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初任者の授業を見ながら考える

 

 初任者担当として初任の音楽専科の先生の授業を見る。

 今日の6年生の授業は、「ふるさと」の曲の様子を思い浮かべ  

て、上と下のパートに分かれて表現することを本時の目標にしていた。

 いつもは数人の男の子達がなかなかのらない。今日も最初は、そうであった。

 ところが、クレシェンド、デクレシェンドで強弱をつけて歌う練習をするあたりからだんだん全体的に盛り上がってきて、いつものやんちゃな男達もきちんと参加している。

 上と下の二つのパートに分かれて、きれいなハーモニーになりだしたところから俄然盛り上がり始めたのだ。

 最後は、先生が「終わりましょう」という話になったときに、やんちゃな子達から「先生、もう一回歌おう」とアンコールが出た。

 これは、初任の先生にとってうれしいできごとであった。

 いままでやんちゃな男の子達をどのように音楽の授業引き込んでいくかに苦労していたので、「今回のことは、大きなヒントになるね」という話になった。

 ◆

 初任者の授業を見ながら、しみじみと感じることは、「普通の授業」の大切さだった。

 私は、現役生活37年間の中で、研究授業以外に普通の先生が普通に授業している場面に立ち会ったことはほとんどない。ほとんどが、研究授業を見てきた。これは、担当する先生の作為が入った授業で、ある種の作られたものである。

 ところが、初任者の授業を一日中ずっと見ていると、「これこそが普通の授業だな」と思ってしまう。作ろうにも作りようがない。むき出しのそのままの授業が展開される。

 これは私にとっては、とても新鮮であった。

 この「普通の授業」は、「問題点(もちろん良い点も含めて)の宝庫なのだ」……と。

 初任者の「普通の授業」を見ていると、さまざまなことが見えてくる。

 クラスが荒れてくる初めは、どのような状態から始まるのか。どんなところに気をつければ、子ども達は落ち着いてくるのか。……アイデアがぽんぽんと浮かんでくる。

 この「普通の授業」は、問題点ばかりではない。

 授業の所々で子どもが身を乗り出してくる部分がある。

 特に、私はそこに注目する。

 授業している初任の先生達は、そこに気付かない。いや、初任者だけではない。自分の現役時代を思い出しても、授業をすることに夢中になって、なかなか子どもが身を乗り出してくるところまで気がいかないのである。

 ◆

 私は、もっと自分の「普通の授業」に注目したほうがいいと主張しているのは、こういう理由からである。

 普通の教師は、目の前の子ども達に十分な働きかけをしていく仕事を担っている。

 だからこそ、自分がいつもしている「普通の授業」を豊かなものにしていくことは、教師の力量をつけていくためにはどうしても必要なことである。

 自分の授業をビデオに撮ったり、あるいは録音していったりすること。それを見ることは、とても大切な作業である。教室の後ろにビデオカメラを設置するだけで十分だからだ。

 しかし、こう問いかけて、その必要を感じた人でも、実際に実行に移す人は少ないだろうなあと思う。

 人は、一番大切で、一番重要な、自分の部分をあえて避けて通ろうとするからである。

 ◆

 私達は、今まで自分の教師としての力量をつけるためには、外発を主なものにしてきた。

 外発とは、書物や研究会などを意味している。せっせと研究会へでかけ、さまざまな実践に出会い、その実践からエキスをもらい、それを自分の実践にいかに取り入れていこうかと考えてきた。いい実践をたくさん仕入れて、それを自分の授業に組み立てていく、そんな発想だったと思う。

 このような外発によって、戦後の日本の教師達は力量をつけてきた。

 しかし、私はいまもう一つ内発が必要ではないかと考えている。

 自分の授業を対象化し、自分の授業をフィルターにかける試みである。

 自分の授業のどこが、どのように子供達をひきいれているか。

 自分の授業のどこが、どのように子供達を飽きさせているか。

 このようなことを分析していくことである。

 ◆

 精神科医滝川一廣氏は、次のように書いたことがある。

「精神療法の成否は、こちらが『なに』をなすかではなく、相手が『なに』をどう体験するかの方にかかっている」

 この考えを教育の現場に引き寄せてきたとき、私たちは、ほとんどを教師の側から見た「なに」に終始してきた。

 目標はなにか。ねらいはなにか。どんな教材を準備するか。どう働きかけるか。発問・指示・説明は何か。……すべてが教師の側から見た「なに」であった。

 その「なに」がどのように子供達に体験として受け止められているか、といった議論が果たしてどのくらいあっただろうか。

 教師の「なに」にのみ関心が集中し、子供がどんな体験として受け止めているか、という触手が伸びていなかったのだ、と思う。

 私の実践を内省するとき、そのような問題に突き当たる。

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