もうこんな授業研究はやめよう
前回のブログで「行事消化的重点研究の終わり」を書いた。
それについて、鳥取の長谷先生よりコメントがついた。
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全く同感です。研究授業の時だけできるような打ち上げ花火のような授業は無意味です。教師の見栄だけで行われているようなものです。毎日の授業の質を上げる、使える、少ない手間でできる授業を学び(だから追試でもいいのです)公開し、みんなが取り入れる。そして、日常の授業のレベルを少しずつ上げていく。もう一つは、日常の授業での子どもの鍛えをどうするかです。ノート指導、発言指導など基本的なことを徹底していく。その方法も学ぶべきだと思います。宿題の出し方、評価の仕方なども。
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とてもうれしかった。
長谷先生のような有数の実践家にこのように評価してもらい、ちょっと勇気が出る。
「行事消化的重点研究の終わり」と書いたが、今まで学校などで行ってきた「授業研究」のあり方は一度篩(ふるい)にかけねばならないと思っている。
長谷先生は、「打ち上げ花火のような」「教師の見栄だけで行われている」授業の無意味さを書かれている。
「もうこんな授業研究をやめよう」ということだ。
長谷先生は続けて、「毎日の授業の質を上げる、使える、少ない手間でできる授業を学び、公開し、みんなが取り入れる。そして、日常のレベルを少しずつ上げていく」と書かれている。
まったく同感である。
このような授業研究にベクトルを変えていくことだ。
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今までの授業研究のあり方というのは、「憧れの授業」を追求するという方向で取り組まれてきたはずである。
そこに「名人教師」という名前が生み出されてきた。
授業では、多くの子供たちが積極的に発言し、討論し、活発に活動していく。
そこには、すぐれた教材とすぐれた発問が準備された。
そんな授業づくりに憧れてきたのである。
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しかし、「普通の教師」たちはそんな名人教師になることはできない。目指す必要もない。
一部の、寝食を忘れて授業づくりに打ち込んでいく先生たちにしか拓かれない道であった。
私たちの今までの授業研究も、このような「憧れの授業」を追求するという方向に引きづられてきた。
研究授業では、結局研究テーマなどはどうでも良かったのである。
とにかく教師たちは、「クラスの多くの子供たちが積極的に発言し(できれば討論し)活発に活動していく授業」を見に来ている先生たちに見せたいという思いであった。
でも、それが可能なのは、一部の実践家だけであった。
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私は、「もうこんな授業研究はやめよう」と主張している。
「憧れの授業」を目指さない。(もちろん、それを否定してはいない)
毎日行っている授業の質を上げていく。それで十分。
教材研究の時間がないのである。
その中でできる「日常授業の改革」をしよう。
先生たちの授業研究は、その日常授業をすこしでも向上させる手立てを互いに学ぶ研修で十分。
そんなことを主張しているのである。
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