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ひさしぶりに刺激的な本を読む

 久しぶりに刺激的な本を読んだ。

 「間違いだらけの教育論」(諏訪哲二 光文社新書)である。

 「オレ様化する子どもたち」以降、さまざまな新書を出版されてきたが、今回の本もおもしろかった。

 諏訪さんは、きちんとした足場を持っている。

 その足場から、さまざまな人たちの論を撃つ。なるほどと納得する。

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 今回も、まず映画や劇「奇跡の人」で有名な「三重苦の聖人」ヘレン・ケラーから始めている。

 「見えない」「聞こえない」「しゃべれない」という三重苦のために、外部や文化を受容する手立てをほとんど奪われていたヘレン・ケラーをサリバン先生は、暴力(強制)によってこじあけていく、その試み。

 その試みを紹介しながら、諏訪さんは、告げる。

「ふつうの子どもたちが個人形成に向かうということは、まさにヘレンが外部を受け入れざるをえなかった宿命と重なる。子ども(ひと)を社会的に個に形成していく営みは、そんなに簡単な営みであるわけがない。ヘレンとは違う形だが、外部(社会)の拒否や忌避はさまざまなヴァリエーションで現在の子ども(若者)たちに広がりつつある。子ども(若者)たちのなかにヘレンのような物理的な障害ではない精神的な障害として外部(世界)が『見えない』『聞こえない』『表現できない』症候群がじわじわと広がっている」

 まさに的確な指摘である。

 ★

 こうして変貌してしまっている子どもたちを社会化していくために、どうしていくかが論議されなくてはならない。

 ここで、諏訪さんは、斎藤孝さん、陰山英男さん、内田樹さん、義家弘介さん、寺脇研さん、渡邉美樹さんに噛みついている。

 視点は、一つである。

 彼らが、学校教育(啓蒙としての教育)の意味をきちんと見据えていないことへの批判である。

 これがとても快い。

「ひとは教育によってひとになるのだと近代の思想は語ります。教育によって構成されないひとはありえません。ただ、ややこしいのは、ひとは教育される以前もひとであることです。おとなも子どもも『ひと』としての尊厳は同格です。この点が私たちの思考に混乱をもたらします。教育認識が屈折してきます。

 教育を受ける前にすでにひとはそこに『いる』という事実が、ひとは『つくられる』ことによってひとになるという、『啓蒙』としての教育の局面の軽視につながります。近代に到達し、近代的な考えが当たり前になった社会では特にそうです。実際、多くの人たちが学びに向かう子ども(ひと)がそこに「いる」ことから、教育の議論を始めています。子どもはすでに学ぶ姿勢を持っているところから話を始めます」

と。

 ★

 マスコミも、現場を知らない評論家たちも、一般の人たちも、多くの親たちも、ほとんどがこうであった。

 「啓蒙としての教育」の意味が、これほど軽視されてきた時代はないのではないか。

 そこに諏訪さんは、切り込んでいく。

 

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