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2010年2月

授業の最初と最後の挨拶を考える

  現代教育科学3月号の向山洋一先生の連載で、もう一つ気になるところがあった。

 次のところだ。

「授業の最初の15秒で、子どもたちをつかまなければならない。

 一番いいのは『明確な発問』と『指示』をシンプルに示すことである。

 『指示』だけでもかまわない。

 『全員起立』『かけ算九九の五の段を言ったらすわりなさい』

 このぐらいのシンプルさで指示を出せば、クラスは一気に授業に突入する。

 ところが、多くのクラスは『これから三時間目の授業を始めます。気をつけ、礼』などということから始める。

 これを毎時間やるのである。

 子どもたちは、『いいかげん』にやるようになる。それを日直が大声で注意する。このような状態が何分か続く。

 教室は、最初から混乱に突入する。

 全国、多くの教室で見られる現象だ」

 ★

 確かにどこのクラスも、授業の最初と最後の挨拶は、向山先生が指摘されるようにやっている。

 挨拶を何度も言い直しているクラスも、ずいぶんある。

 何分も、それに時間をかけてもいる。

 姿勢がきちんとなっていなくては、始めないのだ。

 2分も3分も、この挨拶にかけている。

 それだけのこだわりをもっと授業内容にこめればいいのだが、それはない。

 ★

 私は現役の頃、どうしていたか。

 私の「始めます」の合図で、すぐ授業に入っていた。時間がもったいない。

 子どもたちには、「授業の最初と最後のあいさつは、私の『始めます』『終わります』にします。授業は、6時間あるので、一々挨拶はしません。時間がもったいないです。その替わり、朝の会の挨拶と終わりの会の挨拶は、きちんとやります。ただ、専科の授業での先生とは、挨拶はしておりませんので、きちんと日直が号令をかけます」と伝えていた。

 何の問題もなかった。

 ★

 しかし、私は、授業の最初と最後に、日直が号令をかけることは否定しない。

 向山先生は、形式的なことは廃止すべきだとどこかで言われていた記憶がある。

 私は、確かに形式だが、学校の規範の1つとしてあっていいと思っている。

 給食でも、最初と最後に「いただきます」「ごちそうさま」をするはずである。

 それと同じだ。

 私は、この形式は使わなかったが、初任者などが、この挨拶をなくしていくことは難しいと思う。

 授業を見にくる管理職や初任者指導に、「なぜ挨拶をしないのか」と問われて、その返答に困るのだ思う。

 ★

 ただ、問題は、この挨拶に2分も3分も使っていることである。

 これはおおいに問題である。

 「これから4時間目の授業を始めます。礼」と日直が合図をしたら、教師は、すぐ授業を始めなくてはならない。

 絶対に、この挨拶に時間をかけてはならない。

 単なる合図なのだ。これでしつけをするのではない。

 おしゃべりをしている子供がいる。手いたずらしている子供がいる。……

 それでもとにかく始めるのだ。

 授業を始めて、そういう子供は、授業に引き込んでいけばいい。

 ★

 私は、このように思っていたが、実態はそうではない。

 なんとも、この最初と最後の挨拶にこだわるのだ。

 そして、授業をぐじゃぐじゃにしている。

 こんなことをどこで身につけてきたのだろうか。

 

 

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道具箱考

  子供達の道具箱などの教具はどのように処理されているのか。

 最近、とても気になっていることである。

 普通、低学年は道具箱が準備されていて、上蓋と下蓋の2つが机に入れられて、それぞれの箱に入れる物が決められている。

 その練習を1年生などはされる。

 ところが、1ヶ月過ぎる頃になると、机の周りにさかんに机に入れていた物が落ちることになる。

 ほとんど拾うことがない。

 折り紙、鉛筆、学習でつかったプリント、セロテープ、ハサミ、マスクなど、とにかくさまざまな物が落ちている。

 最近気付くのは、自分のものが落ちていると分かっていても、拾わない子どもがいるということだ。

 これは新しい現象だなと思ってしまう。

 所有感覚ゼロに近い。

 だから、掃除の時には、大変である。溢れるほどのゴミ(?)が出る。

 これは何とかしなくてはならないのである。

 ★

 まず、物が机の中から落ちていく状況を見る。

 落とす子供達は、限られている。

 机に野放図に何でもかんでも詰め込んでいる。

 そして、勉強の時に教科書やノートを出すとき、慌てて探すために野放図に詰め込んだ物がそのとき落ちる。

 これだ!

 ★

 2つの蓋に入れてある物を見てみると、それぞれが満杯で、よほど整頓がなされなくては無理な状況である。

 これはだめだと、思った。

 やはり、もう一つ道具袋(百均で売ってある)を買わせて、ハサミ、糊などの教具はそれに入れて、机の横にかけておかせるのがいい。

 机の中の道具箱には、教科書、ノート類だけを入れるようにさせるといい。

 ファイルを2つ、いつも持たせるようにして、1つには、学校から持って帰るプリント入れ、もう1つは、学習で使ったプリント入れと分けていれるように訓練しなくてはならない。

 こんな話を初任者の先生とした。

 ★

 中学校の先生には、まさによそ事かもしれない。

 しかし、小学校は、自分の道具をどのように整理・整頓させるかは、大事なポイントになる。

 学習におおいに影響を与えてくるものである。

 最近、学級作り1ヶ月の1つのポイントになることだなと思うようになった。

 ★

 かつて、まったく自分の道具類を整理・整頓できなかった子どもがいた。

 まったくだ。どうにもならなかった。全てのものをただ机の中に詰め込むだけであった。

 学校からの大切なプリントも、ただ詰め込むだけで、家庭に何にも伝わらなかった。

 家庭も、あまり意に介していなかった。

 いつの日か、大変なことになるのであろうと思ったが、どうするすべもなかった。

 この子供は、多分3歳の頃に親が大きな失敗をしているのだと思われた。

 この頃、タオルや毛布などにとても固執する時期がある。

 このタオルじゃなければだめだと泣きさけぶ子供もいる。

 この固執する時期に、きちんとこだわりを持たせなくては、物事を整理整頓することを覚えないらしい。

 多分、この時期に、親が「何を勝手なことを言っているの!」と強く叱ったりしてしまったのではないかと思われるのだ。

 ★

 その子供を見た。

 今年の1月の最初。郵便局のバイトで、自転車に乗り、年賀状を配布していた。多分、その子供だったと思われる。

 背が伸びて、高校生になっていた。

 ふっと、バイトは大丈夫だろうかと心配になった。

 うん、ちゃんと過ごしていることになる。

 うれしいことだ。 

 

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業務連絡です

 3月の末に、横浜で野口塾が開かれる。

 この横浜野口塾は、全国で初めて学校の先生達が中心になって作った塾である。

 私の最後の勤務校である大池小学校の先生達が中心になって作ったものである。

 野口先生から、よく言われる。

 「野中さん、こんな野口塾は、初めてだよ」

 今年も、横浜で野口塾が開催される。

 私も、相模原に続いて、今回も登壇させてもらえる。ありがたいことである。

 3月27日。

 もうすぐ、新学期を迎える。

 その日に合わせて、もっとも大切なことをお伝えできればいいなと思っている。

 要項を次に貼り付ける。

 平成21年度末締めくくりの野口塾は横浜での開催となります。
通算80回目の野口塾となります。超満員の「野口塾in相模原」に引き続き、
野中信行先生もご登壇されますので、申し込みをお急ぎ下さい!

以下、野口塾MLに頂戴したメールを転載致します。 (塚田直樹)

-----Original Message-----
横浜で4回目となります野口塾を開催させていただきます。
皆様のご参加をお待ちしております。

授業道場 野口塾 IN横浜

「学力形成を確実に行う指導法」

1 日 時 平成22年3月27日(土) 10:00~
                  
2 会 場  かながわ労働プラザ 4F第3会議室
  横浜市中区寿町1-4 JR根岸線「石川町駅」 徒歩3分

3 参加費 4,000円

4 定 員 50名

5 日 程
 9:30 受付開始
10:05~11:45 第一講座 「物語はこうやって指導する」
10:05~10:20 地元教師の「ごんぎつね」の模擬授業
10:20~10:25 野口先生による指導・講評
10:25~10:40 野口先生による「ごんぎつね」の模擬授業
10:45~11:45 野口先生による物語の指導法についてのご講演
12:50~13:00 PRタイム
13:00~14:40 第二講座 「作文はこうやって指導する」
13:00~13:15 地元教師の模擬授業
13:15~13:20 野口先生による指導・講評
13:20~13:35 野口先生によるの模擬授業
13:40~14:40 野口先生による物語の指導法についてのご講演
14:50~15:40 第三講座 野中信行先生の学級経営講座
15:50~16:40 第四講座 野口先生の教養講座
16:40~17:10 交流会「今日の学び」
17:40~19:40 懇親会(希望者)を中華街で行います。

6 申込方法
 Eメールに必要事項をご記入の上、事務局 
 井上雅一朗までお申し込みください。
 *講座代金は当日受付でお支払いください。

☆ 必要事項 
 1.氏名 2.住所 3.電話番号 4.メールアドレス 5.勤務校
 6.懇親会の参加の有無 (中華街で行います)参加費5千円を予定しています。

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いや、多数派の教師の授業がもうそうなっている!

  現代教育科学3月号の向山洋一先生の連載を読んだ。

 学級崩壊について書いてある。

 おもしろかった。

 ぜひ、探し出して読んでみられるといい。

 もしなくて、どうしても読みたいという方は、私へメールをされたらいい。

 ★

 学級崩壊したクラスに、サポートに入ったベテランの女教師から見た、崩壊学級の授業の様子に、向山先生が、コメントをつけている。

 ☆

 やっと授業に入る。

 教科書があるのに、拡大コピーをして黒板に貼る。

 それを先生が読み、説明をずっとして、黒板に書いていく。

 ノートを出している子もいれば、教科書だけの子もいる。

 時々先生が、「いいですか!わかりましたか!」と強い語尾で言う。

 「は~い」という子はいいほう。ほとんど無言。

 1.2×3

 の計算の仕方だ。

 ☆

 これに向山先生が、次のようにコメントをつけている。

 「教師は『黒板を読む』

 教師は『説明をずっとする』

 教師は『説明を黒板に書いていく』」

 これは、授業の体をなしていない。

 「子どもは『ノートを出している子もいるし、出していない子もいる』

 「教師は『わかりましたか』と強い口調で子どもに言う。

  子どもの多くは無言である」

 悲惨ともいえる「授業」だ。

 この教師は、教師生活十数年の中堅教師なのである。

 「授業の基本」、今はやりの言葉で言えば「授業の一丁目一番地」さえ、全く身につけていないのである。

 学級が荒れる教室の担任のほとんどは、このような状態なのだ。

 ★

 向山先生は、現場を離れて10年ぐらい経っておられるのであろうか。

 私が、今現場で目にしている状況は、これ以上に深刻である。

 学級が荒れる教室の担任だけでなく、多数派の教師達が、大旨こんな授業をしている。

 ベテラン女教師のメモ書きが続く。

 ☆

 いっぱい説明をして、次の問題に行った。

 子どものノートを見る。

 筆算だけの子。教科書に答えだけ書いている子。式、計算、答えの三点セットで書いている子もいた。

 まちまちだ。

 ちなみに先生の板書は答えがない。

 答え方の基本型を書いていないから、三問目をやりなさい、と言ったとき、「どう書くんだよ!わかんねえよ!」の声が数名。

 子どものノートに○をつける場面は一度もなかった。

 一時間中、活躍せず、板書を写したり、いたずら書きをして終わった子もいる。

 ☆

 向山先生は書いている。

 「教室の全員の学習に責任を持つのが教師の仕事だ。

  『できない子』『やってない子』『途中までの子』など、さまざまな学習状態がある。

 そうしたことをふまえて『一人残らずに』に、責任を持つのが教師の仕事だ。

 この教師には『教師の責任感』が全くない。つまり、『教師の仕事』がわかっていない」

 ★

 向山先生流に言えば、多数派の教師達が、「教師の仕事」が何であるか分かっていないと言うことができる。

 教育の現場は、もうそこまで来ている。

 私は、初任者の授業を2年間見続けてきている。

 その仕事の合間に、現場の先生達の授業をのぞき見してきている。

 決定的に欠落していこうとしているのは、次の点である。

 1,全員参加の授業が作れていない。

 2,学力保障をしていこうという視点がない。

 3,授業の基礎的な技術が身に付いていない。

 ★

 私が提唱している「味噌汁・ご飯」授業は、この3点の条件を含み込むものとして意識しているのである。

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再び糸井先生の「味噌汁・ご飯」授業について

  京都の糸井登先生が、再び「味噌汁・ご飯」授業について書いておられる。

 すぐれた実践家に、これだけこだわってもらっているだけでも、提案した価値はある。

 これも全文を貼り付けておきたい。

 ★

 

2月22日 再び「味噌汁・ご飯」の授業を考えてみる3

倉敷の駅上の書店で購入した「授業つくり上達法」(大西忠治著・民衆社)を読んだ時、思わず、
「そうそう、・・・・そうだった」
と唸ってしまった。

と言うのは、新任教師の私を待ち受けていた現実は、「全くうまくいかない日々」の連続であった。
何も、素晴らしい授業を、と考えたわけではない。
通常の、日々の授業が全くうまくいかなかったのだ。

もがき苦しんだ私が出会ったのが、教育技術法則化運動であった。
そこで学んだ一つずつのことが、日々の授業を支えてくれたのである。
それは、教材研究といったことは少し違う。

この大西氏の著書の中には、そのころ学んだことと重なることが多く書かれている。
目次を紹介する。

1.見る・動く
①「四分六の構え」を身につける
②子どもを見て授業をしてるか
③目で聞き、耳で見ることができているか
④立つべき位置を意識しているか
⑤机間巡視に計画性があるか
⑥正面から話す、後ろから話す
⑦「美しさ」と「たくましさ」を身につける方法
⑧動くべきとき、動かざるべきとき

2.しゃべる
⑨声の悪い教師はどうしたらいいのか
⑩自分の声を使いこなしているか
⑪自分の口ぐせを自覚しているか
⑫イントネーションとプロミネンス
⑬「間」は授業内容へのさそい水
⑭「読みきかせ」をやっているか

3.書く・つくる
⑮「板書」はイタガキではない
⑯字がへたな教師はどうしたらいいか
⑰しゃべるスピードで板書できるか
⑱表現的板書・構成的板書・体系的板書

・・・・以下、省略・・・・

「味噌汁・ご飯」の授業は、日々の普通の授業である。
ならば、尚更、子ども達の活動を促す細かな教育技術が必要となるのであろう。

教師が、教室のどの場所で話すか。
どのくらいの声で話すか。
どのように話すか。
それだけでも、教師の技量が試される。
そして、その違いが、「味噌汁・ご飯」の美味しさを変えていくだろうと思うのである。

うーん、なかなか奥が深いなあと、思った次第である。
 ★
 いやいや、偶然とは言え、私も、大西忠治さんの「授業つくり上達法」を手にしていたのである。
 
 最近は、大西さんがなされてきた仕事にがぜん注目している。
 私が問題にしてきたことは、ほとんど書かれているのである。
 物置の中にしまい込んでいた大西忠治「教育技術著作集10、11」は、指導言(発問・助言・説明・指示)の理論と技術であった。
 読み進んでいくと、私が問題にしていたことがほとんど追究されている
 向山洋一先生の「一時に一事の原則」というのは、すでに大西忠治先生が、この本の中で、「一指示一行動」として提起されている。
 なあんだ、ということである。
 この著作集(明治図書)の10、11はとくに必要なものである。
 興味がある先生は、すでに絶版になっているので、何らかな方法で手に入れられた方がいい。
 ★
 糸井先生のブログである。
 確かに、言われていることはその通りである。
 私は、現在「味噌汁・ご飯」授業で提案していることで、この授業を構成しているのは3つであると言っている。
 1,授業構成をどうしていくか
 2,授業の基礎基本10か条
 3,授業の規律
 糸井先生の指摘は、「2、授業の基礎基本10か条」に関わってくる。
 どんなにうまく授業の構成を作ったとしても、それを進めていく技術を持っていなくは授業はうまく成り立たない。
 その技術を大学はまったく教えない。
 現場でも、内容(つまり授業構成)ばかりを問題にして、その技術を指摘しない。
 そうすると、ベテランの先生から盗むか、教えてもらうか、それとも本を読むかしかない。
 その3つともないと、行く末は暗澹たるものである。
 学級崩壊の危機に直面する。
 子供達の変貌は、なお悪い方へ進んでいく。これは避けられない。誰も止められない。行き着くところまで行く。
 今できるのは、私たちが今までの方法を変えられるかどうかにかかっている。

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業務連絡3

  「初任者・1週間のシナリオ」は、ずっと送付のお願いが続いている。

 このブログを見ている初任者と、初任者指導の関係者の方にさしあげますというフレーズで打ち出したのだが、それ以外な方も申し込まれている。

 このシナリオは、初任者だけでなく、もちろんベテランの人にも参考になる。

 私が1週間の1時間1時間をどのように過ごしたかが明らかになっている。

 初任者だけでなく、どうぞ遠慮なく申し込んでください。

 メールは次の通りである。

 kazenifukarete*hkg.odn.ne.jp (*のところに@を入れて、申し込んでください)

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命は、時間である

 火曜日の勤務は、午前中で終わりである。

 鶴ヶ峰という駅から自宅までの30分ぐらいを歩いて帰る。

 いつもの時間。

 途中で、スナックがある。

 最近は、昼間も営業をやっている。

 いつも歩いて帰るとき、そのスナックから歌声が聞こえる。

 演歌である。

 「ああっ、これが『ひるおけ』っていうのか」

 と思いつつ、歩き去る。

 きっと、中年のおじさんやおばさんたちなのだろう。

 

 ふとテレビの音に目を覚まして、聴き入る。

 ソファーでうとうとしていたのである。

 日野原重明さんが出ていた。98歳の現役医者である。

 「子供達に話をしたとき、命の話をしたのですよ。命はどこにあるの?と聞いたら

 みんな心臓を指すのですね。ちがう、ちがう、その心臓は、ポンプの役割をしているだけだよと言ったんです。

 命は、時間だよと。この時間を人のために大切に使わなくてはならないよ」

と、こんな話だったと思う。

 なるほど、「命は、時間である」と。

 時間は、人々に平等に与えられたものである。

 それは、命であるのだ。

 ★

 「ひるおけ」にうつつをぬかしているおじさんやおばさんたち。

 日野原さんとは、もっとも遠いところを歩いている。

 人生は、二度とないのに、命を無駄にして生きている。

 おおきなおせわだと言われるだろうけど……。

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再び『説明」の問題について

 札幌の山の手南小学校で、授業が終わったあと、45分ほど先生達に話をする時間を作ってもらった。

 このとき、先生達に「説明」の問題を強調した。

 今、さまざまな先生の授業を見ていて、その授業の最大の問題点は、教師が繰り出す「発問」ではない。

 実は、私もこの仕事をするまでは、その問題に気付いていなかった。

 学校の校内研の全体反省会で問題視されることは、せいぜい「発問」である。

 「あの場面での発問で、先生は『~~~~ですか?』と聞かれていましたが、私はその発問ではなく、『~~~~ですか?』と聞くべきだった思います」というような発言をよくした。

 しかし、現実は、まったく発問を問題にする段階ではない。

 もっと初歩的な、子供達に話す内容(説明)が最大の問題である。

 くどい。意味不明。だらだら。

 だが、研究授業は、なかなかその問題が見えない。

 一応、考えて作られている授業だからである。

 「日常授業」は、そうではない。

 研究授業と日常授業の落差は、私たちが考えていたよりもずっと大きいのだ。

 ★

 実は、一度だけ現役の時に「日常授業」に接したことがある。

 「家庭科専科のTTについてほしい」と、お願いされたことがある。

 その学校に赴任して、5年生の担任を受け持ったときである。

 家庭科だけTTでお願いしたいというのである。高学年の教師達は、全員がそういう要請であった。

 よく聞いてみると、その専科の先生は、前年度クラスが学級崩壊になっていて、今年は、家庭科専科になってもらっているが、心配なので、TTでついていてほしいという要請である。

 授業に参加した。

 日頃からおしゃべりが得意な先生なのだ。

 ちょっと早口で、ぺらぺら話される。

 1つの指示が出される。子供達が考えていると、途中でぺらぺらと話される。

 まだ、考えているのに、次の指示が出される。次から次へと…。

 1時間で、ぐったりと私が疲れる。

 真面目に聞いている子供達もまた、疲れるだろうなあと思った。

 学級が壊れるのは、これなのだ。

 子供達をいらいらさせる。ゆっくり考える時間を与えない。

 その後、先生は転勤されて、次の学校でも学級が崩壊して、退職されたと聞いた。

 要するに、「説明」の仕方と指示の出し方が間違っているのである。

 ★

 学級が崩壊するという深刻な事態がどこの学校でも進んでいる。

 さまざまな原因が考えられる。

 私は、最近その教師が、子供たちにどのような話し方をしているのだろうということに注目している。

 子供達への説明の仕方、話し方が意外と大きな問題になっているのではないかと思っているのである。 

 

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糸井先生の「味噌汁・ご飯」授業の提案

  京都の糸井登先生が、「味噌汁・ご飯」授業について書いておられる。

 2回に分けて書いておられる。

 まず、1回目の方から読んでほしい。全文を貼り付けておきたい。

 

2月19日 再び「味噌汁・ご飯」の授業を考えてみる2
さて、では、①と②の時間帯で、どのように日々の授業の準備をしているか、である。
かなり、手抜きだと思われるかもしれないが、私の事実を紹介してみたいと思う。

まず、③の自宅での教材研究の仕方について、だ。
基本的に、休日を利用して、単元全部の授業プランを考えてしまう。
例えば、算数の「かけ算」の学習なら、その授業8時間分の授業プランをざっくり考えるわけだ。

この時、愛用の黒いノートとペンが活躍する。場所は、だいたい喫茶店。
例えば、1月の国語教材「盲導犬の訓練」の場合、黒いノートには、こんなことがメモ書きされている。

盲導犬(教科書) 
*ポイントは辞書活用。
1.ペット はたらく   キーワード  はたらく
2.躾と訓練       キーワード  躾 訓練
3.訓練          キーワード できなきゃいけないこと・してはいけないこと
4.心構え        キーワード  心
       ↓
映画 「クイール」
       ↓
社会人講師  盲導犬来校
       ↓
点字・点字ブロック調べ  *総合学習とリンク  
               参考図書 「先生のためのやさしい点字講座」(佐瀬順一著・学事出版)
               学習と学習の間を子どもの追究でつなぐ手法をとる。
       ↓
発表会   調べ、学んだことをまとめ、発表させる。

他にも、汚い字で細々と書かれているのだが、こういった授業構成を決めてしまう。
この授業の場合、国語と総合を関連させたものを考えてるので、トータル時間は、10時間以上となる。
これで約、30分といったところでしょうか。
このノートに、少しずつメモ書きを入れ、肉付けしていくといった感じです。

たった30分と思われるかもしれませんが、算数も理科も社会も・・・・ありますので、トータルすれば結構な時間となってしまいます。
が、この単元丸ごとの構成を考えるというのが、最も重要な時間となります。

でも、これだけでは、授業にはなりません。

ここからは、平日の授業の用意についてです。
夜、自宅で行います。
黒いノート、教材を開き、明日の授業を考えます。
ここからが、「味噌汁・ご飯」の授業の用意になるのだと思います。

国語を例にしたので、国語の場合で書いてみたいと思います。

国語の場合、私は、以下の三つのことを考えることにしています。
① まず、音読をどのように取り入れるか?
② キーワードをもとに、子どもの作業や発問を考える
③ 何をノートに書かせるかを考える

たとえば、今日の国語の授業では、
① 音読は、教師の後を追う読み方で!その後、日直に教師の代わりをさせてみる。
② キーワードは、「むねがぐぐっとあつくなった」。
  発問は、「あなたは胸があつくなったことはありますか?」
③書かせるのは、「胸があつくなった」を使った短文。また、その交流。

この程度のことを考えておく。

そして、この程度で、授業にのぞむ。

だが、この程度のこともまならない日もある。
そこで、力を発揮するのが、①の時間だ。
学校までの通勤時間。現在、35分程度だが、車を運転しながら、その日の一日を考える。
「えっと、算数は、あれをやるから、あれを準備して・・・」といった具合にだ。

その場合も、やはり、
①②③のイメージが基本となる。

こんな日々を繰り返しながら、現場で日々を乗り切っている。
それが、私の「味噌汁・ご飯」の授業のイメージだ。

ですが、当然、もっと、時間をかける授業も一応、あります。、はい。



  

 # by sitoi | 2010-02-20 09:20 | Trackback | Comments(0)
2月18日 再び「味噌汁・ご飯」の授業を考えてみる1
最近、ふと、「味噌汁・ご飯」の授業を考えることがある。
小学校教師は、毎日、5~6時間の授業を持っている。

たとえば、私は、今、3年生を担任している。
空き時間は、ない。
月曜日から金曜日までの授業時間は、以下のようになる。

月曜日  5時間
火曜日  5時間
水曜日  6時間
木曜日  6時間(6時間目はクラブ活動)
金曜日  6時間

6時間授業は、終わるのが、15:25。子ども達を帰し、教室の整理をして、職員室に戻ると、16:00。
休み時間は、子ども達の宿題の丸つけ、ノート整理などに追われることになる。
したがって、駆け足で、コピーしたり、印刷したりといった感じで、教材研究などができる時間は存在しない。

これは、私に限ったことではなく、現場の教師のほとんど(違う場合もあるかもしれない)が、このような毎日を送っているのだと思う。

つまり、教材研究ができる時間は、以下の三つの時間しか、存在しない。

① 始業時間までの朝の時間
② 職員室に戻った16:00以降の時間
③ 自宅

この三つの時間帯を効率よく活用し、教材研究、授業の準備を行うしかないのである。

普通で考えれば、②の時間帯が一番活用できるのではないかと思われるかもしれないが、実は、そうでもない。なぜかと言えば、この時間帯には会議が入ってくるのである。
全体会議がない場合でも、学年の先生方との学年会は欠かせない。
また、学年会がない場合でも、学年内の交流は必要だ。
「今日、こんなことがあったのよ」
「あの子の最近のようすは・・・」
といった子ども達の交流は、明日からの指導に必要な情報となる。
時として、ことのような指導は、授業以上に大切なものとなるからだ。

私に限って言えば、実は、②の時間帯では、ほとんど教材研究をしない。
私が職員室で行うのは、学年の先生方との交流と、事務仕事である。
そう、担任には、雑多な事務的な仕事も任されているのである。
このような仕事は、子ども達の目に触れてはいけない場合もあるので、職員室で行う。

で、こういう仕事をしていると、アッという間に、17:30あたりになるのである。
私は、基本的に、このあたりの時間帯で、帰ることを心がけている。
教育実習生を受け入れていた一ヶ月でも、基本的には、この時間帯で終わりにしていたし、それで、全て、問題はなかったように思う。

残された時間は、①と③だ。
この時間帯で、私は、「味噌汁・ご飯」の授業の準備を行うことになる。
 ★
 京都の著名な実践家である糸井先生が、自分の日常授業を明らかにされている。
 これは貴重な提案である。
 提案は、3つ。
 1つは、教材研究ができる時間帯を明らかにされている。
 2つめは、具体的な教材研究である。
 やはり、単元全体の授業プランを立てるところから始まっている。
 3つめは、具体的な1時間の国語授業づくりを明らかにされている。
 3つだ。音読をどう取り入れるか、キーワードをもとに作業と発問を考える、
何をノートに書かせるか。
 やはり、そうかという感想である。
 もっともっと明らかにできれば、若い先生達が追試できるようになる。
 ★
 糸井登先生、池田修先生が推進されている「明日の教室」では、4月24日(土)に、この「味噌汁・ご飯」授業をテーマにあげる。
 私が提案である。
 さて、どうなることやらと思案している。
 
 
 

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札幌 山の手南小学校を訪問して

 新千歳の上空を1時間以上旋回している。

 函館空港か、羽田空港に引き返すか、そのことも考えなければいけなかった。

 雪がひどく、除雪車だけではどうにもならない。

 12時55分(ほんとうなら10時35分には到着していたはずである)、やっと

「今から降下します」というアナウンスが入る。

 ★

 その日(2月19日)、北海道札幌山の手南小学校にお邪魔することになっていた。

 校長先生に無理矢理授業を見せてほしいとお願いして、実現したことだ。

 5,6時間目。全クラスの授業を見せてもらえるというのである。

 札幌へ行く電車の中で、昼食をとり、1時15分頃に学校に到着する。

 琴似駅まで車で迎えにきてもらった。

 もう少しで5時間目の授業が始まる。

 やっと間に合った。

 学級数17.生徒数514人の学校である。

 学校中が静まりかえっている。

 私は、今初任者指導の仕事を一緒にしている小島康親先生と一緒に横浜から参加している。

 このブログに、いつも登場している羊ヶ丘小の校長横藤雅人先生も参加されている。 

 名寄の方からもK先生が、参観にみえている。

 4人の参観。全クラスの授業を見せてもらえる。ぜいたくな話である。

 ★

 このブログでも紹介したように山の手南小は、重点研究のテーマに「確かな学力を育成する日常授業の改善」を掲げて登場した学校である。

 このテーマが、どれほどの衝撃力を持つのか。

 多分、これからの日本の校内研究を左右する画期的なテーマであると、私は一人思い込んでいたのである。

 それがどれほどのものであるのか、ぜひとも私の目で見なくてはならないと、学期末の忙しい時期に頼み込んだのである。

 ★

 今までの学校は、次のようなテーマで校内研究を進めてきている。

 「ひびき合う子、自ら切り拓く子~一人一人の目が輝く場づくり~」

 「わかる、できる、ひびき合う授業」をめざして

 「豊かな心をもち21世紀を主体的に生きる生徒の育成~わかる授業の実践と、自ら学ぶ生徒の育成をめざし、学力の向上を図る~」

 全国津々浦々、ほとんどがこのようなテーマで推進している。

 それで研究成果は、どうなったか。

 まともな研究成果を見たことがない。

 ほとんどの研究成果は、「一生懸命に~~~~のことを取り組んだ」と書かれてある。

 「~~~ということを実現した」と書かれていない。

 つまり、掲げただけのテーマなのだ。見栄えのいいテーマなのだ。

 ★

 日本全国には、毎年公開の授業研究をしている有名な研究校がある。

 附属小などは、その典型である。

 多くの先生達が集まる。有名な先生のクラスは、人だかりがしている。

 私が言う「ごちそうの授業」を見られるからだ。

 あこがれの先生が、あこがれの授業をする。

 それを必死で見て、自分の授業に取り入れられないかと考える。

 私も若い頃、そうしてさまざまな有名な先生の授業を見て回った時があった。

 向山洋一先生の授業は三度見た。有田和正先生の授業も見た。大森修先生の授業も2日間に渡って見た。野口芳宏先生には、私のクラスで授業をしてもらった。

 どの先生の授業も、素晴らしかった。

 まさに名人教師の授業であった。

 ところが、私は、名人教師の道を目指そうと思わなかった。

 なろうと思わなかったというより、なれないと思った。

 普通の教師でいい。目の前の子供達にできるかぎりの教育ができていけば、それでいいと思った。

 私は授業者として、そのようにして教師生活を終えている。

 普通の教師達は、名人教師をめざすことはない。

 目の前の子供達に精一杯の教育ができればいいのである。

 ★

 「ごちそう授業」を否定しているのではない。

 一年に何回かの「ごちそう授業」を目指すことは必要である。

 一年中、「味噌汁・ご飯」だけでいいはずはない。

 どこの家でも、誕生日や正月、クリスマスには、ご馳走が出るではないか。

 「ごちそう授業」を作り上げる過程で、多大な授業技量を身につける。

 「ごちそう授業」は、子供達も揺り動かす。

 ただ、私が否定をしているのは、その1時間の「ごちそう授業」を作り上げるために「日常授業」がそのための「練習授業」になることだ。

 多くの研究校が、いまでもこのような「練習授業」を盛んに行っている。

 多くの人が唸るような、すごい「ごちそう授業」を作るために、日頃の授業は、そのための「練習」に明け暮れる。

 「学力は、塾に任せればいい」と言い放つ校長もいる。

 ★

 脱線している。

 山の手南小学校に戻りたい。

 どのクラスも落ち着いた授業が展開されていた。

 6年生の3クラス。

 30年ぶりに出会った子供達のように思えた。

 学びに向ける眼差し。ノートの素晴らしさ。

 この時期、ほとんどの6年生は浮き足立つ。

 ところが、まったくその様子が見られなかった。

 廊下に掲示されている6年生の絵の素晴らしさ。

 横浜では、もはやこんな小学生の絵を見ることはない。

 ★

 私が目にしたことで特に感じたことを4点あげる。

 1つめは、やはりノートが素晴らしいことだ。

 これは、学習規律の改善として、当校が全校一律の取り組んでいることである。

 どのクラスも、ノート指導に力を入れている。

 それは、全クラスを見て、すぐに分かる事実であった。

 当校の1年目の取り組みなのだ。

 私たちが考えている以上に、このノート指導の威力は、大きい。

 このノート指導が、日常授業の中心になることははっきり確認できた。

 2つめは、先生達の板書が素晴らしいことである。

 この板書も、全校で統一されているところがある。

 子供達は、先生達のあの板書を見て、きっとノートが変わっているのであろう。

 3つめは、やはりICT活用の威力である。

 この活用で、子供の全員が授業に参加できる条件を保障していく。

 ICT活用で、筆順の指導をされたり、原稿用紙指導をされたりされていた。

 4つめは、図書室のことをあげておきたい。

 私がお邪魔したときは、3人のボランティア(お母さん)がおられた。

 この3人のお母さんが中心になったボランティア活動で、図書室が運営されている。

 学校も、図書室の活用に力を入れている。

 この図書室に入って、驚いた。本の整頓の仕方。すぐに分かった。

 初めて見る光景だ。

 断言していいが、図書室がうまく機能していない学校は、何やってもだめだ。

 読書に力を入れないクラスは、やはり上滑りになる。

 お母さん達の助力により、こんなに図書室を充実している。

 これもまた、当校の大きな特徴であろう。

 ★

 戦後(この言葉はすでに死語化しているが)64年。

 「ごちそう授業」づくりで授業研究を推進してきたベクトルが、大きく「日常授業」の改革という方向に動いていくのではないか。

 その姿を目にしているのではないか。

 私は静かな興奮に包まれていた。

 一緒に行った小島先生は、

「これからの教育の可能性を見られて、うれしかった!」

と言われていた。私も、同じ気持ちであった。

 ★

 江戸の儒学者佐藤一齋は、次の言葉を私たちに残している。

「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ。只だ一燈を頼め」

 その一燈を見られたのだと思う。

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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なぜ、子供達は、こんなに変わってしまったのか

 「困難な現場を生き抜く教師の仕事術」が、学事出版で買えるようになっている。

 多くの方々に買っていただいている。ありがたい。

 三楽の仕事日記には、次のような内容があった。

  「困難な現場を生き抜く教師の仕事術」(野中信行著、学事出版)を読む。野中信行さんが自費で再販された本。amazonで検索すると、中古商品で3点出品あり。値段は7000円から15000円ほど。こうした状況で、今回の野中さんの計らいはとてもありがたい。さっそく数冊購入して仲間にもプレゼント。
 本課が来年度取り組もうとしている生徒指導推進協議会のテーマが「学級がうまく機能する小学校での生徒指導(仮称)」であるので、そこでも大いに役立つ内容。協議会は学識経験者やPTAなど直接教育現場に関係がない方々で構成されるだけに、委員の方にもこの本は紹介したい。野中さんの児童変貌論(こうした深い洞察ができる方の仕事術だから、その確かさは言うまでもない)をもとに、テーマについて論議してもらうのもいいかなと思う。
 前半は普通の教師が普通の学級経営をするための経営術が具体的に記されている。素直に真似てみて欲しい。「その日暮らしの学級経営」という言葉には、耳が痛いベテランも多いのでは?「その日暮らしの学校経営から抜け出す」ための学校リーダー本を誰か出してくれないか。

 

 この本を書く動機は、もちろん学級崩壊であった。

 なぜ、そのことが起こったか。

 児童の変貌である。

 ★

 70年代までは、クラスは、ほとんど落ち着いていた。

 子供達も、安定期であると言われていた。

 だから、初任者が受け持っても、なんとか受け持つことができた。

 ところが、このことがおかしくなったのが、80年代である。

 今、世界の子供達のさまざまな統計の数字が、悪い結果で、日本の子供達がダントツに多い。

 読書量、睡眠時間、学力、……。

 70年から80年にかけて、何かが日本に起こり、日本の子供達を大きく変貌させていった。

 その何かとは何か?

 このことについて、まともに追究されてこなかったと思う。

 そこに問題意識がなかったのであろう。

 私は、この本で「児童変貌論ノート」としてコラムのような形で書き抜いている。

 その何かを追究したのである。

 一番書きたかったことは、このことである。

 ぜひ読んでほしいところである。

  

 

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つれづれなるままに

 12日(金)は、兵庫県の三木市に行った。

 前回、お邪魔した学校を再び訪ねたのである。

 「多忙化を克服する仕事術」というテーマで、前回話をしていたので、今回はさらに付け加えて話をしてほしいという内容であった。

 クラスでの子供達のいろいろな話が出て、大変おもしろかった。

 その日、急ぎ新幹線で横浜へ帰ってくる。

 夜遅くになる。

 ★

 13日(土)は、私の最後の学校になった大池小で一緒だったC先生が、結婚されるためのお祝い会である。C県の採用試験に合格されていて、もうそちらへ引っ越しをされる。

 湯河原の小さな温泉宿に7人の人たちが集まった。

 山形からMさんも駆けつけてきてくれた。

 私と同じときに退職されたK校長先生も駆けつけてこられた。

 うれしい再会だ。

 料理に舌鼓をうち、カラオケに行き、そして深夜1時まで話し込む。

 大池小で、大変さを共有してきた先生達とこうして会えることは、何ともうれしいことであった。

 詩人長田弘は、「一日の終わりの詩集」で、「もうこれからは、ただ惜別の人生を覚えばならない」と書き抜いている。

 私も、しみじみそのように思う。

 

 

 

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業務連絡2

 「初任者・1週間のシナリオ」を送付している。

 ところが、ワード版がうまく写っていないという先生が2名おられた。

 他にもそういう方がおられたら、連絡してほしい。

 一太郎版で作ったものであるので、うまくいかないのかもしれない。

 よろしくお願いします。

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ゼロ・トレランス方式の導入がそこまで来ているかもしれない

  4チャンネルのテレビ放映を2日続けてみた。

 夕方のテレビである。

 今まで連続取材をして、その様子を放映していたらしい。

 テレビをほとんど見ないので知らなかった。

 北九州市立湯川中学校の学校の実態を放映しているのである。

 昨日は、校長先生がスタジオに来て、話をしていた。

 思い切ったものである。

 今までは、学校はマスコミを避けてきた。

 学校は、学校で起こっていることをできるだけ世間に知られることを避けてきたのである。

 ★

 2日に1回は鳴り響く火災報知器のベルの音。

 教室に入らないで、廊下をうろうろしている生徒が鳴らしている。

 トイレに突っ込まれたトイレットペーパー。タバコの吸い殻。

 先生達は、廊下で空き時間はずっと監視せざるを得ない状況。

 テストの丸付けをしながら、廊下待機をしている。

 保護者との臨時の話し合い。

 保護者に突っ込まれるが、もはやどうしようもない状況を語っている。

 そして、保護者もまた教師達に混じって、廊下で待機する役をしはじめている。

 そこで、はじめてどうにもならない生徒のわがまま、勝手に振る舞う態度、……を目にする。

 その姿をできるかぎりテレビは放映する。

 ★

 おそらく、全国至るところの小学校や中学校で起こっている事態を目にしていることになる。

 私たち教師は驚かない。

 知っているからである。

 保護者達は、あの事態を見て、驚いているのであろう。

 あまりにも今までそういうことを明らかにすることを恥だとする考えが学校に強かったからである。

 だけど、もうどうにもならなくなっている。

 あからさまに知ってもらった方がいいのだ、教師達がどのくらい苦闘しているのか知ってもらった方がいいのだ、と湯川中学校は考えたのであろう。

 その決断に敬意を表したい。

 ★

 先日のブログで、横浜の小学校で、生徒指導専任の先生を設ける話を書いた。

 これは始まりであるとも書いた。

 管理職がまっとうな管理職としての仕事ができず、毎日毎日苦情処理の仕事で明け暮れている学校は、小学校でもかなりあるのだと思われる。

 しかし、専任の教師を設けたとしても、事が処理できるわけではない。

 権限がほとんどないからである。

 いずれ、日本もアメリカで行われている「ゼロ・トレランス方式」を検討しなくてはならない時はくるはずである。

 いや、もう来てるかもしれない。

 アメリカでは、1970年代から学級崩壊が深刻化し、さまざまな事件が勃発した。その対策として取られた手法の1つが、ゼロ・トレランス方式である。

 具体的には、校内での行動に関する詳細な罰則を定めておき、これに違反した場合は速やかに例外なく罰を与えることで生徒自身の持つ責任を自覚させ、改善が見られない場合は、問題児を集める教育施設への転校や退学処分を科すというものである。

 アメリカは、1990年代から本格的な導入が始まっている。

 日本では、アメリカのようにはいかないだろうが、きっとこのことを検討しなくてはならないことはすぐのことである。

 事態は、そこまで来ているのである。

 

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立松和平が亡くなった

  立松和平が亡くなった。62歳であった。私と同い年であった。

 驚いた。しぶとく生き抜いていく人だと思っていた。

 いい読者ではなかった。

 だが、同世代で、どこへ歩んでいこうとしていたのか、よく分かった。

 最後の書が、良寬である。

 ホームページの日記は、12月30日で途切れている。

 最後の発言も、良寬で終わっている。

 引用して良いかどうか分からないが、印象に残ったので、貼り付けておきたい。


 

私を支えたくれたこの言葉
top
 たくほどは風がもてくる落葉かな
 良寛の俳句である。
 人々の間に伝わる口伝によれば、ある時良寛が自分の暮らす国上山の中の五合庵に帰ろうとすると、村人がたくさん集まって山道の掃除をしている。道端の草むしりをしたり、頭上にかかる枝などを払っているのだ。
 庭の草もきれいに抜かれている。その様子を見て、良寛は溜息とともにいった。
「ゆうべはたくさんの虫がいい声で鳴いていて、それは楽しませてもらったのじゃ。こんなに草を抜かれては、あの虫たちは逃げてしまい、今夜から鳴いてはくれまい」
 村人は良寛の嘆きを理解しなかった。一間きりない五合庵も、村人たちが寄ってたかって塵ひとつ落ちていないよう、ていねいに掃除がすんでいた。
 こんなにも一生懸命に掃除する理由がわからず良寛が尋ねると、長岡藩主牧野忠精公が、何事にとらわれず自由自在な良寛の生き方を慕い、藩内を巡視の最中に国上山まで寄り道して、良寛に会いにくるというお達しがあったのだという。村人とすれば、藩主がくるという一大事のために、全員が出てあわてて掃除をしているのであった。
 藩主ともなれば、何も用事がなくてくるわけはない。藩主の用件とは、長岡城下にある名刹の住職に良寛になってもらいたいということだ。自分の村に住む良寛にそんな名誉なことがあるとは、自分たちにとっても名誉なことだと、村人は張り切って掃除をしていたのであった。
 やがて藩主は大勢のお供を引き連れてやってきた。良寛は五合庵で坐禅でもして迎えたのであろうか。藩主は良寛の耳に声が届くところまで近寄り、和尚を城下の立派な寺の住職に迎えたいと礼儀を失わずにいった。藩主も良寛を尊敬していたのだ。良寛は僧としての階位にはまったくこだわらず、住職になる資格でもある印可を備中玉島の円通寺で師より受けていたのだが、もとより寺にさえはいっていない。借りた小さな庵で、一衣一鉢の乞食僧の暮らしをしていたのだ。それが良寛の生き方であった。世俗の出世や富などに、良寛は興味を持っていなかった。禅僧としてのそんな生き方に、名君といわれた牧野忠精も感じるものがあったのだろう。
 良寛がせっかく訪ねてきた藩主を無視するような態度をとったので、その場に緊張が走った。藩主もその沈黙の時間に耐えていた。やがて良寛は黙って筆をとり、紙に書いた字を藩主に示した。
 たくほどは風がもてくる落葉かな
 そんなに自分の分を越えたほど求めなくても、焚き火にするのに必要な落葉は風がひとりでに吹き寄せてくるというのだ。自分はこの暮らしの中に真実があると思っていて、この貧しい庵の暮らしに満足している。今さら世間の功利功名などを得たところで、それがなにになるのでしょうか。良寛は俳句でこう語ったのであった。
 聡明な君主は良寛の深い心を理解し、良寛の身を厚くいたわって、その場を去っていったという。良寛はもちろん立派だが、藩主牧野忠精も立派であったと思う。他人の立場を理解し、尊重することは大切だ。
 自分の中に欲のようなものを感じた時、私はいつしか良寛のこの言葉を心に思い浮かべるようになった。だが欲を消してしまうことは難しい。私にとっても良寛は遠い憧れである。
PHPほんとうの時代 2010年1月号

 

 

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なぜ初任者のクラスは荒れるのか

 初任者のクラスは荒れる。

 8割から9割方荒れてしまう。そのうちの何割かが学級崩壊になる。

 どのような実践家も、1年目はひどい状態に陥る経験を持っているはずである。

 なぜか。

 教師としての力量がないためであると、言われてきた。

 その通りであるが、じゃあ、どんな力量がないのかと言われれば、なかなか具体的には指摘してこなかったと思う。

 でも、このことを具体的に明らかにしなくては、手立てをいつまでも持てないままになる。

 ★

 3つの原因があると思われる。

 1つは、子供達に「一対一」対応をしてしまう。

 2つめは、お兄さん、お姉さんのように「やさしさ」対応をしてしまう。

 3つめは、「北風」対応をしてしまう。

 

 まず「一対一」対応である。

 子どもは、最初必ずパターン化した行動をとる。

 ずっと質問ぜめにする。

 「先生、トイレにいっていいですか?」「先生、教科書忘れました!どうしたらいいですか?」「先生、隣の人が足を踏みつけます。どうしたらいいですか?」…

 これに一々対応する。一々答えていく。

 他愛ないものならいい。

 でも、クラス全体に関わるものが多い。

 子供が聞きに来て、教師が答えることは、クラスのルールになる。

 そのことを初任者は知らない。

 たとえば、給食で、ある子供は、「先生、嫌いなので、これ残していいですか?」と聞きに来る。

 「あと少しだけ食べて、残しなさい」と答える。

 次の日、別の子供が聞きに来る。

「先生、今日は体の調子が悪いので、残して良いですか?」

 「はい、それでは残しなさい」

 次の日に、また別の子供が聞きに来る。太っている。

「先生、ぼく野菜が嫌いなので、残して良いですか?」

 「がんばって食べなさい。好き嫌いはだめですよ」

 3人ともに、先生の答えは違う。

 最後の子供は、「先生は、ひいきしているよ。ぼくだけ、全部食べろと言うんだぜ」と、他の子供に訴える。

 初任者は、そんなつもりはなく、ただ自然にそのように答えてしまったのである。

 しかし、クラスは、険悪なムードになる。そのようなことが続いていくと、いよいよ先生の対する反感が高まる。

 子供の質問に答えるとき、学級のルールに関わることは、必ず学級全体に伝えなくてはならない。これをはずしている。

 ★

 2つめの「やさしさ」対応である。

 宿題を出す。

 1人の子供が忘れてくる。

 「先生、宿題を忘れてきました!どうしたらいいの?」

 「ざんねんだね。明日はきちんとやってきましょうね。約束だよ」

 2日目は、宿題忘れが5人になる。

 あんなやさしい対応をしてくれるのだ。忘れたってたいしたことがないや、と思う。

 5人を呼ぶ。

「どうして忘れたの?」「だって、よそのうちにでかけていて、帰ってきたのが10時頃だったから、もう寝なさいっていわれて…」……適当な嘘をつく。

「あしたこそ、ちゃんとしてくるのよ。やくそくだよ」

 3日目は、宿題忘れが10人に増えている。

 もはや収拾がつかない。

 お兄さんや、お姉さんが対応するように、やさしく対応していく結果である。

 これは、教師の対応ではない。

 宿題を出したならば、きちんとその日のうちにやらせなくてはならない。

 休み時間などに教室に残してやらせるのである。

 真面目にやってきた子供が馬鹿をみるようなことをしてはいけない。

 ★

 3つめの「北風」対応である。

 「北風と太陽」の話は有名である。あの「北風」である。

 初任者は、忙しさに追いまくられている。

 教室を見ると、ついつい「できていないこと」「だめなこと」……が目に付く。

 注意をする。叱りつける。ここまではいい。

 だが、終わりの会で、さようならの挨拶ができなくて、「しずかにしてください」と日直に何十回と叫ばせている。先生も注意をしているが、モグラたたき状態である。

 毎日、毎日同じ事が続く。

 一日中、注意と叱りが続く。その場は、なんとか静かになるが、また同じ事が続く。

 私は、「北風」対応と言っている。

 これでは、子供達は、絶対に良くならない。

 子供達は、クラスの中で自分の居場所を求めて行動している。

 まず、「安心感」「安定感」を求める。先生に認められたり、ほめられたりすることを求める。

 次に、「所属感」を求める。クラスのみんなに認められたいという欲求である。

 この欲求にきちんと対応していくことである。

 これを私は「太陽」対応という。

 注意も、叱りも必要である。だが、いつまでも、そんなことばかりしていると、子供達はちっとも育たないのだ。

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 「一対一」対応は、「全体」対応に変えていかなくてはならない。

 「やさしさ」対応は、「教師」対応に変えていかなくてはならない。

 「北風」対応は、「太陽」対応に変えていかなくてはならない。

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業務連絡 「初任者・1週間シナリオ」送付について

 今年も「初任者・1週間のシナリオ」を作成した。

 今回は、今までのものにかなり手を加えた。

 今までは、1週間の私の実践を載せるだけにしていたが、今回は初任者に合わせて改訂した。

 今年は、2つのところで初任研を行う。

 3月29日と4月2日である。

 初任研の最初、しかもまだ学校が始まっていない時期での初任研である。

 責任重大である。

 そこで、この資料を渡すことになる。

 私のブログを見ておられる来年度初任者の方、あるいは初任者指導の関係者の方には、いち早くさしあげたい。

 添付で送付する。(ワードでも、一太郎でもいい)A4版24枚になる。

 連絡は、次のメールでお願いしたい。

 kazenifukarete*hkg.odn.ne.jp (*のところを@に変えてメールしてください)

 

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「思いっきり笑える 爆笑クラスの作り方12ヶ月」を薦めます

 山口の中村健一さんから本が送られてきた。

 「思いっきり笑える 爆笑クラスの作り方12ヶ月」(黎明書房)である。

 中村さんの編著になっていて、10人の人が執筆者である。

 その執筆者を見ると、中村さんを加えて、飯村友和さん、志満津征子さん、藤原なつ美さん、松森靖行さんがいる。全部、知り合いである。

 前書きのところで、中村さんは、次のように書いている。

「…しかし、今どきの子どもたちは、厳しいだけではうまくいきません。厳しいだけの指導では、子どもたちの反感を買い、離れていってしまう可能性も高いでしょう。

 そこで、『お笑い』です。厳しい指導にちょっとしたユーモアを組み合わせることが、今どきの子どもたちには有効なのだと考えています。

 片手に厳しさを、片手にユーモアを!

 『厳しさ』と『お笑い』、この両方が備わってこそ、安定した学級経営ができるのです。

 私が尊敬する野中信行氏は、『縦糸・横糸論』を提唱されています。

 『縦糸』は、教師と子供の縦のつながりです。きちんとしたルールを作り、それに従わせる。当たり前のことは当たり前にさせる。これは、とっても大事なことです。

 『横糸』は、教師と子どもの横のつながりです。教師が子どもと個別に『2人だけの物語』を作ることが大切です。また、教室をのびのびした雰囲気の『安心感』のある場所にすることも『横糸』の役割です。

 この『縦糸』『横糸』両方が張れて、初めて安定した学級経営が成り立つのだと思います。

 本書で紹介しているユニークな取り組みで、教室に『安心感』を生み出すことができると確信します。本書は、野中氏の言う『横糸』を張る方法の1つなのです。

 本書を使って『横糸』を張りましょう!ただし、『縦糸』を張ることを忘れずに!」

 ★

 横藤先生と私が、提唱している「縦糸・横糸」の考え方で、「横糸」を張る本だと紹介されている。

 1冊目の本「子どもも先生も思いっきり笑える73のネタ大放出!」(黎明書房)を私は、とても評価した。

 中村さんは、自分の主戦場をよく分かっていて、そこで存分に戦っている。

 この本は、笑いを作り出すことが苦手な先生への応援歌になっていることである。

 笑いを作り出すことは、特に若い先生方が苦手である。

 女性の先生方も苦手である。

 そこで、中村さんは、そんな先生達にこうすればいいと指南している。

 私は、この本に載っている中村先生おすすめのネタを、愛知県小牧市の初任研も、東京大田区の初任研でも、初任の先生達にやってもらった。

 小牧市では、教育長自ら挑戦された。

 緊張していた初任者も、このネタでずいぶんと表情が和らいだのである。

 子供達に迫るには、真面目なことだけではだめだ。

 こういう笑いがとても必要になる。

 

 

 

 

 

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これは始まりである

 一昨日の新聞に次のような記事が出た。

 長瀬拓也さんのブログからの引用である。私は、朝日で読んだが、この記事は読売である。

 ★

横浜の小学校、不登校・暴力行為の専任教諭配置へ

 横浜市教委は来年度、いじめや暴力行為、不登校など、学校が抱える問題に専門的に対応する「児童支援専任教諭」を小学校70校に配置する。
 5年間で市内全346小学校に広げる計画で、個別の問題を、学級担任と管理職だけで抱え込みがちな小学校の負担軽減を図るのが狙い。文部科学省は「小学校に置くケースはあまり聞いたことがない」としている。
 市教委などによると、専任教諭は、中堅やベテランの教諭から各校1人を選ぶ。小学校では、教諭の授業は週24~28コマ程度だが、専任教諭はコマ数を大幅に減らし、不足分を新たに派遣する非常勤講師に受け持ってもらう。初年度は、非常勤講師の人件費として約1億1800万円を予算計上する方針。
 専任教諭を小学校に配置する背景には、「荒れ」の低年齢化がある。市内の全市立校513校では、昨年度の暴力行為は過去最悪の3397件に上り、前年度から532件の大幅な増加となった。増加率では、中学校が前年度比14・7%増だったのに対して、小学校は同40・5%増と深刻な事態になっている。
 小学6年の男子児童が同級生とケンカになった際、仲裁に入った同級生の父親を殴るなど、「規範意識の欠如は甚だしく、学校内で暴力が収まらない状況」(市教委担当者)にある。
 さらに、いじめは減少傾向にはあるものの、昨年度は市内の小学校で約400件が確認されている。
 市教委では、すでに中学校全校に生徒指導の専任教諭を置いているが、小学校にも広げることで、警察や地域との連携を強めるほか、専任教諭を含めた学校全体で問題をとらえることで、小学校の組織強化を図るという。

(2010年2月1日14時37分 読売新聞)
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 ★

 横浜は、私が37年間お世話になり、今も初任者指導教諭として勤めているところである。

 先頃の校内暴力の発生件数では、神奈川県が日本一であったが、その40パーセントは、横浜である。

 だから、横浜が、校内暴力の発生件数は、日本一だということになる。

 もはや、教師の力量云々と言われるものを越えて、深刻な学級崩壊、授業崩壊などがあり、鬱病や休職、あるいは退職に追い込まれる教師達がかなりいる。

 そういう中での、今回の対応である。

 小学校が、中学校並の生徒指導の対応をしなくてはならなくなったのである。

 これは始まりである。

 

 

 

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知らないということは、恐ろしいことである

  どこかにあるはずであった本を探し出した。物置倉庫の中からである。

 大西忠治教育技術著作集10「指導言(発問・助言・説明・指示)」の理論、著作集11(発問・助言・説明・指示)の技術 の2冊である。

 若い頃に買ったままで、ずっとしまい込んでいたものだ。

 10の理論編の目次を見た。

 「6 授業において、一番大切なのは、発問ではなくて説明である」

 「えっ、大西先生がもはや言われているじゃないか!」

「しかし、『授業で一番大切なのは発問』だというのは正確ではない。

 授業にとって、教師の指導言として一番大切なのは『発問』ではなく『説明』である。

 その証拠に、『発問』なしでも授業はできるが、『説明』なしでは授業はできない。『発問のない授業』はどこにでもある。たとえば、大学の先生方の講義は、ほとんどそれである」(著作集10)

 この通りである。

「…そのために、もっとも基礎的である『説明』が見えにくくなり、『説明』に対する、研究や追究がおこなわれにくくなっている、このことについて私は警告したかったのである」(著作集10)

 「なあんだ。私がこのブログで言ってきたことはすでに大西先生が、言われているじゃないか!」

 ★

 知らないというのは恐ろしいことである。

 大西先生は、1980年代にすでにこのことを提起されている。

 <著作集10の目次>

  1.  発問づくりの基礎技術
  2.  すぐれた授業のすぐれた説明
  3.  「発問・説明・指示」をめぐる諸考察

 <著作集11の目次>

  1.  国語授業と発問
  2.  教材分析と指導言
  3.  指導案と指導言計画
  4.  指導言の分析

 私が問題にしたことが、この2冊にばっちりと書かれている。

 ★

 説明について、これから教師達はもっと研究をしていかなくてはならないと、書いてきた。

 大西先生は、説明について、「説明の3つの構成要素」という項目で書かれている。

「説明というものには、3つの主要な構成要素(性質)がある。ひらたくいえば、3つの大切なことがある。

 ①教材内容の提示…学ぶべきものは何かを示すということである。

 ②教材の理解方法の提示…どういう順序で、どういうふうに考えていけばわかるようになるか、わかり方を述べるのである。

 ③教師の判断の提示…つまり何が正しいかを教える側が到達した結論をさし示す。

 という3つである。

 簡単にいうと『問題提示』『方法提示』『判断提示』の3つの性質があるとわたしは考える」(著作集10)

 きちんと提示されている。

 知らないというのは、恐ろしいことである。

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 私は、学生時代はずっと数学が苦手であった。

 ただ一度だけ好きになったことがある。成績も良かった。

 中2のときである。

 先生は、I先生。生徒指導の先生で、とても厳しい先生だった。(のちに、委員会の学校部長かになられたのではないかと記憶する。)

 だが、授業の最初はいつもお話で始まり、その話がおもしろく、私たちを笑わせて、笑いの渦に巻き込んだ。

 数学の授業を心待ちにするようになった。

 ただ、その時の数学の授業を思い出そうとしても、思い出せない。

 ただただ、笑っていたことだけが思い出される。

 かすかに記憶されるのは、授業が分かりやすかったということである。

 あれほど苦手だった数学を好きになったのであるから。

 今ならば、その時のI先生の授業は、「説明」が実に巧みであったということができる。

 大西先生は、次のようにも書かれている。

「わかりやすい『説明』は教師にとっては基礎的な技術であると同時に、教師という仕事を続けるかぎり、一生それをみがき続けなくてはならない技術でもある」(著作集10)

 

 

 

 

 

 

 

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