朝日新聞(2010.7.19朝刊)で、「いま、先生は①」が始まっている。
最初の記事が「孤立 命絶った教師」である。
2004年9月29日に命を絶った初任教師の記事であった。
他人事ではない。
初任を育てていく仕事をしているので、他人事とはとても思えないのである。
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初任の百合子さんは、子供の頃から先生が大好きで、学生時代から取り組んだボランティアでは、東南アジアのストリートチルドレンの支援に関わっていたというから、かなり意欲を持って教師になっていったことが分かる。
そして、教師になる。32人の4年生のクラス担任を任されている。
百合子さんの実践記録には次のようなことが残されている。
4/1 とても緊張した。責任の重さを感じると同時に、子どもたちを愛していこう、全力を尽くそうと心に誓った。
いい加減な気持ちで教師になったのではないことは、これだけでも充分に分かる。
また、次のような記録もある。
5/31 授業が下手だから…教室内の重い空気になんともいえない息苦しさを感じる。子どもを愛すること、できているのかな。
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初任者は、「子供は天使である」「子供は、純粋な気持ちをもった小さな存在」…などという幻想(?)をもって教師になってくることが多い。
あるいは、無意識のうちに「子供は、純粋な存在だ」という観念を持っている。
しかし、愕然とする。
その観念とあまりにも違う子供がそこにいる。
きっと百合子先生も、そのような落差に陥ったのではないだろうか。
残された日記には、次のような記述が残されている。
おこってばかりいるうちに
私の顔が かわいそう。
おこってばかりいるうちに
私の人格 かわいそう。
神様 私を愛してください。
神様 私を助けてください。
神様 私に助け手を与えてください。
神様 私を愛してください。
ボールペンでぐじゃぐじゃに消そうとする線が入っている。
このように書いて、その思いを打ち消そうとするかのような殴り書きの線である。
自分が抱いていた思いと、あまりにも違う子供たちの存在。
毎日、叱られることばかりする子供たち。
怒ってばかりの毎日。
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百合子先生は、自分を責めていく。
だが、ほとんどの初任者が、このような思いを持つのだということを果たして百合子先生は、知っていたのかどうか。
私は、今年の初任研を3月29日と4月2日に行った。愛知県のK市と東京のO区である。その最後に、付け加えた。
「あなたたちは、ほとんど子供たちが嫌いになります。そのことに苦しみます。でも、教師になるというのは、それからなのです。」と。
私の知り合いも、何人も社会人から教員採用に合格し、初任者の道を歩んだ。
何人も七転八倒をした。学級が壊れ、辞めていく寸前まで行ったこともあるのである。
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7月17日に、百合子先生から知人にメールが入る。
悪いのは子どもじゃない、おまえだ。おまえの授業が悪いから荒れるーーと言われ、生きる気力がなくなりそうに感じました。苦しくて。苦しくて。苦しくて。
地方公務員災害補償基金の県支部の聴取記録に、同僚の語った記録が残っている。
「とにかく心配していた」「最初はみな同じ、と励ました」「自分の教室に行く前、百合子さんの学級の前を通り、様子をみることにした」
百合子さんが発言を書き残している教師たちは、それぞれ反論している。例えば「悪いのはおまえだと言われた」とメールで訴えられた教師は、「自分が言ったのは、悪いのは子どもばかりじゃない、子どもを変えたければ自分が変わらなければ、ということ」と述べた。
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はっきりしているのは、管理職、同僚の教師たちが、フォローできなかったこと。
これは、どう反論しようにもどうしようもない事実である。
一人の有為な人材を、こうして無残に失っている。
では、どうすればよかったのか。
はっきりしている。
支援は、具体的に、継続的にしなければいけなかったのである。
私は、最後の勤務校で初任者担当を行っていた。
あるとき、初任者の授業を見ていたとき、これはあぶないと思ったことがあった。
即座に、校長に直訴に行った。
「校長先生、今が限界です。いますぐ教務主任の先生をT・Tでつかせてください」
それは、大いに効果があった。
あとで、その初任者に言われたことがあった。
「あの時が、もう限界でした。どうしようと思っていて、辞めることばかり考えていました」と。
支援は、具体的でなければいけない。
しかしながら、学校の現実は、具体的な支援ができない状況であることも事実である。
教師たちは、その忙しさに追い詰められて、まったく他の教師たちのことを考えてあげられる余裕を失っている。何かの支援をしようにも、自分のクラスだけで精一杯のところがある。
学校は、行事と会議に追われていて、先生たちがゆっくり子供たちのことを話し合う
時間さえも取れない。そんな学校はいっぱいある。
朝日のこの記事の最後には、次のように書かれている。
男性教師の職場では昨年、新人に加え、50代のベテラン教師が辞めていった。
「今の学校は失敗しながら伸びていくゆとりがない。教師を育てられない学校が、子どもを育てられるだろうか」
重い問いかけである。
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百合子先生は、最後まで自分の授業の下手さに悩んでいた。同僚の教師にも、そのようなことを指摘されている。
これもばかな迷信が信じられている。
初任者に授業のうまさを要求して、すぐにうまくなっていくことなどありうるはずがない。
私は、断言してもいいが、多くのベテラン教師だって、初任者と同じようなレベルで「授業が下手」なのである。
べらべらべらべら、授業の最初から最後まで喋り続けている。
いわゆる説明だらけなのである。
学級が荒れていくなどの原因は、授業ではない。
まったく関係ない。
では、何なのだと言われるだろうが、私のブログをずっと読んでもらえていれば、それはもうはっきりしていると思う。
どのように学級を立ち上げ、どのように学級を作っていくか。
どのように子供たちに接し、どのように彼等との関係を作り上げていくか。
どのように学級の「群れ」の状態を「集団」へとかさあげていくか。
この3つができればいい。
普通の学級を作ろうとすれば、この3つで充分なのだ。
この3つのことが分かっていない。
この「学級づくり」の上に、「授業」を乗せていけばいいのである。(もちろん、同時進行であるが)
百合子先生も、まったく分かっていなかったのであろう。
大学も、研修会でも、同僚も、知り合いも、誰も教えてくれないからである。
それが無念である。
★
朝日は、記事の最後に書いている。
教師が苦しんでいる。荒れる学級、保護者の苦情、終わりのない事務作業…。社会からの絶対的信頼が過去のものになるなか、悩む姿を通して、いまの学校を見つめた。
今までマスコミが取り上げてきた内容が、学校の現場の現実とどれほどかけ離れていたか、それは言うまでもないことである。
今回の朝日の記事には、その現実を取り上げようという意気込みを感じる。
ぜひとも、現実の姿を明らかにしてほしいと思う。
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