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みたび「味噌汁・ご飯」授業について考える

  「味噌汁・ご飯」授業については、さまざまな反響があった。ありがたいことであった。

 この授業を考え出すまでには、今までいくらか考えてきたことがある。

 ★

 若い頃、学習会のために二泊三日で水戸に行ったことがある。

 一緒に行った友人のおばさんがかつて民宿をしていて、そこで泊めてくれるというのである。

 昼食からご馳走であった。新鮮な刺身が出て、大変なご馳走になった。

 夕食も、そうであった。もうみんなニコニコで、このような食事ができることを感謝した。

 二日目も、朝から刺身三昧でご馳走であった。何ということであろうか。

 ところが、夕食あたりから、さすがに刺身三昧には飽きてきた。げんなりしていた。

 三日目には、もう簡単なお茶漬けぐらいで十分だなと思うようになった。

 勝手なものだ。あれほど一日目は、大変なご馳走に喜び勇んでいたのである。

 この経験は、子供達が受ける授業でも言えるのではないかと考えてみたのである。

 ★

 もう一つある。

 今から20年ぐらい前に「新しい学力観」という方法論が学校現場に持ち込まれた。「ゆとり教育」のはじめである。

 今まで、「指導の留意点」としてきたのが、「支援」になった。

 指導ではない。支援をするのだと指導主事を中心にそれこそ指導されたのである。

 授業の最初は、子供が口火を切るようにすること。

 教師は、黒板の前にばかり立たないで、そばから支援する立場にまわるように。

 できるかぎり教師は、発言しないで、子供中心に発言をし、活動をさせるように。

 全国一律に、「支援」の嵐が吹き荒れたのである。

 今もその名残で、指導案に支援を使っている学校はある。

 その結果、どうなったか。

 教え込んではならないということを強調したので、かけ算の九九は無理矢理詰め込まない、漢字も教え込まない、できないことを無理に教えようとしないということで、教師達は、どんどん手を引っ込めていったのである。

 子供達がどういうことになったか、無残なものであった。

 誰もその責任をとることはなかったし、文科省も、その総括をすることもまったくなかった。

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 ここで<仕組み>を変えたのである。

 指導から支援へ。

 どこの学校も総合の研究授業で、さかんに<支援>の授業を展開した。

 しかし、研究授業をする先生達の特徴は、総合の一単元は、支援の授業をするのだが、他の授業は、支援とは関係なく、発問とも指示とも説明ともつかないぐじゃぐじゃの授業をしていたのである。

 いわゆる二枚舌の授業とも言えるものであった。

 もちろん、それは教師に求められていたもので、一方的に責任を追及すべきものではない。

 先生達は、支援の授業を日常的に行えなかったのである。

 支援は、指導以上に高度であり、子供達の高まりがない限りはできることではない。そんな技術など持っていなかったのである。

 これは、ゆとり教育が破産する今日まで20年ばかり続いてきたのである。

 深刻なのは、この20年ばかりに、先生達は、「支援だ、支援だ」と、できもしない課題を延々と背負ってきて、基本的な発問や指示や説明の研究をきちんとしていないことである。

 身銭を切って研究会やサークルをやってきた先生や個人的に研究をしてきた先生以外は、ほとんど基本的な授業の進め方を身につけないままに、今教師をしているはずである。

 45歳以下の先生達がそういうことになる。

 それがよく分かるのは、初任者や教育実習者にしてもらう示範授業である。

 してもらうからありがたいのだが、発問と指示と説明の区別をするという基本から一時に一事の指示などがほとんどできないベテランがいる。それも数多く。

 私は、示範授業の内容を言っているのではない。授業の基本を問題にしているのである。

 はっきり言っておきたいが、目を覆う惨状である。

 ★

 もういちど、きちんとした<仕組み>転換をしなくてはならないと思う。

 支援ではない。指導である。

 いま横浜では、「きちんと教えて、きちんと引き出す」と言っている。

 この通り。

 こんな当たり前のことが、20年間の間どうしてできなかったのであろうか。

 まさに空白の時間であった。

 この空白を生み出していったのは、教師が日常的にできることとは何かという課題を忘れ去って、「こうあるべきだという理想」を追い求めていったつけであったと、私は考える。

 

 さて、「味噌汁・ご飯」の授業である。

 ネーミングが悪い。(笑)確かに。

 上越の赤坂真二先生のところは、「普段着の授業」と言っている。

 ネーミングは良い。

 京都の糸井先生は、「このようなことは、全国の教師が意図していることではないだろうか」と指摘されている。

 糸井先生が考えられていることと、私の提案していることがすれ違っているのかも知れない。

 私は、大半の教師は意図していないと思っている。

 池田先生が、「味噌汁・ご飯」の授業の要素を次の3つで指摘されている。

 1,日常的で

 2,飽きが無く

 3,安定した栄養素が保障されている

 日常的であることとは、多くの教材研究ができないということである。

 多くの教師は、確かにこの現状であろう。

 しかし、2,3は意図していないであろう。ただ、教科書を教えていくというだけではないだろうか。

 2,3の要素は、意図的に追求していかなくてはならない課題だと思う。

 特に、2の課題は、子供の側からの追求がなくてはならない。(1,3は教師側の課題である)

 

 

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コメント

こんにちは。
いつもブログを拝見しています。
先生のブログが復活してから、ずっと拝見していましたが、
コメントは初めてです。
私は現在26歳で関東地方の小学校の初任者です。
先生の本は3冊拝読しました。その中のいくつかを私なりに実践し、
少しずつ、教職の楽しさを感じられるようになってきました。
日常の授業の大切さも実感しているところです。

26歳。
先生のおっしゃる「空白の20年間」で義務教育を過ごしてきた
最初の年代かもしれません。週5日は5年生くらいから始まりました。


「味噌汁・ご飯」授業、現実的でいて魅力的な考え方だと思います。

空白の20年の代表者として、これからの子どもたちには、
確実に学力をつけられる教師になろうと思いました。

横浜のご講演にも、ぜひ伺いたいと思っています。
これからも、先生のブログや原稿を楽しみにしています。


投稿: M.S | 2009年10月24日 (土) 09時56分

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