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2009年10月

「仕組み化」ということ

  前回の糸井登先生のブログを繰り返し読んでいると、さまざまなことが読み取れる。

 有名な実践家というのは、こんなことをやっているのだということが分かる。

 糸井先生は、まず普段の授業の中でやっていることは、次の4つであると言っていっている。

  1、子どもたちへの躾(学校内でやるべきこと)の徹底

  2,子どもたちへのノート指導

  3,教室掲示などを含めた教室環境の意識化

  4,子どもたちへの発表指導

      

   「こういう基本的なことを授業で徹底していく。まず、それが、私の『普段着の授業』である」と言われている。

 多分、4月、5月、6月は、この基本的な指導を徹底されるのであろう。

 有名な実践家として名を馳せた名古屋安東小学校の築地久子先生もまた、4月、5月、6月は、何度も何度も口酸っぱくして指導を繰り返すとどこかで書いておられたことがある。

 この築地先生の実践は、誰もマネができないものであった。

 糸井先生には、ぜひともマネができるように、その具体的な仕組み化を明らかにしてもらいたいものである。

 ★

 私が、最近ちょっと凝っているのが、この「仕組み化」である。

 法則化運動を再検討していく中で、この運動の重要な問題提起は、この「仕組み化」であったと気づいたからである。

 それから仕組み化についての本を読んでいる。

 ブロガーで有名な小飼弾の「小飼弾の仕組み進化論」(日本実業出版社)、「仕組み仕事術」(泉正人著 ディスカヴァー)を読んだ。

 おもしろかった。

 泉正人さんは、仕組みというのをこのように定義している。

 「誰が、いつ、何度やっても、同じ成果が出せるシステム」 

 <ケース1>で、2軒のレストランの例をあげている。

 「『ビッグ』(はんばーぐで有名なレストラン)は、せっかく腕のいい達人シェフがいたにもかかわらず、その技術は結局、達人シェフだけのもので終わりました。彼がいなくなったら、店の売り上げはたちまち落ち込んでしまいました。

 他方、『キッチンスマート』(家族向けのファミリーレストラン)では、達人シェフのハンバーグを、学生アルバイトでも味を再現できるような簡単レシピに落とし込みました。そうすることで、『シェフの味』を『店の味』にすることができたわけです。これこそが『仕組み化』です」

と紹介している。

 ★

 この「仕組み化」(システム)は、私がずっと主張してきたことでもある。

 学級づくりでも、おおいにこの仕組み化を応用してきた。

 しかし、問題もある。

 ハンバーグは、物作りである。

 だからこそ、仕組み化ができる。

 だが、教師の仕事は、子ども相手の交互作用によって成り立つものであり、そんな仕組み化とは相容れないものがある。

 とまあ、そのように反対される。確かに、そのようなことも言える。

 誰が、いつ、何度やっても、同じ成果がだせない場合もある。

 これも事実である。

 このような反対で、仕組み化はなかなか教育界には、適用されていかない。

 その結果、ずっと今でも経験主義の家内工業的なことがまかり通っている。

 教師の学級経営もそうであるし、仕事の仕方もそうである。

 授業の中身も、システムも、ほとんど変わりがない。

 私が、教師になった37年前から比べて変わったことは、何か。

 1,ガリ版がパソコンになった。これは大きな変化。

 2,授業では、テレビが導入され、パソコンでの授業もできるようになった。

 要するに、機械が便利になり、教師も、その便利な機械を使えるようになったことだけは確かである。

 他にあるだろうか。

 授業の内容が変わり、教師の技量が格段に進歩し、教師の仕事も早く終えられるようになり、教師に余裕が出てきたのか。

 それはまったくない。

 授業の内容は相変わらずだし、教師の技量の進歩は見えないし、仕事は遅くなり、忙しくなり、教師の余裕はますます無くなってきたのである。

 ★

 愚痴、不満、文句を言っても始まらない。

 この現実に私たちは生きているのである。

 私は、「仕組み化」を提案してきた。

 「3・7・30の法則」は、学級の仕組み化をするためのものであった。

 学級づくりで、仕組み化できるものはしていこうとする立場であった。

 普通の教師達が、ちょっと努力すれば、そこそこの学級経営ができるようになるという仕組みを作り出すこと。

 そんなことを考えてきた。

 まだ、道半ばである。

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またまた「味噌汁・ご飯」授業について

   京都の糸井先生が、再び「味噌汁・ご飯」授業について書いておられる。

 全文を引用しよう。

 

野中先生が、「味噌汁・ご飯授業」について、ご自身の考えをブログにて展開されている。
で、私も、先日のブログで、少し触れたことがあった。

と、恐れ多いことに、野中先生のブログで、少し紹介いただいた。

・・・・・・引用開始

京都の糸井先生は、「このようなことは、全国の教師が意図していることではないだろうか」と指摘されている。

糸井先生が考えられていることと、私の提案していることがすれ違っているのかも知れない

・・・・・・引用終了

私が言いたかったことは、赤坂先生のネーミングで語った方がよいのかもしれない。
赤坂先生は、この「味噌汁・ご飯の授業」を「普段着の授業」と題されている。
それに対する言葉が、「晴れ着の授業」だ。

このような認識は、全国の教師が意図しているという意味である。
つまり、「普段着の授業」と「晴れ着の授業」は違うということである。

教師は、「晴れ着の授業」を見せなくてはならない時がある。
参観日しかり、研究授業しかり、である。


だから、参観日前日ともなると、焦りまくる教師を私は多く見てきた。

かく言う私とて、偉そうなことは言えない。
ただ、私の場合、研究授業だとか、公開授業の場を普通の教師よりは多くする機会があった。

研究授業、公開授業といった先生方に見てもらう授業の場合、
「ああ、子どもたちの態度が悪い。どうしよう。」
「ああ、子どもたちのノートが滅茶苦茶だ。ノート指導を何とかしておけばよかった。」
「ああ、教室がぐちゃぐちゃだ。もっと、教室環境を何とかしとけばよかった。」
「ああ、子どもたちがなかなか発表しない。発表の仕方をきちんとしとけばよかった。」

だから、こういうことを、まず、普段の授業の中で考えていくようになった。

1.子どもたちへの躾(学校内でやるべきこと)の徹底
2.子どもたちへのノート指導
3.教室掲示などを含めた教室環境の意識化
4.子どもたちの発表指導

そして、そういう観点を授業の中に取り入れていくことである。
こういう基本的なことを授業の中で徹底していく。

まず、それが、私の「普段着の授業」である。

更に、子どもたちが飽きないように、テンポと内容構成を考える。

テンポというのは、「子どもたちに空白の時間をつくらないこと」「タイマーを使って、時間の目処を子どもたちに知らせること」などである。
また、「指示の明確化」「単純な言葉を使う」ということもあるだろう。

内容構成というのは、国語であるなら、「音読をどうさせるか」「内容の読み取りをどうさせるか」「ノートをどのようにとらせるか」などを、必ず考え、入れていくということである。

そういうことまで、全国の多くの教師が考えてるかどうかは、知らない。

私が言いたかったのは、「晴れ着の授業」と「普段着の授業」があること。授業のほとんどが、「普段着の授業」であること。
そして、残念なことに、自分の「普段着の授業」がボロボロであることを全国の多くの教師が知っているであろうというである。

普段着をいかにセンスよく着こなせるかが、センスの良い人であるように、教師にも求められているのだろう・・・と思う。

ちなみに、今、池田先生のゼミの学生が教育実習として我がクラスに入っている。
今週で、三週目である。
毎日、私の「普段着の授業」を見ている。
もう、ボロボロである。恥ずかしい限りである。
だが、「普段着の授業」こそが、私の授業である。
そこに、その教師の真実が見えてくるのだと思う・・・・。
 ★
 なるほど、なるほど、私が糸井先生の書かれたことを誤解していたことになる。
 これは、よく分かる。糸井先生が、「普段着の授業」をどのように作っておられるかも、とても参考になることである。
 これから糸井先生の実践が、さまざまに世に出ていくだろうが、上に書かれていることはとても大切なこととして注目しておくことである。
 11月15日(日)横浜の講座で、私が考えた「味噌汁・ご飯」授業を提案したいと思っているが、とても参考になることである。
 

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やはり音読はどうしても必要である

  初任者指導の一日では、授業が終わったあとに必ず話し合いの時間を設ける。

 今日は、初任者の先生は、音読について次のように話されていた。

「音読を授業に毎回組み込んでいくことによって、子供達の声が変わりました。

 今日の「くじらぐも」の劇活動でも、みんな元気に声が出ていて、ずいぶんよく声が出てくるようになったんだなと思いました」

 4,5月の頃には考えられないことである。

 国語の毎時間の最初に、音読の時間を入れていく試みの成果であることは間違いない。

 昨年の1年生の初任の先生も、国語の授業に音読を入れられて、大きく子供達の声を変えられていた。

 これは、何なのだろう。

 ★

 国語の教師でなくても、音読の必要は誰でもが納得している。

 でも、音読を毎時間のように、ある時間を確保して授業に取り入れているという教師はどのくらいいるのだろうか。

 ほとんどいないと思う。

 ほんの少数になるに違いない。

 私が知っている先生では、中学校の国語教師堀裕嗣先生、立命館小学校の岩下修先生など限られた先生である。

 そうそう、私が退職した大池小学校は、学校ぐるみで音読を5分間国語の授業の最初に設ける取り組みをしていた。3年間行った。(今はどうなっているか分からない)

 必要性は分かっていて、取り入れられないのは、結局どのように取り入れていっていいか分からないからだと思っている。

 ★

 私は、高学年で、この音読を毎時間国語の授業に取り入れていた。

「野球では、必ず練習の前に2人でキャッチボールから始めるだろう。サッカーだって、そういう練習から始めるはずである。

 なにごとにも、まず体の準備が必要だ。国語の勉強の準備運動は、音読です。

 これを5分間行って、本番の勉強に入っていきましょう」

と、子供達には言っていた。

 それでも続けていくと、飽きてくる。

 二人組を組ませて、お互いに顔を見合って、その人に声を届けるようにしようと、取り組んだこともあった。

 ほとんどが教師の追い読みで行うことが多いのだが、段落ごとに子供達に割り振って、その子供の追い読みで行うこともあった。

 試行錯誤であった。

 私は、よくは知らないが、このような研究をしたところはあるのだろうか。

 音読についての書物は、たくさん出されていることは知っているが、授業のなかに毎時間取り入れて、それを1年間続けていく研究をされた学校は(大池小学校以外に)あるのだろうか。

 私は、大池小学校で3年間音読を続けながら、さまざまな課題を感じた。

 ★

 1つは、さきほど上げた飽きてくる事に対してどのような手立てがあるのかということになる。野球のキャッチボールみたいに子供に定着させていくようにするにはどうしたらいいか。

 2つ目は、取り上げていく詩などの作品をどのように考えていくか。私は、高学年でも、発声練習や言葉遊びなどを多く取り入れていったが、低学年などに論語を入れたりしていく(ほとんど意味が分からないもの)ことなどにはあまり賛成ではなかった。では、百人一首はどうするのだと言われそうだが、あれは、ゲームの一首として日本語のリズムをつかむものと考えればいいと思う。

 3つ目は、音読を取り入れるとこのように良く変化していくということが子供達にも分かるようなこととして明確にならなければいけないと思う。教師側だけが納得しているのでは、やはり続かないのではないだろうか。

 4つ目は、教室で取り上げる音読の方法は、さまざまな方法が明らかになっているが、やはりどこかではっきり取り上げていくべきである。多くの教師達のものにはなっていない。

 

 

 

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野村監督が去っていった

   「その寂寥感はじわじわとやってくると思う。野村克也監督がもう、ベンチにいない。あのボヤキを、毒舌を聞くことはできない。

 昭和の香りを感じさせる最後の野球人だったかもしれない。長嶋茂雄、王貞治がユニフォームを着ることはもうなく、野村が去ったことで、ひとつの時代が終わったのだと感じる。」

 朝日の西村欣也は、そのようにコラムを書き始めている。

 野村克也に比べれば、長嶋、王などは、プロ野球界の貢献度は、たいしたことはなかった、と私は思っている。

 データを分析し、野球を読む達人であった。

 感覚で語ることなく、科学を導入して野球を語っていく、第一人者であった。

 その貢献度は、計り知れないと思う。

 ★

 このブログで取り上げてきた「野村ノート」(小学館)の次の言葉は、いつでも思い出されることである。

「よくピッチャーにこういうことを訊く。『どうして変化球を投げる必要があるのか?』『配球にヤマを張らせないように』と答える、球種を多くもつことで打者の狙いをぐらつかせるー確かにそれもある。だがいちばん大事なことを忘れている。変化球の必要性とは、スピード不足とコントロール不足を補うためである」

 野村は、その後に続けて、往年の名選手金田や稲尾、米田、皆川たちが、変化球を覚えることで長生きをし、大記録を作った話題を書いている。

 その後に、ベテラン教師が、「変化球を覚える」というのはどういうことだろうと考えたものである。

 しかし、考えてみれば、野村は、自らずっと変化球を投げ続けてきたのかもしれない。選手から監督へと位置を変えながら。

 ★

 登板を志願した岩隈にスレッジの敬遠を指示しながら、「勝負したい」という岩隈の気持ちに任せた。

 この時点で、もはや、勝負は捨てたのであろう。

 スレッジに3点ホームランを浴びて、泣きじゃくる岩隈。

「チームとしてこれでよかったんじゃないか。段階を踏んでいった方がいい。ビッグゲームで負けることで得られるものもある。負けた方が、真剣に反省する」

 野村監督の最後の言葉だったという。

 

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みたび「味噌汁・ご飯」授業について考える

  「味噌汁・ご飯」授業については、さまざまな反響があった。ありがたいことであった。

 この授業を考え出すまでには、今までいくらか考えてきたことがある。

 ★

 若い頃、学習会のために二泊三日で水戸に行ったことがある。

 一緒に行った友人のおばさんがかつて民宿をしていて、そこで泊めてくれるというのである。

 昼食からご馳走であった。新鮮な刺身が出て、大変なご馳走になった。

 夕食も、そうであった。もうみんなニコニコで、このような食事ができることを感謝した。

 二日目も、朝から刺身三昧でご馳走であった。何ということであろうか。

 ところが、夕食あたりから、さすがに刺身三昧には飽きてきた。げんなりしていた。

 三日目には、もう簡単なお茶漬けぐらいで十分だなと思うようになった。

 勝手なものだ。あれほど一日目は、大変なご馳走に喜び勇んでいたのである。

 この経験は、子供達が受ける授業でも言えるのではないかと考えてみたのである。

 ★

 もう一つある。

 今から20年ぐらい前に「新しい学力観」という方法論が学校現場に持ち込まれた。「ゆとり教育」のはじめである。

 今まで、「指導の留意点」としてきたのが、「支援」になった。

 指導ではない。支援をするのだと指導主事を中心にそれこそ指導されたのである。

 授業の最初は、子供が口火を切るようにすること。

 教師は、黒板の前にばかり立たないで、そばから支援する立場にまわるように。

 できるかぎり教師は、発言しないで、子供中心に発言をし、活動をさせるように。

 全国一律に、「支援」の嵐が吹き荒れたのである。

 今もその名残で、指導案に支援を使っている学校はある。

 その結果、どうなったか。

 教え込んではならないということを強調したので、かけ算の九九は無理矢理詰め込まない、漢字も教え込まない、できないことを無理に教えようとしないということで、教師達は、どんどん手を引っ込めていったのである。

 子供達がどういうことになったか、無残なものであった。

 誰もその責任をとることはなかったし、文科省も、その総括をすることもまったくなかった。

 ★

 ここで<仕組み>を変えたのである。

 指導から支援へ。

 どこの学校も総合の研究授業で、さかんに<支援>の授業を展開した。

 しかし、研究授業をする先生達の特徴は、総合の一単元は、支援の授業をするのだが、他の授業は、支援とは関係なく、発問とも指示とも説明ともつかないぐじゃぐじゃの授業をしていたのである。

 いわゆる二枚舌の授業とも言えるものであった。

 もちろん、それは教師に求められていたもので、一方的に責任を追及すべきものではない。

 先生達は、支援の授業を日常的に行えなかったのである。

 支援は、指導以上に高度であり、子供達の高まりがない限りはできることではない。そんな技術など持っていなかったのである。

 これは、ゆとり教育が破産する今日まで20年ばかり続いてきたのである。

 深刻なのは、この20年ばかりに、先生達は、「支援だ、支援だ」と、できもしない課題を延々と背負ってきて、基本的な発問や指示や説明の研究をきちんとしていないことである。

 身銭を切って研究会やサークルをやってきた先生や個人的に研究をしてきた先生以外は、ほとんど基本的な授業の進め方を身につけないままに、今教師をしているはずである。

 45歳以下の先生達がそういうことになる。

 それがよく分かるのは、初任者や教育実習者にしてもらう示範授業である。

 してもらうからありがたいのだが、発問と指示と説明の区別をするという基本から一時に一事の指示などがほとんどできないベテランがいる。それも数多く。

 私は、示範授業の内容を言っているのではない。授業の基本を問題にしているのである。

 はっきり言っておきたいが、目を覆う惨状である。

 ★

 もういちど、きちんとした<仕組み>転換をしなくてはならないと思う。

 支援ではない。指導である。

 いま横浜では、「きちんと教えて、きちんと引き出す」と言っている。

 この通り。

 こんな当たり前のことが、20年間の間どうしてできなかったのであろうか。

 まさに空白の時間であった。

 この空白を生み出していったのは、教師が日常的にできることとは何かという課題を忘れ去って、「こうあるべきだという理想」を追い求めていったつけであったと、私は考える。

 

 さて、「味噌汁・ご飯」の授業である。

 ネーミングが悪い。(笑)確かに。

 上越の赤坂真二先生のところは、「普段着の授業」と言っている。

 ネーミングは良い。

 京都の糸井先生は、「このようなことは、全国の教師が意図していることではないだろうか」と指摘されている。

 糸井先生が考えられていることと、私の提案していることがすれ違っているのかも知れない。

 私は、大半の教師は意図していないと思っている。

 池田先生が、「味噌汁・ご飯」の授業の要素を次の3つで指摘されている。

 1,日常的で

 2,飽きが無く

 3,安定した栄養素が保障されている

 日常的であることとは、多くの教材研究ができないということである。

 多くの教師は、確かにこの現状であろう。

 しかし、2,3は意図していないであろう。ただ、教科書を教えていくというだけではないだろうか。

 2,3の要素は、意図的に追求していかなくてはならない課題だと思う。

 特に、2の課題は、子供の側からの追求がなくてはならない。(1,3は教師側の課題である)

 

 

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ふたたび「味噌汁・ご飯」授業を考える

  初任者の研修の関係で、今日は、午前中の4時間は、私が授業を行う。

 朝、学校へ行くと、机の上に今日の予定が乗せてあった。

 1時間目が、算数(1桁同士の繰り上がりのたし算)、2時間目が、国語(くじらぐも)、3,4時間目が生活科で給食室の見学と発見カードへの記入 ということだ。

 急いで、教材研究を行い、教具を準備し、「味噌汁、ご飯」授業の実験である。

 ★

 私は、「味噌汁、ご飯」授業を縦と横(縦糸・横糸ではない)の課題(仮)として設定しようとしている。

 縦の課題は、教師のねらいをはっきりさせるということ。(教えること)

 横の課題は、子供をいかに作業させていくかということ。(活動すること)

 この2つを合体させて授業づくりをしようとしている。

 縦の課題は、次のようなことだ。

 ①本時の目標を明確にする。

 ②その目標を踏まえて、授業のはじめ、まん中、おわりを構成する。

 ③本時でむずかしいところ(つまずきやすいところ)をチェックする。

 ④発問(むずかしいところを問いかける)、指示、説明をテンポ良く、繰り出す。

 

 さて、横の課題である。

 縦の課題に、横の課題を絡めていきたい。

 縦の課題は、あくまでも教師の教えたいことにしか過ぎない。

 授業は、教師と生徒の交互作用である。

 そして、授業は生徒のエネルギーをどのように発揮させていくかで考えるものである。

 そうするならば、子供達(生徒)がよくのってくることを設定していくに限る。

 それを横の課題と考えたい。

 ★

 昨年からずっと初任者の授業を後ろから見ている。

 見る視点は、はっきりしている。

 どこで子供達はのってくるか、どこで子供達は飽きてくるか。

 授業をしていると、なかなかこの視点で子供達をつかむことはできない。

 しかし、見るということで、この視点からつかむことができてくる。

 私は、はじめてこのような視点で子供達を見ていることになる。

 授業の中で、子供の行為は、次のことになる。(1年生の場合)

  1. 聞く…教師の説明
  2. 発表する
  3. 読む(音読する)
  4. 書く(ノートに書く、プリントに書く、黒板に書くなど)
  5. 物を操作する(ブロック、おはじきなど)
  6. 作る、描く
  7. ゲームをする
  8. 体を動かす            など

 授業を見ていると、子供達が飽きるのは、1つのことに限られる。

 1,聞くという行為 のときである。

 教師の説明は長すぎる。くどい。

 そのために、何を言っているのかわからなくなる。説明の間に、子供を叱ったりするから余計に分からなくなる。

 最初から先生の話は聞かない、聞けない子供もいる。

 だから、この聞くという行為をできるだけ少なくし、説明や指示は、できるだけ短く、簡潔にすることである。

 2,3がうまくできる子供は、授業にのってくる。

 4から8も、子供達は、のってくる。

 書くことは嫌なことだと考えるのは、私たちの思い込みである。

 要するに、子供達は、手足を動かしたり、体を動かしたりしていれば、飽きることがないのである。

 よし、横の課題として、これを使おう。

 ★

 とすると、「味噌汁、ご飯」授業はどうなるのだろうか。

 ○本時の目標

 ○はじめ

  ・指示、説明、発問があり、そして2から8の課題を入れる

 ○まんなか

  ・指示、説明、発問があり、そして2から8の課題を入れる

 ○おわり

  ・指示、説明、発問があり、そして2から8の課題を入れる

 要するに、縦の課題(教えること)の中に、横の課題(活動すること)を絡めていくことなのである。

 ★

 横の課題だけだと、活動主義になる恐れがある。

 生活科や総合で、さんざん活動主義を批判してきたはずである。

 縦の課題だけだと、教え込みの授業になる恐れがある。

 一方的に子供達が聞く側にまわれば、もはや授業としての交互作用はなくなってしまう。

 この縦と横の条件がうまくかみ合っていけば、

 池田修先生が、「味噌汁・ご飯」授業の要素としてあげてある、

 1,日常的で

 2,飽きることが無く

 3,栄養価が安定している

 授業になっていくと、考える。

 ★

 しかし、これは私が現在構想中のもので、まだまだまとめることができない。

 どの教科でも使えるか、それも分からない。

 難しい単元(たとえば、6年の国語単元「やまなし」など)に応用できるものか、まだ考えられない。

 ★

 私のブログは、このように現在進行形の話題でいきたい。

 明日は、また少し変わっているかも知れない。

 11月15日(日)の私の講座では、もう少しまとまった内容を出せるといいなと思っている。

 

   

 

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法則化運動は、<仕組み>の改変であった

  教育技術の法則化運動について、改めていくつかの書物を読んでみた。

 「ぶらっしゅあっぷ」という雑誌の第2号の原稿のためである。

 「ああっ、そうか!」という気づきがあった。

 それについて書いておきたい。

 ★

 法則化運動は、「この運動は、20世紀教育技術・方法の集大成を目的とする。

『集める』『検討する』『追試する』『修正する』『広める』(以上まとめて法則化とよぶ)ための諸活動を行う」という目的で始められたものである。

 運動理念は、4つである。

  1.  教育技術はさまざまである。できるだけ多くの方法をとりあげる。(多様性の原則)
  2.  完成された教育技術は存在しない。常に検討・修正の対象とされる。(連続性の原則)
  3.  主張は教材・発問・指示・留意点・結果を明示した記録を根拠とする。(実証性の原則)
  4.  多くの技術から、自分の学級に適した方法を選択するのは教師自身である。(主体性の原則)

 今回、注目したのは、3の「実証性の原則」である。

 これは、授業の指導案も、記録も、発問・指示・説明などで行う手法として新しく登場したものであった。

 実際に、この手法は画期的なものであった。

 どんな授業なのかというのが、一目瞭然で分かった。追試ができるようにもなった。

 そんなことより何よりも、授業そのものを、発問・指示・説明を意識して行うようになったというのが、大きな変革であった。

 ★

 これは簡単なことではない。

 「20世紀教育技術・方法の集大成」という目的よりも、格段に大切なことだと私は考える。

 集大成されたものなどは、いずれ埃をかぶって隅に追いやれていく。

 しかし、「実証性の原則」という仕組みは、必ず生き続ける。

 実際に、法則化運動を踏まえた先生達は、自分の授業に、この仕組みを使っているはずである。

 私も、そうだ。

 初任者指導の仕事で、初任者に最初に教えるのは、このことである。

 ★

 法則化運動は、旧来の授業の仕組み、指導案の仕組み、授業記録の仕組みを大きく変えようとした運動だったのだ、ということに改めて気づいたのである。

 旧来の授業の仕組みは、教材によって成り立っていたものであった。

 どのような教材を用いるかということが、最優先で考えられた仕組みであった。

 だから、かけ声は、「教材研究、教材研究」であった。

 発問は、教材研究の果てにおのずと浮き出してくるものだと考えられていた。

 ★

 しかし、法則化は、この仕組みを変えた。

 教材研究と発問・指示・説明は、もちろん関連しているが、それぞれ独立して追求されるものであることを明らかにした。

 指示・説明が、授業の中の要素として取り出されたことは、初めてのことであった。

 指示・説明などの研究が行われていくことなんか、それまではとても考えられなかった。

 これは画期的なことであった。

 ★

 変わるということは、こういうことなのである。

 どんなに表面的な華々しい変わり方をしても、それは一時的なものだ。

 ほんとうに変わるとは、<仕組み>(システム)が変わるということなのだ。

 たとえば、音楽関係の製造業。アナログレコード全盛期には、レコード針の会社が数多く存在し、製品開発や販売戦略でしのぎを削っていた。

 しかし、針を使わないCDが登場したことで、これらの会社はほぼ全て消滅してしまった。

 レコードからCDへの<仕組み>の転換は、大きな変革をもたらした。

 新しい仕組みが登場することによって、従来の仕組みは、一夜にして消えることは珍しくなくなっている。

 同様に、もし音楽配信サービスがさらに一般化になったら、CD用部品業界も苦戦することは必死である。

 ★

 法則化運動は、どうなったのだろうか。

 旧来の授業の仕組みが、ほとんど現場に合わなくなっていたことは明白であった。

 それは、民教連の多くの組織が、年寄りだけの組織になって衰退していっていることだけからも明らかであった。

 若者達から見向きもされなくなっていた。

 それは、むずかしい授業理論と膨大な教材研究を要求されてくる授業づくりだったからである。(もちろん、否定することばかりはないのだが……。)

 しかし、法則化運動が、<仕組み>の改革を迫ったという認識は、どこにもなかったのだと思われる。

 おそらく、法則化運動を進めている人たちにもなかったのではないだろうか。

 そして、いま<歴史>になろうとしている。

 ★

 いま私たちに残されてくるのは、法則化が提起した授業の<仕組み>をどのように引き継いでいくのかであろう。

 旧来の仕組みは、もう破産してしまっているのだ。

 その破産した<仕組み>をまだ現場は、上澄みだけを模倣しながら綿々と続けている。

 いずれどうにもならなくなる。

 中学校の授業崩壊、小学校の学級崩壊は、その警告であった。

 企業は、物が売れなくなるという現実にさらされる。仕組みを変えざるをえない。

 しかし、学校は、クラスが荒れる、崩壊するという事態になっても、教師の問題、子供の問題など個人的な問題にしておけば事が済んでしまう。

 学校の仕組み、学級の仕組みの改変は、緊急であるはずである。

 さて、……。

  

  

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「55」の次が言えない高校生たち

  「『子供のために』を疑う」(二神能基著 朝日新書)、「ドキュメント高校中退」(青砥恭著 ちくま新書)の2冊の新書を読んだ。

 二神さんの本は、小学生や中学生を子供に持つ親たちがぜひとも目を通しておく本であると思った。

 二神さんは、15年間中学受験塾を経営していて、いま不登校やニートの若者を支援するNPO法人の代表を務めておられる。

 だから、さまざまな情報を持っておられる。さまざまな子供を育ててきた経験からの助言は含蓄に富んでいる。

 ・私は子供を伸ばすには、3つの力のバランスが大切だと考えています。(抽象的能力・具体的能力・社会的能力)

 ・子供が健全な社会人になることを望むのなら、私の経験上、上位三分の一、最低でも上位二分の一以内に入れない学校には、進学させないほうがいいと思います。

 ・中学受験の勉強は一年間が原則

 ・友達親子の問題

 ……

 今まで聞かれなかった助言が多く含まれている。

 ★

 青砥さんの本は衝撃的な本であった。

 青砥さんは、高校中退していく生徒たちのことを調べて、本書を書き上げている。

 埼玉県のSA高校は、2006年の4月には、200人の新入生がいたが、2009年の卒業式には、80人が卒業式の会場にいなかったという実態から紹介している。

 その学校の生徒の学力は驚くほどである。

 「高校入学まで、小学校の低学年レベルの学力のままで放置されている生徒が相当数いる。そのため、教師は1から100まで数えさせるといった補習授業をするのである。順番に数えていけば数えることができても、では『55の次は?』と聞くと、10%の生徒はできない。SA高校の生徒にとって数字の理解は30までで、それ以上の数を概念として理解することはむずかしいようだ」

 おい、おい、高校生だよ、とため息が出る。

 そして、高校中退をしていく。

 しかし、中退していく生徒の家庭は、ひとり親の家庭も少なくない。

 さらなる貧困が、生み出されていく。

 この本を読みながら、高校の授業料の無償化はぜひとも必要な措置だと思った。

 これについては、民主党の政策に賛成である。

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希望を処方するということ

 精神科医 中井久夫氏の著作を折りに触れ読んできた。

 今まで名前だけは知っていたが、本を読んだことがなかった。

 5月の「縦糸・横糸論」の基調提案のとき、パネラーだった橘大学の理事長の梅本先生からの一言があった。

 確か、つぎのような発言だったと思う。

「中井先生は、自分の患者のことを自宅へ帰ってまで思い出すようなことがあれば、それはもう他の先生に交代をしなくてはならないときなのだと言われています」と。

 仕事と自分の時間とは、明確に区別せよということだと私は受け取った。

 私が今まで考えてきたことと同じだったので、「よし、中井先生の著作を読んでみよう」と思い、読み進んできたのである。

 ★

 「精神科治療の覚書」(日本評論社)を読みながら、ドキッとした一節があった。

 「医師が万能であるとみえればみえるほど、患者は小さく卑小で無能になる」

 私は、次のように読み替えている。

 「教師が万能であるとみえればみえるほど、子供は小さく卑小で無能になる」

 そのあとに、追い打ちをかけるように、次の一節がくる。

 「治療は、どんなよい治療でもどこか患者を弱くする」

 これもあえて言い換えてみる。

 「教育は、どんなよい教育でもどこか子供を弱くする」

 しかし、中井氏のこの言葉をこのように言い換えたとき、この言葉はじつはとても危うくなる。

 教師の権力性を批判するイデオロギーと、子供は無限に可能性があるとする子供信仰のイデオロギーの間で、挟み撃ちにあう。

 このどちらかに振れてしまう。

 教師の権力性も、子供の可能性も、確かにその側面はある。

 しかし、これが現場でふりかざされたとき、教育の営みは教条化し、形骸化すする。

 私は、今まで何度もその場面を見てきたし、体験もしてきた。

 子供との関わりは、イデオロギーなどよりもはるかに複雑で、混沌としていて、ときには矛盾に満ちている。

 中井氏は、ぎりぎりのところでこの言葉を発している。

 いわば、この言葉は、誰かに、ある目的で向けられたものではなく、自己省察、あるいは自戒の言葉としてであろう。

 ★

 中井先生の愛弟子(?)であろうか、滝川一廣氏の言葉を先日のブログで書いた。

「精神治療の成否は、こちらが『なに』をなすかではなく、相手が『なに』をどう体験するかの方にかかっている」

 私たち教師が、現場で今まで議論してきたものは、ほとんどが教師の側からみた「なに」に終始していた。

 本時のねらいはなにか、教師の働きかけはなにか、発問・指示・説明はなにか、どんな教材を準備するか、……すべてが教師の側からの「なに」であった。

 私は、今もそれを繰り返している。

 大切なのは、「子供がどんな体験として受けとめているか」なのであった。

 この内省を欠いたとき、教師は気づかないうちに、万能になり、大きくなる。

 教育的な働きかけとは、あくまでも相互的な作用なはずなのに、いつのまにか、一方的な働きかけになる。

 そのようにしてなされる教育は、どこか子供を弱くする。

 ★

 このように考えてくると、中井氏の言葉の真意が見えてくるように思う。

 つまり、氏の言葉は、治療者としての自己省察が、患者の側にとっての「なに」と一体になっている。

 相手がどのような「なに」として受け止めているか、どんな体験となっているか、その絶え間ないふりかえりを中井氏はしている。

 その的確さや深さが、著作のさまざまなところから滲み出てくる。

 ★

 「こんなとき私はどうしてきたか」(医学書院)の最初は、このように始められている。

「みなさんは、患者さんがいちばん必要としている情報は何だと思われますか」

 中井氏は次のように答えている。

「なによりも大切なのは『希望を処方する』ということ」だといい、「患者さんというのは、こういうときの言葉の一語一語を何年たっても覚えています。患者さんにとっては本当に人生ののるかそるかのときですから、切迫感があるんです。/第一日目はとても大事です。たとえみかけはまったく聞く耳をもたないようにみえても、患者さんはしっかり聞いています。何十年たっても覚えている。親しい人との生別死別と同じくらい、あるいはそれ以上にせつないのです」

 ★ 

 精神科医の仕事は、「希望を処方する」ことだと。

 私たち教師が失いかけている言葉を中井氏は、リアリティ溢れる言葉ですくいとっている。

 そうなのだ。私たち教師の仕事もまた、「子供達の未来に賭ける処方」だったのである。

 

 

 

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業務連絡です

 11月の私の講座の連絡です。近くの方、よろしくお願いします。

 

達人が教える学級経営のこつ

学級はこう作れ 

  ~「縦糸・横糸」で織りなす学級経営術~ 

3 野中信行講座IN横浜

  「野中信行のブログ教師塾」学事出版

 「新卒時代を生き抜く心得術60」明治図書

  「困難な時代を生き抜く教師の仕事術」学事出版

 「学級経営力を高める3・7・30の法則」学事出版

 

 の著者、野中信行先生をお迎えして横浜で待望の講座を  開催いたします。

 

 1 

日 時   平成21年11月15日

(日)

              13:00~16:30

 2 会 場     かながわ労働プラザ  4F第3会議室

               

          3 参加費  2,000円(当日お支払いください)

          4 募集人数  50人

○講座タイムスケジュール 

 受 付   12:30~12:55

       

講 座1  学級経営を成功させる教師と子どもとの関係づくりのこつ                     13:00~13:50

講 座2 学級づくりを豊かにする5つのこつ                              14:00~14:50

講 座3  授業は、この基礎技術を身につけよ

       ~授業を支える基礎・基本10ヵ条~                      15:00~16:00

質問タイム     16:00~16:30

懇親会(希望者)  17:00~19:00

お申し込みは、メールで    

1 お名前

2勤務校またはご職業

  3ご住所                    

 4メールアドレス

  5懇親会への参加の有無

          を明記の上

  

講座事務局 横浜市立大池小学校 井上雅一朗

 masaichi@r3.dion.ne.jp  まで

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あなたはほんの少しだけ草食系男子です

   ある6年生のクラス2クラスを授業参観している。

 気になっていることは、男子のことについてである。

 2クラスとも、ある男子が、授業中ずっと笑い続けている。

 顔を真っ赤にして、ずっとささいなことで笑い続ける。

 今までは、そういう存在は、きまって女子であった。笑い上戸といって、クラスには必ず1人ぐらいそういう女子がいた。

 ところが、男の子である。

 2クラスともである。

 ふざけているともとれるが、顔の様子からそうばかりとも言えない。

 これは、男子の女性化現象なのか、とも思っている。

 ★

 アンケート調査がある。

 三浦展さんのアンケート調査で目を引くことがあった。

 15歳から22歳までの「ジェネレーションZ」世代の調査である。

 彼らへの調査で、「今後の生活に希望をもつかどうか」である。

 その結果、男子の場合、学校のレベルが「上」や「中の上」の人たちで、勉強が「好き」や「まあまあ好き」といった人たちを上回って一位や二位になったのが、容姿への自信が「ある」や「まあまあある」という人たちと、異性に「モテると思う」や「まあまあ思う」という人たちであった。

 ところが、女子の場合、勉強が「好き」や学校レベルが「上」の人のほうが、容姿への自信が「ある」と思う人や異性に「もてると思う」人より、今後の生活に希望を持っているという結果が出ている。

 ふむふむ。

 最近までずっと高学年を受け持ってきた経験で言えば、「やっぱりなあ」という結果である。

 男子の場合、将来への希望は容姿の良さや異性にもてることなのである。

 高学年でも、男子達が「イケメン」にこだわっていた理由がここにありそうだし、また「女の子達にもてる」ことが話題の中心であった。

 秋葉原通り魔事件の加藤も、顔の美醜に強く拘っていたことも思い出される。

 ★

 では、現在流行の「草食系男子」というのはどういうものであろうか。

 ネットで調べてみる。

 あった。あった。

 草食系男子の特徴

 ・積極的じゃない  ・平等主義者  ・とってもナイーブ  ・結構イケてる

 ・とっても淡泊  ・闘争心がない  ・インドア派?  ・要は、いい人?

 うん?

 草食系男子度診断がある。

 試みに、私も受けてみる。

 結果である。

 「あなたはほんの少しだけ『草食系男子』です。

  生活をしていると普段は男らしく、どちらかというと男くさい部分もあると思いますが、たまに見せる趣味や感性、行動が草食系男子の部分も持ち合わせているようです。『肉食系女子』が相手でない限りは、このような『少しだけ草食系男子』が一番モテるタイプかもしれません!」 

 

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「味噌汁、ご飯」授業の続編です

  「味噌汁、ご飯」授業の続編である。

 池田修先生が、自分のブログで「『味噌汁、ご飯』授業について、について」を書かれている。

 http://ikedaosamu.cocolog-nifty.com/kokugogakkyuu/2009/10/post-4a79.html

 その中で、次のように書かれているところがある。

「書いてみて改めて思ったことがある。『味噌汁、ご飯』授業という例えで、野中先生は、恐らく

 ・日常的で

 ・飽きることの無く

 ・栄養価が安定している

 という意味で『味噌汁、ご飯』授業を提案されているのではなかと思うと同時に、私は、『日常的で、飽きることの無く、栄養価が安定している』授業って、結構難しいぞと思ったのである」

 鋭い指摘である。

 私が、これを考えたときには、確かに「日常的で、栄養価が安定している」ことを想定していた。

 大切なのは、「栄養価(学力保障)が安定している」ということだ。

 「日常的で、栄養価が安定していない授業」なんて、誰でも、そこいらの先生達はそれこそ日常的に行っている。ジャンクフードで済まそうといている。

 ただ、むずかしいのは、「飽きることの無く」という観点だ。

 この観点を入れるとかなり高度になりそうだ。

 ★

 そのことで、親しい初任者担当の先生と話し込んだ。

 どんな要素が必要になるのか、という話である。

 話をまとめると次のようになる。

 授業をしていく箇所は決まっていることを想定する。

 まず、2段階の追求が必要になる。

 1段階目は、短時間の教材研究である。

 そこで、どのようなことを行うのか。

 2段階目は、授業をどのように進めていくかである。

 1段階目

 ①本時の目標をまず確認

 ②子供達が難しいと思うポイント(つまづきそうなところ)の確認

 ③組み立てを考える

  ・はじめー真ん中ー終わり

  ・教具は、何を使うか

  ・作業(ノート作業など)をどこに入れるか

 2段階目

 ④指示、説明をテンポ良く

  ・一時に一事の原則をきちんと使う

 ⑤個別評定を適宜に(どんどん褒めていく)

    ⑥むずかしいところは、発問で考えさせる

    ⑦机間巡視はきちんと行う

 というような話になったが、やはりむずかしい。

 1段階でも、初任者にとっては、①はできても、②や③になったらむずかしくなるであろう。こういう修練をいかに積み込んでいくかである。

 2段階は、それこそライブで見なければイメージできないところもあろう。

 しかし、それぞれ修練すれば、むずかしいことではない。

 また、飛び込みの示範授業をやって考えてみようということになった。

 どうしても必要な要素(これを抜かしたら授業にならない)を限定して絞っていくことがむずかしい。

 また、教科によっても違ってくるであろう。

 

  

 

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運命を分ける要素は、何だろうか

  「味噌汁、ご飯」授業について書いた。

 その中で、赤坂先生や池田先生に「どうですか?」とつい振ってしまったら、2人からコメントがついた。

 東奔西走している2人には、申し訳ないことである。

 赤坂先生からは、「まだ、構想段階ですが、『味噌汁、ご飯』の授業ができる教員を育てるプログラムが、来年度の授業から始まりそうです」ということ。

 池田先生からは、授業を成立させるための要素としての「声」と「文字」、どうしてもこれだけは教えたいというものを持っているのかどうか、という指摘がなされている。

 ★

 「味噌汁、ご飯」授業という発想は、ナマクラ流ズボラ派家庭料理研究家の奥薗壽子さんからの影響である。

 奥薗さんの「ズボラ人間の料理術」(サンマーク出版)からの著書紹介には次のようにある。

「小学校1年生のとき、料理嫌いの母親からある日突然、台所をまかされ、料理を作りはじめる羽目に。包丁の使い方、野菜の切り方もわからないまま試行錯誤を重ねるうち、料理を作るおもしろさに開眼、今日に至る。

 2002年5月、テレビの人気番組「TVチャンピオン」(テレビ東京系)で行われた「3分料理人選手権」でみごとに優勝。一躍、時の人となる。

 イイカゲン、テキトーに作っても間違いなくおいしくてヘルシーなものが作れる奥薗流ズボラ料理を広めるべく、雑誌、テレビ、講演会、料理教室などで、全国を飛び回っている。

 「正しいズボラの7か条」が信条。

 1 面倒くさいと思う気持ちに素直になること。

 2 手を抜くことで、おいしくなること。

 3 使う道具は限りなく一つであること。

 4 その日のうちにすべてを使い切ること。

 5 限りなくヘルシーであること。

 6 料理の既成概念を捨てること。

 7 実験精神旺盛で、遊び心があること。

 ご飯とみそ汁のある食卓をこよなく愛する一男一女の母でもある。」

 奥薗さんの料理は、見てくれの料理ではない。早く、日常に耐えられるように考えられた料理である。

 そこがいい。

 ★

 私も、6,7年女房より早く家に帰り着くということで、夕食はほとんど毎日作ったことがある。

 そこで出会ったのが、奥薗さんの本だった。

 この人の肉じゃがは、私にとっては革命的であった。

 それまでは、水を入れすぎたりしてよく失敗した。

 ところが、奥薗さんが教える、煮汁の量を少なくする、落としぶたをするなどの工夫で、まったく失敗することなく、おいしく作り上げられるようになった。(「ズボラ人間の料理術 超入門」 サンマーク出版)

 奥薗さんは、書いている。

 家庭料理は、テキストを見ながら作るものではないはずだから、イイカゲン・テキトー、いきあたりばったり、でいいはず。

 作ってみると、とんでもないものができあがる。

 テキストと比べてみて、いったいどこが違っているのか調べてみる。

 「そんなことを毎日やっていてわかったことは一つ。イイカゲンに作ったやり方と、テキストのやり方って、そんなに大きな違いはないってこと。ということは、成功と失敗、おいしいとまずい、運命を分ける要素は、ほんの些細なポイントだということ。たとえば肉じゃがだったら、煮汁の量が思ったより少なくていいとか。落としぶたをしたほうが味がまんべんなくしみ込むとか。

 なあんだ、そんなことでよかったんだ、と思える程度のことだったのです。」

 ★

 学ぶことがいっぱいである。

 料理も授業も、発想は同じである。

 「味噌汁、ご飯」授業を発想するとき、大切なことは、奥薗さん流に言うと、「授業の既成概念を捨てること」ではないかと思っている。

 でも、ポイントを外したら、授業にならない。

 「とんでもない授業」と「味噌汁、ご飯の授業」を分けていくのは、ほんの些細なポイントではないか。

 それは何だろう、と考えてみる。

 

 

 

 

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小学校と中学校の文化の違いとは何か?

   私が書いた「殺風景な教室とけばけばしい教室」について、知り合いの中学校の先生合田先生にコメントをつけてもらっている。とても興味深いものだったので、もう少し考えたいと思う。

 とりあえず、合田先生のコメントを貼り付ける。

 「なるほどぉでありました。
 私は、新採3年目の頃(初めて担任を持った年です)、教室環境について考えました。新採研で知り合った新採仲間の小学校へお邪魔したときショックを受けたからです。
 中学校とはあまりにもかけ離れた賑やかな教室掲示物に度肝を抜かれました。
 ああ、そういえば自分の小学校の時代もそうだったかもしれないと、かすかな記憶を呼び起こしました。
 で、当時の先輩の先生に伺ったのでした。
「○○先生、中学校の教室って、なんだか殺風景ですねえ?」するとその先輩先生はこうおっしゃいました。
「あのね、合田先生、小学校とは文化が違うんだよ、文化が。そんな小学校のようなお飾りをしても意味がないの。中学校は勉強をさせる場なんだから。」
と、もっともらしいお言葉をいただきながら、今以上に変な教師だった私は、この先輩の言葉を鵜呑みにはしませんでした。むしろ、「そうかなあ?」と、軽い反発も感じていたのです。で、どうしたか?
 「教室の詩」というコーナーを作って、心に響くような詩を毎週、掲示しました。
 これが、私の「教室美化」の第1歩でした。その後、「教室環境」をあつかった本を探し(これが実に少ない。中学校用は1冊しかなかったです。)、自分なりにこだわってみました。
 世界地図を貼ったり、今日は何の日コーナー作ったり、それはそれなりの効果はあったと思います。
 でも、床が汚れていたり、ゴミが落ちていても平気だったり、そんなことの方に目がいくようになっていきました。
 そして、時を経て、今我がクラスの教室掲示はシンプルです。実は学級目標も貼っていません。黒板の上によく貼るあれです。一応意味があって貼っていません。意味は「目標は貼らなくてもわかっているようになってないといけない」からです。黒板は授業で使うもので派手な「目標」は、邪魔になるかなと思ったからでした。そして、密かに「目標を意識でなくなったときに貼ろう」と思っています。
ただ、野中先生のように「色」にこだわったことはありませんでした。さすがだなあ。
 「殺風景」と「シンプル」。
 似ているようで、かなり違いますよね。
 どんな掲示物をどう貼ったらいいのか?
 ここでいう「いい」とは、「いかに教育効果を上げるか」ですよね。
 うーん。学級指導は奥が深いですねえ。
 教師を22年やっても学びの途上にいる自分。こんなすてきな職業はないのかもしれないなあ。教師って。
投稿: 合田淳郎 | 2009年10月 6日 (火) 」

 合田先生のコメントを読みながら、なるほど、中学校の教室を殺風景(シンプル?)にしている意味が少し分かる気がした。中学校は、小学校とは文化が違い、勉強する場であること。だから、教室をいろいろと飾り立てても意味がない、ということらしい。先輩の先生の考えである。分かるようで、分からないところもあるが、多くの中学校の先生は、このような考えだろうなあと予想がついた。文化の違い。中学校は、勉強を中心に回っている生活。小学校は、勉強だけではなく、遊びその他の要素が十分入っているというように理解すればいいのだろうか。だから、小学校は、教室を楽しくさまざまな物で飾り立てていると、いう理解でいいのだろうか。

 疑問に思うのは、勉強の場である中学校でも、クラスという場はあるはずであるがそれは想定されていないのか。また、勉強の場ならば、知的な刺激をするコーナーであったり、友達同士の作品などを飾って互いに刺激し合う場もあるのではないか、と思ったりもする。

 ★

 問題は、教室環境を整えるために、掲示物などを貼り付ける意味は何なのだろうということになる。

 思いつくままに書き出してみる。

    1. 備忘録的なこと

       ①学校の約束、学級の約束の掲示、月行事など

       ②学級会の決定(私のクラスは、「ちょこちょこ学級会」で数多く学級会を行っていたので、その決定をずっと貼り付けていくようにしていた。)

       ③当番、委員会、クラブ、教科当番の掲示

     2、確認すること

       ①日直当番の掲示(仕事の進行具合を確認)、一人一役当番の掲示(済ませたかどうかの確認)

       ②目標の掲示(学級目標、その時々のクラス目標など)

       ③子供達の取り組みの結果

     3,知的な刺激

       ①学習で大事なことを掲示する。

       ②子供達のノートのコピーを掲示する。

       ③図工、家庭科の作品掲示で友達同士の作品交流

       ④担任が子供達の知的な刺激をしたいこと  など

 ということになる。他にもあるに違いない。このように上げてくると、1,2は学級作りを意識していることになる。そのためには、どうしても必要な掲示である。これを掲示しなければ、学級作りはとてもスムーズに進行しない。3は、勉強を意識した掲示である。子供達同志の互いの刺激を引き出すことを意図している。

 とまあ、こんなことをまとめてみた。

 合田先生は、いろいろなことに挑戦しておられる。そうすると、小学校と中学校の文化の違いとはなんだろう?そのように思ってみたのである。

 

   

 

 

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「味噌汁、ご飯」授業の提案をしたい

  場当たり的な示範授業をやっている。先日のブログにも、そのことを書いた。

 その日の朝に、「じゃあ、私が授業をやりましょう」と言って、即座に授業をしていくのである。

 教科と勉強するところを聞くだけである。

 「そんなことで示範授業になるのですか?」

 一応、なる。なんとかなる。授業を見てくれる人が、そのクラスの初任者だからということもある。

 だが、このような授業をしながら、ふと気づいたことがあった。

 ★

 示範授業というのは、きちんと教材研究をして行うものである。

 今までそのように言われてきたし、初任者指導の先生達は、全員がそのように考えておられるであろう。

 研究授業も、そうであった。

 最高の教材研究を行い、より良い授業をどのように提供するかを考えてきた。

 少なくともほとんどの先生方は、そのように考えてきたであろう。

 いや、日本の中で行われている公開の研究会も、重点研究会も、すべてがこのような形で追求されてきている。

 ★

 でも、考えてみてほしい。

 日常の授業は、そんな教材研究なんかしていない。

 二日酔いの朝は、ほとんど教材研究なんかしないままに授業をしなくてならない。

 「今日は、何ページからだったかな?」というような授業だって、教師は日常的にやっているんじゃないだろうか。

 授業は、豊富な教材研究に支えられて行うものであると言われる。

 誰も反対が出来ないお題目だが、あまりにも日常から離れすぎている。

 ★

 そんなかっこいい授業でなくていい。

 みんなを感動させる授業でなくていい。

 日常に耐えられる授業でいい。

 「味噌汁、ご飯」授業とでも名付けたい。(笑)

 たまには、ご馳走の授業を出すことは必要だが、日頃は、「味噌汁、ご飯」授業で十分ではないか。

 それで充分日常に耐えられるし、子供達の学力もそこそこに保障していける。

 そんな授業でいいではないか。

 ★

 今まで私たちは(私も)ご馳走の授業をどのように作ったらいいかばかりを研究してきた。

 ご馳走は、お客様が来たり、正月、新年会、忘年会、誕生会などには必要だ。

 こんな非日常の時に、「味噌汁、ご飯」でもてなす家はいない。(多分)

 でも、普通の日常は、「味噌汁、ご飯」で過ごしているはずである。

 だったら、この日常に耐えられる「味噌汁、ご飯」授業をどのように成立させていくか、そんな研究をしてもいいはずではないか。

 ★

 とまあ、こんなへんなことを考えてしまった。

 私の場当たり的な示範授業も、充分「味噌汁、ご飯」授業にはなっているのじゃないかと思った。

 そうすると、「味噌汁、ご飯」授業を成り立たせていくためには、何が必要だろうか。そのように問題が立てられる。

 ★

 「とにかく45分の授業をやればいいでしょう」

 まったく違う。

 かつて、私は、ある中学校の授業を見たことがある。一斉に行われている授業だ。

 とにかくひどかった。ただ先生はしゃべっているだけ。生徒は、ほとんど聞いていない。しゃべっているか。他のことをしているか。聞いたふりをしているか。…

 これは、授業ではない。

 授業は、教師と生徒の交互作用がなければ成り立たない。

 ★

 このような発想から「味噌汁、ご飯」授業を考えたい。

 どんな条件が必要か。

 それが明らかになれば、初任者には、「とりあえずこの条件を身につけなさい」と助言することができる。

 難しい条件はだめだ。でも、授業は成立していかなくてはならない。

 大学を卒業して、即座に教員になる学生に、こんな条件だけでもきちんと教えるということは必要ではないか。

 池田修先生、赤坂真二先生、どうですか?

 ★

 11月15日(日)に横浜で、私の3回目の講座がもたれる。(詳細は、本決まりになってお知らせします。)

 最後に勤めた大池小の先生達が中心になって企画してくれる会である。

 この1つの講座で、私が考えた「味噌汁、ご飯」授業の提案をしたい。

 

 

 

 

 

 

 

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殺風景な教室とけばけばしい教室

  放課後、さまざまな教室を見て回ることがある。

 「明日の朝、この教室に子供達がやってくるのだ」と、想定してきちんと整えてある教室が数少ないことは残念なことだ。

 椅子は出しっぱなし。机は、曲がっている。ぞうきんは、落ちている。……

 子どもが「さよなら」と挨拶して、そのまま教室から飛び出していったそのままの状態がそこに残されている。

 ★

 1980年代の冒頭に、校内暴力で中学校が荒れまくったときがあった。

 その時に、研究会で何度も中学校の教室を訪れたことがあった。

 驚いたのは、教室が実に殺風景なこと。

 張り紙が数枚あり、あとは何にもない。

 ここで生徒達は、毎日勉強しているのだと思ったら、寒気がしたことを思い出す。

 「教室ではない。これは空き部屋だ」

 いくつかの教室をのぞいてみたが、どこも五十歩百歩であった。

 校内暴力と、この殺風景さはどこかつながりがないのか、そう思ったものである。

 ★

 小学校で学級が荒れているところも、同じ現象が起きているのではないかと思っている。

 先生達が、教室環境を整えることに気を配っていない。

 そういうところに気持ちがいっていない。

 そのように思えてならないのである。

 ★

 精神科医の中井久夫氏の「こんなとき私はどうしてきたか」(医学書院)を読んでいる。

 「どんな環境が人を苛立たせるか」という章で、「色彩」をテーマにしてある。

今日は暴力という問題について、「予防」の見地から考えてみましょう。

すぐ改良できることに、色彩管理があると思います。

赤い色は、脳に対して賦活作用があります。逆に、青色と緑色は鎮静作用があります。東京大学にいらした高橋剛夫先生の研究によると、赤い色によって賦活された脳波は青色を示すことで瞬時に抑えられるということです。緑色も同じです。

  略

青色と緑色はどう違うか。青色はたしかに鎮静的だけれども、視線が安定しないという欠点があります。つまり、われわれは青空を見ると、一点を見ていることがむずかしい。視線がさまようのです。(われわれの先祖が上空から襲ってくるハヤブサを恐れていたのかもしれません。ハヤブサにやられた頭蓋骨がいっぱい出てきているそうです)。それに対して緑色は視線が憩う。経験的に窓の四分の一に緑が入っていると精神的に安定するといわれています。(熱帯の森の枝の上では敵がいなかったのです)

 私はエレベーターのドアだけに臙脂(えんじ)色を使いました。点景として使うと、強い色はじつによい効果を生みます」

 

  中井氏が精神科病棟を設計されたときの様子が語られている。

 ★

 私は、殺風景の教室と共に、色画用紙をべたべたと貼り付けてある教室にも違和感を感じてきた。

 私は、教室に貼り付ける色画用紙は、白とあとは2つの色の色画用紙だけと制限していた。

 それでもそんなことを試みるようになったのは、最後の5年間ぐらいであった。

 教室を見ていて、こんなカラフルな色画用紙をごてごてと貼り付けたら、それに毎日接している子供達は、情緒が安定しないのではないかと思ったからである。

 そのように制限しているのに、さまざまな色画用紙が教室に持ち込まれる。

 全校用として、給食時計の紙、はみがき検査の紙、……。だから、私の試みも、あまり効果がなかった。

 そんなことを思いながら、退職してしまった。

 先生達は、この色彩のことについて無頓着である、とつくづく思ったものである。(私もえらそうなことは言えないのだが)

 私が教室の色画用紙を選ぶときに、よく空色の画用紙と黄緑の画用紙を選んでいた。

 どうしてもその色になってしまう。

 それは良かったのかどうか?

 

 

 

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縦糸・横糸の点検

  横浜は来週で前期が終わる。

 前、後期になっている学校は増えていると聞いているが、まだまだ3学期が多いのであろう。

 山口の中村健一先生より本が送られてきた。

 「痛快社会科クイズ608」(蔵満逸司・中村健一著 黎明書房)である。

「教師のための携帯ブックス」のシリーズとして出版されている。

 これから2冊同様なシリーズが出版される予定らしい。

 このシリーズの最初の1冊目「子どもも先生も思いっきり笑える 73のネタ大放出」(中村健一著 黎明書房)は、よく売れたらしい。

 私も初任研の講座で、ずいぶん紹介をした。

 それには、理由があった。

 ★

 「横糸を張ること」として提起している1つに、「教室に笑いを作り、伸びやかな雰囲気を作ること」がある。

 教室に笑いを作り上げることは、若い先生たち(特に初任の先生)にとって、最も苦手な領域である。

 私は、「3・7・30の法則」の3日間は、担任の得意なことで迫った方がいいと主張しているが、若い先生方は、この得意なことがなかなかないということらしい。

 中村先生は、この3日間に、この本に紹介されているネタをいくつも実施し、子供達をのせていくらしいのだ。

 これを聞きつけて、私は、俄然初任の先生達に、この本を紹介することにした。

 手軽にできる。教室に笑いも起こせる。もってこいのネタである。

 ★

 夏休み前に、「縦糸・横糸」の点検を作った。(このブログの最後に貼り付けておきたい)

 100点満点でつけるようにもした。担任教師がどの程度縦糸・横糸を張れているかをチェックするものである。

 横糸は、50点以上になることは難しいだろうなあと思いつつ作った。

 中村先生に試しに点検してもらったら、縦糸90点、横糸100点だった。

 驚いた。これはすごいクラスができあがっているということである。

 岡山の松森先生も、縦糸90点、横糸100点だった。すごいクラスだ。

 点検を実際にやってもらったところ、この2人がダントツに抜きんでていた。

 そんなにやさしい点検項目ではない。

 すぐれた実践家は、この程度を確保しているということであろう。

 若い先生方は、10点、20点ぐらいしか取れていない。実際にそうであった。

 まだまだ改良の余地があるが、こういう目安があってもいいなと思うようになった。

 以下に貼り付けるので参考にしてほしい。

 前期を終えようとする先生方、ぜひとも後期の反省点にしてほしい。

 

  「縦糸・横糸」の点検

1,質問
    次のA(縦糸張り)とB(横糸張り)の□の中に◎○△を記入してください。
  ◎とてもいい  ○まあまあ  △できていない
    深く考えないで、さっさと記入していってください。

A 「縦糸張り」の点検
Ⅰ 指示などにきちんと従い、言葉づかいができている。
  ①□教師の指示に対して、子供はすぐに動き出しているか。
  ②□教師に対して、ため口ではなく、きちんと敬語(丁寧語)で話しているか。

Ⅱ 学校でのしつけをきちんと身につける。
  ③□靴箱の靴の整頓がきちんとなされているか。
  ④□教室移動をするときなどは、きちんと整列して移動しているか。
  ⑤□時間のけじめがついているか。また、担任も始業・終業の時間をきちん
と守っているか。
Ⅲ 学級内ルールをきちんと作る。
  ⑥□清掃は、それぞれの分担場所をグループで協力して、時間内に終わるようにがんばっているか。
     ⑦□朝の会、終わりの会は、子供たちが自主的にスムーズに運営して終わらせているか。
  ⑧□朝自習は、子供たちが自分たちでおしゃべりなく、きちんと運営しているか。  

  ⑨□朝会では、時間通りにきちんと並び、校長先生などの話をおしゃべりなく聞いているか。
    ⑩□給食の片付けはきちんとなされているか。(ストロー、袋などが散らばっていないか、食べ残しが多くないか、食器がぐしゃぐしゃになっていないか。など)
B 「横糸張り」の点検
Ⅰ 子供たち(生徒)とよく遊んでいる。
    ①□教師は、子供たちとよく笑いあったり、遊んだりしているか。
 
Ⅱ 子供たち(生徒)と共に話し合っている。
    ②□教師は、子供の相談にのったり、個人的によく話したりしているか。

Ⅲ 子供たち(生徒)の良い点を伝え、誉め、励ましている。
  ③□教師は、さかんに子供の良い点を伝えたり、誉めたりしているか。

Ⅳ 教室に笑いを作り、伸びやかな雰囲気を作っている。 
    ④□教室では、よく笑いが起きているか。

Ⅴ 教師と生徒とがフラットの関係性を築いている。
    ⑤□子供に「ありがとう」「ごめんね」「うれしいな」などの愛語をよく言っているか。
    ⑥□子供たちが親しげに教師のもとによく通ってくるか。
    ⑦□教師が、子供の発言に「それはすごいな」「よくそんなことに気づいたね」と感動したりしているか。

Ⅵ 教室を公平で、平等な関係として築いている。
    ⑧□ほとんどの子供が、臆せずに発言できているか。
  
Ⅶ 子供同士の教え合い、学び合い、助け合いができている。
    ⑨□子供同士で教え合ったりする場面が
多くなっているか。
  ⑩□子供同士で注意しあったり、助け合ったりする場面を多く見つけられるか。

2 「縦糸張り」と 「横糸張り」の得点集計
  とてもいい◎……10点
  まあまあ○………5点
  できていない……0点

  「縦糸張り」の得点合計………(       )点/100点

 
   「横糸張り」の得点合計………(       )点/100点

 どのくらいの目安として考えたらいいかという質問があると思う。

 実際は、分からない。(笑)

 今は、その程度のものである。

 だが、それを踏まえて目安を考えれば、次のようになる。

 <縦糸・横糸> 10月段階で

  ・70点以上…合格点

  ・50点~70点まで…まあまあ

  ・50点以下…これからがんばりましょう

 

 

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「ぶらっしゅあっぷ 教師力」創刊号

  「ぶらっしゅあっぷ 教師力」(2009年10月-11月/創刊号)が送られてきた。

 編集代表が堀裕嗣さんである。

 第一特集では「教師力とは何か~現場人が提案する3つのモデル」で、織物モデル(横藤雅人)、町医者モデル(石川晋)、教師力ピラミッド(堀裕嗣)が、書かれている。

 第二特集では、授業力を高める3つのポイントで、加藤恭子さん、高橋正一さん、南山潤司さん、森寛さんが書かれている。

 連載は、教師力を磨く5つの連載ということで、特別支援(梶倫之)、学級づくり(野中信行)、学び合い(赤坂真二)、職員室(横藤雅人)、チーム力(堀裕嗣)

という内容である。

 編集後記は、次のように書かれている。

「私は同人誌を立ち上げるたびに、『現場からの発信』『北からの風』を旗印に掲げた。現場を知らない者の実践論は退ける、そして出来得れば、「北からの風」を起こしたいと願ったからである。

 今回も相も変わらずこの二つを旗として掲げた。今回は「研究集団ことのは」の機関誌ではない。新卒から定年退職した教師まで所属する、おそらくは百人近い教師のネットワークの機関誌である。これまでとは責任の大きさが異なる。

 編集方針には<提案性>のみを掲げようと思う。いかなる人にもおもねることなく、自分自身が<提案性>と信じた教師・研究者のみ原稿を依頼し、その評価を一身に受けようと思う。決意も新たに、志高く、編集に向かおうと思っている。

 読者の皆さんにも、この『ぶらっしゅあっぷ教師力』をご愛顧いただければ幸いである」

 私は、今まで北海道から出されてくる「実践研究ことのは」や「教室百景まほろば」を読んできた。(「まほろば」には、私自身も書いてきた)

 また、今までの「ぶらっしゅ・あっぷ指導力」(9号で終刊)にも原稿を寄せてきた。

 堀さんたちの国語実践研究「ことのは」(今は休刊中)には、強く感じ入ったものである。明治図書の国語教育の雑誌よりもはるかにレベルが高いと思った。

 手作りで、提案性を強調して作られている。

 私も、その志に感動して、ずっと関わりを持っている。

 いつも始まりは、ささやかな志から始まる。

 今回の「ぶらっしゅあっぷ教師力」も、志高く始まっている。これからに期待したい。

 購読の申し込みについては、次に連絡してほしい。

  藤原友和【ふじわら・ともかず】
URL  http://www.bbweb-arena.com/users/t-fuji52/

                     

                     

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初任者の授業を見ながら考える

 

 初任者担当として初任の音楽専科の先生の授業を見る。

 今日の6年生の授業は、「ふるさと」の曲の様子を思い浮かべ  

て、上と下のパートに分かれて表現することを本時の目標にしていた。

 いつもは数人の男の子達がなかなかのらない。今日も最初は、そうであった。

 ところが、クレシェンド、デクレシェンドで強弱をつけて歌う練習をするあたりからだんだん全体的に盛り上がってきて、いつものやんちゃな男達もきちんと参加している。

 上と下の二つのパートに分かれて、きれいなハーモニーになりだしたところから俄然盛り上がり始めたのだ。

 最後は、先生が「終わりましょう」という話になったときに、やんちゃな子達から「先生、もう一回歌おう」とアンコールが出た。

 これは、初任の先生にとってうれしいできごとであった。

 いままでやんちゃな男の子達をどのように音楽の授業引き込んでいくかに苦労していたので、「今回のことは、大きなヒントになるね」という話になった。

 ◆

 初任者の授業を見ながら、しみじみと感じることは、「普通の授業」の大切さだった。

 私は、現役生活37年間の中で、研究授業以外に普通の先生が普通に授業している場面に立ち会ったことはほとんどない。ほとんどが、研究授業を見てきた。これは、担当する先生の作為が入った授業で、ある種の作られたものである。

 ところが、初任者の授業を一日中ずっと見ていると、「これこそが普通の授業だな」と思ってしまう。作ろうにも作りようがない。むき出しのそのままの授業が展開される。

 これは私にとっては、とても新鮮であった。

 この「普通の授業」は、「問題点(もちろん良い点も含めて)の宝庫なのだ」……と。

 初任者の「普通の授業」を見ていると、さまざまなことが見えてくる。

 クラスが荒れてくる初めは、どのような状態から始まるのか。どんなところに気をつければ、子ども達は落ち着いてくるのか。……アイデアがぽんぽんと浮かんでくる。

 この「普通の授業」は、問題点ばかりではない。

 授業の所々で子どもが身を乗り出してくる部分がある。

 特に、私はそこに注目する。

 授業している初任の先生達は、そこに気付かない。いや、初任者だけではない。自分の現役時代を思い出しても、授業をすることに夢中になって、なかなか子どもが身を乗り出してくるところまで気がいかないのである。

 ◆

 私は、もっと自分の「普通の授業」に注目したほうがいいと主張しているのは、こういう理由からである。

 普通の教師は、目の前の子ども達に十分な働きかけをしていく仕事を担っている。

 だからこそ、自分がいつもしている「普通の授業」を豊かなものにしていくことは、教師の力量をつけていくためにはどうしても必要なことである。

 自分の授業をビデオに撮ったり、あるいは録音していったりすること。それを見ることは、とても大切な作業である。教室の後ろにビデオカメラを設置するだけで十分だからだ。

 しかし、こう問いかけて、その必要を感じた人でも、実際に実行に移す人は少ないだろうなあと思う。

 人は、一番大切で、一番重要な、自分の部分をあえて避けて通ろうとするからである。

 ◆

 私達は、今まで自分の教師としての力量をつけるためには、外発を主なものにしてきた。

 外発とは、書物や研究会などを意味している。せっせと研究会へでかけ、さまざまな実践に出会い、その実践からエキスをもらい、それを自分の実践にいかに取り入れていこうかと考えてきた。いい実践をたくさん仕入れて、それを自分の授業に組み立てていく、そんな発想だったと思う。

 このような外発によって、戦後の日本の教師達は力量をつけてきた。

 しかし、私はいまもう一つ内発が必要ではないかと考えている。

 自分の授業を対象化し、自分の授業をフィルターにかける試みである。

 自分の授業のどこが、どのように子供達をひきいれているか。

 自分の授業のどこが、どのように子供達を飽きさせているか。

 このようなことを分析していくことである。

 ◆

 精神科医滝川一廣氏は、次のように書いたことがある。

「精神療法の成否は、こちらが『なに』をなすかではなく、相手が『なに』をどう体験するかの方にかかっている」

 この考えを教育の現場に引き寄せてきたとき、私たちは、ほとんどを教師の側から見た「なに」に終始してきた。

 目標はなにか。ねらいはなにか。どんな教材を準備するか。どう働きかけるか。発問・指示・説明は何か。……すべてが教師の側から見た「なに」であった。

 その「なに」がどのように子供達に体験として受け止められているか、といった議論が果たしてどのくらいあっただろうか。

 教師の「なに」にのみ関心が集中し、子供がどんな体験として受け止めているか、という触手が伸びていなかったのだ、と思う。

 私の実践を内省するとき、そのような問題に突き当たる。

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