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「入力型学習」と「出力型学習」ということ

   内田樹さんのブログは、毎回読んでいる。
 時として考えさせてくれる内容がある。
 こんなブログがあった。全文引用してみよう。
 ★
 池谷裕二さんの講演を聴く
池谷裕二さんが中之島の朝日カルチャーセンターで講演をすることになったので、ご挨拶にお伺いする。
池谷さんは講演ということをされないのだが、どういうわけか去年の11月にここで私と対談をしたときに、モリモトさんに籠絡されて、また講演をすることになってしまったのである。
ふだんは本郷の薬学部の奥まった研究室にこもって、世間に顔を出さない池谷さんを「なま」で見られる機会を得たことを私どもはモリモトくんに感謝せねばならぬ。
例によってものすごいハイスピードで、最新の脳科学の驚くべき知見を乱れ打ち的にご紹介いただく。
面白かったのは、「トム・クルーズ」ニューロンと「ハル・ベリー」ニューロンの話だったけれど、それは面白すぎるので、また今度。
忘れないうちにメモしておこうと思ったのは、スワヒリ語40単語を覚えるプログラムの話。
それをご紹介しよう。
スワヒリ語の単語40語を学習して、それから覚えたかどうかテストする。
という単純な実験である。
ただし、4グループにわけて、それぞれ違うやり方をする。
第一グループはテストをして、一つでも間違いがあれば、また40単語全部を学習し、40単語全部についてテストをする。
それを全問正解するまで続ける。
いちばん「まじめ」なグループである。
第二グループは、間違いがあれば、間違った単語だけ学習し、40単語全部についてテストをする。
第三グループは、間違いがあれば、40単語全部を学習し、間違った単語についてだけテストをする。
第四グループは、間違いがあれば、間違った単語だけ学習し、間違った単語についてだけテストをする。
これがいちばん「手抜き」なグループである。
全問正解に至るまでの時間はこの4グループに有意な差はなかった。
まじめにやっても、ずるこくやっても、どの勉強法をしても、結果は同じなのである。
ところが、それから数週間あいだを置いて、もう一度テストをしたら、劇的な差がついた。
「まじめ」グループの正解率は81%。「手抜き」グループの正解率は36%。
まあ、これは天網恢々粗にして漏らさずというやつである。
さて、問題は、第二グループと第三グループはどういうふうになったかである。
第二と第三はやったことがよく似ている。勉強に割いた時間も変わらない。にもかかわらず、大きな差がついた。
さて、どちらが正解率が高かったでしょう。
1分間考えてね。
第二グループの正解率は81%(「まじめ」グループと同率)。
第三グループの正解率は36%(「手抜き」グループと同率)。
これから何がわかるか。
「学習」は脳への入力である。
「テスト」は脳からの出力である。
つまり、脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化するのである。
平たく言えば、「いくら詰め込んでも無意味」であり、「使ったもの勝ち」ということである。
書斎にこもって万巻の書を読んでいるが一言も発しない人と、ろくに本を読まないけれど、なけなしの知識を使い回してうるさくしゃべり回っている人では、後者の方が脳のパフォーマンスは高いということである(生臭い比喩であるが)。
パフォーマンスというのは、端的に「知っている知識を使える」ということである。
出力しない人間は、「知っている知識を使えない」。「使えない」なら、実践的には「ない」のと同じである。
学者たちを見ていると、そのことはたしかによくわかる。
入力過剰で、出力過少の学者たちは、そのわずかばかりの出力を「私はいかに大量の入力をしたか」「自分がいかに賢いか」ということを誇示するためにほぼ排他的に用いる傾向にある。
せっかくの賢さを「私は賢い」ということを証明するために投じてしまうというのは、ずいぶん無駄なことのようなに思えるが、そのことに気づくほどには賢くないというのがおそらく出力過少の病態なのであろう。
むかし、学生院生たちがよく読書会というのをやっていた。
彼らはちょっとずつ頁を進めながら、これはいったいどういう意味なのであろうかと話し合い、これはどういう学説史の中に位置づけられるのであろうか、というようなことを論じ合っていた。
あのさ、読むのはいいけれど、使ってみないと、どうしてその人がそんな本を書いたのか、その意味はいつまでもわからないよ、と私は彼らに申し上げたことがある。
自転車に乗るのといっしょである。
みんなで集まって、何日も何週間も自転車の部品をぴかぴかに磨いたり、設計図を眺めたり、「自転車の歴史」という本を読んで、自転車がこのような形態をとるに至った歴史的進化のプロセスを勉強したりしても、自転車が何をするためのものかはわからない。
それよりも「乗る」方が先でしょ。
まず飛び乗って、走ってみる。
そのうちにハンドルというのがどういうものか、チェーンというのがどういうものか、ブレーキというのがどういうものかについての理解がすりむいた膝の傷の数と一緒に増えてゆく。
どういう自転車がより高機能であるのか、どういうかたちのもの自分の目的に似つかわしいかがだんだんわかってくる。
わかってきたら、それを「自作」すればいい。
学問というのは、そういう生成的なプロセスである。
あらゆる学問は、その学問を「自作」した個人の夢を宿している。
彼はその学問を作り上げることによって「何をしたかったのか?」
それを問うためには、その学問に「乗って、走ってみる」しかない。
自転車を作った人の「夢」は自転車に乗ってみないとわからない。
眺めても、わからない。
レヴィナスの本をはじめて読んだときに、意味がぜんぜんわからなかった。
でも、頭の中に手を突っ込まれて、ぐるぐると引っかき回されたことはわかった。
そのときに、この世には「知識」として習得されるためにではなく、「知識を習得するための装置そのものを改変させるため」に読まれる書物が存在することを知った。
それが書物の「出力」性ということであると私は理解している。
爾来私は書物について「出力性」を基準にその価値を考量することにしている。
小説だってそうである。
読んだあとに、「腹が減ってパスタが茹でたくなった」とか「ビールが飲みたくなった」とか「便通がよくなった」とか「長いことあっていない友だちに手紙が書きたくなった」いうのは、出力性の高い書物である。
それを基準に作物の良否を論じる人がいないことをひさしく不審に思っていたのであるが、池谷さんの話を聴いて、深く腑に落ちたのである。
終わったあと、池谷さんと大阪駅までごいっしょする。
わずかな時間のあいだに「身体語彙と脳内部位」の話に夢中になる。
でも、駅でお別れ。
今度お会いするときはゆっくり飲みながら、脳と身体の話をしたいですね。
  ★
 長々とした引用。申し訳ない。
 私は、ものすごい刺激を受けた。何度も読んだ。
 このスワヒリ語の学習とテストについてのことである。
 内田樹さんは、書いている。
 
  これから何がわかるか。
「学習」は脳への入力である。
「テスト」は脳からの出力である。
つまり、脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化するのである。
平たく言えば、「いくら詰め込んでも無意味」であり、「使ったもの勝ち」ということである。

  このことから、私は「入力型学習」「出力型学習」という名前をつけてみた。
 ★
 2年生の初任者との夏休み前最後の打ち合わせで、漢字学習を話題にした。
 市販テストでの漢字学習は、残念ながらその結果は芳しくなかった。
 国語の授業では、毎回きちんと一字一字教え、そして、ノート1ページに書き順、使い方、練習を毎日宿題として出していたのである。
 その結果が、何とも芳しくなかった。
 私は、その問題を「入力型学習」に多くの時間を割き、「出力型学習」を怠ってきた結果だと指摘した。
 つまりこういうわけである。
 新しい漢字の練習には、多大な労力を使っているが、その練習をテストする場があまりにも少ない。テストは、たまに行う市販テストだけである。
 ★
 今、光村図書の「あかねこスキル」がどこの学校でも多く使われている。
 漢字学習をシステムとして採用している点で、抜きんでている。
 しかし、他のテスト会社も、「あかねこスキル」があまりにも売れるので、それに右ならいしている現状がある。似たようなドリルを作っている。
 私の最後の勤務校のO小学校は、全学年で「あかねこスキル」を採用し、使用にあたっては、1人の先生が模擬授業をして使い方を統一していた。3年間、国語を重点研究にしていたので、そのような方式になっていた。
 このことで飛躍的に子供たちの漢字学習が向上した。それは間違いない。
 私がいた頃は、1年間の中で3回全学年で漢字テストをし、結果を教職員全員に配布していた。だから、どのクラスも、80点以上の合格者○人、不合格者○人とはっきりしていた。そういうことを隠さない。明らかにしていくことをモットーにしていた。
 だが、1つだけ問題点があった。
 「あかねこスキル」で学習して、テストする。テストは全体的によくできる。
 しかし、時間をおいてテストをすると、ぱったりと忘れてしまっている。
 最初は、使い方のまずさがあると思っていたが、どんなにしても忘れてしまうのである。
 ★
 ここには、やはり「出力型学習」を意識した取り組みがなければいけないと思うようになった。
 2年生のクラスでは、9月から「出力型学習」を意識した漢字学習への転換をしようということで具体的な取り組みをすることになった。
 さて、どういう結果になるか、9月からが楽しみである。

 この「入力型学習」や「出力型学習」という視点で、ほかの分野でも考えられないかと思っている。
 

 
 

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コメント

ご無沙汰してます、あきです。
私もしばらく前に内田さんのブログの同じ記事をよんでだいぶ考えさせられました。
ちょうど1学期の試験結果が出て担当者どうしがっくり来ていたときだったので、目からウロコというか、2学期からの方向を考え直す大きなきっかけとなりました。確かに自分の高校時代なんて考えてみても、伸びてたのは何故かって、出力の機会がとても多かった。
2学期以降効果が出ればいいなと思っています

投稿: あき | 2010年7月22日 (木) 23時51分

私も一昨日読みました。
>平たく言えば、「いくら詰め込んでも無意味」であり、
>「使ったもの勝ち」ということである。

そのとおりだと思います。

実業の世界でも座学があれば即実践です。
実践の繰り返しです。
そこに独自の学びがあります。

投稿: Kaya平井 | 2010年7月23日 (金) 07時21分

(これをするためには、何を入力すると良いのだろうかう
という発想が日本の教育には少ないように思います。

入力していれば何かの役に立つであろうと言う発想ばかり。ま、これが日本の貯蓄率の高さを支えているという一面もあるとは思うのですが、逆の発想も必要。

両方のバランスが取れて良い学習と言うものが生まれるのではないでしょうか。

投稿: 池田修 | 2010年7月24日 (土) 09時21分

 あきさん、久しぶりですね。元気で何よりです。いつものように13日に谷所に行きます。
 平井さん、池田先生、いつもコメントありがとうございます。
 池田さんの言われるとおり、何を入力するかが今までほとんど問われなかったことは問題です。
 考えどころですね。

投稿: 野中信行 | 2010年7月24日 (土) 09時50分

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