
 ある場合、彼等に顰蹙を買ったのかもしれない。
 ほとんどの初任の先生たちは、「熱心と愛情」に思いを込めて教師に憧れてきたからである。(それは決して否定することではないのだが)
 ★
 6月4日(土)に東京明日の教室で講座を開く。
 2月に引き続いての講座である。
 この講座では、2つのことを行う。
 1つは、学級の荒れの始めをつかみ、学級の荒れを回復する処方箋を把握すること。
 2つ目は、「味噌汁・ご飯」授業の提起と実践である。
 「熱心と愛情」とはまったく違う「教師の教師たる技術」である。
 興味のある先生は参加してください。
 申し込みは、次のところで行ってほしい。

 http://asunokyosi.exblog.jp/ 

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ああ、学級会!

   秦先生のブログに、学級会のことについて書いてある。
   http://dousureba2.blog.so-net.ne.jp/

 この学級会について聞くと、私の気持ちが穏やかでない。
 現役時代にある授業研究会に参加したことがある。
 特活の研究会である。
 全部のクラスが、学級会をやっていた。
 しかし、全部のクラスがひどい。
 ほとんどがどうでもいい議題をネタにして授業をしている。
 子供たちの表情は、もうやめてほしいと言っている。
 しかし、全体会の話し合いでは、その授業を誉めていこうとするのである。
 私はカチンときて、反対意見を言った。
 あんな学級会を誉めて、どうするのだろう。
 みなさんからおおいに顰蹙を買ったはずである。
  研究会は、せっかく授業研究会をやってくれたのだから、「ご苦労さん」と声かければ済むというようなものだったのである。
 そこに噛みついたものだから、まあ顰蹙を買うはずである。
 私の気持ちが穏やかではないというのは、学級会が消えていこうとしているからである。
 現場では、ほとんど学級会が行われなくなっている。
 学級会をやっている先生は、一部の特活の先生だけになっている。
 しかも年に数回。
 私は学級会は必要なことだと思っている。
 クラスを集団化していくには、どうしても必要な手立てだと思っているからである。
 ところが、現実にはなかなかこの学級会を持てないようになっている。
 そこが大きな問題である。
 秦先生のブログには、次のように書かれている。
  ★

  学級会という言葉は、現場でまだ生きている。
しかし、学習指導要領にあるのは「学級活動」だけである。しかも登場回数は7回しかない。
一方、学習指導要領解説「特別活動編」には「学級会」という言葉は登場するのである。
19回登場する。
このへんの未整理が、現場に混乱をもたらしているのかもしれない。
●学級で係を毎年つくるが、ほとんど活動しない。あるのは、係名が書かれた画用紙だけ。
●話し合い活動はするが、ほとんどが喧嘩の後処理。司会を立てた話し合いではない。
●代表委員会からおりてくる議題を話し合うので精一杯(高学年)。
●リーダーが不在で話し合いが成立しにくい。運営もとても子どもに任せられない。
●学級会は一応開くが、子どもたちは意見も聞かずにすぐに多数決をとろうとする。
・・・このような現状が、現場にないと言い切れるだろうか。
野中信行先生は、「新卒教師時代を生き抜く・学級づくり3原則」で「ちょこちょこ
学級会」を提唱されている。具体的な方法論にも言及させれている。若い、先生は是非
参照して頂けたらと思う。

私は、敢えてこの「学級会ができない」という問題について「教育課程」という視点から迫ってみたい。まあ、学級会ができないのか、学級会を開きにくい状況なのかという
言葉の問題もあるが、いずれにしても野中氏の言葉を借りるなら「学級会がひらかれなくなっている」ということである。
「教育課程」という視点からみたとき、学級活動に与えられた標準時数は年間35時間
である。
この35時間ですべきことが学習指導要領に網羅されているので、それを転記する。
学習指導要領には法的拘束力がある。従って、これらをきちんと指導計画に位置づけ、
確実に実行しなければならないのである。
しかし、実際にはさらに厳しいしばりがある。児童会活動だ。
下に示されたことをした上で、児童会に関する話し合いに関することも盛り込まなければならないのである。
次回、具体的な解決策を模索してみたい。
 ★
 私は、秦先生が言われるように「ちょこちょこ学級会」を提唱している。
 繰り返しになるが、クラスを集団化するにはもってこいの手立てである。
 初任のクラスで、この学級会を行って、どれほど効果的か自分の目で確かめている。
 しかし、よほど意識しなくては学級会が開けなくなっているのも確かに事実なのである。

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教室を笑いの渦に巻き込む本

 笑いを教室で起こしていく。
 これは学級づくりでは、とても大切なことである。
 ところが、苦手である。
 とくに、若い先生たちに苦手な人が多い。
 私は、「3・7・30の法則」の「3」では先生の得意なもので惹きつけていくことが必要だと言っている。
 しかし、初任の女性の先生たちには、とくに得意なものがない…と。
 そこで、初任者指導の講座では、どこでも中村健一先生の本を薦めてきた。
 
 「子どもも先生も思いっきり笑える73のネタ大放出」(黎明書房)
 
 この本は、アマゾンの学級運営部門では、常にベスト5に入っている。
 それだけ皆さんが必要にしているのである。
 この本は、とても重要な一石を投じていると私は思ってきた。
 ★
 中村先生は、このネタを「3」の間に11ぐらい子供たちにぶつけると聞いたことがある。
 教室を笑いの渦に巻き込むのであろう。
 これといって得意技がない先生は、ちょっとしたすきま時間にこのネタで迫った方がいい。
 私は、そのように初任の先生たちにここ2,3年は必ず紹介している。
 ★
 私の親しい知り合いの先生が、同じような本を出した。
 東北石巻の佐々木潤先生だ。
 
 「一日一笑い!教室に信頼・安心が生まれる魔法のネタ」(学事出版)

 授業づくりネットワークでは有名な先生である。
 笑いにかけては、中村先生と佐々木先生は、双璧であろう。
 笑いが得意でない先生は、ぜひとも参考にしてほしい。

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変化球はなぜ投げるのか?

   また、三重の津に行った。先週に続いてである。
 前日に一泊して、朝の10時から2時間、5年次研修の講師である。
 先週は雨が降っていたが、今回は晴れ渡っていた。
 津を少し散歩してみたが、いいところである。
 街並みが広くて、のびのびしている。
 人びとがゆったり歩いている。
 そこが東京や横浜とは大きな違いである。
 おみやげ売場のおじさんに教えられて、夕食はウナギを食べた。
 油濃くなくて、さっぱりしたウナギであった。
「ああ、九州のウナギと同じだ」と思った。
 郷里の佐賀では、これと同じウナギを食したことがあったのである。
 なつかしい味。
 三重は、ウナギの消費量が日本一だと指導主事の先生から聞いた。
 なるほど、なるほど。
 ★
 5年次研修の今回の参加者は、180人。
 ぎっしりとホールに詰まって座っておられる。
 実は、狭いところにぎっしりと詰まっているのがやりやすいのである。
 だだっ広いところにぱらぱら人が座っているところで講座を開くことほど困難なことはない。
 5年の教職経験を終わり、6年目に入っている先生方。
 私の話に食いついてくる先生。ほとんど興味を示さない先生。……さまざまに分かれる。
 食いついてくる先生は、今までの5年間の中で苦労してきた先生であろう。
 だが、6年目の先生たちの多くは、若さにものを言わせて突き進んでいるのであろう。
 若さとは、ときに鬱陶しいものである。
 根拠のない自信とあふれ出る情熱みたいなもので何でもできると勘違いをしてしまう。
 私もそんな20代を過ごしてしまったことがある。
 ★
 楽天の監督だった野村監督が、「野村ノート」で書いている。
「変化球は何のために投げるようになるのか?」とピッチャーに問う。
「相手に的を絞らせないために」と答える。
「それもあるだろうが、ピッチャーとして長生きするためだ」と答える。
 そんなやりとりだったと思う。
 直球だけで勝負していたピッチャーが、ある歳になって変化球を覚えていく。
 それは長生きするためであると、野村は言う。
 6年目の先生たちも、今は直球を投げて、それで十分通用するので自信満々。
 だが、いつか必ずその若さが通用しない時がくる。
 そのときにすぐに変化球を投げられるように準備しているのだろうか。
 ★
 ある学校での体験である。
 初任者指導として1年間いた。
 元気な若者達が何人もいた。
 休み時間になると、運動場に飛び出していって子供たちと遊んでいた。
 それはそれで好ましいことであった。
 ところが、その若い先生たちの教室や職員室の机はぐちゃぐちゃで困った状態。
 研究会では、何も持ってこなくてメモさえもしない。
 ほとんど人に学んでいこうという姿勢を見せないのである。
 2年から5,6年を経過した先生たち。
 学力が高い子供たち(塾へほとんど行っている)なので、学習ではそんなに苦労はしていないのであろうか。
 おそらく情熱とかやる気とかあれば、何とかなると思っているであろうと考えられた。
 いずれそんなものは失せていくのが分かっていない。
 「アリとキリギリス」の話を思い出す。
 ★
 三重は広い。
 何時間もかけて朝早く山奥からかけつけた先生もいる。
 島から船でかけつけた先生もいる。
 そういう6年目の先生たちもいる。
 私の話に一々メモを取られている。初めて聞く話であろうか。
 こういう先生たちに、私は必死になって話す。
 手を抜かない。
 講演が終わった後に、休憩室に2人の先生が訪ねてこられた。
 1人は、困っている子供を席替えでどこにしたらいいかという問いかけ。
 もう1人は、宿題を出すときの原則みたいなものはあるのかという問いかけ。
 これはこれで大切な課題である。
 ★
 私は自分に課してきた原則みたいなものがある。
 教師にとって最も価値があるのは、教室の地べたで悪戦苦闘する子供たちとのやりとり、関係づくりなどの学級づくりや授業づくりなど、これである。
 これをはずしたり、いい加減だったり、他のことに置き換えたりすることは、もうまったく価値がない行為であると思ってきた。
 だから、「普通の教師」が教室で悪戦苦闘して子供たちと渡り合う、その行為のなかに教師の喜びも悲しみも見付けられなければ、そんなものは何の価値もないと思い決めてきた。
 たまたま私は本やブログなどでこうして発信する立場にいるが、その発信する視線はいつも普通の教師の日常の教室である。
 そして、発信する言葉は、自分が教室の地べたで悪戦苦闘して身に付けてきた方法である。3・7・30の法則も、学級づくり3原則も、「味噌汁・ご飯」授業も、……「普通の教師の日常」に向けた言葉である。
 その場所だけが、もっとも価値ある場所だと思い決めてきた。
 山奥の学校で子供たちと渡り合い、がんばっている先生。
 島の小さな学校で悪戦苦闘している先生。
 ……………
 その先生たちの「日常」に届く言葉。その先生たちの「日常」が豊かになる言葉、方法。
 そんなことのために発信してきたのである。
 
 
 
 
 
 

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日常授業の改革のために

 玉川大学教職大学院教授の堀田龍也先生からフェイスブックでコンタクトがあった。
 堀田先生は、ご存じの情報教育の第一人者である。
 私は早速堀田先生に連絡した。
 札幌の山の手南小が、日常授業について重点研のテーマにして取り組んでいることには堀田先生の助言があったと聞いたこと。
 私も、同じように「味噌汁・ご飯」授業として日常授業の改革に取り組んでいること。 そのようなことを連絡した。
 早速堀田先生から連絡が来て、自分はICTをとっかかりに日常授業の改革を提言しているけれども、日常授業に目を向けない限り授業改革はできない旨の内容が書かれてあった。 
 ★
 力強い支援の声であった。
 「日常授業」に目を向けていくのはまだまだ少数派なのである。
 今までの教育界は、ほとんどが「ごちそう授業」をどのように作るかに精力を注いできたと私は考えている。
 全ての教師たちが毎日毎日日常授業をしているのに、その授業を対象化してこなかったというのはおかしなことだと、誰でもが考えるに違いない。
 でも、今までは考えてこなかった。
 なぜか?
 このテーマを考えていくと今までの教育界のさまざまな問題が見えてくる。
 私はその問題をまだうまく把握していない。
 ★
 私たちが進めている「味噌汁・ご飯」授業も、どこかでICTをドッキングしていかなくては前には進めないと思っている。
 もう黒板とチョークで進めていくには限界がある。
 それは、子供たちが「聞く」から「見る」世代に変わっているからである。
 子供たちは「見る」ということを中心にして生活のほとんどを成立させてきた世代なのである。
 そのことを念頭において私たちの授業も構成していかなくてはならないのは当然のことである。
 私はICTは苦手であるが、もはやそんな段階ではない。
 パソコンを使えない教師がもはや現場では通用しないように、ICTを使えない教師は、もう現場では通用しないようになるはずである。
 ★
 三重の中林校長先生が言われたことがある。
 「野中先生、拡大投影機を使って教科書を拡大し、教科書の文を隠して、ここに何が 入るのかを考えさせていくだけでも十分授業として成り立つのですよ」
 そのとき、なるほどなあと思ったものである。
 拡大投影機は、ICTレベルのものではないが、私が訪問した山の手南小には皆さん教室に備えていた。何人かの先生たちは自費で購入されていたと聞いた。
 効果抜群のものらしい。
 これさえも現場で使っている先生たちはまだまだ少数である。
 これがどんなに便利なものか、現場はまだまだ知らされていないからである。
 電子黒板もまた、これから本格的に導入されていかなくてはならないであろう。
 

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困ったときにも<シメタ>を見つける発想法

   昔からの友人が「たのしい授業」(編集委員会/代表 板倉聖宣)を送ってくれる。
 仮説実験授業の雑誌である。
 若い頃は、この授業を行っていったこともあったのである。
 ★
 この代表が板倉聖宣先生。
 昔、雑誌「ひと」の編集委員をされていた方でもある。
 もう80歳前後の歳ではないだろうか。
 一度だけ間近でお会いしたことがある。
 三原色のキミ子方式を習いに行った時のこと。
 松本キミコさんから実際に教えてもらう講座であった。
 その時に板倉先生が見えて、私の絵をガムテープで貼り付けるときに手伝ってもらったことがある。
 ガムテープがうまく貼り付けられなくて、板倉さんが「もう一度やり直そうか」と言われたとき「もうこれでいいです」と言ったのである。
「私ならもう一度やり直すけどね」と言われてしまった。
 私はズキッと心痛んだ。
 私のいい加減さを厳しく指摘されたように思えたのである。
 今でもこのことはよく覚えている。
 ★
 「たのしい授業」5月号に板倉先生が書かれていたことがとても印象に残った。
 今回の大震災で3月27~28日の<東日本たのしい授業フェスティバル>が中止になりそうなときのこと。
 板倉先生は書かれている。

 何か困ったことに出会ったとき、多くの人びとは、ただ嘆き悲しむことしか出来なくなります。そんなとき私には、日ごろ自分に言い聞かせている一つの<発想法>を思い起こします。「困ったときには、きっとシメタと思えることがあるものだ。その困ったことを利用して<シメタ>と思えることを見つけ出して一歩を踏み出すといい」というのです。それなら、今回の大震災という困難に当たってその発想法を応用して考えたら、どんな<シメタ>が見つかったでしょうか。

 このシメタを利用して、次のように考えられていく。

 そこで私は、フェスティバルをやるかどうかを検討する席で「<フェスティバル>の開催は断念するにしても、その会場が使用不能になったわけでもないし、その日会場に来ることのできる人びともかなりいるはずです。そこで<今回の大震災に対処する教育問題についての緊急研究会>を実施したい」と提案したのです。

 結局、150名の人たちが集まったというのである。
 とても示唆的な話である。
 板倉先生もがんばっておられるのだ。
 私もがんばらねばと思った次第である。

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ファシリテーション入門

   ファシリテーションについて勉強しようと思い、岡山洋一「ファシリテーション入門」(明日の教室DVD カヤ出版)を取り寄せて見た。
 これが素晴らしかった。
 京都明日の教室で行われた講座を集録されたものである。
 岡山さんのことについてはさまざまなところで講座を設けられているので、よく知るところであったが、今回初めてその講座を見たのである。
 実は、私が呼びかけて作った「味噌汁・ご飯」授業・学級づくり研究会(まだ非公開)でもこのファシリテーションを導入しようと模索している途中である。
 早速岡山さんにフェイスブックで連絡をした。厚かましいのが私の取り柄である。
 お薦めの本を紹介してもらえないかという連絡である。
 岡山さんからもすぐに連絡がきた。
 これから会議や研究会を変えていこうと考えている人にとっては、このファシリはお薦めである。その第一人者がお薦めされている本である。私だけではもったいないので、このブログに公開したい。
  
「 ファシリテーションの本では、堀公俊 『ファシリテーション入門』 日経文庫は、入門書としては一番よくわかりやすいです。
中野民夫『ファシリテーション革命 参加型の場づくりの技法』岩波アクティブ新書もお勧めです。ワークショップの作り方、進め方がわかります。
また、学校関係でしたら、岩瀬直樹・ちょんせいこ『よくわかる学級ファシリテーション 信頼ベースのクラスをつくる 1 』
解放出版社もお勧めです。
学校教育にも、ファシリテーションが入ってきましたね。
今後ともよろしくおねがいいたします。 」
 ★
 もう一度強調しておきたいが、ファシリに興味がある人は、絶対に岡山洋一「ファシリテ-ション入門」を見た方がいい。
 http://sogogakushu.gr.jp/asunokyoshitsu/dvd_1.htm
 
 本で読むよりも絶対に分かりやすい。
 私も、ここで「『味噌汁・ご飯』授業の提案」と「学級経営に関する縦糸・横糸論」のDVDを出している。これが私の原点である。

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道具類には凝っている

   中林先生からシャープペンシルをいただいた。
 使ってみてびっくりした。
 これは今までの私のシャーペンの常識を変えるものであった。
 私は筆圧が強いので、今まではいつもシャーペンは苦手であった。ポキポキすぐに折れてしまう。
 だから、鉛筆派。
 ところが、中林先生からいただいたシャーペンは、折れない。
 すごい。
 PenteLのタフ。
 ★
 こういう道具類には凝る方である。
 普通はボールペン派である。
 今は、UNIのJETSTREAMを使っている。もちろん4色である。
 すこぶる調子がいい。
 替え芯まで買い込んで、使い続けてもう3年ばかり。
 ノートは、Cornell Method Note。
 アメリカのコーネル大学で開発されたもの。
 これも使い出したらとても便利なものだということが分かる。
 

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日常授業のレベルアップをしよう

   愛知の「教師力アップセミナー」に招かれた。
 これで2回目になる。
 朝の4時過ぎに起きて、新横浜から新幹線で名古屋まで行き、そこから電車を何本も乗り継いで小牧の駅に着いた。
 かなり早く着いてしまったので、駅前のホテルでコーヒーを飲む。
 私の本をキャリーカーに積み込んでいるので、かなり重い。
 野口芳宏先生も、いつも自分の本やDVDをこのように運んでこられる。
 最近は、私もマネしている。
 だが、始まる前にほとんど全部売り切れてしまった。
 ★
 10時の開会。
 150部資料を印刷したという。
 ところが、足りない。
 だから、全部で200人ぐらいの先生方がみえたことになる。
 小牧中学校の会場は、溢れるほどにいっぱい。
 主宰者の大西先生に久しぶりに会う。相変わらず元気そのもの。
 小牧市の前教育長の副島先生も見える。緊張する。
 太郎生小学校の柘植先生、名古屋の長崎先生、野田先生など知り合いがいっぱい。
 ★
 テーマは、「日常授業のレベルアップをしよう」~「味噌汁・ご飯」授業の実践~。
 今まで「味噌汁・ご飯」授業・学級づくり研究会で研究していることを話す。まだ、途中経過のこともある。
 教育界には、今まで「日常授業」を意識的に対象化しようとする発想がなかったことを具体的に話す。
 後半は、「味噌汁・ご飯」授業として音読(5分)と音読発表会の練習を模擬授業形式で行ったが、何せ200人の先生たちであるので空回り。
 この講座は、せいぜい30人程度のものだった。
 ★
 小牧へ向かう電車の中で、次の言葉を見付ける。

 「自ら切り拓いた道を走る人だけ、見つけられる景色がある」

 「味噌汁・ご飯」授業の提案に、新しい景色を見付けられるのだろうか。
   
 

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点を線へ

   三重県の教育委員会から5年次研修の講師として呼んでもらった。
 今週と来週の2回の講座になる。
 今週は100名の講座。来週は180名の講座。
 前日から講座がある津に泊まり込みである。
 そこで前太郎生小学校の中林先生たちとお会いした。
 私は、ワクワクしながら出かけた。
 あの太郎生小学校である。
 もはや閉校になっていて今はない。
 私にとっては伝説とでも言っていい学校なのである。
 その先生たちにお会いできるということ。
 こんな楽しみなことがあろうか。
 ★
 津のホテルがある側の料理店でみなさんとお会いした。
 中林校長の現任校からも一人の先生が見えていて、全員で5人の先生が集合された。 一人一人が私の本を買っていて下さって感激。
 お酒も進んだ。
 皆さんが勉強家で、どうしてこのような先生たちが中林先生の周りには集まるのか。
 それとも中林先生が育てていくのか。
 その夜は、中林節が冴えに冴え渡った。
 ★
 人と人との出会いのうれしさは、格別である。
 もし私が本を出していなくて、ブログを出していなかったならば、こんな出会いはなかった。
 中林先生にも会えなかったのである。
 私は、中林先生に「点を線にしましょう」と呼びかける。
 一人一人がぽつぽつと点でいることを線につなげていく試み。
 それは始まったばかりなのかもしれない。
   
 

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「水」を求めている!

   初任者指導をしている時に、ある高学年のクラスに一日入ったことがあった。
 そのクラスの先生がお休みになり、どうしても私しか余裕がある教師がいなかったから頼まれたのである。
 そのクラスに入って朝の会が始まっても、日直は出てこない。
 「早く始めなさい」
と指示をしても、日直はぐずぐずしてやっと出てきた。
 日直が進めることもぐずぐずしていて、なんとももどかしい。
 ★
 結局、そのクラスは崩壊寸前の状態であった。
 3月のある日のことである。
 すぐに私は担任の先生は大丈夫だろうかなと、そのことが心配になった。
 こんな状態では、きっと担任の先生の心がやられている恐れがある。
 授業中、廊下を通るときにはこんなにひどい状態になっているとは気付かなかった。
 一応、席に着いて座ってはいたのである。
 子供たちの問題は数多く発生していたのであるが、こんなにひどい状態とは周りも気付かなかったのであろう。
 ★
 何が問題だったのか。

 1 私が出す指示にすぐ動いていく子供が3,4人。あとはほとんどすぐに行動できない。指示に対する反応が極端に遅い。
 2 整列ができない。2列に並んで歩くという基本的なことができない。
   給食を取りに行くときでも、2列に並んでいけない。ほとんどばらばらになる。
 3 授業中、5,6人の男の子たちが思ったことを勝手にしゃべり出す。授業がしばしば中断する。
 
  挙げていけばきりがないが、1時間の授業を終えればぐったりなるという状態。
 やんちゃがいっぱいいる1年生の最初の状態に似ている。
 私も、そういう1年生のクラスを受け持ったことがあるが、その時の状態にそっくりである。
 ★
 学級にルールが生きていない。
 力が強い子供が、やりたい放題である。
 この学年は、前学年のときに1クラスが学級崩壊になっており、その流れを引きずっていたのであろう。
 「群れ」のままで1年間を過ごしている。
 「集団」になることがついにできなかったのである。
 ★
 こんなクラスが増えているのではないだろうか。
 このクラスは、決して学級崩壊にカウントされることはない。
 しかし、状態はほぼ崩壊状態なのだ。
 「群れ」のままで1年間担任はよたよたと何とか凌いでいく。
 おそらく、こんなクラスが増えている。
 初任者だけではない。
 中堅教師も、ベテラン教師も、「クラスがうまくいかなくなった!」とぼやきながら「早く1年終わってくれないかな!」と願いながら何とか凌いでいく。
 学校の現場は、こういう声で溢れている気がする。
 ★
 教師たちは、「水」を求めている。
 自分の壺に「水」が入ることを求めている。
 意識していないで、無意識な状態もある。
 壺の中は、干からびている。
 どうしてその「水」を自分の壺に入れていけばいいか分からない。
 私は、長い間現場で生活しながら普通の先生たちの様子をそのように表現している。
 もちろん、私もその「普通の先生」の一員であったから。
 ★
 だが、教育界はなかなかその教師の要求に応えていくことができなかった。
 教育界で論議されてきたのは、「その壺の形が悪い。壺の形を工夫しなければいけない」「壺の色が悪い。色を変えていかなくてはいけない」「壺への水の入れ方が悪い。」「もう壺自体が時代に合わなくなっている。壺を他の入れ物に変えていかなくてはならない」……ということである。
 教育の未来を作るためには、全て必要な論議である。
 それはなされなくてはならない。
 でも、多くの現場の教師たちが求めているのは自分の壺に入れる「水」である。
 水がなくて、干からびている。
 どんどんその干からび方はひどくなっているように思う。
 
 
 
 
 

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かつてあった倫理観の喪失

   知り合いの友人の教師が学校を異動した。
 6年生の担任と言う。
 こういう人事も、今でこそありふれたものになったが、以前ならば絶対になかったことである。
 肝心な人事は、現有の教師たちでまかなっていくというのは当たり前の倫理であったはずである。
 おまけにその6年生のクラスは、最初から荒れまくっているという。
 そのクラスに問題のある子供たちを集めているらしい。
 こんな人事があるのであろうか。
 おそらく当たり前の倫理をかなぐり捨てているのである。
 新しく異動してくる教師にとって、当然今までの子供たちとの関係ができていない。
 これは大きな壁である。
 だから、新しく異動してきた教師には、普通の教室を持たせていく。
 これが当たり前の倫理である。
 ところが、そうではなく、異動してきた教師にこんな大変なクラスを持たせていくという倫理感とは一体何であろうか。
 ★
 かつて仙台で東北福祉大学の上條晴夫先生とお会いしたとき訪ねられたことがある。
「野中先生、最近学校では問題があるクラスを現有の先生たちが持ちたがらなくなり、そのクラスを異動してきた先生たちに持たせていこうとするということを聞いたのですが、ほんとうですか?」と。
 ほんとうである。
 ますますそのような傾向が増している。
 ★
 ただそういう人事をする校長に対してはいささか同情するところがある。
 要するに、手持ちの人材がいないのである。
 たとえば、高学年を持てる教師たちが限られてきている事実がある。
 実際には、どんな教師もどこの学年を担任してもいいはずである。
 ところが、高学年を持たせたら確実に荒れてしまうという教師は、当然校長は最初から避けていく。
 そうすると、高学年を持ってもらう教師は限られてしまう。
 高学年を担任するということは、特別な仕事になっている。
 私は、高学年担任に管理職並みの特別手当を支給すべきであると主張している。
 せめてそのような報酬で報いるべきであると思っている。
 身を削るような思いで担任をしている教師たちがいっぱいいるのである。
 もちろん、地方ではそんなひどいことにはなっていないであろうが、主要都市圏での高学年担任は大変である。
 今、学校を異動する教師たちは、高学年の経験を持っていれば必ず高学年の担任に回されていく。これは覚悟しなければいけない。
 学校にかつてあった倫理感をかなぐり捨てなければ、学校は成り立ちえなくなっている証しであると私は思っている。

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6/4明日の教室東京分校講座

 明日の教室東京分校で2月26日(土)に今年度初任者講座を設けた。
 多くの先生方の参加があった。
 あの講座を受けて、必ずしも順調に行かない場合が出てくる。
 うまく順調にいっているのかどうか、それもよく分からないという初任の先生もいる。
 それはきちんと確認しなければいけない。
 うまく行っていないとするなら、今のうちなら大丈夫なのだ。
 まだまだ何とかなる。
 それをこの講座でお伝えしたいと思っている。
 ★
 授業のことも心配であろう。
 私は、初任の先生でもがんばっていける「味噌汁・ご飯授業」を提案している。
 どこに気をつけてがんばればいいのか、それをこの講座で提案しようと思う。
 今までずいぶんこの提案はしてきているが、更に具体化した提案になるはずである。

 第7回 明日の教室東京分校   

第5回に引き続き、野中信行先生を講師に迎えて3回目講座を開講します。前回定員の都合で参加できなかった方、野中先生の最新理論を聞きたい方、参加お待ちしています。

日 時:平成23年6月4日(土) 13:30~17:00

講 師:野中信行先生(元横浜市立大池小学校教諭)

講座内容: 

1 学級経営講座

6月になると、学級の「荒れ」が目立ってくるクラスが出てきます。でも、まだまだ大丈夫です。どこに気を付けてもう一度仕切り直しをすればいいかお伝えします。

2 授業づくり講座

普段何となく済ませている「日常授業」を変えていくことによって子供たちの学力も、先生たちのやる気も、ぐんと上がるはずです。日常授業をレベルアップしましょう。
「味噌汁・ご飯」授業として提案します。

※参加者同士のつながりづくりのために所属(学校名)と氏名を掲載した名簿を配布したいと考えています。掲載を希望しない方は申し込みフォームで選択してください。

定員 60名

参加費 一般 1000円、学生500円

講師プロフィール

野中信行先生

学級経営に力を注ぎ、数多くのクラスを鍛えてきたベテラン教師、いや、スーパーベテラン教師です。定年最後の運動会でも小学校6年生に50m走で負けませんでした。著書には、「困難な現場を生き抜く教師の仕事術」「学級経営力を高める3・7・30の法則」「新卒教師時代を生き抜く心得術60・やんちゃを味方にする日々の戦略」「野中信行のブログ教師塾 〜「現場」を生き抜くということ〜」とがあります。新任教師のバイブル的な四冊です。最新刊は「野中信行が答える若手教師のよくある悩み24」(黎明書房)、「新卒時代を生き抜く学級づくり三原則」(明治図書)、「必ずクラスがまとまる教師の成功術!」(学陽書房)です。

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言い古された言葉が 苦しみゆえに甦る

   5月3日の夜7:30からNHKの「歌でつなごう」という番組を見た。
 この種の番組を見るのは久しぶりである。
 千昌夫の「北国の春」やアンジェラ・アキの「手紙」、一青窈の「ハナミズキ」など今まで聞き慣れた曲が歌い継がれていった。
 しかし、何だろうか。
 これらの曲が、今までよりもずっと新鮮に感じた。
 「こんな歌詞だったのだ!」と改めて聴き入った。
 おそらく大震災を経験しなければ、こんな気持ちにはとてもならなかったのであろう。
 ★
 谷川俊太郎という詩人が、この大震災のあとに、次のような詩を書いている。
  (2011/5・2 5月の詩  朝日新聞)

    言葉

   何もかも失って
  言葉まで失ったが
  言葉は壊れなかった
  流されなかった
  ひとりひとりの心の底で
 
  言葉は発芽する
  瓦(が)礫(れき)の下の大地から
  昔ながらの訛(なま)り
  走り書きの文字
  途切れがちな意味
 
  言い古された言葉が
  苦しみゆえに甦(よみがえ)る
  哀(かな)しみゆえに深まる
  新たな意味へと
  沈黙に裏打ちされて 

 ★
 私が感じた気持ちを詩人はきちんと言葉にしてくれている。

 言い古された言葉が/苦しみゆえに甦る/哀しみゆえに深まる


 この詩人は「言葉」をこの大震災のなかから救おうとする。
 私たちは、何を救っていくのだろうか。

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中日新聞に本の紹介がされる!

   東海地区で発行されている中日新聞に私の本が紹介された。

 「野中信行が答える若手教師のよくある悩み24」(黎明書房)である。
 黎明書房の編集のMさんから記事が届けられた。
 記事では、「みんなの本」のコーナーで取り上げられている。
 うれしいことである。
  記事には次のように書かれたあった。

 新学期、担任が若ければ「ハズレ」と親は見なすのだとそうだ。昔は保護者らが新米教師を育てたものだが、今はわが子に有利なことにしか関心がない。その上、学校には多くの雑務があり、子どもと十分に向き合う時間がつくれない。
 若手教師が抱えるさまざまな悩みを、教員歴37年の野中信行さんがQ&A方式で応える。編集は同じく教員の中村健一さん。
 若い教員は「友達先生」が良いと思いがちだが、クラスが安全で安心できる場所であるためには厳しさが求められる。学級経営のあり方や授業づくり、学習に遅れる子や保護者の対応など、現場に即したコツを伝える。若手の実直な質問に励ましを与える野中さんの言葉に理念が見える。
  

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