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続編 未曾有の授業崩壊

   前回のブログで、石川晋先生が書かれていることについて引用しておいた。

 それについて、自身のブログで、反応されている。

 

未曾有の授業崩壊

 野中信行先生が、ぼくが授業づくりネットワークに書いた原稿(この前の記事で雑誌を紹介しています)と、校内向けに発行し、何人かにだけ読んでいただいている自己研修通信から引用して下さっている。



 そう、未曾有の授業崩壊が目前まできていると、ぼくは感じている。
 問題は、多分、単純な先祖がえりだけでは太刀打ちできず、かといって、新しい授業技術だけでも当然対応できないということだ。

 しかし、これは、視界を広げて外の世界を見ると、音楽や美術、文学の世界においては、既に起こってきたことだ、とも思える。
 つまり、これら芸術の世界では、以前から使われてきた手法は使えて当然の手法であり、さらに新しい手法の開拓を余儀なくされていったのである。その結果、ごく一部の人しか行うことができず、ごく一部の人にしか理解されないものになっていったわけだ。現代美術、現代音楽、実験小説、みんなクライアント顧客を失っていった。

 その解決策はなんだったかというと、きちんと聴衆や観衆、読者に理解してもらえること。つまりクライアント顧客からスタートするということだったと、ぼくは考えている。もっともそのために20世紀という時間が使いつくされる結果になった。

 いずれにしても、この辺りにヒントがあるんじゃないかとぼくは思う。教育の世界も、最終的に学習者スタートの重要性に、みんなが気がつくという結末になればいいなあと思っている。しかし、おそらくそれまで長い混迷の時間が続くのだろうという気がする。

 ぼくらに何ができるのだろう、最近、ずうっと考えている。
 ★
 法則化運動で活躍された福山憲市先生も、コメントで私たちが持っている危機感を感じられている趣旨のことを書かれている。
 これは私だけが感じた問題ではないのである。
 日本全国の先生達が、同じような危機感を持っておられるのかもしれない。
 ★
 私は、この時期に「味噌汁・ご飯」授業を提案している。
 学校で「ごちそう」授業(研究授業など)に向けられている眼を「日常授業」の方に振り向けていかなくてはならないという提起である。
 学校の日常授業は、高学年になれば1000時間を超えていく。
 その1000時間のうちの2,3時間の研究授業(それはそれで意味があるのだが)に精力的な力を振り向けていくことは、もうやめなくてはならない。
 そういう思いを持っていた。
 そこへ札幌市の山手南小学校の「確かな学力を育成する日常授業の改善」というテーマが現れた。
 これは、すばらしい試みである。
 「日常授業」を問題対象にしたいということだ。
 私がブログに書いたら、南小の校長先生から「研究概要・指導案集」が送られてきた。
 画期的だ。
 いずれ私も、この学校へ授業を見に行きたいと願っている。
 ★
 学校の中で「日常授業」が問題対象にされてきたら、これは大きく変わるであろう。ここにこれからのヒントがあると、私は思っている。
 今まで学校の中で進められてきたものが揺り動かされる。
 そういう問題提起をこれから始めなくてはならないと思う。
  
 
 
 
 
 

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